教室に着いてからも、咲果はいつも通りだった。普段と同じようによく笑い、楽しそうに友達とおしゃべりをし、そして四時間目の音楽の授業ではやはり声を出さずに口だけ動かしていた。昼休みになると「いっくん一緒に食べよう!」と誘いに来てくれる咲果が、今日は倉田とふたりで教室の外へと行ってしまったこと以外は、本当に昨日までと何も変わらなかった。

 ここ最近、昼食は咲果と倉田、そしてボウと一緒に食べることが多くなっている。決して机を向かい合わせて四人で仲良く、といった風ではなく、あくまでも同じような場所で食べている、くらいではあるが。それでも非常階段でひとりきりでスナックパンを齧っていた僕にとって、それは大きな変化だった。
 大きな弁当箱を開いたボウは、これまた大きな卵焼きを口に入れると、もごもごと口を動かしたまま疑問を口にする。

「なあ、咲果と何かあった?」

 こんな状況で、聞かれない方がおかしいとは思っていた。それでもいざそう問われれば、僕の心はざくざくと霜柱のように固くなっていく。

「別に」

 口にしてから、少しだけ気まずい気持ちが沸き起こる。転校初日のことを思い出したからだ。この三文字は、人を遠くへと追いやる力がある。
 ボウはいいやつだ。デリカシーが若干欠けていたり、大げさだったりすることもあるけれど、こんな愛想のない僕を何かと気にかけてくれる。そして何よりも僕の一方的な言葉を守り、ボウはキャプテンであるくせに一度だって部活の話やサッカーの話題を振ってこない。日本代表の試合がテレビ中継された翌日でさえも。ボウは、そういう男だ。
 いつしか僕にとって彼は、〝友人〟に一番近い存在になっていたのだ。

「別に、って言うのは、もっと聞いて!って意味だろ?」
「……は?」

 しかしボウは、僕の斜め上の返事を寄越した。こう見えて実は繊細なのがボウ、だというのは僕の勘違い。どうやら彼を買い被りすぎていたみたいだ。

「昔っから漫才でもそうじゃん? 熱湯風呂の前で『押すなよ! 押すなよ!』って言うのは『押してくれ!』のフリだったりするわけじゃん」

 唇を丸めながらフンフンと自分の話に納得するボウをぽかんと見た僕は、そのあと我慢できずに吹き出した。
 頭の中では国民的コメディアントリオが、熱湯風呂を前に押し問答をしている姿が再生されている。ちなみに、全員ボウの顔に変換済みだ。
 突然笑われたボウは、なんだよーと文句を言いながらもつられたように笑う。そうしてひとしきり僕が笑うと、もう一度同じ質問を繰り返した。

「で、何があったわけ? 押し倒してビンタでもされた?」
「なんだよそれ」

 今度は僕も「別に」だなんて言葉は返さない。なんだかそんな風に尖るのも、投げやりになること自体も、こいつの前ではバカバカしく感じてしまったのだ。

「いやさ、友達ふたりがおかしかったら、気になるっしょ。咲果には倉田がいるけど、樹には俺がいるじゃん?」

 こんなセリフもボウならば朝飯前だろうと思うのだが、以前下の名前で呼んでと言ったとき同様、最後の方はまた顔をほんのりと赤らめていた。なんとも憎めないやつだ。
 僕はそんなボウに対しそこまで言うならばと、どう話そうか頭を巡らせていた。
 ここまでの出来事を思い出してみる。咲果が歌に対して特別な思いを抱いていることは確かだ。だけど本人は、それを誰にも知られたくないのかもしれない。小さい頃から彼女と接しているはずのボウがそれを知らないというのが、その証拠のひとつだ。

 そこで僕は大事な部分は明らかにしないまま、遠回しに〝彼女を傷つけてしまったと思う〟とだけ説明をした。

「それは、樹が悪い」

 しばらく黙って話を聞いていたボウは、開口一番にそう言った。その通りなので、僕は黙って顎を引く。

「だけど、咲果も悪い」

 しかしボウは、そうも続けたのだ。

「樹が本音で話してたのに、咲果は本当の気持ちを言わなかったってことだろ? だからお前は、頭に来たんだよな?」

 先程までの決めてかかってきた態度とは一転、ボウは確認するように質問を重ねた。これもまた、彼の言う通りなので僕は黙って首を縦に振る。

 そうだ、僕が一番腹を立てたのは、咲果が見え透いた嘘と笑顔を吐き出したこと。

 誰にも打ち明けられなかったサッカーへの思いや、大事にしていたじーちゃんとの思い出。僕は自分にとっての大切な部分を、咲果に打ち明けることができた。咲果と僕は、本音で向き合えると思った。それなのに彼女は、僕に胸の内を明かしてはくれない。そのことに、ひどくショックを受けたのだ。

「だけどそれって、すごく自分勝手だよな……」

 僕の本音を話したのは、僕の意思だ。咲果は今までに一度だって、無理やりに僕の過去を聞き出そうとはしてこなかった。いつも笑顔でそばにいてくれる咲果の優しさに甘えていたのは、僕の方だったのに。僕が彼女を頼ったのと同じように、咲果は全てを語ってくれるものだと思い込んだ結果がこれだ。

 人は誰にも、簡単には話せないようなことがある。そしてそれを打ち明けるタイミングは、人それぞれに違うのだ。

 空になったパンのビニール袋をくしゃりと握りつぶす。
 咲果は今、どこにいるのだろう。きちんと話そう、目を見てごめんと伝えよう。

「僕、ちょっと謝ってく──」
「待て」

 立ち上がろうとした僕のことを、ボウの低い声が引き止める。ゆっくりと顔を上げたボウの瞳は、いつになく真剣な色味を持っていた。

「ただ謝るだけじゃだめだ、樹」

 両肘を机に置き顔の前で指を絡めるその姿は、ドラマで見る会社の重鎮さながらの重々しさを持っている。
 僕よりも、咲果との付き合いがずっと長いボウ。彼女の性格を熟知しているであろう彼のアドバイスには、きっと大きな意味がある。

「──手紙だ」
 へ、と僕の口から間抜けな息が漏れ出る。

 手紙……? まさか手紙を書け、と? 文明の機器が発達したこの時代に、デジタルではなく手書きで想いを伝えろと? いや、こんな時代だからこそ伝わるものがあるのだろうか。
 バカは伝染る、という言葉はあながち嘘ではないかもしれない。このとき僕は、〝すぐに謝り早期解決〟というスピードよりも、〝手書きこそ真心が伝わる〟というボウの信条を優先させたのだった。