夕食に向かう途中で、ネクロと廊下で鉢合わせた。庭で何をしていたのか、黒い髪に木の葉が絡んでいる。アスールはそれを手ぐしで払ってやりながら、妹が入ってきたガラス戸の向こうを見た。庭の奥は廊下からの明かりが届かず、紺色に沈んでいる。

「プリームは母様に捕まっちゃったのよ。」

 ネクロが悔しそうに唇をとがらせた。母に着せ替え人形にされるのを嫌って、植え込みにでも隠れていたのだろう。
 アスールは、妹の子供っぽさを叱ることもからかうことも出来なかった。ネクロの言葉に、ドキリと手が止まる。庭に視線を投げたのは、正確に言えば、妹の背後に少女を探したのは無意識でのことだった。自分すら分からない行動の意味を見透かした妹に、動揺して思考が鈍る。
 反射的に飛び出しそうになった否定の言葉を、慌てて飲み込む。ごまかすようにもう一度妹の頭をなでた。

「そうか。」

 味気ない返事を、ネクロが気にする様子はない。ただじっと、濃紺の瞳で兄のそろいの瞳を見つめている。その視線から逃れるように、アスールは体の向きを進行方向に戻した。ツカツカと大股で歩き出すが、ネクロが小走りに追いついてきて、隣に並ぶ。

「兄様さー、最近、眉間のしわがすごいよね。」

 体をかしぐようにして顔をのぞき込んでくる。立てた人差し指で、つるんとした己の額をちょんちょんと突いた。

「プリームも心配してたよ。」
「……もしかして、これのせいなのか。」
「? 何が?」
「いや。」

 ネクロが最近と言うのなら、ここ数ヶ月のことなのだろう。その間にプリームの態度が変わった実感はない。しかし、自分がしかめっ面なのは今に始まったことではないし、やはり原因なのだろうか。

「あの、兄様、今まさにさらに深くなってますけど。」

 ……既に悪循環にはまっている気がする。

「兄様? 大丈夫? 具合悪い? おなか痛い?」
「……大丈夫だ。」
「そんなうめくような声で言われましても。」

 ネクロの顔が曇る。アスールは気持ちを立て直そうと、胸にたまっていた息を吐き出した。鉛のように重くて、ゴトリと足下に転がり落ちたような感覚がする。

「……プリームは、私を怖がっているだろう。」

 口に出すには勇気が要った。それでも向き合わなくてはいけないし、相談する相手は彼女と親しいネクロが適任だ。
 ネクロが足を止めたのだろう、視界の端にふっと消える。アスールも立ち止まって妹を振り返った。
 青い目が、見開かれている。ぽかんと唇が開いていた。この妹には珍しい表情だ。ネクロはどちらかというと人を驚かせたり困惑させたりする方が得意である。
 ざわっという木々の揺れる音で、ネクロははっと我に返った。

「え!? 何それ、どこ情報!?」
「どこって、私から見たままだが。」
「何で? どの辺が?」

 ひどく動揺しているネクロに、アスールも戸惑う。てっきり、ネクロは把握しているものだと思っていた。

「……私が声をかけると飛び跳ねる。」
「ああ。私が抱きつく時もよくビクーってなるよ。」

 妹の抱きつきは体当たりと同義だ。背後からタックルをかまされれば誰だって驚くだろう。

「私といると、緊張するようだ。」
「それって仕事中でしょ。ヴァイス兄様みたいにだるーんってしてるより、良いと思うけど。」
「それはそうだが……。」
「要するにさ、」

 ネクロがずいっと指先を突きつけた。つり目で下からアスールをにらむ。

「プリームの反応が気になって気になって、兄様の方が緊張しちゃってるってことでしょう?」
「ぐ……。」

 どうしてこうも、気がついて欲しくないことは見透かされているのだろう。10歳上の兄としては、何だか情けない気持ちになる。
 ネクロがわざとらしくため息をついた。

「確かに、プリームは緊張しいだよ。ダンスの授業とか、前でやれって言われた途端にガチガチのロボットみたいな動きになるし。ぼんやりさんだから、横から声かけただけでスゴクびっくりするし。でもね、あの子はリスでもネコでもないの。びっくりしたからって、すぐ逃げてっちゃったりしないの。びっくりさせといて大丈夫なの。」
「驚かせて良い訳はないだろう。」
「気にしまくってギクシャクするより断然マシ!」

 ギクシャク、はしていないはずだ。

「眉間のしわをー、プリームも気にしてますー。」

 続く言で反論を封じられる。つまるところ、アスールに変化があれば、それはプリームにも伝わるということだ。妹曰く緊張しいの少女が、上司の眉間にしわが増えていくのを平然と見守っていられるだろうか。

「私は……何も気にするなということか?」
「そうよ。緊張しっぱなしじゃ、兄様だって疲れちゃうでしょう?」
「むぅ……。」

 とにかく、眉間のしわを解消するところから始めるべきか。
 アスールは歩き出しながら、ぐっぐっと親指で自身の眉間を押してみた。横に並ぶネクロがまだこちらをのぞき込んでいる。

「何だ。」
「兄様、良いこと教えてあげようか。」
「……何だ。」

 ふふんっとネクロが笑う。

「昔ね、プリームに褒められたの。」

 くるりと身を翻してアスールの前に回り込む。向かい合ったまま、器用に後ろ歩きを始めた。妹に合わせて、アスールの歩行速度も下がる。

「ネクロちゃんが怖いもの知らずなのは、頼りになるお兄さんがいるからだねって。」

 ネクロの笑みは得意気だ。プリームの肖像を見せびらかしていた時のように。
 アスールはため息をついた。

「怖いもの知らずって……褒め言葉か?」

 ネクロがほほを膨らませた。

「ちがーう! 私はいつも褒められてるから良いの。そうじゃなくて兄様、ちゃんと聞いてた? 頼りになるお兄さんって、兄様のことよ。」
「私?」
「そーよ! 忘れちゃったの? あの日、私もプリームも、兄様を頼って帰ってきたのよ。それで、まあ、いろいろ整えてくれたのは父様だけど、兄様は助けてくれたでしょ。」

 と、ネクロの目がゆらりと潤んだ。その青がこぼれるのを耐えるように、ぐっと眉が寄る。

「私が最初、うちに行こうって言った時、プリームはうなずいてくれなかった。でもね、兄様がいるって、兄様が絶対助けてくれるって言ったら、ようやく手を取ってくれたの。」

 ネクロがぷるぷるっと首を横に振った。何かを振り落としたように、濃紺の瞳はいつもの強さを取り戻している。

「兄様は、私の自慢の兄様よ。かっこよくて頼りになるの。それはプリームにとっても絶対同じ。だから、もっと自信持ってくれなきゃ。」

――ここが彼女の居場所になれば良い。夏と言わず、冬と言わず、ずっと。

 プリームを屋敷に迎える時に降りた祈りがよみがえる。
 5度訪れた夏の中、彼女と交わした言葉は多くない。妹に向けられる笑みだとか、その手元をのぞき込む瞳だとか、走り回ってぱたぱた揺れる赤毛だとか、いつも横顔ばかり見ていた。たまに正面に立つ時、ほとんどは間に妹がいて、彼女はうつむいていた。
 それでも、彼女をここに導いたのが、自分の存在だというのなら。地に着きそうだった彼女の膝を支えたのが、自分だというのなら。

「……そうか。分かった。」

 アスールの口から、またため息がこぼれた。それは、何かを吐き出すためのものではなかった。詰めていた呼吸が楽になる。すとんっと胸の内に何かが落ちた。そのままどこかのくぼみに収まったような、そんな心地。
 ネクロがふふっと笑みをこぼす。

「兄様、元気になった? ね、良いこと教えたでしょ?」
「ああ。すまなかったな、情けないところを見せた。忘れろ。」
「えー? それはどうしよっかな。」
「おい。」

 くるくるっとステップを踏んで、ネクロが背を向ける。

「みんなには内緒にしてあげる。」

 そのまま踊るように駆けて行き、食堂に入った。あと少しの距離を、アスールも早足で詰める。妹を振り切ろうとしていた時よりずっと、足が軽くなっていた。

 ***

 街で働いている次男が帰ってくると、兄弟が執務室にそろう。まず次男が兄に帰郷のあいさつをし、次に三男が土産の催促にやって来て、最後に末っ子が秘書見習いに休憩を促しに来るためだ。
 今日も、街の様子を話す次男の向こうで、応接セットのソファに陣取った三男が、もりもりと飴がけのナッツをほお張り、分けてもらったそれを、向かいのソファでネクロとプリームがさらに分けている。
 街で流行った風邪の話が一区切りし、次男がネクロを振り返った。

「ネクロ、この間借りた戯曲なんだけど、あれって続きあったよな?」
「あるよー。読む?」
「というか、全部持って行っても良いか? 友達が気に入ったみたいなんだ。」
「何と! 芸術の分かる人ね!」

 ぱぁっと顔を輝かせたネクロが、菓子の鉢をプリームに押しつけて部屋を飛び出した。一度遠ざかった足音が戻ってきて、扉が閉まった。また駆けて行く。

「こないだ言ってた花屋の子?」
「ううん。お菓子屋の子。」
「ああ。どうりで。」

 三男が飴がけの袋、それに貼られているシールに視線を落とす。いつも次男が買ってきてくれる菓子は、ウサギのシルエットが描かれたシールが貼られている。しかし、今回はハトが麦の穂をくわえているマークだ。店が違う。

「お前はいつまでフラフラしているつもりだ……。」
「いやぁ、兄さんより先に身を固めると、ほら、叔父様がうるさいし?」

 次男はニコニコと笑みを貼り付けている。何を言われても聞き流すつもりのその態度に、アスールはため息をついた。叔父の言うことだってまともに聞いていないだろうに、言い訳には使うのだから、悪い甥っ子だ。
 アスールがイスに背を預けると、たかたかと軽い足音が廊下を迫ってきた。立ち上がってプリームが扉を開ける。ぴょんっとネクロが飛び込んできた。両手で紙の束を抱いている。

「はい、ロート兄様。シリーズ全部持ってきたよ。」
「ありがとう。お前は仕事が速いね。」

 受け取って、次男が三男の隣に腰掛ける。少女二人は向かいのソファに戻った。三男がテーブルに載った菓子鉢にざらっと飴がけを足してやる。
 弟妹はここでくつろぐ気満々だが、兄にはまだ仕事が残っている。アスールが羽ペンを持つと、プリームがちらっと顔を上げた。机に戻ろうとする彼女を手で制す。困ったように眉を八の字にして、ネクロの隣に座り直した。
 パラパラと紙をめくりながら、次男が口を開く。

「ネクロの書くヒーローって、何かいつも似たような感じだよな。」

 他の作家ならギクリとしそうな発言に、ネクロがひるむ様子はない。むしろ、ふふんっと誇らしげに笑った。

「仕方ないでしょ。何せプリームの理想のヒーローは、この私なんだから!」

 ねー? と横からプリームに抱きつく。受け止めながらプリームはへにゃりと笑みを浮かべた。

「あれ、そうなのか?」

 次男がページを戻して、まじまじと文字を見つめる。

「へぇ、てっきり兄さんがモデルかと思ってた。」
「あー。前に書いてたやつの、ブラオだっけ、あいつもろ兄貴だったよな。」

 ポリポリと菓子を砕く合間に三男がうなずく。ネクロが唇をとがらせた。

「えー? そうかなぁ。ねー、プリーム……、」

 軽く身を離して、ネクロは友人の顔を見た。名を呼んだ形で唇が固まり、濃紺の目がぱちりと瞬く。
 書類に視線を落としていたアスールは、長年培った長男の習性で”兄さん”という語に顔を上げた。弟へ向けようとした視線は、まず四人を捕らえてから赤毛の少女に吸い付いた。だから、全部見てしまった。その瞬間、次男は手元を、三男と末っ子は次男の方を見ていたから、ただ一人だけ。

 紅茶色の大きな瞳が、驚きにまあるく見開くのを。小さな唇が、言葉を失って戦慄くのを。まるで染料を吸い上げるように、白い首筋からほほの丸みを伝って赤が登っていくのを。
 震えた唇は、向かい合った友人に何を答えようとしたのか。発せられなかったそれは誰にも分からなかった。おそらく本人にも。

 硬直した少女の緊張が伝わって、彼女を見つめたまま兄弟は動けずにいた。
 古いカラクリ人形のようなぎこちない動きで、プリームがアスールを振り返った。目が合う。紅茶色が、今にもこぼれそうにゆらゆら波打っている。ほほが熱せられたように真っ赤になっている。
 唇が引き結ばれて、きゅうっと眉根が寄った。
 プリームは突如立ち上がった。ネクロの手を振り払い、顔を両手で覆って部屋を飛び出した。

「プリームっ? プリームっ!?」

 慌ててネクロが追いかける。開け放たれた扉から、ドタバタと騒がしい足音が二人分遠ざかって行く。

「えー……。マジで……?」

 ぼう然とつぶやいたのは三男坊だ。飴がけをかむ音が止まっている。ふいっと風が動いて、誰かが机越しに自分の前に立った。

「兄さん、大丈夫?」

 次男の声が降ってきた。アスールは応えない。
 片手で顔を覆ってうつむいたまま、動けない。
 顔が上げられない。
 誰にも顔を見せられない。特に弟妹には。今、自分がどんな顔をしているのか皆目見当もつかないが、自分史上最も情けない様をさらしているのは確かだ。

 赤がまぶたの裏から離れない。
 走り去るのに合わせて翻った、やわらかな髪が。その素直さに従って上気する、ふっくらしたほほが。水面のように透き通った、あの瞳が。

 手のひらに熱がこもって、頭まで蒸されそうだ。


 END