ある日の昼過ぎ、フェリシアは二階の自室で窓際のイスに座っていた。友人から借りた小説でも読もうと思ったが、乗り気になれなくて、膝の上に広げたまま1ページも進んでいない。
窓の下の通りを、フェリシアとそう年の変わらない少女達が、きゃいきゃいと声をあげて過ぎて行く。おそらく定期市に行くのだろう。4ヶ月に一度、遠くの街の商人達が、街の中心部にある大きな広場で店を開くのだ。今日は、その日だ。
他所の街のものはもちろん、異国のものも並ぶので、男性も女性も、大人も子供も毎回楽しみにしている。フェリシアもその一人だった。
両親に連れて行ってもらうこともあったが、リチャードと一緒に行くことの方が圧倒的に多かった。冬の市は彼の誕生日が近いから、一人でプレゼントを買いに行くこともあった。
今行ったら、そんな思い出に押し潰されて泣いてしまいそうだ。
カーテンを閉めると、本を抱きしめるように膝を立てる。閉じた本の固い表紙に額を押しつけて、目をつぶった。
「フェリシア。」
低く優しい声に、空色の瞳がぱちっと開く。フェリシアは恐る恐る顔を上げて、閉じられたままの戸を見つめた。その先で、とんとんとん、と軽い音が鳴る。
「フェリシア、いないのか?」
「お兄ちゃん……?」
思わず彼女がそう口にすると、ほっとしたように扉の向こうの気配が和らいだ。
「入るぞ。」
「……うん。」
フェリシアは足を床に下ろすと、まくれたスカートをささっと手で戻した。また沈んでいたことを気取られぬよう、本の適当なページを開く。しかし、
「こんな暗い部屋で読んでいたのか? 目が悪くなる。」
「あ。」
扉を開けたリチャードが不思議そうな顔をする。今日は仕事ではないのか、紺のジャケットは着ておらず、シャツとズボンのラフな格好をしている。
彼の言葉に、フェリシアは閉めてしまったカーテンに気がついた。気をつけるんだぞ、と付け足してから、リチャードは薄く笑みを浮かべた。
「天気も良いし、定期市に行かないか?」
カーテンを開けるか開けまいか、悩みながらその端を握りしめていたフェリシアは、えっと軽く口を開けたまま動きを止めた。
今回も、一緒に行って良いのだろうか。自分が、一緒に。
いつもなら元気良くうなずくイトコが、口を閉ざしたままだからだろう、リチャードが僅かに眉を寄せた。
「もしかして、他に約束があるのか?」
「ち、違うよっ。」
フェリシアは慌てて首を横に振った。結わえた髪が左右に揺れる。
「そうか。なら行こう。」
大きな手が、フェリシアの手からさっと本を引き抜いた。机の上に置いて、改めてフェリシアの手をつかむ。ぐいと引いて、部屋から連れ出した。
***
いくつもの露店が並んで道を作る。広場はまるで一つの街のように、迷路のようになっている。人も店すらも広場からあふれている。
息苦しくなる程の人混みの中、はぐれないようにと、リチャードの手はフェリシアの手を捕まえたままだ。
カラフルな織物で出来た露店の屋根。鈴生りに飾られたアクセサリー。宝石のような飴細工。カーテンのように店を囲う華やかな衣服。ごちそう。お菓子。知らない果物。読めない題字の本。怪物を模した奇妙な置物。鮮やかな色彩の小鳥。
定期市の広場は、いつもとは違う世界だ。まるで夢の世界が広がっているようで、外の世界が詰まっているようで、小さい頃から来る度にわくわくした。どきどきした。いつもいつもリチャードの手を引っぱって、あれは何、これが欲しい、きゃいきゃい騒いで連れ回した。
けれど、今のフェリシアはただリチャードについて歩くだけで、世界は視界からも意識からも流れていく。
すれ違った女性が、リチャードに声をかけた。ただの挨拶だけれど。
いつもなら焼き餅を焼いて、ぷくりぷくりとほほが膨れる所だが、今日のフェリシアの心はしおしおと萎んでいった。このまま、手まで細く萎んで、するりとリチャードの手から抜けてしまえば良いのに。そんなことまで考える。反対に、不安は悲しい言葉でぱんぱんに膨らんでいた。
リチャードが足を止めた。ぶつかりそうになって、フェリシアも止まる。顔を上げると、振り返った藍色がじっと自分を見下ろしていた。
「疲れたか?」
「ううん。平気。」
立ち止まったのはリチャードの方なのに、急にどうしたのだろう。こちらからも、じっと彼を見上げていると、リチャードがそっと眉を下げた。
「気晴らしになるかと思ったんだが、余計顔色が悪くなったみたいだ。ごめんな。体調が良くないなら、こんな人の多い所に連れて来るべきじゃなかった。」
フェリシアの手が強張る。
そうだ。ここ最近、リチャードは自分の体調を気にかけてくれていた。このお出掛けも、その一つだったんだ。
心配をかけてしまったことが、心苦しかった。リチャードは悪くないのに、謝らせてしまったことが申し訳なくて、フェリシアはうつむく。握られた手に視線が落ちる。
もういっそ、ここで終わらせてしまおうか。この手を放してしまおうか。
「あのね……」
「あれっ? 何してんすか先輩。」
意を決して口を開いたフェリシアの声を、知らない男性の声が遮った。
駆け寄ってきたのは、茶髪の青年だ。リチャードより一つ二つ年下なのか、明るい笑顔と弾んだ口調がどこか幼い。後ろからもさらに青年が二人やって来た。彼らが着ている紺のジャケットは、いつもリチャードが着ているものと同じだ。後から来た片方が、フェリシアに向けてひらひらと手を振る。よくパン屋にも来てくれる、リチャードの友人だ。
フェリシアは、イトコの陰に隠れながら小さく頭を下げた。
「お前、何で私服なの? さっきまでパトロールしてたよな?」
一般人に紛れてしまうリチャードの格好に、青年達が首をかしげる。リチャードがうなずいた。
「ああ。今日の午後は休みを取った。」
「そうなんだ。俺は明日休みー。」
「えー。いいなぁ。」
フェリシアごとリチャードを囲んで、青年達がわいわい話し始める。最初に声をかけた一人が、リチャードにしがみついて隠れていたフェリシアに目を留めた。
「先輩、妹さんっすか?」
かわいいっすね、と笑った彼の言葉に、フェリシアはビクリと肩を跳ねさせた。シャツを摘む指先に力がこもる。
やっぱり。自分は妹分でしかないのだ。妹にしか見えないのだ。
彼に、相応しくないのだ。
「いや、」
緩くリチャードが首を横に振る。腕をフェリシアの背に回して、肩を抱いた。
「婚約者だ。」
きっぱりと、彼は確かにそう言った。にじんでいた涙が引っ込む。
最初の青年が目を丸くしてフェリシアを見下ろす。もう一人の青年の目がぱっとこちらに向く。その後ろで、リチャードの友人が口を一文字に引き結んでいる。
妙に間が開いた後、突如青年二人が声をあげた。
「じゃあ、この子がフェリシアちゃんっ!?」
「えぇっ? 先輩、年下っつっても、限度があるっしょっ?」
「叔母さんに許可はもらっている。」
ぎゃいぎゃい騒ぎ声が大きくなる。リチャードは少し眉を寄せて、フェリシアの頭をぽふぽふなでた。
急に活性化した青年らと、そのきっかけとなった彼の言葉を上手く処理出来ない。フェリシアはきょとんとほうけたまま、頭に与えられる軽い衝撃を受け止めていた。
リチャードの友人が、耐えかねたようにぶふぅっと息を吹いた。
「二人とも驚きすぎっ。俺、かなり年下だっつったじゃん。」
「いやぁ、聞いたっすけど……。」
フェリシアは、まだ笑っている青年を見上げた。口元を押さえて、肩を揺らしている。
「あの……?」
ようやく声が出せたが、フェリシアは続ける言葉が思いつけなかった。青年が目尻にたまった涙を指で拭う。
「フェルちゃん、フェルちゃん。良いこと教えてあげようか。リックはさ、毎日毎日俺らに君の話をするんだよ。」
愛されてるね。相変わらず。
パトロールの途中だからと、青年達は去って行った。騒ぐだけ騒いで、はいさようならとあっさりいなくなるなんて、まるで嵐のようだ。解放された二人は、彼らが消えた人の壁を眺めたまま、しばらく立ち尽くしていた。
とんとんっと、フェリシアの肩がたたかれる。
「フェリシア、そろそろ行こう。この先に、いつもの菓子がある。」
「あ、うん。」
リチャードの大きな手が差し出される。フェリシアがその手を取ると、確かに握り返された。すいっと手を引かれる。
「あ、あのね、お兄ちゃん。」
「うん?」
「あの、あのね……。」
勇気を出そうと思った。けれど怖くて、フェリシアの視線は足下の敷きレンガへと落ちる。ぎゅうっと握る手に力を込めた。
「私、お兄ちゃんのお嫁さんになって、良いの……?」
ぴたり。再びリチャードの足が止まる。
「……俺のこと、嫌いになったのか?」
「好きだよっ!」
ほほがかっと熱くなって、考えるより先に言葉が飛び出した。
「私、お兄ちゃんのこと大好きだよ! でも、でもね、お兄ちゃんは……、私、お兄ちゃんが私のこと、どう思ってるのか……知らないよ……。」
話しているうちに段々気分が沈んできて、声も弱々しく消えていった。
リチャードが不思議そうに首をかしげる。
「好きだから、結婚するんだろう?」
あっさりとした彼の言葉に、フェリシアの中でぐるぐる回っていたものがぷしゅりと抜けた。
風船に穴が開いたように、膨らんでいた不安が、悲しみが、みるみる萎んでいく。フェリシアはほっとして、そのあまり泣きそうになった。それを耐えた変な顔で笑う。
リチャードはフェリシアの頭をなでて、苦笑をこぼした。
「ただ、叔父さんは二十歳になるまでダメだって。だから、10年経ったらって約束は守れないかも知れない。ごめんな。」
「う、ううんっ! それは、お兄ちゃんのせいじゃないよ!」
フェリシアはブンブンと勢いよく首を横に振った。
良かった。
ただただ、その言葉だけがフェリシアの頭を埋め尽くしていた。
良かった。この人を諦めないでいられる。
良かった。これからもこの人の隣にいられる。
リチャードの胸に額を押しつけて抱きつく。甘えるようにぐりぐりと擦り付けた。
大好きな人は、ちゃんと自分を選んでくれていた。
END