どこにでもある昼下がりの公園で、俺はベンチに腰かけたままイライラと待っていた。

完璧にけだるい午後3時。

約束の時間を2時間も過ぎている。

都会の谷間に埋もれる普通の小さな三角公園で、暇を持てあましたサラリーマンはベンチに寝そべり、人を恐れたこともない鳩は退屈そうに俺を見上げる。

「くそっ」

ガツンと地面を蹴飛ばした。

理学部数学科大学院博士課程を修了してからはや2年、俺はあらゆる試練に耐え、今こうしてここに座っているのだ。

そう簡単にあきらめるわけにはいかない。

巻き上げられた小石に驚いた鳩たちは、飛び上がって俺との距離を取り直す。

そんなことをしたって、どうせまた近寄ってきて、俺をバカにするんだ。

ここでなにやってんだ、役立たずめ。

餌をくれないんなら、どっか行けよ。

そんなことを、もう何度もくり返していた。

「なんだ兄ちゃん、暇してんのか」

俺の座るベンチの横に、一人の小汚いおっさんが腰掛けた。

手には使い回したような小さな紙バッグを持っている。

季節外れの分厚いコートの前を広げ、股を開き仰々しくもふてぶてしいその態度は、ますます俺をイラつかせた。

「ニートってやつか? 社会のゴミだな」

こういう手合いは、相手にしないに限る。

「なんだ、言い返しも出来ないのか? やっぱダメな奴はなにやらしてもダメだな」

そう言ってせせら笑うおっさんに、俺は聞こえるようワザと大きなため息をついてやった。

三月の空は薄汚れたかすれ雲をいつまでも抱きかかえている。
「人生の……過ぎた時間のことを思うと、時々空しくなることはないか?」

普段から誰にも相手にされていないであろうこの小汚いおっさんは、唐突に自分の人生哲学を語り始めた。

こんなんだから嫌われてるってことが、分かっていない。

「誰からも理解されず、認められもせず、ただ己の信念に従って生きる。そんなことは果たして可能なのだろうか。君はどう思う? 俺にはそれはとても、難しいと感じるけどね」

誰からも理解されず認められず、おっさんという生き物は誰しも、こんなふうに面倒くさく仕上がってしまうものなんだろうか。

「俺には関係ないし」

「どうしてそう思う」

変な奴に絡まれたもんだ。

今すぐここから立ち去りたいが、俺にはここを決して離れられない理由がある。

「どう生きるかを決めるのは、自分自身であるはずだ」

「ニートのくせに?」

おっさんはニヤニヤしている。

ここで腹を立てたら負け。

俺は返事の代わりに、もう一度大きく息を吸ってから、吐き出した。

まっすぐに顔を上げ、無視の態度を決め込む。

こんなのを相手にして過ぎる時間の方が、よほど後から空しくなるだけだ。

「兄ちゃん、あんたも変わってんね」

そのセリフを最後に、おっさんは黙りこんだ。

時間だけが刻々と過ぎてゆく。

すっかり西に傾いた太陽は、その光に赤味を帯び始めた。

もう待ち合わせの時間が何時だったのかを、思い出す気にもなれない。

騙されたのか、それとも失敗したのか。

絶望的な感情がぐるぐると俺を支配する。

「磯部重人くん、だったね」

突然のそのセリフに、俺は隣の小汚いおっさんを振り返った。

「おめでとう。これが最終試験だ」

おっさんは立ち上がると、コートについた埃をはらう。

「君の見るこれからの世界が、幸福であることを祈るよ」

「ちょ、ま……」

急いで呼び止めようと、立ち去る背中に手を伸ばす。

声を出そうにも、驚きが突然すぎて声にならない。

そのまま消え去っていくのを、ただ見ているだけしか出来なかった。

これが最終試験? なにをどう試されたんだ? 

意味が分からない。

古びた紙バッグが目にとまる。

ベンチの上にあの男が置いていったものだ。

ひったくるようにしてのぞき込むと、中にはプラスチックケースに収められたディスクが2枚入っていた。

ラベルには人気深夜アニメのタイトルが印字されている。

「何だよ、コレ……」

ゴクリとつばを飲み込み、その透明なケースをそっと指でなぞる。

違う。

これはアニメなんかじゃない、見た目に騙されるな。

これこそが最終試験問題だ。

あの言葉の意味とは、そういうことだ。

俺はしっかりとそれを握りしめると、帰宅の電車に飛び乗った。
木造2階建ての中古物件。

時代遅れの引き戸玄関扉をガラガラと開けると、俺は靴をその場に脱ぎ捨て、階段を駆け上った。

「重人、どこ行ってたの。ご飯は?」

「いらない」

文句をいう母の声が階下から響く。

悪いが今はそれどころじゃない。

渡されたディスクの1枚目をパソコンに放り込む。

立ち上がったそれは、ラベリング通りのアニメを流し始めた。

「重人!」

襖が開いて、母が顔を出す。

「久しぶりに外に出てたんでしょ。どこに行ってたか、ちょっとくらい母さんと話しをしてくれてもいいじゃない。大体あんたは何にも話してくれな……」

母の視線は、パソコン画面のアニメにくぎ付けだ。

「重人。あんたねぇ、このままいつまでも引きこもってて、平気だと思ってるの? 母さんも父さんもいつまでも生きてないし、お姉ちゃんだって……」

「いいから!」

つい声を荒げてしまう。

「俺が自分からここを開けるまで、絶対に入ってくんなっていつも言ってんだろ」

ギロリとにらみつける。

母さんの心配は分かるが、俺には俺の事情ってもんがある。

勉強も出来てスポーツ万能、ご近所でも有名なよく出来た自慢の息子だった。

そんな俺に、母はため息をつく。

「下にご飯……、おいてあるから」

その声には、わずかに涙が混じる。

母は襖を閉めて下りていった。

俺だけが残された部屋で、キーキーと甲高いアニメ声優の声が響く。

俺はいま、ただの引きこもりニートだ。

大きく一つ深呼吸をして、その画面をじっと見つめる。

理学部数学科大学院博士課程を修了してからさらに2年。

あらゆる試練に耐え、ようやく目の前にあるのは、ただのアニメなんかじゃない。

警視庁サイバー攻撃特別捜査対応専門機動部隊への入隊試験だ。

俺は首を横に振った。

集中しよう。ここが正念場なんだ。

違う。間違えるな。

ただ映像を流していただけでは、ダメなんだ。

早送りして最後のエンドロールを過ぎた特典画像まで目を通す。

特に変わったことはなにもない。

サブリミナルだなんていう映像処理も見当たらなかった。

だとしたら、残る答えはただ一つ……。

俺は自作プログラムを立ち上げた。

改良に改良を重ね、この長期にわたる試練のために開発したソフトだ。

そいつにディスクを読み込ませる。

この組織における独特なセキュリティーを解除し、さらに暗号を解かなければ、彼らからのメッセージは受け取れない。

一つ一つ与えられた課題をこなしていくことが、この解読とプログラムを完成させていく過程になっていると気づいたのは、いつだっただろう。

紆余曲折を経て地道な作業を重ね、2年という歳月をかけたプログラムの完成が、ようやく目の前にある。

「当たりだ」

カモフラージュ映像の下に、部隊の組み込んだプログラムを見つける。

それだけを抽出し解析を始めた。

2枚のディスクに含まれているコードを、それまでのシステムに組み込めという指示だ。

「くっそ」

面倒な作業だ。

だけどきっと正しくそれができれば、俺のプログラムはそのまま部隊の端末として機能するはずだ。

そのわずかな見込みだけが、俺の崩れていきそうな気持ちをようやく支えている。

時計を見上げた。

夕方7時前には帰宅したはずが、もう25時を回ろうとしている。

作業はようやく2枚目のディスクの読み込みに入った。

入れかえをして走らせる。

カタカタという作動音を聞きながら、俺はいつの間にか眠りに落ちていた。
「重人。何か届いたわよ」

朝日に照らされ、母の声に起こされる。

どうしてこうも親というものは、子供の話を聞かないものなんだろう。

まぶしさに目をこすった。

勝手に開けられた襖に苛立ちをおぼえつつも、パソコンに目をやる。

2台の画面は同じアニメが、全くの同タイムで流れていた。

「またテープのダビングしてんの? だったら母さんの録画してるドラマもコピーしてくれる?」

「荷物って、なに」

受け取ったのは、そこそこの大きさのある、長方形の箱だった。

送り主に記憶はないが、届け先は間違いなく俺になっている。

開けてみると、中にはゴシック調の大きな人形が入っていた。

黒いレースのワンピースに波打つ金の長い髪と大きな青い目が、独特の光を帯び、不思議な輝きを宿している。

「まぁ、なんかちょっと気味が悪いわね。あんた、こんなものにまで趣味を広げたの?」

「懸賞でたまたま当たっただけだよ」

母は両手を腰に当て、ため息をついた。

「ねぇ、ちょっといいかしら。あんたはもう少ししたら……」

「いいから、出てってよ」

そのまま腰を下ろそうとする、無粋な母を追い出しにかかる。

「ねぇ、ご飯だけはちゃんと食べるって約束でしょう? みんな下で待ってるわよ、あんたのために……」

「あぁもう、分かったよ、分かった」

そう言われれば、昨日の昼から何も口にしていない。

腹が減っているのは事実だった。

ギシギシときしむ狭い廊下を居間へと下りていく。
『みんなが待ってる』と言ったわりには、もう食べ終わった食器が並んでいるだけだった。

俺がそこに腰を下ろすと、父は遠慮がちに「おはよう」と声をかけてくる。

仕事に出かける姉の洗面所で使うドライヤーの音が、茶の間にまで聞こえてきた。

「全く、カネかけて大学院にまで行ったって、なんの意味もないじゃない、引きこもりなんかされちゃったらさぁ。どんな大企業に就職するのか、楽しみだったのにぃー。ね、母さん!」

「美希、そんなこと言わないの!」

「聞こえるようにワザと言ってるに決まってるじゃない。ね、重人!」

ひょこっりと姉貴が顔をのぞかせる。

ここで文句を言うと話しが長くなるので、黙っておく。

慌ただしく仕事に出かけていく父と姉を見送る頃には、俺は用意されたみそ汁と白ご飯のほとんどを胃に流し込んでいた。

「ごちそうさま」

「今日もどこか出かけるの?」

「いや」

「そう。母さんはこれからパートに行くから」

「知ってるよ」

いつも何か言いたげな母と、遠慮がちな父と、一切の妥協なく自由奔放に生きている姉に、俺はいつも振り回されている。

「じゃ、出かけてくるわね。お留守番、よろしくね」

時折母の見せるその淋しそうな横顔だけが、唯一俺の決意を砕きにかかってくる。

「いってらっしゃい」

そんな母を玄関まで見送った。

「ニートか……」

しかしここで折れてしまえば、この数年の努力が無駄となり、姉の言葉は本当になってしまう。

警視庁公安部総務課から独立機関となったサイバー攻撃特別捜査隊。

そこに数年前から秘密裏に設置された極秘部隊、それが警視庁サイバー攻撃特別捜査対応専門機動部隊だ。

入隊希望者本人の身辺調査は厳密に行われ、家族にもその職務を知られてはならない。

だからこそニートとして社会的空白期間が必要なのであり、その間の言動も問われているのだ。

俺はニートだ。

だが、ただのニートではない。

これは世を忍ぶ仮の姿なのだ。

家族全員が出払ったのを見届けると、俺は自室に戻った。

届いたばかりのグロテスクな人形を手に取る。

その青い目をじっと見つめた。

この人形は、渡されたアニメに登場するキャラクターアイテムだ。

主人公を陰から支える案内役を務める。

アニメでは左目が赤のオッドアイだが、この人形の両眼は紺碧だ。

深紅であるはずの眼に指を押し当てる。

案の定、それはカチリと音を立てると、フッと浮き上がった。

引き抜かれた眼球の先には、USBが装着されている。

ウイルスチェック用に独立させてある検査用PCに接続する。

問題はない。

これはやはり、部隊から送られて来た何かのシステムなんだろうな。

だけど俺にはまだ、これが何の役割を果たすものなのかは分からなかった。

そのUSBを再び人形の眼に戻す。

改めて、2枚目のディスクから取り出したプログラムコードの設定に取りかかった。

脳が沸きだすほどの労力を費やしているうちに、ふいに画面上にマップが表示された。

これはプログラムが正常に作動し始めたという証だ。

「なんだ? ここに行けってことか」

写し出された画面に目をこらす。

家から歩いて数分の地点が、そこに示されていた。
俺はその日、朝から身支度を調え外に出た。

とりあえずの言い訳として、バイトの面接に行ってくると伝えると、遠足に出かける子供を送り出すかのように、母だけがはしゃいでいる。

社会復帰を喜ぶその姿に、複雑な感情を抱えてしまう。

「じゃあ……行ってきます」

「うん、気をつけてね!」

俺だって緊張しているんだ。

事前に地図で検索しても、その場所には何も記されていない。

見下ろした母と目が合う。

「行ってきます」

手足が同時に動いているのが分かる。

胸の動悸が収まらない。

一見市販の携帯端末のように見えるこの小型機器は、俺が部隊からの仕様を元に自作した特別仕様品だ。

そこに表示されたルートに従って歩く。

目的地は遠くない。

住宅街を抜け、通りに面した道に出る。

交通量はそれほど多くはない。

十字の交差点を渡ったその先に、部隊の秘密基地と思われる建物が見えた。

自動開閉式のガラス戸を抜けると、来客を知らせるチャイムが鳴り響く。

「いらっしゃいませ!」

その爽やかすぎるかけ声に、俺の体はビクリと震えた。

白地に空色のストライプが入ったお揃いのシャツ。

配送されたばかりのおにぎりが入ったトレイを抱えた若い女性は振り返る。

そう、ここはコンビニエンスストアだ。