直径3センチ弱のガラス玉。薄曇りの空を固めたみたいな灰色だ。少女の指につままれたそれを、少年がじっと見つめる。
 窓から差す陽光にかざすと、光を集めて水色に透き通った。
 部屋を満たす淡い青に誘われて、少年は布団をはね除けるように身を乗り出す。

「わぁ、きれいっ。きれいだな、アイねえっ。」

 はしゃぐ少年に姉は苦笑をこぼす。小さな手にそっとガラス玉を握らせた。

「くれるのっ?」

 ぱぁっと顔を輝かせた少年は、顔を上げて、はっと我に返った。握った手を姉へ突き出す。

「……いらない。」
「どうしてですか?」
「だって、アイねえ、かなしそう。」

 きゅっと唇を引き結んで、姉は首を横に振った。

「これは、貴方のものなんですよ。貴方の宝物なんです。だから、絶対、なくしちゃダメですよ。」

 ***

 なめらかなタイルが敷き詰められたホールに、ゆるく弧を描くように楽団が並んでいる。彼らが奏でる曲とじゃれるように、人々はくるくると回る。
 今日はある大商人の末娘の誕生日だ。商家が開くパーティであれば、取引先や同業者が多く招かれるのが普通だが、六人の孫を溺愛する大旦那様は、孫達の交友関係を中心に客を呼ぶことを許していた。10代後半の少年少女が、跳ねるようなステップでフリルやジャケットを翻している。

 一団の一角に一組の男女がいた。少年は15歳ほど、女性は20代に上がったばかり。赤みがかった茶髪と、目尻のつり上がった顔立ちがよく似ていることから、姉弟だと直ぐに知れる。
 少年がつないでいる方の手をすいっとすくい上げると、二人は組んでいた腕を解いた。姉は片足を軽く後ろへ滑らせて、つないだままの手をくぐるように回転してみせる。一回、二回、夕日を映した雲のような淡いオレンジのドレスが、風を含んで柔らかく広がる。
 姉弟は向かい直って再び腕を組む。姉がふふっと笑う。少年、アルバが首をかしげる。

「何? 楽しそうだな、アイ姉。」
「ええ。アルバ君と踊るの久しぶりですから。」
「久しぶりって、アイ姉の婚約パーティからそんなに経ってないはずだけど。」

 不思議そうにするアルバへまた、アイビィは笑みをこぼす。
 つなぐ手をくっと肩より後ろに引く。アルバが左足も引くのに合わせて、アイビィは右足を踏む込む。ぴたりと張り付けたように二人は足を運ぶ。両面に色を付けた板を翻して遊ぶように、オレンジのドレスとクリームのジャケットがくるくる回る。
 アイビィの踊りは習った以上の振り付けはない型通りのものだ。洗練されているというわけでもない。学園を卒業したものなら誰でも出来る、目立たない踊り。それでも、いつもふんわりと笑みを浮かべ、ターンする度に上手くいったことを喜ぶように笑みを深くする様は、社交としては悪くない。

「ずーっとアルバ君に相手をしてもらっていましたから。間が空くと何だか懐かしくなります。」
「そういうものかな。」

 アルバは苦笑する。アイビィがつま先を軸にくるりと回る。

「アイビィ。」

 男の声が、やわらかく姉を呼んだ。声の方、栗色の髪をなでつけた青年を見つけて姉がほほ笑む。そのほほがうっすらと赤くなるのをアルバは見た。
 曲の変わり目でアルバは手を解いた。ぱっと横に出たアイビィの白い手を青年が取る。アイビィはアルバへ振り返って笑みを見せてから、くるくると遠ざかっていった。
 見送るアルバの胸へ、ぴょんっと少女が飛び込んできた。赤みがかった髪をアップに結い上げた少女は、姉や弟とそろいのつり目をニヤニヤと細める。

「何々? お姉ちゃん取られてさびしーの?」
「うるさいぞクレ姉。」

 髪を乱そうと伸びてきた右手を、アルバはがしりと捕まえた。そのままぐんっと乱暴に引いたが、下の姉、クレエは意に介さず、跳ねるようなステップでついてくる。

「あたしもアルバも、お兄ちゃんやお姉ちゃんが傍にいるのが当たり前だったもんねー。二人に大事な人が出来ちゃうと、欠けちゃったみたいでさびしーよね。」
「……俺は別に。」
「またまたぁ。」

 クレエがけたけたと笑う。アルバは顔をしかめた。
 おっとりした長女と、一人でもかしましい次女、この差はどこでついたのだろう。

「クレエちゃーん!」

 三人で輪になっている少女達に呼ばれて、クレエはぐいと弟を引っ張った。しかし、アルバは手を解いてしまう。

「アルバ、行かないの?」

 小さい頃ならいざ知らず、思春期の弟に姉の友人と4対1に挑めというのかこの姉は。

「俺は良いよ。」
「えー?」

 クレエは不満そうにほほを膨らませたが、もう一度呼ばれると諦めて三人の下へ駆けていった。アルバはため息をつくと、人の間を縫ってフロアの端へと出た。

「……アルバー……」

 音楽に紛れて自分の名を聞いた気がして、アルバは顔を上げた。シャンデリアのきらめきにちょっと目を細める。二階の吹き抜けからこちらを見下ろす、少年二人を見つける。大きく手を振る彼らに振り返して、アルバは階段へ向かった。

 歓談スペースになっている二階に上がると、友人達は手すりに背を預けたまま出迎えてくれた。一人がチキンを盛った皿を抱えていたので、一つ失敬する。

「あ! こら!」

 取り返そうと伸びてきた手を避けて、アルバそれにかぶりついた。

「ああ。スパイスの効いた甘辛さがが染み渡る。」
「勝手に取るな!」

 これ以上取られまいと少年は腕で皿をかばう。アルバは気にせずムシャムシャとかじる。もう一人はクスクスと笑いながら、果汁の注がれたグラスを傾けた。

「相変わらず、アルバはお姉さん達としか踊らないね。」
「そんなことねぇよ。」
「いやいや、上から見てたけど、完全にそうだっただろ。」
「アイビィさんが婚約して、ようやく姉離れ出来たかと思ったのにねー。」
「うるせーな。」

 アルバは唇をゆがめた。

 兄姉が学園を卒業した頃、家の商売はさらに上向いた。途端に、長女のアイビィに言い寄る男が増えた。そいつらをアルバが必死で蹴散らしていたことを、騒ぎが収まってからも友人達はからかってくる。
 自分は弟として当然のことをしたとアルバは思っている。姉は眉を八の字にして困っていたし、父だって釣り書きをはね除けていた。それに、アルバが小さい頃、アイビィは金目当ての男につきまとわれて泣いていたことがあるのだ。もう二度と、そんな男はアイビィにもクレエにも近づけてはならない。

「つーか、ジョーこそ婚約者とはもう踊ったのかよ?」

 話の向きを曲げると、チキンを抱えた少年がぎくりと身を固くした。もぐもぐと一口そしゃくして、ごくんと飲み込む。

「……まだ。」
「何やってんだよ。まさか壁の華させてるんじゃないだろうな。」
「女子で踊ってるからそれは平気。」
「この間足踏んじゃったの、まだ気にしてるんだよねー。」
「だぁぁぁっ! うるせーっ!」

 ジョーがかっと耳まで赤くなる。骨を握ったままの手を振り回した。

「アルバもケビンも今すぐ見合いしろ! 俺と同じ苦しみを味わえ!」

 暴れる骨から距離を取ってケビンが苦笑した。

「うちは今、妹で忙しいからねぇ。」

 貧富に関係なく、男性はある程度仕事の基盤が出来てから結婚を考えるのに対し、学園に通う女性の大半は卒業の前後に婚約する。そして、男女問わず家柄、資産、器量の総合ポイントが高ければ高いほど縁談は膨れていく。
 ケビンの家のように、そこそこもうかっている商家に美人の娘が生まれれば、親は早いうちから求婚者をさばくのに追われるため、自然と男兄弟はほったらかしにされる。
 アルバは指で挟んだ骨をぷらぷらと振った。どこに捨てれば良いのだろう。

「うちは自由恋愛主義だしなぁ。」

 結婚当時は店すら持っていなかった両親はもちろん、現在婚約者がいる兄も姉も見合い未経験者だ。

「おのれー!」

 ジョーの顔が赤みを増す。ケビンがなだめにかかる。アルバはため息をついた。

「そうビビることないだろ。今日は誕生日パーティなんだ、楽しんで踊れればそれだけで満点なんだよ。」
「へぇ。良いこと言うね。」
「アイ姉の受け売りだけどな。」

 感心するケビンに応えて、アルバは手すりから身を乗り出した。件の婚約者を探す。
 他の女子とならすまし顔で踊るくせに、ジョーがこんなにも及び腰になるのは婚約者のことを憎からず思っているからだ。見合いをしたいとは思わないけれど、そんな相手に出会えたことは少しだけうらやましい。
 最高学年に上がったとはいえ、まだ学生であるジョーに婚約者がいるのは貴族の一人息子だからだ。
 対して、アルバは市場から出発した花瓶屋の一代目の、第四子。健康で商才もある兄のおかげで予備としての価値もない。己で探らなくては明日の居場所もない身だ。
 アルバのような立場の者に、わざわざ大事な娘を託そうと思う親がいるはずがない。

 ***