十六話 小太郎帰還
もうすぐ夜が明ける。風魔の里は目と鼻の先だ。丈夫そうな紐を肩にかけた小太郎は、走りながら後ろにちらりと目をやる。肩にかけた紐が伸びた先には、小さな台車の上にちょこんと座る乙霧の姿が見える。
幻之丞の屋敷を小太郎と一定の距離を取りながら出てきた乙霧は、小太郎に紐を投げつけると、すぐさまこの小さな台車に座り込んだ。
ずうずうしいことに、小太郎に台車を牽けということらしい。
「私が小太郎様についていける訳がないじゃないですか」
腹立たしいくらいの満面の笑みで堂々と言いきる。
「わしは先を急いでいるのだ。貴様を置いていきたいぐらいなのだがな」
「私ごときでも連れて行かねば、それこそ八犬士に里を襲わせるためだけに里を空けたようなものではありませんか」
「それは貴様が……!」
わしを止めぬように仕向けたからではないかという言葉を、小太郎はかろうじて飲み込んだ。考えてみれば、一夜の里に赴くことを決めたのは小太郎自身。一夜衆が親切心を出さなければならない理由はない。
「振り落としても知らんぞ!」
「ご随意に」
壮年に差し掛かっているとはいえ、鍛え上げられた肉体を持つ小太郎である。小娘一人乗った台車を牽いたとて、その走りが鈍ることなどない。気を遣う必要がないというのなら、まったく問題はないのだ。
ただ、かわらずの飄々とした態度が腹に据えかね、ここまでの道中わざと道の悪い箇所を駆け抜けたり、曲道で加速して見せたりと、急いでいるというのに子供のような腹いせをしてみせたのだが、落ちない。台車も決してひっくりかえらない。
一枚板の台かと思っていたが、何枚かの板が複雑に組み合わされているようで、乙霧は時に縦に横にと板をずらして巧みに操り体勢を保つ。さらには車輪もただの木製の車輪ではないようで、六個の小さめの車輪全てが、全体を餅のような弾力性のあるもので包まれていて、地面に合わせて柔軟に形を変え、台車への衝撃を逃がし、車体の均衡を保っている。
(この国の技術ではあるまい……明か? あるいは南蛮か? まったく得体の知れん……)
情報を集めることに特化した集団ならではの技術の獲得なのであろうが、小太郎にしてみれば、得体が知れぬという点では、この一夜衆も八犬士もたいしてかわりはない。この娘を用いるとしたら毒をもって毒を制すという行為にほかならないであろう。
正面に向きなおろうとした時、小太郎の顔に何かが飛んできた。反射的に受けとめて確認すると、紙でできた底の深い筒であった。筒の底には糸がつけられ、糸を目でたどれば、台車の上の乙霧が同じ筒を手にしていた。
乙霧は悲壮な顔で、しきりに自身の耳を叩いていた。おそらく、この筒を耳にあてろということだろうと解釈し、実際にそうしてやると、乙霧は糸をぴんと張った。
「小太郎殿、聞こえますか?」
女の疲れた声が聞こえてきた。ぎょっとして筒を耳から放した。乙霧に目をむけると、何かを期待するような表情で筒を耳にあてていた。
小太郎はその乙霧の素振りには気づかぬふりをして、そのまま走り続けたが、ちらりと後ろを確認すると、いつまでもその体勢をやめない。仕方なく乙霧と同じように糸を張り、筒に向けて喋った。
「……聞こえた。なに用じゃ」
返答すると、すぐさま筒を耳にあてる。
乙霧は、小太郎にはっきり見えるように息をついてから筒を口にあてた。
「……疲れました」
「貴様、乗っておるだけであろうが!」
「これを操るのは見た目よりたいへんなんです~」
「……もう少しじゃ! 辛抱せい!」
最後には、筒を使わずに直接怒鳴りつけ、筒を投げ返すと、遠慮なく足を速めた。
それから四半刻ほど駆けた頃、ようやく風魔の里の入り口が見えてきた。
「小太郎様、戻られたか!」
小太郎の姿を見とめ、ひとりの老人が頼りない足取りで小太郎に駆け寄ると、がばっと頭を地面にうちつけるように、小太郎の足元にひれ伏した。
「申し訳ない! 留守を任されておきながら、我らではまったく歯が立たず……」
言い訳めいた老人の言葉に、小太郎は首を振る。
「そんなことはどうでもよい。なにがあったかを率直に申せ。わしは屋敷から火の手があがっていると聞き、急いで戻って来た次第じゃ」
老人は恐縮して縮み上がる。
「おお。さすがは小太郎殿。耳が早い。実は……」
老人の口から、里に残っていた若い衆が、八犬士の一人を名乗る醜い女を捕えたこと。小太郎屋敷の隅にある納屋で尋問中に逃げられたこと。他の仲間が現れ、小太郎屋敷に火を放ったことなどを聞かされると、小太郎の険しい顔が輪をかけて険しくなる。
「死人は?」
「はっ! 死者は二名。火傷を負ったものが五名。軽いものではありますが怪我をしたものは多数おります。先ほど煎十郎が小田原より戻りまして、小太郎様のお屋敷の前で、重傷者の手当てをしております。動けるものは周囲の警戒を」
頷きながら、老人の横を通り過ぎる。
「あ、小太郎殿。こちらの女人は?」
「詳しいことは後で話す。一応、今は客じゃ」
そのまま、進もうとした小太郎だったが、思い出したように足をとめ老人を振り返る。
「忘れるところであった。お主もまだ男である自覚があるなら、この娘に近づいてはならぬ。これは厳命じゃ。これ以上面倒を引き起こされてはかなわぬ」
老人は小太郎の言葉の意味をいまいち飲み込めず、曖昧に頷いただけだったが、逆らうつもりはないらしく、乙霧の乗った台車に大きく道を譲った。
屋敷に向かう道すがら、小太郎は里の様子に目を向けるが、出立した時とほぼ変わらず、八犬士の襲撃を受けたようには見受けられなかった。
ところが小太郎屋敷の跡地につくとその様子は一変した。
火こそ消し止められてはいたが、家はほぼ全焼。池のある庭には重傷者が寝かされ、女たちが怪我人の手当ての為に忙しく働いていた。その中には小太郎の愛娘時雨の姿もあった。
小太郎は時雨の無事な姿を見て胸をなでおろしたが、他の者の手前声はかけず、重傷者の手当てにいそしむ一人の男に声をかける
「煎十郎」
小太郎が名前を呼んで歩み寄ると、男は顔をあげた。
まだ年若い男だった。線の細い華奢な感じの若者だ。精悍な小太郎を前にすると、かなりひ弱そうに見える。
「こ、小太郎様。お帰りなさいませ」
小太郎が苦手なのか、顔が怯えたように引きつる。それでも、手だけはしっかりと、重傷者の手当てのために動いていた。
「状況は?」
「あ、はい。えっと自分が戻ってきた時にすでに亡くなっていた二人を除けば、重傷と言える方はいますが、命に別状のある方はいらっしゃいません」
「こちらではない。小田原の病の方はどうなったのだ」
こわばっていた煎十郎の顔が、ほんの少しだけ綻んだ。
「あちらは、少なくともこれ以上大きくは蔓延しないと思います。処方した薬で、倒れた方々の症状は安定しました。そばに寄っただけでうつるような病ではなかったのが幸いです。看護される方が、素手で患者に直接ふれたり、素手で嘔吐物の処理をするとか、使用した器にふれるとか、不用意なことをすれば危険ですが、その点に関しては決してせぬように強くお願いしてきましたので、おそらくは大丈夫ではないかと」
煎十郎の顔をよく見れば、怯えよりも疲労の色が強くでている。小太郎が朝に指示をだしてより、ずっと働きづめであったのだろう。
小太郎は煎十郎の肩を軽く叩いて労をねぎらう。
「そうか。でかした」
言うなり小太郎は力が抜けたように、その場に座り込んだ。これからのことを考えると頭が痛むが、とりあえず一つだけ、氏康に良い報告ができそうだ。
不幸の中にようやく小さな希望を見いだした小太郎の頭を、物理的で小さな衝撃が襲った。そばに糸でつながった紙の筒が二つ転がっている。
「……なに用じゃ」
小太郎は拳を固め、再びわき起こった怒りで筒を叩き潰して振り返った。
「是非、そちらの殿方をご紹介してくださりませ」
乙霧が瞳を輝かせ、はっきりと聞こえる大きな声で、そう言った。
もうすぐ夜が明ける。風魔の里は目と鼻の先だ。丈夫そうな紐を肩にかけた小太郎は、走りながら後ろにちらりと目をやる。肩にかけた紐が伸びた先には、小さな台車の上にちょこんと座る乙霧の姿が見える。
幻之丞の屋敷を小太郎と一定の距離を取りながら出てきた乙霧は、小太郎に紐を投げつけると、すぐさまこの小さな台車に座り込んだ。
ずうずうしいことに、小太郎に台車を牽けということらしい。
「私が小太郎様についていける訳がないじゃないですか」
腹立たしいくらいの満面の笑みで堂々と言いきる。
「わしは先を急いでいるのだ。貴様を置いていきたいぐらいなのだがな」
「私ごときでも連れて行かねば、それこそ八犬士に里を襲わせるためだけに里を空けたようなものではありませんか」
「それは貴様が……!」
わしを止めぬように仕向けたからではないかという言葉を、小太郎はかろうじて飲み込んだ。考えてみれば、一夜の里に赴くことを決めたのは小太郎自身。一夜衆が親切心を出さなければならない理由はない。
「振り落としても知らんぞ!」
「ご随意に」
壮年に差し掛かっているとはいえ、鍛え上げられた肉体を持つ小太郎である。小娘一人乗った台車を牽いたとて、その走りが鈍ることなどない。気を遣う必要がないというのなら、まったく問題はないのだ。
ただ、かわらずの飄々とした態度が腹に据えかね、ここまでの道中わざと道の悪い箇所を駆け抜けたり、曲道で加速して見せたりと、急いでいるというのに子供のような腹いせをしてみせたのだが、落ちない。台車も決してひっくりかえらない。
一枚板の台かと思っていたが、何枚かの板が複雑に組み合わされているようで、乙霧は時に縦に横にと板をずらして巧みに操り体勢を保つ。さらには車輪もただの木製の車輪ではないようで、六個の小さめの車輪全てが、全体を餅のような弾力性のあるもので包まれていて、地面に合わせて柔軟に形を変え、台車への衝撃を逃がし、車体の均衡を保っている。
(この国の技術ではあるまい……明か? あるいは南蛮か? まったく得体の知れん……)
情報を集めることに特化した集団ならではの技術の獲得なのであろうが、小太郎にしてみれば、得体が知れぬという点では、この一夜衆も八犬士もたいしてかわりはない。この娘を用いるとしたら毒をもって毒を制すという行為にほかならないであろう。
正面に向きなおろうとした時、小太郎の顔に何かが飛んできた。反射的に受けとめて確認すると、紙でできた底の深い筒であった。筒の底には糸がつけられ、糸を目でたどれば、台車の上の乙霧が同じ筒を手にしていた。
乙霧は悲壮な顔で、しきりに自身の耳を叩いていた。おそらく、この筒を耳にあてろということだろうと解釈し、実際にそうしてやると、乙霧は糸をぴんと張った。
「小太郎殿、聞こえますか?」
女の疲れた声が聞こえてきた。ぎょっとして筒を耳から放した。乙霧に目をむけると、何かを期待するような表情で筒を耳にあてていた。
小太郎はその乙霧の素振りには気づかぬふりをして、そのまま走り続けたが、ちらりと後ろを確認すると、いつまでもその体勢をやめない。仕方なく乙霧と同じように糸を張り、筒に向けて喋った。
「……聞こえた。なに用じゃ」
返答すると、すぐさま筒を耳にあてる。
乙霧は、小太郎にはっきり見えるように息をついてから筒を口にあてた。
「……疲れました」
「貴様、乗っておるだけであろうが!」
「これを操るのは見た目よりたいへんなんです~」
「……もう少しじゃ! 辛抱せい!」
最後には、筒を使わずに直接怒鳴りつけ、筒を投げ返すと、遠慮なく足を速めた。
それから四半刻ほど駆けた頃、ようやく風魔の里の入り口が見えてきた。
「小太郎様、戻られたか!」
小太郎の姿を見とめ、ひとりの老人が頼りない足取りで小太郎に駆け寄ると、がばっと頭を地面にうちつけるように、小太郎の足元にひれ伏した。
「申し訳ない! 留守を任されておきながら、我らではまったく歯が立たず……」
言い訳めいた老人の言葉に、小太郎は首を振る。
「そんなことはどうでもよい。なにがあったかを率直に申せ。わしは屋敷から火の手があがっていると聞き、急いで戻って来た次第じゃ」
老人は恐縮して縮み上がる。
「おお。さすがは小太郎殿。耳が早い。実は……」
老人の口から、里に残っていた若い衆が、八犬士の一人を名乗る醜い女を捕えたこと。小太郎屋敷の隅にある納屋で尋問中に逃げられたこと。他の仲間が現れ、小太郎屋敷に火を放ったことなどを聞かされると、小太郎の険しい顔が輪をかけて険しくなる。
「死人は?」
「はっ! 死者は二名。火傷を負ったものが五名。軽いものではありますが怪我をしたものは多数おります。先ほど煎十郎が小田原より戻りまして、小太郎様のお屋敷の前で、重傷者の手当てをしております。動けるものは周囲の警戒を」
頷きながら、老人の横を通り過ぎる。
「あ、小太郎殿。こちらの女人は?」
「詳しいことは後で話す。一応、今は客じゃ」
そのまま、進もうとした小太郎だったが、思い出したように足をとめ老人を振り返る。
「忘れるところであった。お主もまだ男である自覚があるなら、この娘に近づいてはならぬ。これは厳命じゃ。これ以上面倒を引き起こされてはかなわぬ」
老人は小太郎の言葉の意味をいまいち飲み込めず、曖昧に頷いただけだったが、逆らうつもりはないらしく、乙霧の乗った台車に大きく道を譲った。
屋敷に向かう道すがら、小太郎は里の様子に目を向けるが、出立した時とほぼ変わらず、八犬士の襲撃を受けたようには見受けられなかった。
ところが小太郎屋敷の跡地につくとその様子は一変した。
火こそ消し止められてはいたが、家はほぼ全焼。池のある庭には重傷者が寝かされ、女たちが怪我人の手当ての為に忙しく働いていた。その中には小太郎の愛娘時雨の姿もあった。
小太郎は時雨の無事な姿を見て胸をなでおろしたが、他の者の手前声はかけず、重傷者の手当てにいそしむ一人の男に声をかける
「煎十郎」
小太郎が名前を呼んで歩み寄ると、男は顔をあげた。
まだ年若い男だった。線の細い華奢な感じの若者だ。精悍な小太郎を前にすると、かなりひ弱そうに見える。
「こ、小太郎様。お帰りなさいませ」
小太郎が苦手なのか、顔が怯えたように引きつる。それでも、手だけはしっかりと、重傷者の手当てのために動いていた。
「状況は?」
「あ、はい。えっと自分が戻ってきた時にすでに亡くなっていた二人を除けば、重傷と言える方はいますが、命に別状のある方はいらっしゃいません」
「こちらではない。小田原の病の方はどうなったのだ」
こわばっていた煎十郎の顔が、ほんの少しだけ綻んだ。
「あちらは、少なくともこれ以上大きくは蔓延しないと思います。処方した薬で、倒れた方々の症状は安定しました。そばに寄っただけでうつるような病ではなかったのが幸いです。看護される方が、素手で患者に直接ふれたり、素手で嘔吐物の処理をするとか、使用した器にふれるとか、不用意なことをすれば危険ですが、その点に関しては決してせぬように強くお願いしてきましたので、おそらくは大丈夫ではないかと」
煎十郎の顔をよく見れば、怯えよりも疲労の色が強くでている。小太郎が朝に指示をだしてより、ずっと働きづめであったのだろう。
小太郎は煎十郎の肩を軽く叩いて労をねぎらう。
「そうか。でかした」
言うなり小太郎は力が抜けたように、その場に座り込んだ。これからのことを考えると頭が痛むが、とりあえず一つだけ、氏康に良い報告ができそうだ。
不幸の中にようやく小さな希望を見いだした小太郎の頭を、物理的で小さな衝撃が襲った。そばに糸でつながった紙の筒が二つ転がっている。
「……なに用じゃ」
小太郎は拳を固め、再びわき起こった怒りで筒を叩き潰して振り返った。
「是非、そちらの殿方をご紹介してくださりませ」
乙霧が瞳を輝かせ、はっきりと聞こえる大きな声で、そう言った。