「アルバー? どーしたの?」
「え……あぁ、うん。」

 声をかけられて、はっと顔を上げた。椅子に座ったアルバの前、小さなトランクが開いたままベッドの上に放られている。廊下から部屋をのぞき込んでいたクレエがずかずかと入ってきた。

「大丈夫? 週末、父さんとあっちに行くんでしょう? 荷物、あたしが詰めてあげよっか?」
「いらないよ、大丈夫。」

 弟は首を横に振ったが、姉は既に実行に移っていて勝手にクローゼットを開けた。
 週末は見学に行くだけだが、夏に学園を卒業したら、アルバは親戚の家で働くことになっている。向こうは食べ物を扱う店で業種は違うが、商いの修行だ。しばらく社会勉強をさせてもらってから、最終的にどんな店で働くか決めようと父母には言われている。実家がこのまま上手くいっていれば、従業員の一人として戻ってくる可能性もある。
 ともかく、夏になればアルバはこの町からいなくなってしまう。そのことが寂しいのか、暖かくなるにつれてクレエも母もアルバに干渉するようになってきた。
 年始のパーティ以来、自分の様子がおかしいことも原因の一つだろうけれど。

「ちゃんと自分でやるから、あっち行けよ。」
「えー? ほんとー?」

 出されたジャケットを取り上げて、アルバは姉の背をぐいぐい押した。
 かつんっと乾いた音が響いた。背中へ回った弟へ文句を言っていたクレエが、クローゼットからはみ出していた何かを蹴ったのだ。
 手のひらサイズの箱がことんっと転がる。クレエが屈んで拾うのを、アルバは背中越しにのぞき込んだ。

「何これ? 何か入ってるの?」
「ああ、それは……、」

 廃材でこさえたのか、木目どころか本体と蓋で色もちぐはぐな木製の小箱。クレエが振るところごろと少し重い音がした。弟の言葉を最後までに聞かずに、ためらいなく小箱を開ける。
 かろん。それが転がる。
 入っていたのはガラス玉だった。直径は3センチに満たず、薄曇りの空のような灰色をしている。透明度も高くない、凝った細工があるわけでもない、ただのガラス玉。

「何これ?」

 繰り返してクレエは首をかしげた。アルバは苦笑する。

「昔、アイ姉にもらったんだよ。何だっけな、すっげぇ小さい頃、熱出した時だっけ?」
「ほぅ。お姉ちゃんにもらったものを、だいじーに箱に入れてたんだ?」
「ちげぇよ。アイ姉が入れたんだよ。なくさないようにって。」
「ふーん?」

 納得がいっていないようでクレエは再び首をかしげる。それをつまんで目の高さに持ち上げた。くるりくるり、とひっくり返して眺める。
 これをくれた日、アイビィも同じように陽に透かしていた。ベッドに身を起こしたアルバの隣に腰かけて。そうしてひとしきり見せてくれた後、悲しそうな顔をして小箱にしまったのだ。
 さらに額より高く掲げた所で、クレエが感嘆の声を上げた。

「へー。これ、灰色じゃないんだ?」

 アルバはクレエに並んでその手元を見上げた。窓から差す陽の光をガラス玉が透かす。水底に光が差したように視界いっぱいが淡い青にひたった。
 ああ、似ている。遠く、空を見つめるあの青に。
 そう思った瞬間、何かがアルバの頭をよぎった。今度こそその尾を捕らえることに成功する。

「あーっ!」

 耳元で叫ばれて、クレエがびくぅっと跳ね上がった。

 * *** *

 5歳の頃、アルバは同年代の子が苦手だった。親兄姉についてパーティに行くと、同い年の少年三人がアルバに意地悪をするからだ。周りの子は遠巻きに見るだけで助けてはくれない。だから、パーティに行くのが嫌だったし、10歳になって学園に入るのも嫌だった。でも、それを両親や兄姉に言うことは出来なかった。

 市場で花瓶を売っていた両親が店を持ったのは、クレエが生まれる少し前だったという。兄のトラモントが14歳、アイビィが11歳の頃、ようやく学費が工面出来たと両親は子ども達を学園に入れることにした。
 学園に入学出来るのは10歳以上からで、多くは遅くとも12歳までに入る。アイビィには同い年の級友がいたが、トラモントは学級で唯一4歳も年上だった。そうなると、子どもの間でも大人の間でも話題に上りやすくなり、その弟妹も注目を浴びていた。
 意地悪な三人は兄の同級生の弟達だ。あの三人が嫌いだと言えば、直ぐに理由は知られてしまうだろう。両親はきっと悲しむし、兄は自分のせいだと傷つくかもしれない。
 アルバはぎゅっと口をへの字にして耐えていた。

 ***

 ある日、パーティ会場の片隅で、アルバははぐれてしまったクレエを呪っていた。アルバを壁に追い詰めて件の三人がニヤニヤと笑っている。
 曰く、お前はダンスも習ったことがないんだろう、なのにダンスパーティにいるなんて、コーガンムチはなはだしい、とのことだった。コーガンムチって何だろう。けなされているらしいことは分かる。
 ここでアルバはうかつだった。ダンスくらい習わなくても踊れる、と言ってしまったのだ。ウソは言っていない。庶民はダンスなんて習わないが、みんな祭りやホームパーティで踊っている。しかし、楽しく音楽に乗れれば良いそれらと、社交の一つとして型が決まっている上流階級のダンスは別物なのだ。
 三人組はアルバが見栄を張っていると思って、ニヤリと口角を上げた。両側から抱えるようにしてアルバをフロアへ引っ張り出す。

「ほら、だれかさそってみろよ。」

 どんっと背中を押し出されてアルバはよろけた。目の前ではふわふわクルクルとドレスが翻って回っている。オルゴールの中に迷い込んだみたいだ。アルバはおろおろと辺りを見回した。
 お姉ちゃんかお兄ちゃんがいてくれれば!

「さっさとしろ!」

 三人分の強い力で押されて、アルバは吹っ飛ぶように転んだ。視界が青一面になり、ぼふんっと柔らかい布に埋もれる。

「きゃっ?」
「なにっ?」

 踊っていた、二人組の少女が悲鳴を上げた。アルバよりずっと年上で兄と同じくらいに見える。片方は金色の髪を結い上げており、もう一方は黒い髪を二本に編んで左右に垂らしている。アルバは、黒髪の少女のドレスにすがりついていた。
 ガラスにほんのり青を混ぜたような水色の瞳が、アルバの顔をのぞき込んでくる。

「大丈夫ですか?」
「ちょっとー、気をつけなさいよね。」
「ご、ごめんなさい、オレ……っ。」

 オレが悪いんじゃないのに。
 じわり、とアルバの目に涙が浮かぶ。
 黒髪の少女はアルバの後方、ダンスフロアを囲む人混みへふいっと目を向けた。きゅっと唇を引き結ぶと、アルバの腕をつかんで抱え上げるようにして立たせた。隣の少女へ振り返る。

「すみません、良いですか?」
「ふーん……まあ、良いわよ。」

 金髪の少女も同じ方へ目を向けると、じとりと半眼になった。ぽんぽんとアルバの頭をなでてフロアを出てしまう。アルバはうろたえた。

「なに……?」
「すみません、ちょっと付き合ってくださいね。」

 少女は先程までの困り顔を一転させて、ふわりと笑みを浮かべた。差し出された白い手を、アルバは思わず取ってしまう。音楽が切り替わる。それに合わせて少女はつないだ手をくんっと引いた。ぐるりっと彼女を軸にアルバが一回転する。

「わっわっわっ。」
「右手と左手はそのまま。足は左右交互に、言う通り動かしてください。」

 前、前、後ろ、後ろ。足をもつれさせるアルバを支えながら、少女がささやく。
 つないだ左手と彼女の腕にすがる右手に、緊張からぎゅうぎゅう力がこもる。足下を見ようとアルバはあごを引いた。そっと声が降りてくる。

「ダメですよ。顔は上げていてください。足、踏んじゃっても良いですから。」

 アルバを支える左腕にぐっと力がこもって、つないでいる手を引っ張られる。彼女が足を斜め前へ踏み出すと、そこを基点にくるりっと二人は回った。そのまま、くるくると回り出す。
 驚いて顔を上げたアルバへ、少女がそっとほほ笑む。視線をちらっと横に流した。三人組が目を見張ってこちらを見ている。

「あの子達はね、足下ばかり見ているから人にぶつかるんです。貴方はそんな風になってはダメですよ。」

 くるりくるり、世界が回る。奇麗に編まれた黒髪も踊るように揺れて、青いスカートと白いフリルが波打って広がる。一緒に、回っているのは自分だ。今、自分もオルゴールの一部だ。ふふっと彼女が笑う。

「そう、そんな風に笑っていてください。今日はお祝いなんですから、楽しく踊れたらそれで満点ですよ。」

 曲が終わる。少女がにこりと笑みを深くする。
 澄んだ川面のような淡い青が、やわらかく細められた。
 それを見上げているうちにアルバはくるんっと一回転させられた。手を放されて、ととっとふらつく。そこに一回り大きな影が飛びついてきた。人混みから飛び出してきたクレエだ。

「アルバすごーい! いつのまに、そんな おどれるようになったのっ?」
「いや、あの、」

 首が絞まる勢いで抱きしめられつつ、アルバは何とか振り返る。少女と目が合うと、彼女はほほ笑んで手を振った。隣に金髪の少女が戻ってきている。
 次の曲が始まると、クレエの体が離れた。両手をつかまれて、ぐいんっと乱暴に振り回される。クレエはご機嫌だ。アルバは転ばないようにするのでやっとだった。
 二曲目はとてもダンスと呼べるものではなかったが、三人組はとっくにいなくなっていて、アルバを馬鹿にすることはなかった。少女も、いつの間にかいなくなっていた。

 ***