アルバは大きなホールに来ていた。庭に大きな噴水がある、あのホールだ。
 クレエは兄と、アイビィは友人と踊っている。アルバは兄姉から離れながら辺りを見回した。きっとどこかにクラウディアがいるはずだ。そう思って目を凝らすのに見つけることが出来ない。
 もしかしてまた噴水に行ったのかも。アルバはとたたっと駆け出すとガラス戸をくぐった。急いで回廊を抜けるが、噴水には誰もいなかった。水の粒が月を照り返してきらきら光っているだけだ。
 アルバはほほを膨らませると、ポケットから例のガラス玉を取り出した。目元へ掲げ体を反らせて月を見上げる。
 ガラス玉は銀の光を集めて内側から光っていた。澄んだ水面をぎゅっと固めてまあるくしたようだ。この方がずっと、陽の光に当てた時よりもクラウディの瞳に似ている。
 アルバはにへへっと笑った。

「おい。なにやってんだよ。」

 鋭い声にアルバは振り返った。思わず「げ。」とつぶやく。回廊を背にあの三人組が並んでいた。もうずっと姿を見ていなかったのに、急になんだ。
 アルバは口をへの字に曲げた。ニヤニヤ笑いながら三人が近寄ってくる。

「おまえ、それ、なにもってるんだ?」

 さっと手を握りこんで隠す。ポケットにしまおうとしたが間に合わなかった。がしっと腕をつかまれてガラス玉を奪われてしまう。取り返そうとしたが、間に入った二人に阻まれた。

「かえせ!」
「なんだこれ?」
「おまえらには、かんけいないだろ! かえせよ!」

 彼らの目はガラス玉より、怒るアルバへ向けられている。愉快そうにゆがんだ。アルバが一人を押しのけると、ガラス玉を持っていた少年がニヤリと唇の端をつり上げた。

「そら、かえしてやるよ!」

 伸ばしたアルバの手をかすめて、さっと腕が上げられる。ガラス玉が高く放られて、月の光を透かした。水色にきらめく。弧を描く瞬きを追ってアルバはのけ反った。
 きらり、きらり、淡い青が吹き上がる水のドームを超える。アルバは体をひねってさらに追いかけた。ふちに足を掛けて、両手を掛けて、体を持ち上げて、跳ぶ。
 手を伸ばして伸ばして、光をつかむ。その勢いでアルバは前転した。
 ばしゃんっ。
 両足が水面をたたく。染み込んでくる冷たさにしびれて、両手を握りしめたままアルバは動けない。月の光が注いで、世界が淡い青に包まれている。
 何かが飛び込んできて、世界が揺れる。泡の粒が銀色に輝いて、視界を覆った。


 熱い。苦しい。このまま蒸し焼きにされそうだ。逃れたいのに、手に力が入らなくて布団すらはね除けることが出来ない。

――アルバ君っ! しっかりしてください!

 大変だ。”お姉ちゃん”が泣いている。きっと、あいつらにいじめられたんだ。

「……おねーちゃん……。」

 ガサガサした声が出た。喉が痛い。

「アルバ君? 大丈夫ですか?」

 優しい声が自分を呼んだ。アイビィがベッドに椅子を寄せて腰かけていた。手をもそもそと布団から出すと、握ってくれる。アルバは握り返した。


「だいじょうぶ。おれが、まもる。」


 落ちたのは、池じゃなかったのに。いじめっ子が突き飛ばしたのは、あの時じゃなかったのに。
 真っ先に駆けつけて、助け起こしてくれたのは彼女だったのに。
 全部全部、脳をゆでるほどの高熱に溶けてしまった。

 * *** *

 薄暗い小部屋で、アルバは膝を抱えるようにして体を縮めていた。
 ドアもカーテンも閉まっているのだからこれ以上隠れる必要なんてないのだが、何となく身の置き場がないからだ。腰かけた長椅子のクッションが柔らかいことにすら罪悪感を覚える。その度にやはり立っていようかと思い直すのだが、狭いのだし、どれくらい時間がかかるか分からないのだし、と思考が元の場所に戻ってくる。
 何度目かの思考マラソン中に人の声が近づいてきた。ドアに遮られて内容は不明瞭だが、若い女性と中年の男性のものだ。アルバはびしっと背筋を伸ばした。
 だらだらと汗が垂れてくる。
 ガチャリ、ドアが開く。陽に暖められた空気が入ってくる。差した光のまぶしさに一瞬、アルバは目をつぶった。

 水色の目が、ぱちぱちと瞬いた。
 クラウディアは長袖のブラウスと青いスカートに身を包んでいた。装飾はロープタイを留める銀細工と前髪を押さえるピンくらいだ。手に小さなポーチを提げている。大きな荷物は既に”馬車”に積んであった。
 水色の目を上下させてしかとアルバの存在を確認すると、クラウディアはすっすっと後ろに下がった。視線を上下左右とせわしなく巡らせる。
 馬車。スワロウ工房のマークの入った我が家の馬車。いつも商品を運んでくれる馬と馭者が引いてくれるはずの馬車。自分を新しい職場と住居へ運んでくれるはずの馬車。
 車体のマークと、馭者の顔と、馬の毛色を二巡確認すると、クラウディアの視線はようやくアルバへと戻ってきた。

「どうして、アルバさんが……?」
「あの、レイニーさんに頼み込んで……。」

 馬車に忍び込んでおりました。

 あの頃のことを思い出して、まず胸に湧いたのは、彼女を、ディーアを追いかけなくてはいけない、という焦燥だった。
 両親に親戚に父の友人にと、あちこちを拝み倒してアルバがようやく準備を整えた頃にはもう夏になっていた。アルバは学園を卒業し、クラウディアが家を発つ日が迫っていた。もう一つついでに兄を拝み、レイニーに連絡を取った結果がこれだ。
 姉も準備で忙しいからギリギリでないと話は出来ないだろう、と。姉からはもう話すことはないから、前もって約束しても理由をつけて逃げるだろう、と。だから当日姉が乗る馬車の中で待っていろ、と。
 レイニーはにこりと、外見だけならクラウディアとよく似た笑みを浮かべてそう言った。

 待っている間に、絶対に他の方法があったはずだと思い直したりもしたが、もうこの際どうでも良い。目を見張って言葉をなくしているクラウディアの様子は、完全に不審者に行き合った女性のそれだが気にしてはいけない。
 アルバは長椅子から立ち上がると馬車の板の間に膝をついて、外にいるクラウディアの目をのぞき込んだ。

「クラウディアさん、俺も連れて行ってください。」
「え?」

 再び水色が瞬く。アルバは膝に添えた手をぎゅっと握りしめる。

「ちゃんと、仕事も住む場所も決めてきました。えっと、親父の古くからの友人がトルナドで焼き物の工房をやってまして、販売人といいますか、そういう仕事で雇ってもらうことになりました。クラウディアさんのやっかいにはなりません。」
「はあ。」

 まだ驚いているのかクラウディアの反応は薄い。開け放ったままのドアの横から、中年の馭者が口を開いた。

「お嬢様。お嬢様が嫌がったら即つまみ出すようにと、坊ちゃまから承っているんですが。」
「えぇっ? ちょっと、待ってくださいっ。」

 馭者の言葉にさらに驚いてクラウディアは声を上げた。アルバへ向き直る。眉は八の字で彼女はまだ顔に困惑を浮かべていた。

「あの、アルバさんはきちんと自分でお仕事を定めて、トルナドに行かれるんですよね? 私に許可を取ったり、何かお願いしたりする必要はないと思うんですが……。」
「そうじゃなくて、俺はクラウディアさんについて行くって言ってるんだ!」

 アルバは身を乗り出す。

「ただ同じ町に行くんじゃない。クラウディアさんの傍に……、」
「あの約束ならもう無効ですよ?」

 アルバはひゅっと息をのんだ。クラウディアの声はやわらかいが、使われた言葉の冷たさがアルバの胸をえぐった。

「やっぱり、思い出してしまったんですね。」

 アルバの様子にうなずいてクラウディアは苦笑した。

「10年近く、誰も口にしなかったんです。もうとっくに効力はありません。貴方が縛られる必要はありません。」

 馬車から引っ張り出すためだろう、クラウディアが一歩二歩と下がる。
 うつむいて伏せられた彼女の瞳が、足下を見ているわけではないことがアルバには分かった。あの約束の日のように、見合いの日のように、透き通って遠くを見ている。
 消えてしまう。自分の前から。
 アルバはぐっとジャケットの胸元を握りしめた。ポケットの中には丸くて固い感触がある。

 クレエは当時のことを覚えていなかったが、上の二人は、アルバがよく”お嫁さん”の名を口にしていたことを覚えていた。どうして教えてくれなかったのかと問い詰めると、二人共、黙っているようにクラウディアに頼まれていたと教えてくれた。
 覚えのない約束のことなんて聞いても気分が良くないだろう、それに約束を押しつけるみたいで嫌だから、とそう言っていたと。
 アイビィは頼まれた通り口をつぐんだ。それでも、放り出されたガラス玉を拾ってくれた。アルバの手に再び握らせてくれた。忘れてしまった、アルバの宝物を。

 ほとんど外へ乗り出すようにして、アルバは細い手首を捕らえた。水色が、再びアルバを映す。

「なら、もう一度約束しよう! 今は頼りないかもしれないけど、でも、二人で暮らしていけるよう頑張るから。寄り添って、支えて、俺がいればそれで良いって、俺がいて良かったって、そう思ってもらえるような男になるから! だから、俺と結婚しよう!」

 白い手がアルバの手に重なる。

「……貴方は、それで幸せになれるんですか?」

 唇も声も震えていた。逃がすまいとアルバは指先に力を込めた。

「ディーアがいれば、それで良い。」

 水色が瞬く。クラウディアがほほ笑むとぽろりと白いほほを涙が伝った。ぎょっとしてアルバは手を放す。

「ご、ごめん! 痛かったっ?」

 クラウディアがふるふると首を横に振る。顔を上げてしっかりと笑みを見せてくれた。

「すみません。うれしくて。」

 きょとん、と目を瞬かせてからアルバもへにゃりと笑った。
 小さい頃は分からなかったその言葉の意味が今はよく分かる。胸の奥が熱い。満ちていくそれが目元までこみ上げそうだった。
 自分のそれはぐっと耐えて、後から後からあふれてくるクラウディアの涙を拭う。

 ……向かい合う二人の横にはまだ馭者が立っている。
 出発が遅れしまうと、いったいいつ言えば良いのか。馭者は助けを求めて一度屋敷へ視線をやった。二階の窓、こちらを見守っていたらしい人影が、部屋の奥に消えるのが見えた。
 再び二人を見る。そして、苦笑いでため息をついた。


 END