地面に転がった端末を拾い上げた。
何一つ傷ついていないパネル強化技術の高さに、俺が傷つく。
竹内だけは俺を、それなりに認めてくれているのだと思っていた。
機能不全に陥ってはいけない使命を受けているのは、自分だけじゃない。
何も傷ついていないように見えるこの端末の動作プログラムは、本当は再起不能のレベルで侵食されているんだ。
天命の完全復旧は難しいと聞いた。
二人乗りの自転車を一人で押すには重すぎる。
「ただいま」
午前のパートから帰ってきていた母は、居間に掃除機をかけていた。
二階に上がる。
拾った端末を放り投げると、床に寝転がった。
城壁のように積み上げられた機器の数々が、俺を取り囲んでいる。
パソコンを立ち上げてみても、しばらく放置されていたそれは、そのままでは動かない。
壊れているわけじゃない。
それでも動かせないものは動かない。
それでは俺も動けない。
時間だけが過ぎていく。
結局隊長からも飯塚さんからも、竹内からもさえ、なんの連絡もないまま数日が過ぎた。
世界は相変わらず平和で、俺がいなくてもやっぱりこの世は回っている。
何をそんなにムキになっていたんだろう。
俺にだって、本当はもっと違う世界があったのかもしれない。
そんなことを考えながら、ぼんやりとただゲームと動画を見て日々を過ごす。
眠たくなったら寝て、腹が減ったら勝手に何かを口に入れ、目が覚めた時に起きた。
何もする気が起きなかった。
本当はしなければならないことが、やりたくてたまらないことが、自分を殺しにくるくらいあるのに、それに押しつぶされて動けずにいる。
銀色の小さな端末が目に入った。
久しぶりに触れたその形を、手は覚えていた。
しっとりとした冷たさが妙に心地いい。
ふいに、パッと画面が明るくなった。
新たな連絡が届いた合図だ。
未読の通知が鬼のように溜まっている。
どうせ俺には、もう何も関係ない。
部隊を無断で離脱したような奴だ。
もう除隊処分になっていたって、おかしくはない。
「はは。俺はやっぱり、ニートだったんだな」
そっか。
今日は飯塚さんの予告した、決戦の日か。
そう言われればそうだったな。
実感がなさ過ぎて、忘れていた。
再びメールが送られてくる。
それが届いたことを知らせる通知画面だけが、また明るく光る。
だけどそれだけでは、メールの中身まで確認できないんだな。
見たくないのなら、見なくてもいいように出来ている。
俺はそれを開く。
隊長だ。
当たり障りのない平均化された言葉で、隊員を鼓舞している。
きっとそんな部隊の体質が、俺には合わなかったのだろう。
続けて送られて来たメールは、別フォルダーに送られた。
久谷支部の部隊に出された指示だ。
つまり、俺と竹内。
そこにいま届いたばかりの通知がため込まれていく。
最初のは既読がついている。
俺も読んだ。
「No.03を確保しろ 手段は任せる」
それ以降の日付データは何もない。
そこからたったいま送られてきたばかりの、新着20件を超えるメッセージ。
その一つを開いた。
送られていたのは何かのURLで、開く気なんかなかったのに、うっかり指は触れてダウンロードが始まる。
一つをクリックすることで、全てが連動して展開されていく。
おかげで端末の更新が始まってしまった。
これでまた俺は、しばらく動けない。
「……竹内にまで、キレられるとは思わなかったな……」
入隊した時からの仲だ。
口は悪いし無愛想だけど、何度も二人で危機を乗り越えた。
一心同体とまでは言わなくても、欲しいところでちゃんとパスがくる。
そんな関係だと思っていた。
だけどそう思っていたのは、俺だけだったんだな。
ダウンロード完了の合図。
だけど今さら、どうにもならない。
再起動の指示があり、それにだけは従った。
新しくなった画面には、見知らぬアプリが組み込まれている。
『天命・改』
俺がそのままこの端末を持って飯塚さんのところへ行ってしまう可能性とか、どこかに逃げてしまうかもとか、そういったことをあの人は考えなかったんだろうか。
もちろんこのプログラムにも、当たり前のように位置情報はついているだろう。
だから問題はないと判断したのかもしれない。
隊長のことだ。
失敗や間違いなんて、ない。
震える手で口元を覆う。
だけど、どんな複雑なプログラムであっても、それを解除する技術を俺が持っていないと、本気であの人が思っているとも思えない。
天命のバージョンアップ。
話に聞いたことはあった。
だけどそれは、単なる噂に過ぎないはずだった。
隊長はこの機会に、一気に新しいシステムを作らせたのか?
何をどう考えても、全てが無謀にしか思えない。
こんな急ごしらえの巨大システムが、まともに動くはずはない。
完成前の特大極秘システムを、隊長はいつから俺たちに任せようとしていたのか。
「あら、出かけるの?」
「うん、ちょっとね」
震える足で、よろよろと自転車にまたがる。
行き先に、もう迷いはなかった。
都庁前広場についた頃には、11時を過ぎていた。
まぶしいほど輝くこの白い巨体は、数時間後に秘密裏に内蔵する巨大ロボを出現させようとしている。
「あれ、重人? こんなところで何してんの?」
「姉ちゃん!」
「珍しいわね、何の用よ」
「な……、えっと、ハローワークに……」
「都庁にハロワなんてないわよ。何しに来たの」
「と、都民の声総合窓口!」
「いいからちょっとこっち来なさい」
強引に袖を引かれ、連れて行かれる。
姉貴になんか、かまってる場合じゃないのに!
「ちょ、ゴメンだけど俺さ……」
本庁舎に向けて、カメラを構える男性二人組がいた。
「都庁で何か、撮影でもしてんの?」
「あぁ。なんかね、ネットで今日の2時に都庁がロボ化するって噂が流れてるみたいなのよ。漫画やアニメじゃしょっちゅう爆破されたり占拠されたりしてるけど、さすがにロボ化ってのはね」
呆れたように笑う姉の横顔に、焦りがつのる。
これも飯塚さんの「見えない仲間」の力か。
「俺、もう行かないと」
「どこに」
返事の出来ない俺に、姉はため息をついた。
「分かったわよ。ランチちょっといいとこおごってあげるから、久しぶりに話そ。あんたと喧嘩ばっかりしたいワケじゃないんだからさ、私だって」
「喧嘩って、なに?」
「……。ニートだって、いつも怒ってること」
「違う!」
くそっ。
こういうとき、いつもどうやって切り抜けてきたっけ。
「何が違うのよ。私の昼休みだって、そんなに長くないんだからね」
「もう飯は食ったから……」
「じゃあちょっとそこのコーヒーショップでいいから、付き合いなさい」
「美希ちゃん!」
俺のその声に、姉は振り返った。
「美希ちゃん。悪いんだけど、行かなくちゃいけないんだ」
姉貴のことを名前で呼ぶなんて、いつぐらいぶりだろう。
「行くって、どこ」
「都庁」
自分とそっくりな顔が、俺を見上げている。
世話好きで気の強い姉ちゃんの後ろをついて歩いていれば、子供の頃は何の不安もなかった。
「だから、都庁のどこよ」
俺は安心しきってその後ろを歩いていた。
だけど、今は違う。
「それは言えない。もしこの先に何かが起こったとしても、俺のことは大丈夫だから、安心して。父さんと母さんにも心配するなって、ちゃんと伝えて」
「……は?」
「じゃ!」
もし都庁ロボが動き出し、俺たちの部隊が表沙汰になったら、どんな騒ぎが待っているだろう。
自分たちの信じていた世界が変わる。
日常が、常識が変わる。
世界が今までと全く違って見えるようになる。
もしかしたらそれを、人は『革命』と呼ぶのかもしれない。
「ちょ、待ちなさい重人!」
走り出したすねに強い衝撃が加わる。
俺はその場に盛大に転んだ。
つまずいたのは、隊長の足だった。
「どこでチンタラしてるかと思ったら、ナンパしてんのか。遅刻だぞ」
「ち、違いますよ。ねーちゃんです!」
「あぁ、そうか」
警備員の制服を着た隊長は、表情を何一つ変えることなく帽子を取り、丁寧に頭を下げた。
「初めまして」
浅黒く精悍な顔は、姉の顔をのぞき込んだ。
「バイトの面接に応募していただきましてね。お姉さんが都庁にお勤めなのは、うかがっておりました」
「あ、いえ。すみません。私の方こそ、お邪魔してしまって……」
隊長の視線は、今度はじっと俺を見下ろした。
「臨時採用ですので、まぁお試し期間といったところですが、お世話になります。それでは仕事がありますので。失礼」
「し、重人を、よろしくお願いします」
姉はペコリと頭を下げた。
背中を押され、その場を後にする。
あの負けん気が強く全く物怖じしない姉を、一撃で黙らせた隊長の威力。
助かったといえば、助けられた。
「顔、見せてよかったんですか? うちのねーちゃん、あぁ見えてけっこう記憶力いいっすよ」
「お前の家族だろ」
その一言が、どうしてか俺の胸に響く。
庁舎裏の関係者専用通路から、建物の中に入った。
俺が今まで隊を抜けていたことに、隊長は何も言わないのが、よけいに苦しい。
大きな背中を見つめた。
ロボット出現の仕組みは公にはできないが、都庁の外法と内法には差異がある。
要するに、内部に秘密があるのだ。
いくつもの部屋を通り過ぎ、隠された通路と秘密部屋を無数に超えたその先に、対策本部が設置されていた。
5人の隊長直属精鋭メンバーが、常にキーボードを叩いている。
この人たちが飯塚さんを追いかけ、支部のサポートもしているのか。
ちょっと見ただけで分かる。
完璧なまでに無駄なく機能している現場に、俺は急に恥ずかしくなった。
「これが都庁ロボの実態だ」
ディスプレイに、そう説明されなければ何だか分からない図面が浮かびあがった。
「ロボットの各パーツは分割され保管整備されている。合体の信号を受けた瞬間、これらの固い殻を破って生まれ変わる」
壁の隙間、柱の中……なるほど、全てが一つになった時、あそこから飛び出すのか。
「03はパーツの位置を変えずに配線を入れ替えている。操縦プログラムのセキュリティも未だ突破できていない。操縦室の位置は判明しているが、中への侵入経路は不明」
ゴクリと唾を飲み込む。
「完全無人の遠隔操作に切り替える予定だったんだ。そのプログラムは完成していると思え」
だからロボ化の日時を予告しても、平気だったんだ。
「その発信源をキャッチすれば……」
「それで03の確保は出来ても、ロボ化を止められる保証はない」
莫大な国家予算をかけているこのロボットを、傷つけるわけにも破壊するわけにもいかない。
もちろん重大な国家機密を世界中にバラされたとなれば、国際的な信用問題にも発展する。
各国主要都市の建物がロボ化するのは、世界の常識だ。
「竹内はすでに操縦室へ向かった。お前も後を追え。旧マニュアルの方は支部に送信してあったはずだ。役に立つかどうかは分からんが、参考にはなるだろう」
隊長からの、新たな指示が発令された。
「お前たちは操縦室に侵入し、ロボ化を止めろ。新たな情報は随時展開する。急げ。タイムリミットは近い」
作業服に着替え、廊下に出た。
都庁の中で常に何かの工事が行われているのは、こういうことだったんだ。
腕に巻かれた時計型の端末をチラリと見る。
時刻は11時20分を指していた。
ロボ化予告時間は14時。
俺は都庁前広場にいたネット配信動画の撮影隊を思い出していた。
どんな偶然でも、起こしてはいけない偶然がある。
それを偶然という言葉で、片付けてはいけないんだ。
周囲を慎重に見渡す。
俺は意を決して、竹内との通信を再開した。
端末からゴソゴソと布をこすりつけるような音が聞こえる。
「おい、聞こえてるか?」
返事はない。
アクシデントかと焦った次の瞬間、それはつながった。
「今どこ?」
聞こえているはずなのに、やっぱり返事はない。
「操縦室の位置は聞いた。そっちへ向かう。お前は?」
「問題ない。お前は自分で好きにしろ」
プツリと通信が切れる。
竹内が俺に腹を立てていることは分かる。
それは仕方ないとは思うが、そんなに怒らなくてもいいじゃないか。
今は非常事態で協力が必要なのに……。
脳裏に焼き付けておいた、操縦室に一番近い部屋の前に立つ。
一呼吸をおいてドアを開けると、竹内はいた。
「……。なんだよ」
「隊長からの指示だから……」
そう言ってしまえば、コイツはすぐに諦めて大丈夫になることは知ってる。
床に広げてあったノートPCの横にしゃがみ込んだ。
壁の内部構造を精密に測定した図面が広がっている。
「勝手に見るな」
とび職姿の竹内のポケットで、着信音が鳴った。
それに「はいはい」と適当な返事をしながら立ち上がる。
「どこへ行く?」
「お前には関係ないだろ」
「この周辺はもう調べ尽くされたはずだ。入り口はなかったんだろ?」
「俺がお前に聞かれて、素直に答えるかよ」
「信じるよ」
俺は久しぶりに見た、その黒縁眼鏡に向かって言った。
「悪かった。お前がいないと、ダメなんだよ」
舌打ちされる。
そんなのを聞くのも、久しぶりだ。
「そんな生ぬるいセリフで、俺が騙されるとか思うなよ」
PCをそのまま置いて部屋を出て行く。
急いでそれを追いかける。
出てすぐの廊下で、竹内の着ている作業着と同じロゴの入った男と出くわした。
「なんだ新入り、こんなところで何やってんだ」
「あ、いや。保全課の人にちょっと頼まれまして」
親方らしき男は、俺を見上げた。
「あんた、技士さんの会社のもんか?」
「えぇ、そうです」
「あの兄ちゃん、あんたの上司か? さっきから探してるのに、姿が見えねぇんだ。知らねぇか?」
竹内と目を合わせる。
「上司って、四角い顔で背がこれくらいの、髪がさらさらした感じの人ですか?」
竹内は俺の背に隠れ、端末で飯塚さんの顔写真を探している。
「髪がどうのこうのって言われても、分かんねぇけどよ」
「え、なんか眉毛がこう、斜めに、こうっていうか……」
適当なことを言って時間を稼ぐ。
竹内の端末が俺の手に渡った。
「あ、こんな感じの」
それを操作するフリをしてから、親方に見せる。
「あぁ? あー。そうだな、うん。コイツだ」
「僕も探してるんですよ。見かけたら教えてください」
「おう。おい、お前。保全課の頼まれごとが済んだら、お前も仕事に戻れよ」
親方の姿は、廊下の角に消えた。
「すぐに俺たちも探しに行こう」
「隊長への報告はしておいた」
竹内は端末をポケットにしまった。
「いい加減にしろ。命令を忘れたのか。いや、俺に出されてるのとは違うのか?」
黒縁眼鏡のブリッジをクッと持ち上げる。
「頼りにならない相棒なら、いらない。俺への指示は、操縦室への『侵入と阻止』だ。『捜索と確保』じゃない」
竹内の視線は、何かをスキャンするように俺の全身を上下した。
「じゃあな。お前にとっての正解を、勝手に貫け」
考えろ。
作戦の一部としての自分と、何が正解かを求めている自分とを。
竹内の機嫌が悪いのは、俺がずっとそれを混同しているからだ。
後を追う。