石作りの家々が並んだスロープ状の道を、小さな影が転がって行った。
白いシャツに焦げ茶色のズボンとチョッキ、上からすっぽりと覆う色あせた緋色のマント。6歳かそこらであろう少年は、マントを翻して脇目も振らず駆けて行く。ずれたフードからこぼれた金の髪を見て、擦れ違う人々は苦笑をもらす。
やがて、針と糸巻き、ハサミを模した飴色の看板が視界に入ると、少年は翡翠の瞳を輝かせた。その店の横に曲がり、裏へと回る。
あまり陽当たりが良いとは言えぬその場所では、木と立てた棒の間に張ったロープに、少女がぬれた衣服を掛けていた。長く黒い髪を緩く束ねて、ベージュのブラウスと茶色のスカートの上からエプロンを着けている。16歳ほどだ。
腰を屈めて、足下の籠からシーツを引っ張り出す。ふんふんと機嫌良さそうに歌を口ずさみながらロープへと延び上がる、彼女のスカートに少年は思い切り飛びついた。
「フィナーっ。」
「きゃあっ?」
驚きに飛び上がった少女は、シーツを取り落としてしまった。バサッと地面を覆うそれを慌てて拾いつつ、振り返る。緋色の下からのぞく大きな丸い目に見つめ返されて、眉をひそめる。
「ダメですよ。また、こんな所にいらっしゃって……。」
「フィナー。あそぼ、あそぼ。」
「……聞いてませんね。」
きゃっきゃっとうれしそうにエプロンを引っ張る少年に、フィナと呼ばれた少女、フィラアナはため息をついた。
「もう……。今頃、皆さんが心配してますよ?」
「だいじょーぶっ。もうみんな、ボクがフィナのとこにきてるって、しってるからっ。」
「そういう問題じゃないですよ……。」
ため息を深くしてほほを押さえるフィラアナから離れて、少年が籠をのぞき込んだ。
「これ、そこにかけるの? ボクもやるー。」
「やらなくて良いですから、大人しくなさってて下さい。お茶お入れしますよ、お菓子召し上がりますか?」
「おかし、なにっ?」
ぱっとフィラアナを見上げて翡翠が輝いた。裏口に向かう彼女に、慌ててついて来る。
「カップケーキですよ。さっき焼いたんです。」
「わぁーいっ。」
少年はぴょんぴょん跳ねた。踊るような足取りで家の中へと飛び込む。
ダイニングに入るなり、ひょいっと椅子に乗り上がった。フィラアナが目の前に菓子を置いてやると、まだ紅茶も入っていないのに、小さな手でつかんでかぶりつく。丸いほほがケーキをほお張ってさらに丸くなった。少年は、機嫌良くぱたぱたと両脚を振る。
「んー、おいしーっ。フィナは りょうり じょうずだよねー。」
「そりゃどうも。」
「やさしーし、はたらきものだしー、いい およめさんになるよねー。」
うたうのに合わせて、少年は右、左、右と体をかしげる。
「はあ。」
また始まった。
そう思いながら、フィラアナは相づちを打つ。
「ねーねー、ボクのおよめさんになってよ。」
本日三度目のため息をつく。
「ですから、無理ですってば。」
***
フィラアナは、国境近くの城下町に住む仕立屋の娘だ。決して裕福ではないけれど、父も母も働き者で、一家は幸せに暮らしている。
フィラアナは父を尊敬していて、仕事を手伝いながら自身も仕立屋を目指していた。
その日、フィラアナは買い物に出ていた。伯父が営む薬局に寄ってから、父に頼まれたお使いのため市場へと向かった。さて目的の店はどこだろう、と視線を適当に投げた先、小さな子供がうずくまっているのを見つけた。にぎわう露店から離れた建物の影で、深緑の布を頭から被っている。
衣服から素直に判断するなら、男の子だ。脚を抱える手や、ちらりとのぞくほほが雪のように白い。見れば被っているジャケットも、転んだのか汚れてしまっているズボンも、華美な細工こそないが上質なものだ。放って置けば、良からぬ者に目をつけられるかもしれない。
フィラアナは巡回しているはずの憲兵を求めて、きょろりと辺りを見た。運の悪いことに、人混みの向こうへと見慣れた制服が遠ざかって行くのを見つける。何か事件が起こっている訳でもないので、声を張り上げる勇気が出ない。追いかけるべきか悩んで、あの小さな子を一人にする方が怖いと、子供の方へ駆け寄った。
「どうしたの? どこか痛いの?」
声をかけると、深緑越しに小さな頭が跳ねた。戸惑うように間を置いてから、少年がこくっとうなずいた。
「どこが?」
「……あし。」
返された声はか細くて、雑踏にかき消えてしまいそうだ。フィラアナは少年を抱き上げるようにして立たせると、側の木箱に座らせた。しゃがみこんで、指さされた右足の靴を脱がせる。白い足首が腫れていた。
「捻挫だね。……確か、」
フィラアナは自身の足下に放っていた編み籠を振り返った。そそっかしい母を心配して伯母が持たせてくれた物の中にあれがあった、はずだ。大した物の入っていない籠の中、目当ての物はすぐに見つかった。
小さな瓶とハンカチを取り出すと、髪を束ねていたリボンを解く。瓶の中の緑色のペーストをハンカチに塗りたくる。少年の足首にハンカチを当てると、リボンでくるくるっと固定した。
ふうっと息をついて、フィラアナが顔を上げると、大きな瞳がこちらを見つめていた。透き通った緑に涙の膜が張っていて、宝石のようにきらめている。えっと、と口ごもって、フィラアナはリボンの上から足首をなでた。
「痛いの痛いの、飛んでけーっ。」
翡翠の瞳が瞬いた。その拍子に、張っていた膜が雫になってこぼれた。じぃっと見下ろしたまま反応を寄越さない相手に、フィラアナは恥ずかしげに笑う。
「ズボン、破けてるね。直してあげようか?」
「……できるの?」
「服屋さんの娘だもの。」
編み籠を引き寄せて、今度は革製の丸いケースを取り出す。そこから針と糸を取る。チクチクとズボンの裾を縫いながら、フィラアナは少年に問いかけた。
「どこから来たの? 一人で帰れる?」
「……おこられるから、かえりたくない。」
「どうして怒られるの?」
「かってに そとでて、ふく やぶいたから。」
こんな小さな子が突然いなくなっているなんて、気がついた両親は胸がつぶれるような思いをしているかもしれない。
「服なら私が直してあげる。お家に帰ろう? ご両親が心配してるよ。私もついて行ってあげるから。」
「……ほんと?」
翡翠がすがるように見つめてくる。フィラアナは微笑んでうなずいた。
「うん。本当。」
針をケースへ、ケースを籠へとしまって立ち上がる。少年へ両腕を差し出した。
「さあ、お家はどこ?」
もし迷子なら、今度こそ憲兵を探さなくては。
少年はフィラアナの腕を支えに道へ出ると、ぐっと空を見上げた。積まれたレンガに縁取られたその向こう、町一番高い場所に建てられた塔を小さな指が示す。
「あっち。」
「うん。」
城を挟んで反対側は、そこそこ身分の高い人が住んでいる。やっぱり良い所の子だ。
「ボク、おしろからきたの。」
「……うん?」
耳に届いた言葉を上手く処理できなくて、フィラアナは首をかしげた。
***
あれから約半年経ったが、今も領主様の末息子は、小さな仕立屋に週四回のペースで通っている。
そして、町娘Aとでもいうべき取るに足りない少女に、ほぼ毎回のように結婚を迫っていた。仕事を奪われるのかと、領主様御用達の仕立屋がフィラアナの父をにらんだり、城と仕立屋をつなぐ道の警備が厳しくなったりしたが、一家の生活に特に変化はない。町の誰もが、好奇心旺盛な子供を微笑ましく見守っている。
フィラアナも、小さな子供の言うことだと、本気にはしていない。
一年前、彼の一番上の兄がそれは美しい花嫁をもらったものだから、結婚というものに興味が湧いているのだろう。加えて、庶民の娘がもの珍しいに違いない。
紅茶も菓子も食べ終えたのか、裏庭で洗濯物干しを再開させていたフィラアナの傍へ、少年が寄ってくる。翡翠の瞳が、下から顔をのぞき込んでくる。
「ミブンのことなら、きにしなくていいよ。父さまも母さまも、兄さまたちだって、フィナがいいこだって、しってるもん。きっと、みとめてくださるよ。」
黙って仕事を続けるフィラアナを、とてとてと追いかけてくる。
「あのね、ボク、フレード兄さまのちいさいころに、そっくりなんだって。フィナもしってるよね、にばんめの兄さま。だから、だいじょーぶだよ。ボクもすぐ、兄さまみたいな、おっきくて、かっこいい、トノガタになるんだから。」
「そうは言っても、」
空っぽになった籠を持ち上げて、フィラアナはようやく口を開く。
「どんなに早く大きくなっても、大人じゃないと結婚は出来ませんよ。私もまだ成人じゃありませんし、クリス様もあと12回も誕生日が来ないと結婚できないんです。12回ですよ、12回。」
少年にとって、これまでの人生の二倍もの月日だ。気が遠くなるだろう。そう思ったのに、少年は丸いほほを膨らませてにらんできた。
「わかってるよ、そんなのっ。」
今にも泣き出しそうに、翡翠が潤む。
「そうだよ。ボクはフィナより、10ねんもかかるんだ。その間に、ほかのひとがフィナとけっこん しちゃうかもしれないじゃない。2ねんたってすぐ、フィナはおよめに いっちゃうかもしれないじゃない。」
ぽろぽろと雫が落ちる。腫れたように真っ赤になったほほがぬれていく。
「だから、いま、やくそくしなくちゃ だめなんだ。」
しゃくりあげるのを堪えて、声が震えていた。気がつかれないように、フィラアナはこっそりとため息をつく。
「分かりました。約束しましょう。」
しゃがみこむと籠を脇へと退けた。丸いほほを両手で包み込んで、親指で涙を拭う。
「クリス様がフレルナード様みたいな、大きくて格好いい男の人になっても、成人して立派な大人になっても、それでも、私が必要だと仰るなら、結婚いたしましょう。」
「……ほんとっ?」
ぱあっと翡翠の瞳が輝く。フィラアナは微笑んだ。
「はい。本当です。」
「じゃあ、ほかのひとと、けっこんしない?」
「しません。」
「じゃあじゃあ、じゃあ、やくそくだよっ。」
丸いほほが今度は喜びで色付く。小さな体がぴょんっと胸元に飛び込んできた。受け止めて、フィラアナは金色の柔らかい髪をなでてやった。
***
それからもしばらく、少年は変わらず仕立屋に訪れた。
向こうの仕立屋は今もプリプリ怒っているが、誰がどう言っても少年はめげないし、あの翡翠の瞳に見つめられると一家は強く追い返すことが出来なかった。仕方ないと諦めてから、フィラアナはせっせと菓子を焼くようになった。
台所でクッキー生地を練っていると、通りがかった母がふふっと笑った。
「ドレスを縫っている時くらい熱心ね。」
フィラアナはきゅっと眉を寄せて振り返った。
「そんなことないけど……。貴族のお坊ちゃんがいらっしゃるんだから、ちゃんとおもてなししないとダメでしょう。」
「そうねー。」
母のにこにことした笑みは、娘にはにやにやとからかい混じりのものに見える。
「……何。」
「通りのお菓子屋さんで買ってきた方が見栄えも良いし、楽なんじゃないかしら。」
「家にそんなぜいたくする余裕はないでしょ。いじわる言うんなら、母さんにはあげないから。」
「あらあら、ごめんごめん。」
「もうっ。」
丁度クッキーが焼けた頃、少年はやってきた。
小さな鼻をひくひくさせて、ぱっと顔を輝かせる。期待に満ちた翡翠がフィラアナを見上げた。思わず苦笑がもれる。
「お茶にしましょうか?」
「うん!」
小さな金色がダイニングを走り、ぴょんと椅子に飛び乗る。
お茶会にお菓子もないなんてかわいそうだとか、きらきらした大きな目がかわいいだとか、そう思ってしまうのだから、もう仕方がないのだ。
***
彼が大きくなるに連れて、来訪の間隔は空いていった。
8歳には週二回。10歳には週一回。
決まって金曜日に来るようになったので、毎日お菓子を用意しておく必要はなくなった。母の腹回りも安泰である。
父に仕立てを、母に家事を習ったフィラアナに、貴族の子息に必要なものなんて想像も出来ないけれど、きっと他の子よりも習うべきことが沢山あるのだろう。きっと、やるべきことが沢山あるのだろう。
あの子は下町に迷い込んだだけ。こうやって少しずつ元の世界に帰って行くのだ。
***
目の端で緑色がキラリと光った。
もう用事も済んでいて、市場を通り抜けるつもりだったのに。その光に引き寄せられて、思わず足を止めてしまう。露店のおじさんが振り返った視線に気がついて、にかりと笑った。骨太の指がフィラアナを招く。紙袋を抱え直して、店に近づいた。
深紅のじゅうたんの上に並べられた木製ケースには、きらきらと色とりどりの光が詰まっている。指輪の赤は、夕陽の色。ペンダントの青は、晴れた空の色。
瞳に似ていると、おじさんはブローチを見せてくれたけれど、フィラアナが手に取ったのは一組のカフスボタンだった。褐色のシンプルな台に、木漏れ陽色の石がはまっている。
買えないだろうと思って聞いた値段は、手の届くもので、フィラアナは目を丸くした。
「こういう石が沢山採れる国があってね。このサイズだとこんなものさ。」
「へー。こんなに奇麗なのに。」
フィラアナはじっと手元を見つめた。どうしよう。手の中のきらめきが手放しがたい。
これくらい。うん、これくらいなら、良いかな。父と母に面白いものがあったと報告になるし。
「フィラアナ?」
おじさんにお金を払っていると、後ろから顔をのぞき込まれた。驚きに肩を揺らして距離をとる。相手は見知った青年だった。
近所のパン屋の次男坊で、小さい頃に一緒に走り回った遊び仲間の一人だ。
「よう。それ、どうすんだ? おじさんにか?」
「ううん。ちょっと参考にね。」
「ふーん?」
青年の視線から隠すように、フィラアナはカフスボタンを紙袋にさっとしまった。知り合いに見られたことが何となく気恥ずかしい。
「なら、さっき細工物の店があったぞ。一緒に行くか?」
「ううん。お使いの途中だから、もう帰らなきゃ。」
「別に、ちょっと寄るくらいなら問題ないだろ。子供じゃあるまいし。」
青年がむっと眉を寄せた。フィラアナは笑ったが、眉が八の字になる。
「でも、今日は金曜日だから。また今度ね。」
怒らせたくなんてないのに、青年の顔はさらにしかめられる。
「また今度、また今度って、お前の予定はいつになったら空くんだよ。」
苛立ちの混じった声に、フィラアナは困ったように笑みを深くする。
その時、二人と歳の変わらぬ男の声が、遠くから青年を呼んだ。ついっと青年が振り向いた隙に、フィラアナは市場の人波をくぐった。呼ぶ声が背中にかかる。
青年の隣に並んだのは友人の一人だった。そちらもフィラアナを呼ぶ。
二人へ手を振りつつも、フィラアナは立ち止まらなかった。そのまま道へと抜けて、家へと急いだ。
***
「フィナー。」
火曜日の午後。
一階の作業場でジャケットの飾りを縫い付けていたフィラアナは、店裏から聞こえた声に驚いて手を止めた。ジャケットを作業台に預け、廊下へ駆ける。ダイニングを通って勝手口を出ると、緋色の塊が飛びついてきた。
被っていたフードが脱げて、パサリと肩に掛かる。ふわふわした金色が露わになった。少年が、ぎゅうっとフィラアナの腰に抱きついて、腹に顔をうずめた。
抱きつかれることは珍しくない。しかし、いつもの彼なら顔を上げて笑みを見せてくれるのに。
「クリス様、どうされたんですか?」
金色のつむじに呼びかけても、しがみつく腕の力が強くなるだけで、返答はない。フィラアナは首を傾けて、彼の顔をのぞき込んだ。
エプロンに埋もれて表情は見えない。ほほが、いつもより赤い気がした。
「クリス様?」
もう一度呼ぶと、たっぷり間を開けてからくぐもった声がこぼれてきた。
「……何でもない。」
幼い声には不満がにじんでいる。何でもないというのなら、その膨れたほほには何が詰まっているのやら。
フィラアナはため息をかみ殺した。小さな背をぽんぽんとたたく。
「そろそろ休憩にしようと思っていたんです。お茶に付き合ってくれますか?」
「……ミルクティー入れて。」
「はい。」
少年を促して、ダイニングの椅子に座らせる。今日は菓子がないので、クラッカーとリンゴジャムを出すと、パリパリとかじり始めた。フィラアナは鍋にミルクを注ぎ、火にかけた。
話を聞くべきなのだろうか。
子供の悩みというものは、本人にとっては明日をも知れぬ大事だったとしても、大人にとっては大したことではなかったりする。もうフィラアナも二十歳であるし、小さな両手に収まらないものを、半分ポケットに預かることくらい出来そうなものだ。
ただ、この王子様の悩みが、町の子供とそう大差ないものであれば、だが。
フィラアナはちらっと背後を振り返った。少年の白いほほにクラッカーが詰め込まれてもごもごと膨らんでいる。そのまま、嫌な気持ちもかみ砕ければ良いのだけれど。
「クリス様、どなたかとケンカでもなさったんですか?」
「……ケンカじゃないし。」
行儀良く、ゴクンと口の中のものを飲み込んでから返された声は、まだ沈んでいる。
誰かとケンカではない何かはあったらしい。ご両親かお兄様方に叱られでもしたのだろうか。
ミルクティーをカップに注いで、少年の前に出す。彼は両手でカップを抱えて、フーフーと息を吹き込んだ。一口飲んで、隣に座ったフィラアナを見上げる。
「今、何つくってるの?」
「私はジャケットを。あと、何着かドレスの直しを任されていますよ。」
「ジャケットってどんなの?」
一口一口、カップを傾けながら少年が質問を繰り返す。自分の方の話をする気はないらしい。フィラアナも、話したくないならと、彼への返答に徹することにした。
クラッカーも二杯目のミルクティーも空になった。両手をまっすぐ突き上げて、少年がぐーっと伸びをする。
「んーっ! よし!」
ぴょこんと椅子を降りて、フィラアナの右手をぐいと引いた。座ったままのフィラアナと少年が向かい合う。こちらの手を、ぎゅっと小さな両手が包んだ。
まっすぐ見つめてくる翡翠の瞳には、いつものきらめきが戻っている。
「フィナ! ボク、がんばる!」
「はい。クリス様。」
フィラアナは微笑んでうなずいておいた。何のことかは分からないが、せっかく戻った輝きを曇らせたくはない。
悩みを聞いてあげることすら出来なかったけれど、それを飲み込む手助けが出来たのなら、良かった。
「じゃあ、また来るね!」
緋色のマントが金色を隠す。大きく手を振って、ぴょこぴょこと走り去って行く。それがレンガの影に見えなくなるまで見送って、フィラアナは店の中に戻った。
***
12歳には月一回。
来訪の前に手紙が来るので、それに合わせてフィラアナは茶菓子を用意する。少年も、お土産だと花を持ってくるようになった。
サイズこそ小さいものの、まるで花嫁のブーケのように華やかなそれを、素材そのままの木製テーブルに飾るのは戸惑われて、ある日からテーブルクロスを用意した。
ザラザラした木目の粗い生成りのクロスだが、角に刺しゅうを施してみた。フィラアナの目にはなかなか立派なお茶会に見える。むしろお茶請けのご家庭マフィンの方が浮いている。
何かの折に、市場で買ったカフスボタンの話を母がしたからだろう、彼は何回か飾りボタンも持ってきてくれた。繊細な細工彫りのものや、キラリとした石がはめ込まれたものを。高価なものは受け取れないので、親子三人でしげしげと眺めてから彼に返した。
***
14歳には半年に一回。
その日、少年は大きな銀ボタンを持ってきた。青い石がはめられていた。いつか見たブローチとは違う、混じりけのない深い青は冬の湖のようだ。
彼は一着のベストをフィラアナに渡した。広げて見ると、少年のものにしてはまだ大きかった。不思議に思って首をかしげると、彼はさっきの銀ボタンを突きつけてきた。
「ここのさ、一番上のボタンをこれにして欲しいんだ。」
「私が付けるんですか?」
彼の衣服は、ご両親と同様にちゃんと向こうの仕立屋に任せているはずだ。今手にしているこれも、フィラアナが普段扱っている物と生地の質が全然違う。困ってベストを見つめていると、少年の大きな目が視界に割り込んできた。
「ね、お願い。フィナに付けて欲しいんだ。」
フィラアナはため息をついた。否と言えない自分にあきれる。
ただ縫い付けただけなのに、彼はいたく喜んで、丈の合わないそれを着て帰って行った。
***
16歳には、彼は仕立屋に来なくなった。
それが自然なことなのだ。ようやく、彼も当たり前のことが分かったのだ。
貴族と下層の町娘など、友達になることすら不自然なこと。
どんなに末っ子に甘い領主様でも、身分違いの結婚などお認めにならないこと。
貴族が結婚するということが、当人だけの問題ではないこと。
貴族の花嫁に必要なものは、働き者であることでも、料理上手であることでもないこと。
兄への憧れと迷子の心細さが産んだ勘違いなんて、恋ですらないこと。
***
帽子に付ける青い薔薇の飾りを縫いながら、フィラアナはため息をつく。ため息をつく度に幸せが逃げるという話が本当なら、フィラアナが逃した幸せはとてもじゃないが数え切れないだろう。
馬鹿なことをしたものだと思う。
今日、パン屋の青年が町を出て行った。
青年は一緒に行こうとフィラアナに言った。フィラアナはただ首を横に振った。
「約束なんて、チビ助はもうとっくに忘れてるだろ。」
「そうね。でも、あと二年だから。」
フィラアナは笑った。青年は悔しそうに顔をゆがめて行ってしまった。
馬鹿なことをしたものだと思う。
約束を守るフリの、フリをしていた。
心のどこかで、町娘は王子様のお迎えを待っていた。来る訳がないと知りながら。
どんなに善良でも、どんなに働き者でも、町娘がヒロインになるなんて、おとぎばなしでもない限り無理なのに。ましてやお姫様になるだなんて、魔法使いでも現れない限りかなえられない。
薬屋の娘は、仕立屋に恋をして仕立屋になった。仕立屋の娘だって、パン屋に恋をしたらパン屋になれただろう。けれど、貴族に恋した仕立屋は、一生仕立屋のままだ。
小さなカフスボタンが返す緑の光に、いつか自分を追いかけた、透き通った翡翠を重ねて物語を終える。
***
白いドレスの裾にレースを縫い付け終えて、フィラアナは立ち上がった。これで今日の仕事は終いだ。机の上に散らばった、飾りや道具を片付けていく。
近々、式を挙げる花嫁のためのドレスだった。フィラアナより2歳ほど年下で、小さい頃からよく知っている。金色巻き毛の小柄な娘。恋人が独立するのをずっと待っていた。きっととびきり可愛い花嫁になるだろう。
式の様子を思い浮かべて、フィラアナはほほを緩めた。自然と笑みが浮かぶ。それなのに、箱にハサミをしまって顔を上げた時、ドレスが視界に入ってツキリと胸が痛んだ。
一生、自分は白いドレスを着ることはないだろう。それが、自分の選んだことである。
フィラアナは首を一つ横に振ると、寝る支度をするべく仕事場を出た。新郎の礼服を手掛けていた父は、昼間に宣言していた通り早々に仕事を切り上げて町に繰り出して行ったようだ。寝室に入ると、母がとっくに寝台の一つに山をこさえている。家の中は薄暗く静かだった。
この辺りは静かでも、城の庭園も町の中央広場も大いににぎわっていることだろう。今日は、領主様の末息子の誕生日であるから。今日、彼はようやく成人した。約束の日から12年が経ったのである。
もう、約束を守る必要はないけれど、やはり自分は誰の花嫁にもならないだろう。今もあの瞳が忘れられないから。胸の内にあるこの想いを抱えたまま他の人と歩めるほど、フィラアナは器用な女ではなかった。
物思いに沈んでいると、カタンっと窓の外で何かが揺れた。思わず視線を向けたが、窓の向こうは薄闇が広がるばかりで何も見えない。
「……ネコ?」
引き寄せられるように近づき、窓を開けたフィラアナの手首を、男の大きな手がつかんだ。
***
平和なこの国を象徴するようにいつも穏やかな、その国境近くの城下町は、朝から上下がひっくり返されたみたいな大騒ぎとなっていた。その混乱はもう、隣の町にまで広がっている。
昨晩、成人の儀を兼ねた宴の途中で、主役である領主の息子が行方をくらませたからだ。可愛がっていた末っ子の失踪に、奥方様はショックで倒れてしまったという。
12年の歳月は、何も知らなかった子供に色々なことを教えた。
貴族が町娘に近づくと、色々なゆがみが起こること。
どんなに末っ子に甘いお父様でも、身分違いの結婚を認めてくれないこと。
貴族が結婚するということが、当人だけの問題ではないこと。
貴族の花嫁に求められることは、働き者であることでも、料理上手であることでもないこと。
あの優しい藍色に焦がれる気持ちが、確かに恋だということ。
そして、歳月は非力な子供に色々なものを与えた。
城内ですら迷子になった小さな頭は、憲兵のパトロールルートも国内外の地理も覚えた。
池の飛び石にすら移れなかった短い脚は、家の二階にすら飛び上がれるようになった。
いつもスカートにしがみついていた細い体は、成人女性を抱え上げたまま、追って来る憲兵を振り切れるほどたくましくなった。
城下町に収まっていた幼い世界は、友好国に友人が出来るほど広がった。
12年の歳月は、夢見がちな男に夢を実現させる力を与えた。
***
青空の下、四角い荷台に風避けのほろが張られただけの小さな車を、のんびりのんびりと二頭の馬が引いている。車の半分には木箱と麻袋が積まれている。御者の他には年老いた女が一人と、男女が一組乗っていた。
男女は幾らか歳が離れていた。酔ったのか、青い顔で荷馬車の端で縮こまっている女を、まだどこか幼さの残る男が心配している様子を見て、老女は二人を姉弟だと思った。
青い上着のフードから、女の艶やかな黒髪がこぼれている。目深に被った緋色のフードに隠された男の髪が、それとは似つかない金髪であることなど、老女には分からない。
男との話の中で、老女は息子夫婦の下を訪ねるのだと教えてくれた。孫が産まれるのだと。
女、フィラアナは慣れない揺れの中で、床についた自身の手にじっと視線を落としていた。ここはどこだ。さらわれたはずのフィラアナだけが緊張していた馬車の検問を、男は通行手形を見せてあっさり突破してしまった。何が起きてるんだ。
「フィナ、ずっと下向いてると余計気分悪くなっちゃうよ?」
聞きなれない声が、なじんだ名前を呼ぶ。最後に会った時は不安定だった声は、知らない間に低く落ち着いていた。そろそろと顔を上げると目が合う。透き通った翡翠がきらりと光って、彼が微笑む。丸みがとれてシャープになった白いほほに、ほんのりと赤みが差した。
夢を見てしまいそうだ。
王子様と仕立屋を開く、そんな夢。
END
赤いレンガを積み重ねて出来た、国境近くの街。商いに、荷運びなどの力仕事、働く大人が店の並ぶ通りを行ったり来たり。大人の間を、きゃらきゃら笑って子供達が走り抜けて行く。
少女は一人、にぎやかなこの日常をぼんやりと眺めていた。通りに面する店の中で、カウンター横のイスに腰掛けて。
年の頃は14歳程で、空色の大きな瞳と丸みのあるほほに幼さが残っている。長い栗色の髪を三つ編みにして、二本背中に垂らしていた。
店の中には、焼けた小麦粉と甘いバターの香ばしい匂いが漂っている。少女はゆっくりと首を回すと、通りから店内へと視線を移した。ピーク時を過ぎて、棚に並ぶ品物は少なくなっていた。
今いる客は一組だけ。年の離れた兄妹だ。兄の腰にしがみついた妹が、真剣な眼差しで黒いマフィンと赤いマフィンをじぃっとにらんでいる。兄の方は急かすこともなく、緩く笑みを浮かべながら妹のつむじを見守っている。
栗色の少女は、その様子をじっと眺めていた。けれど、彼女に見えているのは二人ではなく、二人に重ねた在りし日の自分達だ。
まだ、世の中のことが全く見えていなかったあの頃。「家族」という狭い世界のことすら、自分は正確に見えていなかったかも知れない。ただただ、大好きな彼の言葉を全て真実だと信じていた。彼は自分の望みを叶えてくれると、何一つ疑っていなかった。
あの日の約束は必ず果たされるものなのだと、つい最近まで彼女は信じていた。
***
とても仲の良い姉妹がいた。
小さくてかわいい妹が大事で、姉はいつも妹の手を引いていた。優しくてかっこいい姉が大好きで、妹はいつも姉の後をついて回った。
いつも妹を守っていた姉は、街のみんなを守ってくれる憲兵の一人と結婚した。いつも姉に菓子を焼いていた妹は、街一番のパンを焼く青年と結婚した。
姉夫婦には息子が生まれた。顔立ちは母に似ていたが、父に似て寡黙な少年だった。彼が10歳の時、妹夫婦に娘が生まれた。
少女、フェリシアは、かつて母がそうだったように、イトコのリチャードの後ろをヒヨコのように追いかけた。
フェリシアが5歳、リチャードが15歳の頃、その光景はすっかり近所の日常となっていて、リチャードは同年代の少年達に「カルガモ兄」などと呼ばれていた。幼いイトコのことを好ましく思っていたからなのか、リチャードはそれを大して気にした様子もなく、そのまま呼ばせていた。
「おにいちゃんっおにいちゃんっ。」
フェリシアが8歳になる少し前、家に伯母一家を招いた夜のことだった。夕食後、ダイニングで寛いでいたリチャードにフェリシアが抱きついた。
ここまではいつも通りのことである。
リチャードに手伝ってもらって、彼の膝によじ登ると、フェリシアは空色の瞳をきらきらと輝かせて宣言した。
「あのね、わたしね、おおきくなったら、おにいちゃんの およめさんになる!」
片付けをしていた父の手から、重ねていた皿が滑り落ちた。床すれすれで伯父が受け止めたため、被害は出ずに済む。母と伯母は顔を見合わせてから、けらけらと笑い出した。
「そうね、リック君になら安心してフェルを任せられるわ。」
「良かったわね、リック。フェルちゃん、絶対に料理上手になるわよ。」
硬直したままの父の手に皿を返しながら、伯父もふむっとうなずいた。
「リック。フェルちゃんを幸せにするんだぞ。」
幼さ故、家族愛と恋愛感情をごっちゃにしているのだろう。いや、「好きの区別」すらまだないだろう。母二人は、幼子の拙いプロポーズが微笑ましくて、ただただ笑い続けた。
なぜ笑われているのかが分からず、フェリシアは不思議そうに首をかしげた。そんなイトコを見つめて、リチャードはじっと黙り込んでいた。
やがて、「そうだな……」とつぶやいた。フェリシアの顔をのぞき込んで、藍色の瞳を緩める。
「10年経っても、フェルが俺を好きだったら、結婚しよう。」
「やったぁっ!」
空色の瞳が先程の比でないくらい輝く。まあるいほほが喜びで色づく。フェリシアはリチャードの首に抱きつくと、きゃっきゃっと跳ねた。大きな手が応えて、小さな背をぽんぽんとたたく。
その様子を見て、伯母は急に笑いを引っ込めた。母に耳打ちする。
「い、良いの?」
「大丈夫よ。リック君もフェルに合わせてくれてるだけでしょ? ま、私はリック君なら、全然問題ないけどね。」
ふふふっと母はうれしそうに笑う。父は皿を投げ出さん勢いで叫んだ。
「問題大ありに決まってんだろ! リックはもう、フェルのことフェルって呼ぶの禁止!」
「あらまあ、横暴ねー。」
「おにいちゃんっだいすきっ!」
何かにつけてフェリシアがそう告げると、リチャードは優しい藍色の目を細めて微笑み、フェリシアの頭をなでてくれた。リチャードから愛をささやかれたことは一度もない。けれど、フェリシアの「大好き」をリチャードはいつも受け止めてくれた。
だから、フェリシアはリチャードも自分を好いてくれていると、欠片も疑っていなかった。大人になったら、いつか母のように白いふわふわのドレスを着て、ミカンの花で髪を飾って、リチャードの隣に立つのだ。そう、ずっとずっと信じていた。
***
「フェリシア。」
低く優しい声に、はっと我に返る。
バターと小麦の香り。フェリシアは、カウンター横のイスに腰掛けて、ぼうっと自分の靴へ視線を落としていた。外を見ると日が傾き始めていた。あの兄妹を見送ってから、もう随分と時が経ってしまっている。
戸口に、背の高い青年が一人立っていた。黒い髪を短く切りそろえた、20代半ばの青年である。憲兵の制服である紺色のジャケットをきっちりと着ていた。
彼は心配をその藍色の瞳に乗せて、再度彼女の名を呼んだ。
「フェリシア?」
「あ。……いらっしゃい、お兄ちゃん。」
フェリシアは慌てて立ち上がると、にこっと笑った。カウンター裏から紙袋を一つ取り出して、トングを持つ。彼、リチャードが気に入ってる、ナッツたっぷりのパンを入れる。それから、ツヤツヤのロールパンも。
「今日も、まだお仕事?」
「いや、夜勤は昨日で終わった。もう帰るところだ。」
「じゃあ、伯母さんと伯父さんの分もいるのかな。」
「ああ、頼む。」
伯母が好きなふわふわ甘いパンと、伯父の好きなサクサク軽いパンも詰める。棚を行き来するフェリシアを、店の中程に立ってリチャードが眺めていた。
フェリシアは袋を閉じると、それを渡そうと彼に近づいた。大きな手がさっと降りてきて、フェリシアの額を包む。
「……熱はないみたいだな。」
「……私、もう小さい子じゃないよ。」
子供扱いされたようで、フェリシアはぷうっとほほを膨らませた。それを気にせず、リチャードはピタピタと桃色のほほに触れる。
「気分が悪くなったら、すぐ叔父さん達に言うんだ。疲れたら無理はするな。」
「さっきは考え事してただけだよ。大丈夫。」
えいっと、フェリシアはリチャードの胸元に紙袋を押しつけた。リチャードはそれを片手で受け取り、コインをフェリシアの手に握らせる。
「あのね、今日のロールパン、私が焼いたんだ。」
「そうか。楽しみだ。」
優しく目を細めて、彼は笑った。ぽふぽふとフェリシアの頭をなでて言ってしまう。フェリシアはなでられた頭を押さえたまま、じっと彼を見送った。
フェリシアはリチャードが大好きだ。それは今も昔も変わらない。けれど、彼との未来を無邪気に信じることはもう出来なかった。
***
巡回中や買い物中のリチャードが、彼と同じ年頃の女性と共にいる様子を小さい頃からよく見てきた。フェリシアが隣にいるのに、付いてこようとする女性もいた。
彼女達は頑なにフェリシアを「妹ちゃん」と呼び、フェリシアは不機嫌に膨れてはリチャードを困らせた。それでも、まだフェリシアは自分がリチャードの恋人だと信じていた。
不安に、ならなかった訳ではない。
きらきらの金髪や、つやつやの黒髪を見ては、鏡の前、自分の栗色の髪と比べてしょぼくれた。鼻筋の通った美しい人を見ては、自分の丸い顔と低い鼻と比べて肩を落とした。豊満な体つきの女性を見ては、自分の凹凸の少ない体を見下ろして涙目になった。
頭の中で彼女達に負ける度、自分はあまりリチャードに相応しくないように思えた。
それでも、リチャードはいつもフェリシアを優先してくれた。フェリシアと一緒にいる時は、連れがいるからと彼女達の同行を断ってくれた。街中でフェリシアを見かければ、傍に誰がいても自分の下に駆け寄ってくれた。
だから、だからだからだから、リチャードの恋人は自分のはずなのだ。
***
それは一週間前のことだった。
日が傾き始めたのを見て、フェリシアは持ち手のついた籠を一つ取り出した。やわらかい丸パンと新作の豆入りデニッシュを詰めて、店を出た。
ふんふんと鼻歌混じりに通りを進む。商店街を抜けて、騒がしさが遠くなる。家路を急ぐ子供が数人、フェリシアの前を横切った。それに足を止めると、横から声がかかった。
「リックの妹って、貴方?」
女性が一人、立っていた。年は、リチャードと同じくらいに見える。夕日を目映く弾く金髪に、フェリシアより濃い青い瞳で、肌は雪のように白かった。フェリシアはその整った相貌を見つめ、知らない人だな、と思った。
リチャードを愛称で呼んだということは、彼の知り合いなのだろう。
何となく視線を下げて眉を八の字にした。フェリシアの気分は沈んでいく。女性が余程の料理下手か、怠け者でもない限り、勝てる要素が一つもない。
お客さん以外で、知らない人と話すのは苦手だ。でも、話しかけられたからには、無視出来ない。フェリシアはどうにか口を開き、弱々しい声を発した。
「……イトコです。」
「あら。じゃあ、やっぱり貴方でいいのね。」
女性はうれしそうに笑うと、踊るような足取りで距離を詰めた。フリルで膨らんだスカートが揺れる。かがむようにフェリシアの顔をのぞき込んできた。
「貴方なら知ってるわよね? リックの婚約者がどこの誰か。」
「え?」
ぱちり。フェリシアは空色の瞳を大きく見開いた。
婚約者。結婚の約束をしている人。そんなのもちろん、
「私です。」
「はぁ?」
眉間を中心に顔をゆがめて、ひっくり返った疑問符を吐き出す。美人にあるまじき表情と声だ。自分でもいけないと思ったのか、女性はごほんっとせき払いしてすまし顔を取り戻した。相手が落ち着いたのを見て、フェリシアは答えを繰り返す。
「私、お兄ちゃんと結婚の約束しました。」
女性が唇を引き結ぶ。じっとフェリシアを見下ろす目が鋭い。やがて、はぁーっと大きく息を吐き出した。両目を片手で覆って、大げさな動作で空を仰ぐ。
「アホらしい。時間の無駄ね。」
フェリシアはむっと眉を寄せた。ちゃんと答えたのに、なんと失礼な態度だろう。
「私、ちゃんとお兄ちゃんと……っ」
「アンタみたいなちんちくりんと婚約だなんて、そんなはずないでしょう?」
女性がフェリシアの鼻先へビシッと指先を突きつけた。磨かれた爪がきらりと光る。
「いい? 婚約よ、婚約。大人の話をしてるの。ままごとになんて付き合ってらんないわ。」
「ままごと?」
「だってそうでしょう? 愛も恋も分からないようなお子様の空想に付き合ってあげるのは、ごっこ遊びと一緒よ。」
「ごっこ遊びなんかじゃ……」
ない。と、そう訴えようとした。
空想なんかじゃない。自分は本当にリチャードが好きだ。
でも、あれ? そういえば、母はいつもリチャードになんて言っていたっけ?
リチャードに飛びついてはしゃいでいる自分の後ろで、「フェルに付き合ってくれてありがとう。」と、そう言ってなかったっけ?
あれは、この人が言ったのと同じ意味?
女性が背を向ける。
「全くもう。どこにいるのよその女はっ。」
もうフェリシアへの興味を失ったようで、低い声でブツブツつぶやきながら女性は行ってしまう。
フェリシアはぎゅうっと籠を抱きしめた。
***
夕日に照らされる坂をとぼとぼと下って行く。住宅街の端の端までやって来た。並ぶ家々の中で、少し小ぶりな家の前で立ち止まった。緩く握った右手を上げて、ちょっと迷ってから胸元へ引き寄せた。すぅーっと息を吸い、胸が空っぽになるほど吐く。今度こそ、扉をたたく。
「まあまあ、フェルちゃん。いつもありがとうねぇ。」
ノックに応えて、扉が開く。開ききる前に、緩やかな年月でしわがれた優しい声がフェリシアを出迎えた。少々不用心だが、この時間の来客が自分だと決まっていることが何だかくすぐったい。
もう、いつも通りの自分に戻れたと思ったのに。
クルミの殻を思わせる白茶色の髪の老女は、フェリシアの顔を認めると、細いフレームの奥の目を丸くした。
「フェルちゃん? どうしたんだい?」
戸口の外へと進み出る。声と同じ、時の中で硬くなった手が、フェリシアの手を包んだ。
「顔色が悪いよ?」
「えっと……。」
思わず、フェリシアは唇を引き結んだ。首を横に振る。
「何でもないの。ちょっと、考え事があって。」
「考え事? 何か悩みがあるのかい? ばあちゃんで良かったら聞くよ?」
最愛の夫との間に子供がいないからだろうか、彼女は街の子供達に親身だ。ちなみに、彼女にとっての「子供」とは、フェリシアの両親の代も含まれる。フェリシアは微笑んで、彼女へ籠を差し出した。
「ありがと、でも、大丈夫。」
「そうかい? ……そういえば、リック君、結婚するんだってね。フェルちゃん、寂しくなるねぇ。」
彼女としては、明るい方向に話題を振ったつもりだったのだろう。イトコに懐いて回っていたフェリシアをからかって、元気づけたかったのかも知れない。けれど、フェリシアの笑みは凍り付いた。老女が差し出す、先日の籠を受け取ることも出来ない。
「……その話、どこで?」
「え? うちの人が聞いたのよ。屋台で、憲兵さんが話していたんですって。先輩は、口を開くと婚約者さんの話しかしないって。フェルちゃん?」
より青くなったフェリシアの顔色に、老女は自分が話題選びを間違えたことを悟った。どうしたのかと寄ってきた夫に、パンの籠と空っぽの籠を押しつける。先程より強くフェリシアの手を握った。
「大丈夫。大丈夫よ。他に大切な人が出来たって、リック君にとってフェルちゃんが大切な子なことに変わりないんだから。」
ね? と同意を求められた夫は、不思議そうな顔で取りあえずうなずいている。
フェリシアは笑った。二人に心配をかけたくなくて。でも、二人とも変な顔をしているから、上手くいかなかったようだ。老女に至っては泣きそうになっている。
的外れな慰めは、フェリシア以外の人間にとって、きっと真っ当なものだ。フェリシアだけが、間違っているのだ。
フェリシアがリチャードに求婚したのは、もう6年以上も前のことだ。今頃人の口の端に上るなんて、今更過ぎる。うわさの元が、フェリシアであるなら。
もし、7歳のあの時、リチャードにフラれていたら、自分はどうしただろう。ギャンギャン泣いて、床に転がって暴れたかも。
だって、今も目の前がよく見えないのだ。拭っても拭っても、ぼろぼろ涙があふれてくるのだ。
リチャードは、いつもフェリシアに優しい。フェリシアが泣いた時、真っ先に目元を拭ってくれるのは、母でも父でもなく、いつもリチャードだった。
だから、そんなリチャードが、フェリシアが悲しむようなことを言えるはずがない。
だから。だから、もうこれ以上、リチャードを困らせちゃいけないんだ。
その日、フェリシアは自分の部屋でもう少しだけ泣いて、もう馬鹿な夢は見まいと心に誓った。
***
あれからずっと、フェリシアはぼんやりしてしまう。
思い出すのは、全てが自分の思い通りだと信じていた幼い頃と、その幻想にひびを入れた女性の言葉だ。ずっとぐるぐる、フェリシアの頭の中を巡り続けている。昼も夜もなく、フェリシアはそれらをじっと見つめていた。
父母や客が話しかければ、はたと現実に引き戻されたが、一人きりになるとまたすぐ気分が沈んで、思考から抜け出せなくなる。
両親に心配をかけていることは分かっていたし、自分でもしっかりしなくてはいけないと思った。しかし、ぬかるみにはまった足は泥に吸い付いて重くて、持ち上がらなかった。
***
ある日の昼過ぎ、フェリシアは二階の自室で窓際のイスに座っていた。友人から借りた小説でも読もうと思ったが、乗り気になれなくて、膝の上に広げたまま1ページも進んでいない。
窓の下の通りを、フェリシアとそう年の変わらない少女達が、きゃいきゃいと声をあげて過ぎて行く。おそらく定期市に行くのだろう。4ヶ月に一度、遠くの街の商人達が、街の中心部にある大きな広場で店を開くのだ。今日は、その日だ。
他所の街のものはもちろん、異国のものも並ぶので、男性も女性も、大人も子供も毎回楽しみにしている。フェリシアもその一人だった。
両親に連れて行ってもらうこともあったが、リチャードと一緒に行くことの方が圧倒的に多かった。冬の市は彼の誕生日が近いから、一人でプレゼントを買いに行くこともあった。
今行ったら、そんな思い出に押し潰されて泣いてしまいそうだ。
カーテンを閉めると、本を抱きしめるように膝を立てる。閉じた本の固い表紙に額を押しつけて、目をつぶった。
「フェリシア。」
低く優しい声に、空色の瞳がぱちっと開く。フェリシアは恐る恐る顔を上げて、閉じられたままの戸を見つめた。その先で、とんとんとん、と軽い音が鳴る。
「フェリシア、いないのか?」
「お兄ちゃん……?」
思わず彼女がそう口にすると、ほっとしたように扉の向こうの気配が和らいだ。
「入るぞ。」
「……うん。」
フェリシアは足を床に下ろすと、まくれたスカートをささっと手で戻した。また沈んでいたことを気取られぬよう、本の適当なページを開く。しかし、
「こんな暗い部屋で読んでいたのか? 目が悪くなる。」
「あ。」
扉を開けたリチャードが不思議そうな顔をする。今日は仕事ではないのか、紺のジャケットは着ておらず、シャツとズボンのラフな格好をしている。
彼の言葉に、フェリシアは閉めてしまったカーテンに気がついた。気をつけるんだぞ、と付け足してから、リチャードは薄く笑みを浮かべた。
「天気も良いし、定期市に行かないか?」
カーテンを開けるか開けまいか、悩みながらその端を握りしめていたフェリシアは、えっと軽く口を開けたまま動きを止めた。
今回も、一緒に行って良いのだろうか。自分が、一緒に。
いつもなら元気良くうなずくイトコが、口を閉ざしたままだからだろう、リチャードが僅かに眉を寄せた。
「もしかして、他に約束があるのか?」
「ち、違うよっ。」
フェリシアは慌てて首を横に振った。結わえた髪が左右に揺れる。
「そうか。なら行こう。」
大きな手が、フェリシアの手からさっと本を引き抜いた。机の上に置いて、改めてフェリシアの手をつかむ。ぐいと引いて、部屋から連れ出した。
***
いくつもの露店が並んで道を作る。広場はまるで一つの街のように、迷路のようになっている。人も店すらも広場からあふれている。
息苦しくなる程の人混みの中、はぐれないようにと、リチャードの手はフェリシアの手を捕まえたままだ。
カラフルな織物で出来た露店の屋根。鈴生りに飾られたアクセサリー。宝石のような飴細工。カーテンのように店を囲う華やかな衣服。ごちそう。お菓子。知らない果物。読めない題字の本。怪物を模した奇妙な置物。鮮やかな色彩の小鳥。
定期市の広場は、いつもとは違う世界だ。まるで夢の世界が広がっているようで、外の世界が詰まっているようで、小さい頃から来る度にわくわくした。どきどきした。いつもいつもリチャードの手を引っぱって、あれは何、これが欲しい、きゃいきゃい騒いで連れ回した。
けれど、今のフェリシアはただリチャードについて歩くだけで、世界は視界からも意識からも流れていく。
すれ違った女性が、リチャードに声をかけた。ただの挨拶だけれど。
いつもなら焼き餅を焼いて、ぷくりぷくりとほほが膨れる所だが、今日のフェリシアの心はしおしおと萎んでいった。このまま、手まで細く萎んで、するりとリチャードの手から抜けてしまえば良いのに。そんなことまで考える。反対に、不安は悲しい言葉でぱんぱんに膨らんでいた。
リチャードが足を止めた。ぶつかりそうになって、フェリシアも止まる。顔を上げると、振り返った藍色がじっと自分を見下ろしていた。
「疲れたか?」
「ううん。平気。」
立ち止まったのはリチャードの方なのに、急にどうしたのだろう。こちらからも、じっと彼を見上げていると、リチャードがそっと眉を下げた。
「気晴らしになるかと思ったんだが、余計顔色が悪くなったみたいだ。ごめんな。体調が良くないなら、こんな人の多い所に連れて来るべきじゃなかった。」
フェリシアの手が強張る。
そうだ。ここ最近、リチャードは自分の体調を気にかけてくれていた。このお出掛けも、その一つだったんだ。
心配をかけてしまったことが、心苦しかった。リチャードは悪くないのに、謝らせてしまったことが申し訳なくて、フェリシアはうつむく。握られた手に視線が落ちる。
もういっそ、ここで終わらせてしまおうか。この手を放してしまおうか。
「あのね……」
「あれっ? 何してんすか先輩。」
意を決して口を開いたフェリシアの声を、知らない男性の声が遮った。
駆け寄ってきたのは、茶髪の青年だ。リチャードより一つ二つ年下なのか、明るい笑顔と弾んだ口調がどこか幼い。後ろからもさらに青年が二人やって来た。彼らが着ている紺のジャケットは、いつもリチャードが着ているものと同じだ。後から来た片方が、フェリシアに向けてひらひらと手を振る。よくパン屋にも来てくれる、リチャードの友人だ。
フェリシアは、イトコの陰に隠れながら小さく頭を下げた。
「お前、何で私服なの? さっきまでパトロールしてたよな?」
一般人に紛れてしまうリチャードの格好に、青年達が首をかしげる。リチャードがうなずいた。
「ああ。今日の午後は休みを取った。」
「そうなんだ。俺は明日休みー。」
「えー。いいなぁ。」
フェリシアごとリチャードを囲んで、青年達がわいわい話し始める。最初に声をかけた一人が、リチャードにしがみついて隠れていたフェリシアに目を留めた。
「先輩、妹さんっすか?」
かわいいっすね、と笑った彼の言葉に、フェリシアはビクリと肩を跳ねさせた。シャツを摘む指先に力がこもる。
やっぱり。自分は妹分でしかないのだ。妹にしか見えないのだ。
彼に、相応しくないのだ。
「いや、」
緩くリチャードが首を横に振る。腕をフェリシアの背に回して、肩を抱いた。
「婚約者だ。」
きっぱりと、彼は確かにそう言った。にじんでいた涙が引っ込む。
最初の青年が目を丸くしてフェリシアを見下ろす。もう一人の青年の目がぱっとこちらに向く。その後ろで、リチャードの友人が口を一文字に引き結んでいる。
妙に間が開いた後、突如青年二人が声をあげた。
「じゃあ、この子がフェリシアちゃんっ!?」
「えぇっ? 先輩、年下っつっても、限度があるっしょっ?」
「叔母さんに許可はもらっている。」
ぎゃいぎゃい騒ぎ声が大きくなる。リチャードは少し眉を寄せて、フェリシアの頭をぽふぽふなでた。
急に活性化した青年らと、そのきっかけとなった彼の言葉を上手く処理出来ない。フェリシアはきょとんとほうけたまま、頭に与えられる軽い衝撃を受け止めていた。
リチャードの友人が、耐えかねたようにぶふぅっと息を吹いた。
「二人とも驚きすぎっ。俺、かなり年下だっつったじゃん。」
「いやぁ、聞いたっすけど……。」
フェリシアは、まだ笑っている青年を見上げた。口元を押さえて、肩を揺らしている。
「あの……?」
ようやく声が出せたが、フェリシアは続ける言葉が思いつけなかった。青年が目尻にたまった涙を指で拭う。
「フェルちゃん、フェルちゃん。良いこと教えてあげようか。リックはさ、毎日毎日俺らに君の話をするんだよ。」
愛されてるね。相変わらず。
パトロールの途中だからと、青年達は去って行った。騒ぐだけ騒いで、はいさようならとあっさりいなくなるなんて、まるで嵐のようだ。解放された二人は、彼らが消えた人の壁を眺めたまま、しばらく立ち尽くしていた。
とんとんっと、フェリシアの肩がたたかれる。
「フェリシア、そろそろ行こう。この先に、いつもの菓子がある。」
「あ、うん。」
リチャードの大きな手が差し出される。フェリシアがその手を取ると、確かに握り返された。すいっと手を引かれる。
「あ、あのね、お兄ちゃん。」
「うん?」
「あの、あのね……。」
勇気を出そうと思った。けれど怖くて、フェリシアの視線は足下の敷きレンガへと落ちる。ぎゅうっと握る手に力を込めた。
「私、お兄ちゃんのお嫁さんになって、良いの……?」
ぴたり。再びリチャードの足が止まる。
「……俺のこと、嫌いになったのか?」
「好きだよっ!」
ほほがかっと熱くなって、考えるより先に言葉が飛び出した。
「私、お兄ちゃんのこと大好きだよ! でも、でもね、お兄ちゃんは……、私、お兄ちゃんが私のこと、どう思ってるのか……知らないよ……。」
話しているうちに段々気分が沈んできて、声も弱々しく消えていった。
リチャードが不思議そうに首をかしげる。
「好きだから、結婚するんだろう?」
あっさりとした彼の言葉に、フェリシアの中でぐるぐる回っていたものがぷしゅりと抜けた。
風船に穴が開いたように、膨らんでいた不安が、悲しみが、みるみる萎んでいく。フェリシアはほっとして、そのあまり泣きそうになった。それを耐えた変な顔で笑う。
リチャードはフェリシアの頭をなでて、苦笑をこぼした。
「ただ、叔父さんは二十歳になるまでダメだって。だから、10年経ったらって約束は守れないかも知れない。ごめんな。」
「う、ううんっ! それは、お兄ちゃんのせいじゃないよ!」
フェリシアはブンブンと勢いよく首を横に振った。
良かった。
ただただ、その言葉だけがフェリシアの頭を埋め尽くしていた。
良かった。この人を諦めないでいられる。
良かった。これからもこの人の隣にいられる。
リチャードの胸に額を押しつけて抱きつく。甘えるようにぐりぐりと擦り付けた。
大好きな人は、ちゃんと自分を選んでくれていた。
END
「兄様ぁっ! 助けてっ!」
冬期休暇に帰ってきた、妹の第一声がそれだった。
十も離れたこの妹ももう16歳。次の夏には学園を卒業する。入学当初から、10歳を過ぎればレディの自覚を持てと説かれ、貴族の娘、もしくは妻として相応しい行儀と知識を身につけたはずの妹。
その妹は、馬車を門前で飛び降り、侍女達を振り切り、コートも脱がずに玄関ホールを突っ切って、領主代理の執務室に駆け込んできた。扉が弾けるように強い音を立てる。
アスールは、無作法をとがめようと口を開いたが、声になる前に妹が執務机に突進してきた。バンッとたたきつけられる両手から、とっさに書類を逃がす。
「兄様お願い! プリームを雇ってあげて!」
「は?」
一体何のことか分からず、アスールはぽかんとほうけた。ふっと視界に赤を捕らえ、そちらに目をやる。妹の背の向こうに、見慣れた赤毛の少女が立っていた。16歳にしては小さな体をさらに縮めるようにして、胸の前で組んだ両手をぎゅっと固く握っている。紅茶色の大きな瞳が、不安そうに揺れていた。
彼女はプリームといって、妹の学友だ。夏期休暇を毎年この家で過ごしている。しかし、年始を挟む冬期休暇にやって来たのは、これが初めてだった。今年は連れて来る、などとは聞いていない。先日届いた妹からの手紙も、いつも通りのものだったはずだ。
兄の驚きをまるっと無視して、妹は続けた。
「このままじゃ、プリーム結婚させられちゃうの!!」
「……は?」
妹よ、頼むから分かるように話してくれ。
***
アスールの父は、いくつもの農村を任されている領主だ。
四人兄弟の長男として生まれたアスールは、父の仕事を継ぐことを早くに決め、王都の学園を卒業してすぐ家に戻った。それから、父の補佐をしながら領主の仕事を本格的に学び始めた。
上の弟はまだ学生、下の弟は入れ替わりに入学したので、屋敷に兄弟はアスールと末の妹だけになった。
その頃、アスールは年に二回の長期休暇が待ち遠しかった。弟達が帰ってくれば、妹のお転婆の被害を分散出来るからだ。
妹のネクロは、熱しやすく冷めやすい気質だった。
作曲家になる! と言い出して、朝から晩までピアノを弾き続け、自室の床を譜面で埋めたかと思うと、一、二ヶ月後には発明家になる! と言って、ボコボコと謎の液体が暴れているフラスコを片手に、兄を追いかけ回したりする。
一番性に合っているのは絵描きのようで、年に四回は筆と絵の具を持ち出してくる。安眠妨害にもならないし、誰かのほほが青緑に変色する心配もないので、このままずっと絵を描いていてくれたら、とその度に兄達は願う。しかし、その願いが叶ったためしはない。
10歳になったネクロが、兄達に倣って学園に入学すると、その気まぐれに供が出来た。学友の一人を日中ずっと連れ回し、三男の下に突撃する時も一緒だという。
初めての冬期休暇の間、ネクロはずっと絵を描いていた。困った気まぐれさえ起こさなければ、かわいい末っ子である。領主修行の合間に、アスールはアトリエと化している部屋に顔を出した。
まあるいほほ。胸の前で組まれた小さな手。
目が描き込まれた。クリクリとした、丸くて大きな目。お茶の時間に母が手ずから入れてくれる、甘い香りの紅茶に色がよく似ている。
パレットで絵の具を少しずつ混ぜていく。出来た赤は、夏に花壇で咲いている花と同じ色だった。その色で描き込まれた髪は、肩に掛かり風を含んだように広がっている。
小さな唇が、ゆるく口角を上げている。じっと優しい眼差しをこちらに注いでいる。
ほほに桃色を差すと、妹はその少女を友人だと紹介してくれた。三男がよく似ていると褒めた。
初めての夏期休暇に、ネクロはその友人、プリームを連れて帰ってきた。妹の話から想像していたよりずっと、彼女は小さかった。父に似て大柄なアスールに驚いたのか、あいさつの後、彼女はずっとネクロの後ろに隠れていた。
幼い頃は、プレゼントとごちそうにあふれる年末年始を何よりも楽しみにしていたのに、友人が出来たネクロは、冬より夏の方がはしゃぐようになった。埋もれてしまうほどの花をプリームに抱えさせ、屋敷中に生けて回ったり、プリームにも網を渡し、虫を追って庭を走り回ったりした。
***
ある年は、ネクロが屋敷の中を走り回っていた。客間のカーテンをはぎ取っては部屋に運び、次男がもらったプレゼントからリボンを強奪しては部屋に運んだ。小鳥かリスでも乗り移ったのかと言ったのは、母だったか父だったか。
アスールが休息のために自室へ向かっていると、丁度通りがかったところで、ネクロの部屋の扉がバンッと勢いよく開いた。飛び出してきたネクロは、兄に目もくれず廊下を駆け抜けた。本当に巣でも作っているのかと、アスールは中をのぞいてみた。
部屋の中には、妹が集めただろう布やら花やら飾りやらが規則なく散らばっていた。いつもの気まぐれと大差ないようだ。窓際にイスが一つ寄せられていて、そこにちょこんと赤毛の少女が座っていた。
プリームの姿は妙だった。体にカーテンがグルグルと巻き付けられていて、やわらかい髪に白いリボンが絡んでいた。窓の外を眺めていたプリームは、アスールに気がつくとぴんっと背筋を伸ばした。前髪に引っかけていた黄色い花が、ぽとりと膝の上に落ちる。
「アスールさん……。」
「……今回は何だ。」
遠くから見ても、近くに寄ってもよく分からない。プリームがカーテン地を両手でぎゅっと握る。小首をかしげた。
「ドレスのデザイナーになるそうです。私は、マネキン役でしょうか。」
「ドレス……。」
このカーテンを切ったり縫い付けたりするつもりなのか。それはちょっと困る。
思わず眉間にしわが寄る。ちらっとそれを見上げて、プリームがつぶやいた。
「すみません……。」
「いや、こちらこそすまない。君も、いつもいつもあれに付き合うのはつらいだろう。私達はあれを甘やかし過ぎてしまったな。」
ふるふると小さな頭が揺れて、赤い髪がふわふわと広がった。
「追いかけるのは、大変だけど、つらいと思ったことはありません。私は、自分がどこにいたいのか、どっちに行きたいのか、すぐ分からなくなっちゃうから。ネクロちゃんが手を引いてくれると、安心します。」
膝の上、ゆるく握った自身の手へ視線を落として、プリームがほほ笑む。
優しい眼差しに、キャンバスの中の彼女を思い出した。夢中で絵筆を踊らせるネクロの横顔と、出来あがった絵を見せびらかす得意気な笑顔も。
書き散らかした譜面は、どこに行ってしまったのだろう。ちり紙回収に持たせてしまったのだろうか。謎の緑の液体は、流しに捨てようとしているのを料理番が必死に止めていた。
屋敷中を花まみれにした後、二階の角の一瓶が一番の力作だと、絵に残していた。花が枯れると、同じ場所に勝手に額を掛けた。
捕まえた虫の中で、水面のようにきらりきらりと光を弾くチョウを気に入って、標本にした。今は領主の執務室に飾られている。
妹のネクロは熱しやすく、冷めやすい。
何か標的を見つけては、ただただひた走り、ある日突然立ち止まる。拾ったものを全部足下に投げ出して、次の標的を見つけるまで考え込んでいる。
たが今は、成果を鼻高々で家族の下に持ち帰って来る。そして、上がったままのテンションで次へ駆けて行くのだ。以前よりさらに騒々しくなった。
アスールの唇からふっと笑みがもれる。
「ネクロはずっと楽しそうだ。あれも、君が手をつないでくれるから、安心してどこまでも走っていけるんだろう。」
赤毛が揺れて、そろりと顔が上げられる。紅茶色の瞳が、ぱちぱちと瞬く。カップを回したようにその色が揺れた。
言葉に出来ない気持ちを胸に納めるように、プリームはぎゅっと両手を重ねた。丸いほほに、じんわりと赤が広がる。ふくっと持ち上がる。上がる口角とは反対に、眉尻がへにゃりと下がった。
今年も庭に咲いたあの花は、何というのだったろう。いつか母が口にしたはずなのに、アスールは思い出せない。ただふわふわと風に揺れる情景が胸にひらめいた。
「プリーム!」
妹の声が背後で弾けた。プリームの目が扉へ向く。アスールもぎこちなく振り返った。
ネクロは白い布を腕に抱えていた。端の金刺繍に見覚えがある。食堂のテーブルクロスだ。ぱっちりしたつり目が、不思議そうにアスールを見上げた。
「兄様? どうしたの?」
「いや……。」
かぶりを振ったのは、否定のためではなく、幻を振り払うためだった。すれ違いに、黒い頭をぽんぽんとたたく。
「夕食までには区切りをつけなさい。あの格好のままじゃ、食事が出来ないだろう。」
「はぁーい。」
ネクロがぱたぱたとプリームに駆け寄る。クロスをぽいと机に放り、プリームへ両手を差し出す。彼女を立ち上がらせるとカーテンを解きにかかった。片付けに入ったのではなく、次を試すためだ。アスールは廊下へ出ると扉を閉めた。
執務室に戻ると、父が目を見開いた。
「休憩はもう良いのか?」
……忘れていた。
***
ある年は、ネクロもプリームもずっと部屋の中に引きこもっていた。せっかくの良い天気なのだから庭で遊べば良いのにと、様子を見に行くと、二人は一つの机を挟んで向かい合わせに座っていた。
ネクロがせっせっと羽ペンを走らせている。プリームが思案するように視線を斜めに上げて、ぽつりぽつりと何やらつぶやいていた。それを書き取っているようだ。
「それでね、家族想いの頑張り屋なんだよ。責任感が強くってね、みんなの幸せのために、出来ることからこつこつ頑張ってるの。」
「なるほど!」
がばりとネクロが顔を上げる。書き上がったものを見て、ふふんっと鼻を鳴らした。
「この人ってさ、体格以外はほぼ私じゃない!?」
プリームがぱちぱちと目を瞬かせた。しばらく置いてからうなずいた。
「そうかも。ネクロちゃんと似てるね。」
「でしょー! ふっふっふっ、私ってばプリームの理想のヒーローだったのねっ!」
きゃーきゃーとうれしそうに声を上げて、ネクロがバンバンと机をたたく。ふっと濃紺の目がこちらを捕らえた。ぱっと顔を輝かせる。
「兄様!」
「! アスールさん。」
プリームはぴょっと跳ね上がると顔を伏せた。驚かせるつもりのなかった小動物に、逃げられてしまったような切なさがある。
アスールはため息で感傷を逃がした。
「今度は何をしているんだ?」
「ふっふっふーっ。戯曲だよ戯曲! 私、舞台作家になるの!」
「はあ。」
そういえば、今年の春に母が王都に出掛けたのだった。二人を連れて観劇へ行ったとか。その影響か。
「キャラクターはね、プリームに考えてもらってるんだー。」
「そうか。出来あがったら母上に見せるといい。きっとお喜びになる。」
「本当!? よーし、頑張ろうね、プリーム!」
「……うん。」
プリームがこくりとうなずく。なぜかほほがうっすらと赤くなっていた。
つたない言葉がちりばめられた冒険活劇は、朗読という形でお茶の席で公演された。ネクロはヒーロー役を譲らず、プリームが恥ずかしがって辞退したので、ヒロインは三男が務めた。
***
冬のある日、父が病に倒れた。アスールが補佐について、9年目のことだった。幸い一命は取り留めたものの、本復は難しいという。
アスールは25歳、結婚もしておらず、領主になるには少し早い。しばらくは領主代理として領地を守り、しかるべき時が来たら正式に家督を継ぐということで、話がまとまった。
ネクロは例年より一週間も早く帰ってきた。涙目で突撃してきた末娘に、大げさだと父は苦笑したが、やはりうれしそうだった。
年が明けてネクロは学園に帰り、少し前とは違う日常が重なり始める。父の助言はある。母と三男の協力もある。それでも、忙しさと気疲れに目を回しているうちに、春はあっという間に過ぎて行った。
庭に赤い花が咲くと、母の話は二人の少女のことばかりになった。侍女達は言われずとも、妹の部屋に二人分の寝具を準備した。父は手紙を読むと、今は焼き物に興味があるそうだ、と苦笑した。
帰ってきてすぐ、ネクロは玄関ホールでカバンを開け放った。プリームに手伝ってもらいながら、衣服の中から頭ほどの大きな瓶を発掘した。日の光を煮詰めたような、黄金色のアメ玉が瓶いっぱいに詰まっている。ネクロはえへんと反り返って、それを父に渡した。
これは蜂蜜のアメで、滋養がどうだ、疲労回復がどうだ、とおそらく品書きに書いてあったのだろうことをつらつらと並べた。
「プリームが見つけたの。それで、二人で一番大きいの買ったのよ。いっぱいあった方がみんなも食べられるし、みんなも元気になるでしょう?」
ねー? とネクロが顔を合わせると、プリームもへにゃりと笑ってうなずいた。
父も笑って、ネクロの黒い頭をわしわしとかきなぜた。それから、その大きな手をスライドさせて、隣の赤い頭も遠慮なくなぜた。
きょとんと、紅茶色が瞬く。自分もボサボサなのに、跳ねた赤毛をネクロがからかってまた笑った。
***
妹同然に思っていると言えば、彼女は驚くだろうか。
たとえ共に過ごすのが夏の間だけだったとしても、6年近くも見守ってきたことには違いない。そんな彼女の危機とあれば、アスールだけでなく、父も母も手を貸すことにやぶさかでないだろう。
だがしかし。
「お願い兄様! プリームを雇ってあげて! 今すぐ雇用契約書書いて! どうせ、プリームの家はうちに逆らえっこないもの、決まってしまえばこっちのものよ!」
ネクロの言葉は要求と願望ばかりで、何が起きているのかさっぱり分からない。雇えと言われているが、プリームは就職が決まっていたはずだ。その話はどこに行ったのだ。
全力疾走中の妹は、声をかけても止まるものではないので、アスールはじっと待った。入り口に立ったまま動かないプリームを、指先で呼ぶ。
彼女は恐る恐る部屋に入ってきて、ネクロの隣に並んだ。執務室に入るのは初めてなので、ミナモチョウとは数年ぶりの再会だが、そんなことに気がつく余裕はなさそうだ。
「もうね、ひどいでしょ! あんまりでしょ!」
最終的には文句ばかり詰め込まれていた叫びがようやく途切れる。ネクロは息が切れていた。プリームが心配そうに顔をうかがっている。アスールは、はぁ、と息をついた。
「何やら緊急事態であることは分かった。だが結果も原因もさっぱり分からん。順序立てて話してもらえないか。」
「……っ!」
ネクロが大きく息を吸ってむせた。まだ興奮状態にあるようなので正直助かった。プリームがネクロの背をさする。さすりながら、顔はアスールに向けた。眉が八の字に寄っている。
「その、ネクロちゃんに甘えてしまってすみません。ちゃんと自分で話します。アスールさんは、父の跡継ぎが従弟のサーレスであることは御存じでしょうか?」
「ああ。」
最近は実力主義で長女や次男に継がせる家も多いが、プリームの家は違った。彼女の家で受け継がれるものは名字の他は屋敷とわずかな財産だけだが、それら全ては一人娘のプリームではなく、2歳下の従弟が継ぐことになっている。年の近い子女がいればどこの家にも自然と耳に入る情報だ。
「ですので、私は卒業後は就職して家を出るつもりだったんです。」
「ああ。」
アスールはうなずいた。父や母に話しているのを聞いたことがある。教師の口利きで、街の学園に司書として雇ってもらえそうだと、そう報告していたのは今年の夏のことだった。
「それで、先生のおかげで無事決まるはずだったんですが、両親が断ってしまったんです。すぐ結婚するのだから必要ない、と。」
「ひどくない!? ひどいよね!?」
ネクロが割って入る。ガルルルっとうなるその背をプリームがさする。今度はなだめるためだ。自分自身の心も落ち着けようとしているようだった。
「それは、もう相手が決まっているのか? 婚約話が進んでいると?」
「……はい。」
相手が嫌なのか、描いていた道を断たれたからか、プリームの表情は暗い。
「就職出来なければ家に残るしかありません。そうなれば、両親や祖父母の望む方へ進むしかなくなります。私は……」
唇がきゅっと結ばれる。白くなるほど握りしめられた手が震えていた。その手を、横からネクロがすくう。両手で包むように握った。強張っていた細い肩から力が抜けた。指先が緩む。
「私は、そんなの嫌です。私が選んだ先に、私の望む結果がなくたって構いません。我がまま言ってるっていうのも、ちゃんと分かってます。でも、結婚するのだけは嫌なんです。」
紅茶色がゆらゆら揺れる。隣でうんうんとネクロがうなずいている。プリームは片手の甲でぐしぐしと目元を拭った。
「お願いします、アスールさん。私にどうかお仕事を。」
「ねぇ、良いでしょう? 兄様。プリーム、うちにいて良いよね?」
赤茶と濃紺。二対の瞳がすがりついてくる。
アスールの眉間にぐぐっとしわが寄る。
彼女の家の決定に逆らうということはつまり、彼女の今後を背負うということだ。長期休暇に預かるのとは訳が違う。
アスールは額を押さえて長く息を吐いた。
「分かった。ただ、私はまだ領主ではない。事後報告で納得させるなら、署名は私より父の方が効果があるだろう。私から頼んでおく。」
ネクロがぱぁっと顔を輝かせる。ぐるりと机を回って飛びついてきた。
「ありがとうっ兄様!」
赤い頭が深く下げられる。
「ありがとうございます。ありがとうございます。」
「良かったぁ、良かったねプリーム!」
ネクロは兄から離れると、旋回して今度はプリームに飛びついた。ぎゅうぎゅうと抱きしめられながら、プリームは両手でぎゅうっとネクロの腕にしがみついた。
***
アスールの父が手紙を送ると、すぐに返信が来た。
へりくだった文で、娘同士が懇意にしていること、今年は冬も世話になっていること、そして今後も娘を任せることなどの礼がつづられていた。
執務室に呼んで、アスールがこのことを告げると、プリームは何度も頭を下げた。それから、父にも礼を言うために領主夫妻の部屋に向かった。母は手紙を見て狂喜していたので、今頃もみくちゃにされているだろう。
プリームについてきたネクロと、別件で呼んでいた三男が部屋に残る。ネクロが読みたがったので手紙を渡してやると、横から三男ものぞき込んだ。ネクロが顔をしかめる。
「もぉーっと渋るかと思ったのにぃ、逆に喜んでる?」
「つーか、この文。もしかしてプリームちゃんが俺の嫁さんになると思ってる?」
三男が眉を寄せてうなった。ネクロがぱちりと目を瞬かせて三男を見上げた。
「え? それってヴァイス兄様的にどうなの?」
「んー。プリームちゃんなぁ。かわいいとは思ってるけど、女の子として見たことはねぇなぁ。」
「だよねぇ。びっくりしたー。」
ネクロがぺいっと手紙を机に放る。アスールがとがめたが、返されたのは気のない謝罪だった。ネクロはほほを染めて何やら興奮している。
「でも、うちにお嫁に来たら、プリームと姉妹になるのかぁ。それは良いかも!」
「えー。既にうちの子じゃね? もう良くね?」
ネクロがキラキラと目を輝かせる横で、三男が肩を落とす。
「そういえば、プリームのお部屋はどうしようか。私の隣が良いなぁ。」
「お前の隣は俺なんですが。」
「一個横ずれてよ。」
「そこロート兄の部屋。」
きゃいきゃいと部屋の内装に話を移すネクロは、誰よりもはしゃいでいる。これからも、彼女の手を引いてどこまでも暴走していくつもりだろう。
――私は、自分がどこにいたいのか、どっちに行きたいのか、すぐ分からなくなっちゃうから。
大きな瞳が伏せられる様も、静かな声も未だ鮮明だ。
ここが彼女の居場所になれば良い。夏と言わず、冬と言わず、ずっと。
アスールのまぶたの裏で、赤い花が揺れた。
***
客間の一つが、プリームの部屋になった。冬の間にネクロが勝手に模様替えを行った。卒業の式の後、プリームはネクロと母が直接連れて帰ってきた。数日後、彼女の家から小さな荷物が届いた。中身は数冊の本と、去年ネクロが作ったいびつな花瓶だった。
プリームの仕事は秘書見習いだ。書類を作成、整理し、必要に応じてアスールや三男に渡してくれる。
忙しい時期には、三男の報告書作りを手伝ったり、先輩秘書の使いで走り回ったりする。手が空く時期には、ネクロの相手をしたり、出掛ける母の供についたりした。
プリームが屋敷の一員になって、もうすぐ一年経つ。
執務室には応接用のローテーブルの他に机が二つある。一つは代々の領主が使っているどっしりとした古い机。もう一つは、ちょっとした書類の確認や直しにアスールや秘書が使っていた小さな机。
父の代から働いてくれている中年の秘書は、扉でつながった隣の仕事部屋にいることが多い。そのため、アスールが領主を継いでから、小さな机はすっかり書類置き場になっていた。今は、プリームが使っている。
アスールには少し窮屈だったイスにちょこんと腰掛けて、プリームは各農村からの作付け報告をまとめていた。
ペンが止まり、ペン立てに戻された。大きな目が紙面に落ちて、つらつらと文字を追う。数字や地名を念入りに確認しているのか、時折、ちらちらと原本との間を行き来した。顎を引くようにして一番下まで目を通す。ぱちりと瞬いて、彼女はふっと息をついた。肩からも力が抜けるのが分かる。
「プリーム。」
アスールが声をかけると、びくっと体が跳ねて、ぷわっとやわらかな赤毛が広がった。振り返る紅茶色の瞳が、まん丸に見開かれている。思わず、アスールの眉がくっと寄った。
「それが終わったなら、ネクロの所に顔を出してやってくれ。」
「でも……。」
「そのペースなら、明日には終わるのだろう? 根を詰め過ぎると、思わぬところでミスをするぞ。休んできなさい。」
紅茶色が揺れる。ためらうように視線が机を滑る。やがて顔を上げると、眉尻をへにゃりと下げてほほ笑んだ。
「分かりました。お先に失礼しますね。」
「うむ。」
プリームは書類をしまうと、筆記具は整頓するだけでイスから立ち上がった。秘書部屋の扉を開けて中へ声をかける。こくりとうなずくと、机の端に積んであった書類の束を相手に渡した。とことこと廊下へ向かい、扉の前でアスールへ向き直る。
「若旦那様も、無理をなさらないでくださいね。」
「ああ。」
ぺこりと頭を下げて、プリームは出て行った。
ぱたりと扉が閉じて数秒、アスールは深く息を吐き出す。机の上に肘をつくと、その手に額を押しつけた。
緊張した人間が傍にいることが、こんなにも疲れることだとは、知らなかった。刺激したら飛び上がって逃げて行ってしまうのではないかと思うと、一挙手一投足にも気を遣う。
淑女に使うにはあまりに失礼な表現だとは思うが、プリームはちっともアスールに馴れない。声をかければ跳ね上がり、目が合えば身を固くする。ネクロと遊んでいるのを見守っていた時とは違い、日中ずっと一緒にいるようになると少々堪えてくる。
嫌われている、ということはないと思う。プリームは時々、笑顔を見せてくれる。しかし、この巨体かしかめ面か、何らかの原因で自分のことが苦手ではあるようだ。
プリームが元々デスクワークの仕事を希望していたから、自分の補佐についてもらったが、失敗だったのかもしれない。いっそネクロの友添いとして雇うか。今でもネクロや母が茶会に呼ばれる時に供をしている。今更だ。
アスールのため息がさらに深くなる。
保護したつもりでいたが、果たして我が家は彼女にとって良い環境なのだろうか。
***
夕食に向かう途中で、ネクロと廊下で鉢合わせた。庭で何をしていたのか、黒い髪に木の葉が絡んでいる。アスールはそれを手ぐしで払ってやりながら、妹が入ってきたガラス戸の向こうを見た。庭の奥は廊下からの明かりが届かず、紺色に沈んでいる。
「プリームは母様に捕まっちゃったのよ。」
ネクロが悔しそうに唇をとがらせた。母に着せ替え人形にされるのを嫌って、植え込みにでも隠れていたのだろう。
アスールは、妹の子供っぽさを叱ることもからかうことも出来なかった。ネクロの言葉に、ドキリと手が止まる。庭に視線を投げたのは、正確に言えば、妹の背後に少女を探したのは無意識でのことだった。自分すら分からない行動の意味を見透かした妹に、動揺して思考が鈍る。
反射的に飛び出しそうになった否定の言葉を、慌てて飲み込む。ごまかすようにもう一度妹の頭をなでた。
「そうか。」
味気ない返事を、ネクロが気にする様子はない。ただじっと、濃紺の瞳で兄のそろいの瞳を見つめている。その視線から逃れるように、アスールは体の向きを進行方向に戻した。ツカツカと大股で歩き出すが、ネクロが小走りに追いついてきて、隣に並ぶ。
「兄様さー、最近、眉間のしわがすごいよね。」
体をかしぐようにして顔をのぞき込んでくる。立てた人差し指で、つるんとした己の額をちょんちょんと突いた。
「プリームも心配してたよ。」
「……もしかして、これのせいなのか。」
「? 何が?」
「いや。」
ネクロが最近と言うのなら、ここ数ヶ月のことなのだろう。その間にプリームの態度が変わった実感はない。しかし、自分がしかめっ面なのは今に始まったことではないし、やはり原因なのだろうか。
「あの、兄様、今まさにさらに深くなってますけど。」
……既に悪循環にはまっている気がする。
「兄様? 大丈夫? 具合悪い? おなか痛い?」
「……大丈夫だ。」
「そんなうめくような声で言われましても。」
ネクロの顔が曇る。アスールは気持ちを立て直そうと、胸にたまっていた息を吐き出した。鉛のように重くて、ゴトリと足下に転がり落ちたような感覚がする。
「……プリームは、私を怖がっているだろう。」
口に出すには勇気が要った。それでも向き合わなくてはいけないし、相談する相手は彼女と親しいネクロが適任だ。
ネクロが足を止めたのだろう、視界の端にふっと消える。アスールも立ち止まって妹を振り返った。
青い目が、見開かれている。ぽかんと唇が開いていた。この妹には珍しい表情だ。ネクロはどちらかというと人を驚かせたり困惑させたりする方が得意である。
ざわっという木々の揺れる音で、ネクロははっと我に返った。
「え!? 何それ、どこ情報!?」
「どこって、私から見たままだが。」
「何で? どの辺が?」
ひどく動揺しているネクロに、アスールも戸惑う。てっきり、ネクロは把握しているものだと思っていた。
「……私が声をかけると飛び跳ねる。」
「ああ。私が抱きつく時もよくビクーってなるよ。」
妹の抱きつきは体当たりと同義だ。背後からタックルをかまされれば誰だって驚くだろう。
「私といると、緊張するようだ。」
「それって仕事中でしょ。ヴァイス兄様みたいにだるーんってしてるより、良いと思うけど。」
「それはそうだが……。」
「要するにさ、」
ネクロがずいっと指先を突きつけた。つり目で下からアスールをにらむ。
「プリームの反応が気になって気になって、兄様の方が緊張しちゃってるってことでしょう?」
「ぐ……。」
どうしてこうも、気がついて欲しくないことは見透かされているのだろう。10歳上の兄としては、何だか情けない気持ちになる。
ネクロがわざとらしくため息をついた。
「確かに、プリームは緊張しいだよ。ダンスの授業とか、前でやれって言われた途端にガチガチのロボットみたいな動きになるし。ぼんやりさんだから、横から声かけただけでスゴクびっくりするし。でもね、あの子はリスでもネコでもないの。びっくりしたからって、すぐ逃げてっちゃったりしないの。びっくりさせといて大丈夫なの。」
「驚かせて良い訳はないだろう。」
「気にしまくってギクシャクするより断然マシ!」
ギクシャク、はしていないはずだ。
「眉間のしわをー、プリームも気にしてますー。」
続く言で反論を封じられる。つまるところ、アスールに変化があれば、それはプリームにも伝わるということだ。妹曰く緊張しいの少女が、上司の眉間にしわが増えていくのを平然と見守っていられるだろうか。
「私は……何も気にするなということか?」
「そうよ。緊張しっぱなしじゃ、兄様だって疲れちゃうでしょう?」
「むぅ……。」
とにかく、眉間のしわを解消するところから始めるべきか。
アスールは歩き出しながら、ぐっぐっと親指で自身の眉間を押してみた。横に並ぶネクロがまだこちらをのぞき込んでいる。
「何だ。」
「兄様、良いこと教えてあげようか。」
「……何だ。」
ふふんっとネクロが笑う。
「昔ね、プリームに褒められたの。」
くるりと身を翻してアスールの前に回り込む。向かい合ったまま、器用に後ろ歩きを始めた。妹に合わせて、アスールの歩行速度も下がる。
「ネクロちゃんが怖いもの知らずなのは、頼りになるお兄さんがいるからだねって。」
ネクロの笑みは得意気だ。プリームの肖像を見せびらかしていた時のように。
アスールはため息をついた。
「怖いもの知らずって……褒め言葉か?」
ネクロがほほを膨らませた。
「ちがーう! 私はいつも褒められてるから良いの。そうじゃなくて兄様、ちゃんと聞いてた? 頼りになるお兄さんって、兄様のことよ。」
「私?」
「そーよ! 忘れちゃったの? あの日、私もプリームも、兄様を頼って帰ってきたのよ。それで、まあ、いろいろ整えてくれたのは父様だけど、兄様は助けてくれたでしょ。」
と、ネクロの目がゆらりと潤んだ。その青がこぼれるのを耐えるように、ぐっと眉が寄る。
「私が最初、うちに行こうって言った時、プリームはうなずいてくれなかった。でもね、兄様がいるって、兄様が絶対助けてくれるって言ったら、ようやく手を取ってくれたの。」
ネクロがぷるぷるっと首を横に振った。何かを振り落としたように、濃紺の瞳はいつもの強さを取り戻している。
「兄様は、私の自慢の兄様よ。かっこよくて頼りになるの。それはプリームにとっても絶対同じ。だから、もっと自信持ってくれなきゃ。」
――ここが彼女の居場所になれば良い。夏と言わず、冬と言わず、ずっと。
プリームを屋敷に迎える時に降りた祈りがよみがえる。
5度訪れた夏の中、彼女と交わした言葉は多くない。妹に向けられる笑みだとか、その手元をのぞき込む瞳だとか、走り回ってぱたぱた揺れる赤毛だとか、いつも横顔ばかり見ていた。たまに正面に立つ時、ほとんどは間に妹がいて、彼女はうつむいていた。
それでも、彼女をここに導いたのが、自分の存在だというのなら。地に着きそうだった彼女の膝を支えたのが、自分だというのなら。
「……そうか。分かった。」
アスールの口から、またため息がこぼれた。それは、何かを吐き出すためのものではなかった。詰めていた呼吸が楽になる。すとんっと胸の内に何かが落ちた。そのままどこかのくぼみに収まったような、そんな心地。
ネクロがふふっと笑みをこぼす。
「兄様、元気になった? ね、良いこと教えたでしょ?」
「ああ。すまなかったな、情けないところを見せた。忘れろ。」
「えー? それはどうしよっかな。」
「おい。」
くるくるっとステップを踏んで、ネクロが背を向ける。
「みんなには内緒にしてあげる。」
そのまま踊るように駆けて行き、食堂に入った。あと少しの距離を、アスールも早足で詰める。妹を振り切ろうとしていた時よりずっと、足が軽くなっていた。
***
街で働いている次男が帰ってくると、兄弟が執務室にそろう。まず次男が兄に帰郷のあいさつをし、次に三男が土産の催促にやって来て、最後に末っ子が秘書見習いに休憩を促しに来るためだ。
今日も、街の様子を話す次男の向こうで、応接セットのソファに陣取った三男が、もりもりと飴がけのナッツをほお張り、分けてもらったそれを、向かいのソファでネクロとプリームがさらに分けている。
街で流行った風邪の話が一区切りし、次男がネクロを振り返った。
「ネクロ、この間借りた戯曲なんだけど、あれって続きあったよな?」
「あるよー。読む?」
「というか、全部持って行っても良いか? 友達が気に入ったみたいなんだ。」
「何と! 芸術の分かる人ね!」
ぱぁっと顔を輝かせたネクロが、菓子の鉢をプリームに押しつけて部屋を飛び出した。一度遠ざかった足音が戻ってきて、扉が閉まった。また駆けて行く。
「こないだ言ってた花屋の子?」
「ううん。お菓子屋の子。」
「ああ。どうりで。」
三男が飴がけの袋、それに貼られているシールに視線を落とす。いつも次男が買ってきてくれる菓子は、ウサギのシルエットが描かれたシールが貼られている。しかし、今回はハトが麦の穂をくわえているマークだ。店が違う。
「お前はいつまでフラフラしているつもりだ……。」
「いやぁ、兄さんより先に身を固めると、ほら、叔父様がうるさいし?」
次男はニコニコと笑みを貼り付けている。何を言われても聞き流すつもりのその態度に、アスールはため息をついた。叔父の言うことだってまともに聞いていないだろうに、言い訳には使うのだから、悪い甥っ子だ。
アスールがイスに背を預けると、たかたかと軽い足音が廊下を迫ってきた。立ち上がってプリームが扉を開ける。ぴょんっとネクロが飛び込んできた。両手で紙の束を抱いている。
「はい、ロート兄様。シリーズ全部持ってきたよ。」
「ありがとう。お前は仕事が速いね。」
受け取って、次男が三男の隣に腰掛ける。少女二人は向かいのソファに戻った。三男がテーブルに載った菓子鉢にざらっと飴がけを足してやる。
弟妹はここでくつろぐ気満々だが、兄にはまだ仕事が残っている。アスールが羽ペンを持つと、プリームがちらっと顔を上げた。机に戻ろうとする彼女を手で制す。困ったように眉を八の字にして、ネクロの隣に座り直した。
パラパラと紙をめくりながら、次男が口を開く。
「ネクロの書くヒーローって、何かいつも似たような感じだよな。」
他の作家ならギクリとしそうな発言に、ネクロがひるむ様子はない。むしろ、ふふんっと誇らしげに笑った。
「仕方ないでしょ。何せプリームの理想のヒーローは、この私なんだから!」
ねー? と横からプリームに抱きつく。受け止めながらプリームはへにゃりと笑みを浮かべた。
「あれ、そうなのか?」
次男がページを戻して、まじまじと文字を見つめる。
「へぇ、てっきり兄さんがモデルかと思ってた。」
「あー。前に書いてたやつの、ブラオだっけ、あいつもろ兄貴だったよな。」
ポリポリと菓子を砕く合間に三男がうなずく。ネクロが唇をとがらせた。
「えー? そうかなぁ。ねー、プリーム……、」
軽く身を離して、ネクロは友人の顔を見た。名を呼んだ形で唇が固まり、濃紺の目がぱちりと瞬く。
書類に視線を落としていたアスールは、長年培った長男の習性で”兄さん”という語に顔を上げた。弟へ向けようとした視線は、まず四人を捕らえてから赤毛の少女に吸い付いた。だから、全部見てしまった。その瞬間、次男は手元を、三男と末っ子は次男の方を見ていたから、ただ一人だけ。
紅茶色の大きな瞳が、驚きにまあるく見開くのを。小さな唇が、言葉を失って戦慄くのを。まるで染料を吸い上げるように、白い首筋からほほの丸みを伝って赤が登っていくのを。
震えた唇は、向かい合った友人に何を答えようとしたのか。発せられなかったそれは誰にも分からなかった。おそらく本人にも。
硬直した少女の緊張が伝わって、彼女を見つめたまま兄弟は動けずにいた。
古いカラクリ人形のようなぎこちない動きで、プリームがアスールを振り返った。目が合う。紅茶色が、今にもこぼれそうにゆらゆら波打っている。ほほが熱せられたように真っ赤になっている。
唇が引き結ばれて、きゅうっと眉根が寄った。
プリームは突如立ち上がった。ネクロの手を振り払い、顔を両手で覆って部屋を飛び出した。
「プリームっ? プリームっ!?」
慌ててネクロが追いかける。開け放たれた扉から、ドタバタと騒がしい足音が二人分遠ざかって行く。
「えー……。マジで……?」
ぼう然とつぶやいたのは三男坊だ。飴がけをかむ音が止まっている。ふいっと風が動いて、誰かが机越しに自分の前に立った。
「兄さん、大丈夫?」
次男の声が降ってきた。アスールは応えない。
片手で顔を覆ってうつむいたまま、動けない。
顔が上げられない。
誰にも顔を見せられない。特に弟妹には。今、自分がどんな顔をしているのか皆目見当もつかないが、自分史上最も情けない様をさらしているのは確かだ。
赤がまぶたの裏から離れない。
走り去るのに合わせて翻った、やわらかな髪が。その素直さに従って上気する、ふっくらしたほほが。水面のように透き通った、あの瞳が。
手のひらに熱がこもって、頭まで蒸されそうだ。
END