石作りの家々が並んだスロープ状の道を、小さな影が転がって行った。
 白いシャツに焦げ茶色のズボンとチョッキ、上からすっぽりと覆う色あせた緋色のマント。6歳かそこらであろう少年は、マントを翻して脇目も振らず駆けて行く。ずれたフードからこぼれた金の髪を見て、擦れ違う人々は苦笑をもらす。

 やがて、針と糸巻き、ハサミを模した飴色の看板が視界に入ると、少年は翡翠の瞳を輝かせた。その店の横に曲がり、裏へと回る。
 あまり陽当たりが良いとは言えぬその場所では、木と立てた棒の間に張ったロープに、少女がぬれた衣服を掛けていた。長く黒い髪を緩く束ねて、ベージュのブラウスと茶色のスカートの上からエプロンを着けている。16歳ほどだ。
 腰を屈めて、足下の籠からシーツを引っ張り出す。ふんふんと機嫌良さそうに歌を口ずさみながらロープへと延び上がる、彼女のスカートに少年は思い切り飛びついた。

「フィナーっ。」
「きゃあっ?」

 驚きに飛び上がった少女は、シーツを取り落としてしまった。バサッと地面を覆うそれを慌てて拾いつつ、振り返る。緋色の下からのぞく大きな丸い目に見つめ返されて、眉をひそめる。

「ダメですよ。また、こんな所にいらっしゃって……。」
「フィナー。あそぼ、あそぼ。」
「……聞いてませんね。」

 きゃっきゃっとうれしそうにエプロンを引っ張る少年に、フィナと呼ばれた少女、フィラアナはため息をついた。

「もう……。今頃、皆さんが心配してますよ?」
「だいじょーぶっ。もうみんな、ボクがフィナのとこにきてるって、しってるからっ。」
「そういう問題じゃないですよ……。」

 ため息を深くしてほほを押さえるフィラアナから離れて、少年が籠をのぞき込んだ。

「これ、そこにかけるの? ボクもやるー。」
「やらなくて良いですから、大人しくなさってて下さい。お茶お入れしますよ、お菓子召し上がりますか?」
「おかし、なにっ?」

 ぱっとフィラアナを見上げて翡翠が輝いた。裏口に向かう彼女に、慌ててついて来る。

「カップケーキですよ。さっき焼いたんです。」
「わぁーいっ。」

 少年はぴょんぴょん跳ねた。踊るような足取りで家の中へと飛び込む。
 ダイニングに入るなり、ひょいっと椅子に乗り上がった。フィラアナが目の前に菓子を置いてやると、まだ紅茶も入っていないのに、小さな手でつかんでかぶりつく。丸いほほがケーキをほお張ってさらに丸くなった。少年は、機嫌良くぱたぱたと両脚を振る。

「んー、おいしーっ。フィナは りょうり じょうずだよねー。」
「そりゃどうも。」
「やさしーし、はたらきものだしー、いい およめさんになるよねー。」

 うたうのに合わせて、少年は右、左、右と体をかしげる。

「はあ。」

 また始まった。
 そう思いながら、フィラアナは相づちを打つ。

「ねーねー、ボクのおよめさんになってよ。」

 本日三度目のため息をつく。

「ですから、無理ですってば。」

 ***

 フィラアナは、国境近くの城下町に住む仕立屋の娘だ。決して裕福ではないけれど、父も母も働き者で、一家は幸せに暮らしている。
 フィラアナは父を尊敬していて、仕事を手伝いながら自身も仕立屋を目指していた。

 その日、フィラアナは買い物に出ていた。伯父が営む薬局に寄ってから、父に頼まれたお使いのため市場へと向かった。さて目的の店はどこだろう、と視線を適当に投げた先、小さな子供がうずくまっているのを見つけた。にぎわう露店から離れた建物の影で、深緑の布を頭から被っている。
 衣服から素直に判断するなら、男の子だ。脚を抱える手や、ちらりとのぞくほほが雪のように白い。見れば被っているジャケットも、転んだのか汚れてしまっているズボンも、華美な細工こそないが上質なものだ。放って置けば、良からぬ者に目をつけられるかもしれない。
 フィラアナは巡回しているはずの憲兵を求めて、きょろりと辺りを見た。運の悪いことに、人混みの向こうへと見慣れた制服が遠ざかって行くのを見つける。何か事件が起こっている訳でもないので、声を張り上げる勇気が出ない。追いかけるべきか悩んで、あの小さな子を一人にする方が怖いと、子供の方へ駆け寄った。

「どうしたの? どこか痛いの?」

 声をかけると、深緑越しに小さな頭が跳ねた。戸惑うように間を置いてから、少年がこくっとうなずいた。

「どこが?」
「……あし。」

 返された声はか細くて、雑踏にかき消えてしまいそうだ。フィラアナは少年を抱き上げるようにして立たせると、側の木箱に座らせた。しゃがみこんで、指さされた右足の靴を脱がせる。白い足首が腫れていた。

「捻挫だね。……確か、」

 フィラアナは自身の足下に放っていた編み籠を振り返った。そそっかしい母を心配して伯母が持たせてくれた物の中にあれがあった、はずだ。大した物の入っていない籠の中、目当ての物はすぐに見つかった。
 小さな瓶とハンカチを取り出すと、髪を束ねていたリボンを解く。瓶の中の緑色のペーストをハンカチに塗りたくる。少年の足首にハンカチを当てると、リボンでくるくるっと固定した。
 ふうっと息をついて、フィラアナが顔を上げると、大きな瞳がこちらを見つめていた。透き通った緑に涙の膜が張っていて、宝石のようにきらめている。えっと、と口ごもって、フィラアナはリボンの上から足首をなでた。

「痛いの痛いの、飛んでけーっ。」

 翡翠の瞳が瞬いた。その拍子に、張っていた膜が雫になってこぼれた。じぃっと見下ろしたまま反応を寄越さない相手に、フィラアナは恥ずかしげに笑う。

「ズボン、破けてるね。直してあげようか?」
「……できるの?」
「服屋さんの娘だもの。」

 編み籠を引き寄せて、今度は革製の丸いケースを取り出す。そこから針と糸を取る。チクチクとズボンの裾を縫いながら、フィラアナは少年に問いかけた。

「どこから来たの? 一人で帰れる?」
「……おこられるから、かえりたくない。」
「どうして怒られるの?」
「かってに そとでて、ふく やぶいたから。」

 こんな小さな子が突然いなくなっているなんて、気がついた両親は胸がつぶれるような思いをしているかもしれない。

「服なら私が直してあげる。お家に帰ろう? ご両親が心配してるよ。私もついて行ってあげるから。」
「……ほんと?」

 翡翠がすがるように見つめてくる。フィラアナは微笑んでうなずいた。

「うん。本当。」

 針をケースへ、ケースを籠へとしまって立ち上がる。少年へ両腕を差し出した。

「さあ、お家はどこ?」

 もし迷子なら、今度こそ憲兵を探さなくては。
 少年はフィラアナの腕を支えに道へ出ると、ぐっと空を見上げた。積まれたレンガに縁取られたその向こう、町一番高い場所に建てられた塔を小さな指が示す。

「あっち。」
「うん。」

 城を挟んで反対側は、そこそこ身分の高い人が住んでいる。やっぱり良い所の子だ。

「ボク、おしろからきたの。」
「……うん?」

 耳に届いた言葉を上手く処理できなくて、フィラアナは首をかしげた。

 ***

 あれから約半年経ったが、今も領主様の末息子は、小さな仕立屋に週四回のペースで通っている。
 そして、町娘Aとでもいうべき取るに足りない少女に、ほぼ毎回のように結婚を迫っていた。仕事を奪われるのかと、領主様御用達の仕立屋がフィラアナの父をにらんだり、城と仕立屋をつなぐ道の警備が厳しくなったりしたが、一家の生活に特に変化はない。町の誰もが、好奇心旺盛な子供を微笑ましく見守っている。
 フィラアナも、小さな子供の言うことだと、本気にはしていない。
 一年前、彼の一番上の兄がそれは美しい花嫁をもらったものだから、結婚というものに興味が湧いているのだろう。加えて、庶民の娘がもの珍しいに違いない。

 紅茶も菓子も食べ終えたのか、裏庭で洗濯物干しを再開させていたフィラアナの傍へ、少年が寄ってくる。翡翠の瞳が、下から顔をのぞき込んでくる。

「ミブンのことなら、きにしなくていいよ。父さまも母さまも、兄さまたちだって、フィナがいいこだって、しってるもん。きっと、みとめてくださるよ。」

 黙って仕事を続けるフィラアナを、とてとてと追いかけてくる。

「あのね、ボク、フレード兄さまのちいさいころに、そっくりなんだって。フィナもしってるよね、にばんめの兄さま。だから、だいじょーぶだよ。ボクもすぐ、兄さまみたいな、おっきくて、かっこいい、トノガタになるんだから。」
「そうは言っても、」

 空っぽになった籠を持ち上げて、フィラアナはようやく口を開く。

「どんなに早く大きくなっても、大人じゃないと結婚は出来ませんよ。私もまだ成人じゃありませんし、クリス様もあと12回も誕生日が来ないと結婚できないんです。12回ですよ、12回。」

 少年にとって、これまでの人生の二倍もの月日だ。気が遠くなるだろう。そう思ったのに、少年は丸いほほを膨らませてにらんできた。

「わかってるよ、そんなのっ。」

 今にも泣き出しそうに、翡翠が潤む。

「そうだよ。ボクはフィナより、10ねんもかかるんだ。その間に、ほかのひとがフィナとけっこん しちゃうかもしれないじゃない。2ねんたってすぐ、フィナはおよめに いっちゃうかもしれないじゃない。」

 ぽろぽろと雫が落ちる。腫れたように真っ赤になったほほがぬれていく。

「だから、いま、やくそくしなくちゃ だめなんだ。」

 しゃくりあげるのを堪えて、声が震えていた。気がつかれないように、フィラアナはこっそりとため息をつく。

「分かりました。約束しましょう。」

 しゃがみこむと籠を脇へと退けた。丸いほほを両手で包み込んで、親指で涙を拭う。

「クリス様がフレルナード様みたいな、大きくて格好いい男の人になっても、成人して立派な大人になっても、それでも、私が必要だと仰るなら、結婚いたしましょう。」
「……ほんとっ?」

 ぱあっと翡翠の瞳が輝く。フィラアナは微笑んだ。

「はい。本当です。」
「じゃあ、ほかのひとと、けっこんしない?」
「しません。」
「じゃあじゃあ、じゃあ、やくそくだよっ。」

 丸いほほが今度は喜びで色付く。小さな体がぴょんっと胸元に飛び込んできた。受け止めて、フィラアナは金色の柔らかい髪をなでてやった。

 ***