赤いレンガを積み重ねて出来た、国境近くの街。商いに、荷運びなどの力仕事、働く大人が店の並ぶ通りを行ったり来たり。大人の間を、きゃらきゃら笑って子供達が走り抜けて行く。
少女は一人、にぎやかなこの日常をぼんやりと眺めていた。通りに面する店の中で、カウンター横のイスに腰掛けて。
年の頃は14歳程で、空色の大きな瞳と丸みのあるほほに幼さが残っている。長い栗色の髪を三つ編みにして、二本背中に垂らしていた。
店の中には、焼けた小麦粉と甘いバターの香ばしい匂いが漂っている。少女はゆっくりと首を回すと、通りから店内へと視線を移した。ピーク時を過ぎて、棚に並ぶ品物は少なくなっていた。
今いる客は一組だけ。年の離れた兄妹だ。兄の腰にしがみついた妹が、真剣な眼差しで黒いマフィンと赤いマフィンをじぃっとにらんでいる。兄の方は急かすこともなく、緩く笑みを浮かべながら妹のつむじを見守っている。
栗色の少女は、その様子をじっと眺めていた。けれど、彼女に見えているのは二人ではなく、二人に重ねた在りし日の自分達だ。
まだ、世の中のことが全く見えていなかったあの頃。「家族」という狭い世界のことすら、自分は正確に見えていなかったかも知れない。ただただ、大好きな彼の言葉を全て真実だと信じていた。彼は自分の望みを叶えてくれると、何一つ疑っていなかった。
あの日の約束は必ず果たされるものなのだと、つい最近まで彼女は信じていた。
***
とても仲の良い姉妹がいた。
小さくてかわいい妹が大事で、姉はいつも妹の手を引いていた。優しくてかっこいい姉が大好きで、妹はいつも姉の後をついて回った。
いつも妹を守っていた姉は、街のみんなを守ってくれる憲兵の一人と結婚した。いつも姉に菓子を焼いていた妹は、街一番のパンを焼く青年と結婚した。
姉夫婦には息子が生まれた。顔立ちは母に似ていたが、父に似て寡黙な少年だった。彼が10歳の時、妹夫婦に娘が生まれた。
少女、フェリシアは、かつて母がそうだったように、イトコのリチャードの後ろをヒヨコのように追いかけた。
フェリシアが5歳、リチャードが15歳の頃、その光景はすっかり近所の日常となっていて、リチャードは同年代の少年達に「カルガモ兄」などと呼ばれていた。幼いイトコのことを好ましく思っていたからなのか、リチャードはそれを大して気にした様子もなく、そのまま呼ばせていた。
「おにいちゃんっおにいちゃんっ。」
フェリシアが8歳になる少し前、家に伯母一家を招いた夜のことだった。夕食後、ダイニングで寛いでいたリチャードにフェリシアが抱きついた。
ここまではいつも通りのことである。
リチャードに手伝ってもらって、彼の膝によじ登ると、フェリシアは空色の瞳をきらきらと輝かせて宣言した。
「あのね、わたしね、おおきくなったら、おにいちゃんの およめさんになる!」
片付けをしていた父の手から、重ねていた皿が滑り落ちた。床すれすれで伯父が受け止めたため、被害は出ずに済む。母と伯母は顔を見合わせてから、けらけらと笑い出した。
「そうね、リック君になら安心してフェルを任せられるわ。」
「良かったわね、リック。フェルちゃん、絶対に料理上手になるわよ。」
硬直したままの父の手に皿を返しながら、伯父もふむっとうなずいた。
「リック。フェルちゃんを幸せにするんだぞ。」
幼さ故、家族愛と恋愛感情をごっちゃにしているのだろう。いや、「好きの区別」すらまだないだろう。母二人は、幼子の拙いプロポーズが微笑ましくて、ただただ笑い続けた。
なぜ笑われているのかが分からず、フェリシアは不思議そうに首をかしげた。そんなイトコを見つめて、リチャードはじっと黙り込んでいた。
やがて、「そうだな……」とつぶやいた。フェリシアの顔をのぞき込んで、藍色の瞳を緩める。
「10年経っても、フェルが俺を好きだったら、結婚しよう。」
「やったぁっ!」
空色の瞳が先程の比でないくらい輝く。まあるいほほが喜びで色づく。フェリシアはリチャードの首に抱きつくと、きゃっきゃっと跳ねた。大きな手が応えて、小さな背をぽんぽんとたたく。
その様子を見て、伯母は急に笑いを引っ込めた。母に耳打ちする。
「い、良いの?」
「大丈夫よ。リック君もフェルに合わせてくれてるだけでしょ? ま、私はリック君なら、全然問題ないけどね。」
ふふふっと母はうれしそうに笑う。父は皿を投げ出さん勢いで叫んだ。
「問題大ありに決まってんだろ! リックはもう、フェルのことフェルって呼ぶの禁止!」
「あらまあ、横暴ねー。」
「おにいちゃんっだいすきっ!」
何かにつけてフェリシアがそう告げると、リチャードは優しい藍色の目を細めて微笑み、フェリシアの頭をなでてくれた。リチャードから愛をささやかれたことは一度もない。けれど、フェリシアの「大好き」をリチャードはいつも受け止めてくれた。
だから、フェリシアはリチャードも自分を好いてくれていると、欠片も疑っていなかった。大人になったら、いつか母のように白いふわふわのドレスを着て、ミカンの花で髪を飾って、リチャードの隣に立つのだ。そう、ずっとずっと信じていた。
***
「フェリシア。」
低く優しい声に、はっと我に返る。
バターと小麦の香り。フェリシアは、カウンター横のイスに腰掛けて、ぼうっと自分の靴へ視線を落としていた。外を見ると日が傾き始めていた。あの兄妹を見送ってから、もう随分と時が経ってしまっている。
戸口に、背の高い青年が一人立っていた。黒い髪を短く切りそろえた、20代半ばの青年である。憲兵の制服である紺色のジャケットをきっちりと着ていた。
彼は心配をその藍色の瞳に乗せて、再度彼女の名を呼んだ。
「フェリシア?」
「あ。……いらっしゃい、お兄ちゃん。」
フェリシアは慌てて立ち上がると、にこっと笑った。カウンター裏から紙袋を一つ取り出して、トングを持つ。彼、リチャードが気に入ってる、ナッツたっぷりのパンを入れる。それから、ツヤツヤのロールパンも。
「今日も、まだお仕事?」
「いや、夜勤は昨日で終わった。もう帰るところだ。」
「じゃあ、伯母さんと伯父さんの分もいるのかな。」
「ああ、頼む。」
伯母が好きなふわふわ甘いパンと、伯父の好きなサクサク軽いパンも詰める。棚を行き来するフェリシアを、店の中程に立ってリチャードが眺めていた。
フェリシアは袋を閉じると、それを渡そうと彼に近づいた。大きな手がさっと降りてきて、フェリシアの額を包む。
「……熱はないみたいだな。」
「……私、もう小さい子じゃないよ。」
子供扱いされたようで、フェリシアはぷうっとほほを膨らませた。それを気にせず、リチャードはピタピタと桃色のほほに触れる。
「気分が悪くなったら、すぐ叔父さん達に言うんだ。疲れたら無理はするな。」
「さっきは考え事してただけだよ。大丈夫。」
えいっと、フェリシアはリチャードの胸元に紙袋を押しつけた。リチャードはそれを片手で受け取り、コインをフェリシアの手に握らせる。
「あのね、今日のロールパン、私が焼いたんだ。」
「そうか。楽しみだ。」
優しく目を細めて、彼は笑った。ぽふぽふとフェリシアの頭をなでて言ってしまう。フェリシアはなでられた頭を押さえたまま、じっと彼を見送った。
フェリシアはリチャードが大好きだ。それは今も昔も変わらない。けれど、彼との未来を無邪気に信じることはもう出来なかった。
***
巡回中や買い物中のリチャードが、彼と同じ年頃の女性と共にいる様子を小さい頃からよく見てきた。フェリシアが隣にいるのに、付いてこようとする女性もいた。
彼女達は頑なにフェリシアを「妹ちゃん」と呼び、フェリシアは不機嫌に膨れてはリチャードを困らせた。それでも、まだフェリシアは自分がリチャードの恋人だと信じていた。
不安に、ならなかった訳ではない。
きらきらの金髪や、つやつやの黒髪を見ては、鏡の前、自分の栗色の髪と比べてしょぼくれた。鼻筋の通った美しい人を見ては、自分の丸い顔と低い鼻と比べて肩を落とした。豊満な体つきの女性を見ては、自分の凹凸の少ない体を見下ろして涙目になった。
頭の中で彼女達に負ける度、自分はあまりリチャードに相応しくないように思えた。
それでも、リチャードはいつもフェリシアを優先してくれた。フェリシアと一緒にいる時は、連れがいるからと彼女達の同行を断ってくれた。街中でフェリシアを見かければ、傍に誰がいても自分の下に駆け寄ってくれた。
だから、だからだからだから、リチャードの恋人は自分のはずなのだ。
***