結局、僕らは二十分近く自転車を走らせた。
 咲果に案内された先は、細い道を三度ほど曲がったところにある小さな蕎麦屋。家と学校、そしてあの公園の往復ばかりしていた僕にとっては足を踏み入れたことのない未踏の地だ。

「ここのお蕎麦がね、ほんっとにおいしいの!」

 こちらにもファミレスやファストフード店はある。実際に僕も部活がオフのボウに連れられて、学生にも優しい価格設定のファミレスには行ったし。だけどこんな感じの純・蕎麦屋には家族以外と入ったことはなく、なんとなく立ち止まってしまう。
 しかし咲果は薄茶色の木の板でできた引き戸を何の躊躇もなくガラガラと開けた。

 ──こっちでは蕎麦屋に高校生が入るのが当たり前とか……?

 いらっしゃい、と声をかけてくれたおばちゃんに「ふたりです!」とニッと二本指を立てた咲果は、またもや何の躊躇もなくスタスタと奥の席へと歩いていった。僕も慌ててそれを追う。
 昔ながらの家屋を改装したのかもしれない。しっかりとした丸太の柱で支えられた店内は、天井が高く、そこまでの広さがあるわけでもないのに開放感がある。

「いっくん、何にする? わたし盛り蕎麦」
「冬なのに、冷たい蕎麦食べるの?」
「んー……そしたらおつゆは温かいのにしよっかな。じゃあ鴨蕎麦!」
「そしたら僕もそれで」

 そう言えば、咲果は嬉しそうに笑う。何がそんなに嬉しいのか。あまりの笑顔に面食らった僕は、赤くなった耳を悟られないようにそっと両手でふさいだ。

「ここのお蕎麦、ずっと食べたかったんだ」

 手際よく注文を終えた咲果は、未だ耳の熱を抑えることができていない僕には気付かず、ぐるりと店内を見回しながら懐かしそうに話す。

「小さい頃から家族でよく来たの。外食しようってなると、いつもお蕎麦で」

 考えてみると、咲果が家族の話をするのを聞くのは初めてのことだった。夜に出歩いていることを親が心配しないのかと尋ねたときにはやんわりとはぐらかされたから、なんとなく聞かれたくない部分なのかと思い込んでいたのだ。だけど今の咲果の表情は純粋に懐かしんでいるようで、僕の考えすぎだったのかもしれないと心の隅でほっとする。

「いつも何食べてたの?」
「うんとね、お父さんが天ぷら蕎麦でお母さんが鴨蕎麦。わたしと妹はいっつも盛り蕎麦で──」

 そこで、咲果がハッとしたような表情を浮かべたのを僕は見逃さなかった。だけどその表情の理由を、僕は追求したりはしない。誰にだって簡単には打ち明けられないことのひとつやふたつはあるものだ。咲果が僕にしてくれたように、僕も彼女の心の中に土足で入るようなことはしたくない。

「咲果って、妹がいるんだな。うちの高校?」

 だから僕は、それに気付かないふりをしたまま会話を繋げたのだ。

「……うん。いつか、いっくんにも紹介するね」
「楽しみにしてるよ」

 ちょうどそのとき、僕らが注文していた鴨蕎麦が運ばれてきた。顔を輝かせた咲果に、僕の心はじんわりと温かくなる。

 咲果にだって、色々なことがあったのだろう。それはちょっとした両親との喧嘩かもしれないし、妹とのすれ違いかもしれないし、僕には想像のできない何かかもしれない。咲果の力になりたい、支えになることができたら、と思わないことはない。だけどそれが、まだ出会ってから日の浅い僕にできるかどうかはわからない。それならば、今の僕が確実にできることをしていきたいと、そう思うんだ。

 咲果と並んで自転車で坂道を下るとか──。
 くだらない話をして笑うとか──。
 おいしい蕎麦をたらふくに食べるとか──。
 夜にふたりで、音楽を楽しむとか──。
 彼女のために、僕が曲を作るとか──。

 ほら、こうやって挙げていけばこんな僕にもできることはいくつかある。
 蕎麦をずるずるっとすすった咲果は、「やっぱり世界一おいしい!」と幸せそうな笑みを浮かべた。