そのはずなのに。
アルバは逃がしていた視線をちらっと上げた。ぱちり、水面をすくい上げたような澄んだ水色と目が合う。向かいの女性がにこりとほほ笑んだ。知らずほほが熱くなる。
豊かな黒髪が首の横でゆるりと一つにまとめられて、肩から胸へこぼれている。シャツは首が詰められていて、銀ボタンが二つ留められていた。露出も装飾も抑えられた格好は年齢によるものだろうか。いや、10年前でも彼女が鎖骨を露わにしてネックレスを提げいる様子は想像しにくい。伏し目がちなやわらかい表情を見て、アルバはそう思い直した。
彼女はクラウディア。いくつもの細工物工房を抱える大きな商店、”スワロウ工房”の娘で、アルバと丁度10歳離れた25歳だ。今は女学園でダンスを教えているという。こうして向かい合うと、銀ボタンの細工が精巧なことも、ドレスの仕立てと布地が一級品であることもよく分かる。
アルバと父、クラウディアとその父親、そして中年の男女が一組。一行はフラワーガーデンが見えるラウンジでお茶を囲んでいた。ここは仲人を務める夫婦の屋敷だ。
そう、仲人である。これはいわゆるお見合いだ。
おっさん三人がはっはっはっと笑い、女性二人がおほほうふふと続くのを、アルバは遠くに感じていた。ここには「良いから、良いから」と兄によって連行されてきたのだ。父に異議を唱える暇もなかった。
何でだ。何でこんなことになっているんだ。
思考の沼に片手を突っ込んで、答えの出ない問いをぐるぐるとかき回す。
「おじさま、今お庭にグラジオラスが咲いているんですね。」
これまでおっさん共の話に応えるだけだったクラウディアが、初めて自主的に口を開いた。
「先程話にも出た、弟考案の襟留め、あの花がモチーフなんです。拝見してきてもよろしいですか?」
「ええ。今が見頃なんですよ、ぜひご覧になってください。」
「ありがとうございます。アルバさんもいらっしゃいませんか?」
「へ?」
やわらかな声が突然こちらに向いて、思わず間の抜けた声が出た。つられて間抜けな顔をさらしているはずだと気がついて、慌てて顔を引き締める。
「え、ええ。ご一緒させていただきます。」
うわずりながら立ち上がった。
***
道しるべ代わりの敷石をたどっていくらか行くと、隣のクラウディアがふぅと息をついた。アルバを見上げる。
「付き合わせてしまってごめんなさい。じっとしているのに疲れてしまいまして。」
「いや、俺もしんどかったので助かりました。」
クラウディアに聞かれていなければ良いのだが、先程立ち上がった時にゴキッという音がした。彼女も似たような状態だったのだろうか。ちらりと様子をうかがうが、背筋を伸ばし指先までそろえた立ち姿には疲れなど一切見えない。さすが女学園の教師を務めているだけある。
前方へ視線を戻して、アルバはぐっと詰まった。
トの字になった道を真っ直ぐ行った先に、紫の花が並んで揺れている。そこまで行く途中で左手側に大きな池があった。水草が浮く水は澄んでいて、金と赤の魚がひらっと身を翻す様がよく見えた。
通りたくない。
アルバは池や川が苦手だ。水辺に立つと気分が悪くなる。小さい頃、いじめっ子に突き飛ばされて池に落ちたのが原因だ。その後は風邪を引き、なかなか引かない熱のために三日ほど寝込んだという。その辺りのことはほとんど覚えていないが。
どうしよう。水が怖いなんて言いたくない。かといって訳も話さず場所を入れ替えて、右側に移ったら不審に思われるだろう。
行くしか、ないのか。ぐっと唇を引き結んで腹に力を込める。
と、目の端からふいっと黒い頭が消えた。驚いて振り返るとクラウディアは道を曲がっていた。右は右で白と黄色の花が咲き乱れている。
「襟留め、今作っているものは花の部分が白い石で出来ているんですが、黄色でもかわいいでしょうね。」
「あ、そうですね。」
ガラスも扱っている花瓶屋として、もっと気の利いた返答があるはずなのだが、水から離れられた安堵が先に立って上手く言葉が継げない。アルバはさわさわと揺れる花を見た。
真っ直ぐ伸びた茎に花が縦に並んで咲いている様子は、串に刺さっているみたいで面白いとは思う。しかし、クラウディアの鼻先まで高さがあるそれらが群生し、時折揺れると迫力があった。
かわいい、かわいいかなぁ。いや、襟留めのデザインはこのような茂みではなくて、一本か二本なのだろうけど。
クラウディアが足を止める。ふわりと笑みを浮かべて、黄色いラッパ状の花をのぞき込んでいる。花の列を見渡したアルバは脇にベンチを見つけた。三人掛けには狭く二人掛けには広い。クラウディアに勧めるかどうか悩む。自分達は座っているのに疲れて庭に出てきたのだから。
「驚いたでしょう?」
「え?」
「こんなおばさんを紹介されるなんて思わなかったでしょう?」
肩越しに振り返ったクラウディアはいたずらっぽい笑みを浮かべていた。一泊遅れてアルバは首を横に振る。
「いや、いやいやいや、アイ姉、じゃなかった、姉とそんなに歳変わりませんよね?」
クラウディアがくすくすと笑う。花に向き直ると白い指で三角にとがった花びらをつついた。
「父は焦っているんです。私の同級生が次々と結婚して、年下のアイビィさんも婚約なさったでしょう? 私はいつまで独り身なのかと嘆くようになってしまいまして。」
「心配せずとも、クラウディアさんなら引く手あまたでしょうに。」
「卒業して10年近くも独り身なのに?」
えーと。アルバが言葉を探してパクパクと口を開閉していると、クラウディアがふふっと笑みをこぼした。
「私が悪いんですよ。結婚する気なんて、これっぽっちもないんです。父も、私が教師になるのを認めてくれた時点で、諦めてくれたと思っていたんですけどね。」
クラウディアが顔を上げる。花の向こう、遠く空を見つめているようだった。
「慌てて片付けなくたって、もうすぐいなくなるのに。」
花を見ていた時と同じく彼女は笑みを浮かべている。それなのに、その横顔はひどく寂しそうだった。何かがアルバの中でひらめくが、ひらりと逃げてしまって捕まえることが出来なかった。
「そろそろ戻りましょうか。」
そう声をかけられるまで動くことが出来なかった。目を離した隙に彼女が消えてしまいそうで。
***
肘掛けにジャケットを放ってソファで休んでいると、友人宅から帰ってきたらしいクレエが駆け寄ってきた。
「どうどう? クラウディア先生、きれいだったでしょー?」
まるで自慢するように誇らしげだ。
「知ってんの?」
「もちろん。あたし、先生にダンス習ったんだもん。」
クレエは行儀悪く後ろからソファの背もたれにのしかかった。横から顔をのぞき込んでくる。
「で、で、先生どうだった?」
「どうって言われても。……アイ姉とちょっと似てる?」
しゃべり方とか、ふんわりした笑みとか。
クレエがニヤニヤと笑みを浮かべる。
「ほほーう? つまり、気に入ったと?」
「はあ? 何でそうなるんだよ。」
「だって、アルバってばお姉ちゃん大好きじゃーん。」
「ちげーよ!」
むっとしてクレエをにらむが、姉はニヤニヤを引っ込めない。アルバはぷいっと顔を背けた。ふと、クラウディアの言葉を思い出した。クレエはとっくに学園を卒業しているが、後輩とも仲が良いから何か知っているかもしれない。
「クラウディアさんって、どこか行っちゃうのか?」
「うん?」
「今日、そんな感じのこと言ってたんだけど。」
ぱちぱちと目を瞬かせてから、クレエは悲しげに眉尻を下げた。
「あの話、本当だったんだ。うん。新しく出来る学校に呼ばれてるんだって。トルナドだって聞いたよ。」
「……遠いな。」
ここからずっと東に行った町だ。父の友人がいる町でなければ名前も覚えられないほど、アルバもクレエも縁遠い。
クラウディアは父親が焦っていると言っていたが、それは娘をこの町に引き留めたいからかもしれない。
「クレエちゃん、ショールをほっぽっちゃダメですよ。」
ひよこ色の布を腕に掛けてアイビィが部屋に入ってきた。クレエが弾かれたように立ち上がる。
「わ、ごめーんお姉ちゃん!」
慌ててアイビィからひよこ色を受け取り自室へと駆ける。
夏だからショールで済んだが、クレエは他に関心ごとがあるとその辺に抜け殻を残す癖がある。よほどアルバから先生の話が聞きたかったらしい。
ため息をついたアルバは視線を感じて顔を上げた。追って横を向くと、アイビィが所在無げに身を縮めていた。困ったように眉を寄せてこちらを見つめている。
「? どうしたんだよ、姉さん。」
「ディーア先輩……、クラウディア先輩に会ったんですよね?」
アルバは目を瞬かせた。確かにクラウディアはアイビィの先輩にあたるが、アイビィの入学が遅かったことも手伝って、在学期間は一年しか重なっていないはずだ。
「クラウディアさんと親しかったの?」
「親しいというか、お世話になったんですよ。学園になじめなかった頃に、何度か話を聞いていただいたんです。……ところで、」
アイビィが心持ち距離を詰めてくる。
「先輩、何かおっしゃってましたか?」
「いや……?」
アルバは首をかしげる。特別にアイビィの話をした記憶はない。アルバをじぃっと見つめてから姉は悲しそうに目を伏せた。
「……変なこと聞いてごめんなさい。」
ふいっときびすを返す。しょんぼりと肩を落としたまま部屋を出て行ってしまった。
***
クラウディアが何か言ったのか、はたまた何も言わなかったのか、二人の縁談はそれきり続かなかった。
しかし、学園を中心に交友関係が重なるのだろう、パーティではよく顔を合わせた。話をしたことで学生気分がよみがえったのか、クレエがクラウディアを見つけては突撃していくのだ。アルバも姉を追いかけて挨拶をする。
本当に、挨拶だけだ。先生を慕う10歳そこらの淑女達を、姉とそろって蹴散らす気にはなれない。邪魔にならないように直ぐ退散するようにしている。
踊ってきたらどうだ、と兄に何度かつつかれたが、その度にアルバは顔をしかめた。
***