「あの、すみません」
 突然声をかけられて、意識が現実に引き戻された。
 客の帰ったテーブルをぼんやりと片づけていた俺は、慌てて姿勢を正す。
「あ、はい、お手洗いはあちら……」
 いつものようにトイレの場所を訊かれるのだろうと思って手で示しながら振り向いた俺は、そこに見覚えのある顔を見つけて口を閉じた。
「え……あれ?」
「あ、やっぱり! 宮原くんだよね」
 ほっとしたように微笑んだのは、中学二年のとき同じクラスにいた女子だった。
「わっ、びっくりした、橋口さんじゃん! うわー懐かしい、久しぶり!」
「本当に久しぶり。なんか似てる人がいるなーと思って。人違いじゃなくてよかった」
「声かけてくれてありがとう。橋口さんから来てくれなかったら、俺たぶん気づけなかった」
 当たり前だけれど、橋口さんはずいぶん雰囲気が変わっていた。メイクをしているからだろうか。それに、中学のときは人見知りのイメージだったけれど、今は快活で溌剌とした印象を受ける。
 またあの面影が甦る。彼女も変わっているのだろうか。どんなふうに変わっているだろうか。
 きっともう俺のことなんか忘れて、誰かと付き合ってたりするんだろうな。そんな自分の考えが心臓を一突きにした。
 見えない血をだらだらと流しながら、何食わぬ顔で橋口さんと会話を続ける。どこの大学だとか、何を勉強しているかとか、今日はバイト先の飲み会で来たのだとか、なんでもない話を短く終えて、じゃあと橋口さんは手を上げた。
 席へ戻ろうとする背中を、思わず「あのさ」と呼び止める。次の瞬間しまったと悔やみ、「なんでもない」とごまかしたくなった。でも、彼女が「何? どうかした?」と振り向いたので、無理やり勇気を振り絞って、少し震えてしまう声で言った。
「橋口さんってさ、ゆ……加納さんと仲良かったよな」
「ああ、百合ちゃん? うん、高校も一緒だったし」
 橋口さんは少し目を見開き、それから少し笑って、どうして?と首を傾げた。俺は吐きそうなほどどきどきしながら訊ねる。
「加納さんって今どうしてるか知ってる?」
 彼女は一瞬動きを止め、ゆっくりと瞬きをした。
「……連絡先、教えようか?」
 俺は反射的に首を振った。
「いや、いい、いい、いいんだ」
 連絡先は知っている。彼女にとっては俺なんかに番号を知られていることも不愉快だろうから、削除しようかと思ったこともあったけれど、結局消せずにいたのだ。
 でも、自分から彼女に連絡をとる資格は、俺にはない。彼女とのラインのトークや通話の履歴は、もうずっと下のほうに沈んでしまった。