十八話 安兵衛対風魔


 降りしきる雨の中、前を走る男たちの背中がぐんぐんとせまる。最後尾を走る風魔衆が安兵衛に気づいた。だが、安兵衛はそれにはかまわず、彼の横を駆け抜ける。


「ぎゃ!」


 風魔衆が短い悲鳴をあげて倒れる。さらに二人目、三人目。次々と倒れていく。だが、四人目の横を通り抜けようとした時であった。


「跳べ!」


 前の方から静かでありながら、鋭い声があがったかと思うと、四人目が指示通り真上に跳ぶ。次の男も、その次も、遂には先頭を走る男まで、真上に跳んだ。
 安兵衛の奇襲の成果は三人に留まった。安兵衛は、風魔衆を抜き去ると、大きく弧を描いて彼らの正面に立ち塞がった。風魔衆の足がとまる。


「なに奴だ!」
「なんのまねだ!」
「殺されたいか!」


 風魔衆から即座にあがる声は、先頭にいた大きな金棒を背負った筋骨逞しい巨漢が片手をあげることでおさまった。男は獰猛な笑みを浮かべ、大地を揺るがさんとするような大声で吠える。


「いちいち狼狽えるでないわ、未熟者めらが! 相手が誰であろうと、思惑がなんであろうと、立ち塞がれば例外なく血祭りあげるだけのことよ!」


男の恫喝(どうかつ)は、安兵衛を警戒させ、他の風魔衆を振るい立たせるだけの力を持っていた。それでも、安兵衛は思う。


(……この男じゃない)


 安兵衛の鉄脚の足首にあたる箇所から、雨と血に濡れた刃が、地面に対して水平にのびている。これが、一昨日の夜、そしていま三人の男を地べたに這いつくばらせたものの正体。
 人が殺し合いの場において、注意を特に向けるのは、相手の手である。それは、こちらの命を刈り取ることを可能とする武具を扱うことができるのが、基本的に手だけであるからだ。しかも、自分の視点と同じ高さの者が正面から高速で接近してくれば、自分の足元にまで注意を払うのは至難の技である。
 安兵衛の鉄脚の刃は、まさに人間の意識の外をついたもので、安兵衛はただ走り抜けるだけで多大な戦果をあげることが可能であった。
 ……だというのに。
 後方からの安兵衛の奇襲に対し、『跳べ』と指示したものがいる。それも集団の前の方から。人が邪魔で安兵衛が何をしているかなど見えなかったであろうに、冷静に的確に指示をだした者がいる。それは集団の大将格のように見える、力強く吠えた目の前のこの男ではない。
 安兵衛は大きく息を吐くと、再び石臼を回して走りだす。今度は先ほど通り抜けたのとは逆側に。
 正面から安兵衛と相対した風魔衆は、今度は誰一人として鉄脚の刃に引っかからなかった。刃の届く距離にいた者はことごとく見事に跳んでみせた。
 狙われる箇所がわかっていたとはいえ、見事な対応力、見事な反射神経である。


空座(からざ)!」 


 風魔衆の最後尾を抜けた安兵衛の耳がピクリと反応した。
 この声だ。先程の静かでありながら鋭き声。


「おう!」


 その声に応えた別の男が、安兵衛に向かって走り出す。なんとその男は生身の足でありながら、安兵衛に並んでみせると、飛んで鉄脚の刃を躱し、安兵衛を忍刀で斬りつける。
安兵衛の右手の手首から先が飛んだ。斬られたひょうしに体勢が崩れ、右脚の刃が地面に当たり折れる。折れた刃は大地に跳ね返され、安兵衛を跳んで斬りつけた男の脇腹に深々と突き刺さった。
 安兵衛はなんとか片手で石臼を回し、体勢を立て直し、風魔衆から少し距離を置いた位置で再び旋回し風魔衆と向き合う。
 見れば刃が刺さり倒れた男に、先程の大将格の男が、金棒片手に走り寄っているところであった。


「がはは! でかしたぞ、空座!」

「お、おう。はがん―――」

「あとは儂らに任せて逝け」


言うが早いか、大将格の男は倒れていた男の頭を金棒で叩き砕いた。


「……命があれば指導役くらいはさせれたものを……」


 集団の中から零れた小さな呟きは誰の耳に届くことなく宙に消える。


 大将格の男は安兵衛を見て笑った。


「どうだ、小僧。まだやるか? もう我らにとって、きさまは脅威にはならんぞ」

破顔丸(はがんまる)、油断するな。こやつ、おそらくお頭の書状にあった八犬士の一人であろう。まだ奥の手を隠しているやもしれん」


(ああ、この声だ。あいつか……)


集団の中から一人、破顔丸と呼ばれた男に歩み寄る青年の姿を安兵衛は捉えた。色白ではあるが、知性も精悍さも持ち合わせているように見える美男である。


「よく見ろ、静馬(しずま)。あやつがあの速さで駆け抜けたのは、あの石臼を回していたがゆえであろう。片手ではろくに回せまい。空座は詰めが甘かったが、最低限の仕事はしおったわ」


 安兵衛は自身の右手を見る。斬られた手首から血がとめどなく流れている。だがそれは命をすでに捨てている安兵衛にとってたいした問題ではない。その気になれば片手でも命尽きるまで全力で石臼を回すことはできる。
 問題は強さを増した雨である。
 鉄脚はすでに全体が濡れている。実はいまの安兵衛の速度は、昨日や一昨日と比べると、明らかに遅かった。鉄脚の動力部に流れなければいけない呪いの力が、鉄脚の外面にまで逃げてしまうのである。しかも、逃げた力の一部は水を伝って、安兵衛の生身の部分にまで流れてきていた。一昨日の夜と比べると三割は遅く感じるのに、心臓にかかる負担は倍に感じる。雨の影響がこんなにも大きいとは安兵衛の想像を超えていた。
 

(ここまでか)


 安兵衛は覚悟を決める。胸の内で生野たちに謝り、そして願う。どうか自分の分まで、安房に残る家族の将来を救ってくれと。ここにいる風魔は全て倒すからと。


「我、仁を貫くは、我が命を全うするが如く!」


 安兵衛が呪文を唱え直すと、二つの半珠の輝きがより一層増した。
 安兵衛が片手で石臼を回す。今度は左右どちらにもいかぬ。風魔衆へと正面からまっすぐに。
 風魔衆から棒手裏剣が複数飛び、そのうちの二本が安兵衛の胸に刺さる。だが、そんなものでは止まらない。風魔に肉薄したところで、安兵衛は石臼から手を離し、安兵衛の鉄脚のつけ根に取り付けられた『仁』の半珠を右手首で、『如』の半珠を左手で強く押し込んだ。
 正面から安兵衛を打ち据えようと、金棒を振り上げていた破顔丸が、金棒を渾身の力で振り下ろしたが、金棒は地面に大きな穴を開けただけ。破顔丸の両脛に持ち主をなくした鉄脚が勢いよくぶつかり、破顔丸はうめき声をあげながら倒れた。
 残りの風魔衆が空を見あげる。
 そこには……安兵衛がいた。半珠から上の、生身だけと身軽になった安兵衛が、空高く打ち上がっていたのである。
 安兵衛の足のつけ根から、何かが風魔衆の頭上に拡がりながら降った。風魔衆に降りそそいだのは網。ただの網ではない。糸のように細く加工した銅の網。倒れた破顔丸はもちろん他の風魔衆も人間が空に打ちあがるという予想外の出来事に、それをとっさにかわすことができなかった。ただ一人を除いて。
 

「うおおおおおおおお!」


 安兵衛が吠えた。渾身の力で石臼を回す。片手になりながらもこれまでで一番の回転の速さ。半珠がこれまでにないほど強く輝きだす。足のつけ根から火花が飛び散り、白い光がつけ根から伸びた銅線を伝い、風魔衆に降りそそいだ銅の網に到達する。
 絶叫が二十名以上の男たちの口から一斉におこった。男たちに降りそそぐ雨は、一瞬にして蒸発し、焦げ臭い煙と一つとなって、周囲を白く染めていく。
 石臼を回し続ける安兵衛が、背中から地面に落ちた。
 安兵衛の息が詰まる。それでも石臼を回す左手は止まらない。『呪言』の力はびしょ濡れになった安兵衛にも容赦なく襲いかかる。毛穴、口、鼻、耳、肛門。安兵衛の体の穴という穴から煙が空にむかって立ちのぼる。
 突然、石臼の回転が止まった。安兵衛が不思議そうに自分の左手を見る。左手はしっかりと石臼を回転させるための棒を握っていた。ただし自分の身体からは離れて……。


「やれやれ、皆から離れて正解だったな」


 声の主、破顔丸から静馬と呼ばれた青年が、刀を振るい安兵衛の首を斬り飛ばす。


「……たった一人に、三分の一はやられたか」


 銅の網を払いのけ立ちあがる者と、いまだにピクリとも動かず網の下にいる者を見比べながら、静馬は憂鬱(ゆううつ)そうに呟いた。