妹同然に思っていると言えば、彼女は驚くだろうか。
 たとえ共に過ごすのが夏の間だけだったとしても、6年近くも見守ってきたことには違いない。そんな彼女の危機とあれば、アスールだけでなく、父も母も手を貸すことにやぶさかでないだろう。
 だがしかし。

「お願い兄様! プリームを雇ってあげて! 今すぐ雇用契約書書いて! どうせ、プリームの家はうちに逆らえっこないもの、決まってしまえばこっちのものよ!」

 ネクロの言葉は要求と願望ばかりで、何が起きているのかさっぱり分からない。雇えと言われているが、プリームは就職が決まっていたはずだ。その話はどこに行ったのだ。
 全力疾走中の妹は、声をかけても止まるものではないので、アスールはじっと待った。入り口に立ったまま動かないプリームを、指先で呼ぶ。
 彼女は恐る恐る部屋に入ってきて、ネクロの隣に並んだ。執務室に入るのは初めてなので、ミナモチョウとは数年ぶりの再会だが、そんなことに気がつく余裕はなさそうだ。

「もうね、ひどいでしょ! あんまりでしょ!」

 最終的には文句ばかり詰め込まれていた叫びがようやく途切れる。ネクロは息が切れていた。プリームが心配そうに顔をうかがっている。アスールは、はぁ、と息をついた。

「何やら緊急事態であることは分かった。だが結果も原因もさっぱり分からん。順序立てて話してもらえないか。」
「……っ!」

 ネクロが大きく息を吸ってむせた。まだ興奮状態にあるようなので正直助かった。プリームがネクロの背をさする。さすりながら、顔はアスールに向けた。眉が八の字に寄っている。

「その、ネクロちゃんに甘えてしまってすみません。ちゃんと自分で話します。アスールさんは、父の跡継ぎが従弟のサーレスであることは御存じでしょうか?」
「ああ。」

 最近は実力主義で長女や次男に継がせる家も多いが、プリームの家は違った。彼女の家で受け継がれるものは名字の他は屋敷とわずかな財産だけだが、それら全ては一人娘のプリームではなく、2歳下の従弟が継ぐことになっている。年の近い子女がいればどこの家にも自然と耳に入る情報だ。

「ですので、私は卒業後は就職して家を出るつもりだったんです。」
「ああ。」

 アスールはうなずいた。父や母に話しているのを聞いたことがある。教師の口利きで、街の学園に司書として雇ってもらえそうだと、そう報告していたのは今年の夏のことだった。

「それで、先生のおかげで無事決まるはずだったんですが、両親が断ってしまったんです。すぐ結婚するのだから必要ない、と。」
「ひどくない!? ひどいよね!?」

 ネクロが割って入る。ガルルルっとうなるその背をプリームがさする。今度はなだめるためだ。自分自身の心も落ち着けようとしているようだった。

「それは、もう相手が決まっているのか? 婚約話が進んでいると?」
「……はい。」

 相手が嫌なのか、描いていた道を断たれたからか、プリームの表情は暗い。

「就職出来なければ家に残るしかありません。そうなれば、両親や祖父母の望む方へ進むしかなくなります。私は……」

 唇がきゅっと結ばれる。白くなるほど握りしめられた手が震えていた。その手を、横からネクロがすくう。両手で包むように握った。強張っていた細い肩から力が抜けた。指先が緩む。

「私は、そんなの嫌です。私が選んだ先に、私の望む結果がなくたって構いません。我がまま言ってるっていうのも、ちゃんと分かってます。でも、結婚するのだけは嫌なんです。」

 紅茶色がゆらゆら揺れる。隣でうんうんとネクロがうなずいている。プリームは片手の甲でぐしぐしと目元を拭った。

「お願いします、アスールさん。私にどうかお仕事を。」
「ねぇ、良いでしょう? 兄様。プリーム、うちにいて良いよね?」

 赤茶と濃紺。二対の瞳がすがりついてくる。
 アスールの眉間にぐぐっとしわが寄る。
 彼女の家の決定に逆らうということはつまり、彼女の今後を背負うということだ。長期休暇に預かるのとは訳が違う。
 アスールは額を押さえて長く息を吐いた。

「分かった。ただ、私はまだ領主ではない。事後報告で納得させるなら、署名は私より父の方が効果があるだろう。私から頼んでおく。」

 ネクロがぱぁっと顔を輝かせる。ぐるりと机を回って飛びついてきた。

「ありがとうっ兄様!」

 赤い頭が深く下げられる。

「ありがとうございます。ありがとうございます。」
「良かったぁ、良かったねプリーム!」

 ネクロは兄から離れると、旋回して今度はプリームに飛びついた。ぎゅうぎゅうと抱きしめられながら、プリームは両手でぎゅうっとネクロの腕にしがみついた。

 ***

 アスールの父が手紙を送ると、すぐに返信が来た。
 へりくだった文で、娘同士が懇意にしていること、今年は冬も世話になっていること、そして今後も娘を任せることなどの礼がつづられていた。
 執務室に呼んで、アスールがこのことを告げると、プリームは何度も頭を下げた。それから、父にも礼を言うために領主夫妻の部屋に向かった。母は手紙を見て狂喜していたので、今頃もみくちゃにされているだろう。
 プリームについてきたネクロと、別件で呼んでいた三男が部屋に残る。ネクロが読みたがったので手紙を渡してやると、横から三男ものぞき込んだ。ネクロが顔をしかめる。

「もぉーっと渋るかと思ったのにぃ、逆に喜んでる?」
「つーか、この文。もしかしてプリームちゃんが俺の嫁さんになると思ってる?」

 三男が眉を寄せてうなった。ネクロがぱちりと目を瞬かせて三男を見上げた。

「え? それってヴァイス兄様的にどうなの?」
「んー。プリームちゃんなぁ。かわいいとは思ってるけど、女の子として見たことはねぇなぁ。」
「だよねぇ。びっくりしたー。」

 ネクロがぺいっと手紙を机に放る。アスールがとがめたが、返されたのは気のない謝罪だった。ネクロはほほを染めて何やら興奮している。

「でも、うちにお嫁に来たら、プリームと姉妹になるのかぁ。それは良いかも!」
「えー。既にうちの子じゃね? もう良くね?」

 ネクロがキラキラと目を輝かせる横で、三男が肩を落とす。

「そういえば、プリームのお部屋はどうしようか。私の隣が良いなぁ。」
「お前の隣は俺なんですが。」
「一個横ずれてよ。」
「そこロート兄の部屋。」

 きゃいきゃいと部屋の内装に話を移すネクロは、誰よりもはしゃいでいる。これからも、彼女の手を引いてどこまでも暴走していくつもりだろう。

――私は、自分がどこにいたいのか、どっちに行きたいのか、すぐ分からなくなっちゃうから。

 大きな瞳が伏せられる様も、静かな声も未だ鮮明だ。
 ここが彼女の居場所になれば良い。夏と言わず、冬と言わず、ずっと。
 アスールのまぶたの裏で、赤い花が揺れた。

 ***

 客間の一つが、プリームの部屋になった。冬の間にネクロが勝手に模様替えを行った。卒業の式の後、プリームはネクロと母が直接連れて帰ってきた。数日後、彼女の家から小さな荷物が届いた。中身は数冊の本と、去年ネクロが作ったいびつな花瓶だった。
 プリームの仕事は秘書見習いだ。書類を作成、整理し、必要に応じてアスールや三男に渡してくれる。
 忙しい時期には、三男の報告書作りを手伝ったり、先輩秘書の使いで走り回ったりする。手が空く時期には、ネクロの相手をしたり、出掛ける母の供についたりした。
 プリームが屋敷の一員になって、もうすぐ一年経つ。

 執務室には応接用のローテーブルの他に机が二つある。一つは代々の領主が使っているどっしりとした古い机。もう一つは、ちょっとした書類の確認や直しにアスールや秘書が使っていた小さな机。
 父の代から働いてくれている中年の秘書は、扉でつながった隣の仕事部屋にいることが多い。そのため、アスールが領主を継いでから、小さな机はすっかり書類置き場になっていた。今は、プリームが使っている。
 アスールには少し窮屈だったイスにちょこんと腰掛けて、プリームは各農村からの作付け報告をまとめていた。
 ペンが止まり、ペン立てに戻された。大きな目が紙面に落ちて、つらつらと文字を追う。数字や地名を念入りに確認しているのか、時折、ちらちらと原本との間を行き来した。顎を引くようにして一番下まで目を通す。ぱちりと瞬いて、彼女はふっと息をついた。肩からも力が抜けるのが分かる。

「プリーム。」

 アスールが声をかけると、びくっと体が跳ねて、ぷわっとやわらかな赤毛が広がった。振り返る紅茶色の瞳が、まん丸に見開かれている。思わず、アスールの眉がくっと寄った。

「それが終わったなら、ネクロの所に顔を出してやってくれ。」
「でも……。」
「そのペースなら、明日には終わるのだろう? 根を詰め過ぎると、思わぬところでミスをするぞ。休んできなさい。」

 紅茶色が揺れる。ためらうように視線が机を滑る。やがて顔を上げると、眉尻をへにゃりと下げてほほ笑んだ。

「分かりました。お先に失礼しますね。」
「うむ。」

 プリームは書類をしまうと、筆記具は整頓するだけでイスから立ち上がった。秘書部屋の扉を開けて中へ声をかける。こくりとうなずくと、机の端に積んであった書類の束を相手に渡した。とことこと廊下へ向かい、扉の前でアスールへ向き直る。

「若旦那様も、無理をなさらないでくださいね。」
「ああ。」

 ぺこりと頭を下げて、プリームは出て行った。
 ぱたりと扉が閉じて数秒、アスールは深く息を吐き出す。机の上に肘をつくと、その手に額を押しつけた。

 緊張した人間が傍にいることが、こんなにも疲れることだとは、知らなかった。刺激したら飛び上がって逃げて行ってしまうのではないかと思うと、一挙手一投足にも気を遣う。
 淑女に使うにはあまりに失礼な表現だとは思うが、プリームはちっともアスールに馴れない。声をかければ跳ね上がり、目が合えば身を固くする。ネクロと遊んでいるのを見守っていた時とは違い、日中ずっと一緒にいるようになると少々堪えてくる。
 嫌われている、ということはないと思う。プリームは時々、笑顔を見せてくれる。しかし、この巨体かしかめ面か、何らかの原因で自分のことが苦手ではあるようだ。
 プリームが元々デスクワークの仕事を希望していたから、自分の補佐についてもらったが、失敗だったのかもしれない。いっそネクロの友添いとして雇うか。今でもネクロや母が茶会に呼ばれる時に供をしている。今更だ。

 アスールのため息がさらに深くなる。
 保護したつもりでいたが、果たして我が家は彼女にとって良い環境なのだろうか。

 ***