「………俺、進学校とか、行くつもりないし。だから塾もいらないよ」
「進学校に行かないって、じゃあ、高校出たら就職するの?」
「………うん、ていうか」
俺はごくりと唾を呑み込んだ。
今まで、親にも言ったことはない。でもーーー百合が笑わずに聞いてくれたから。今なら言えるかも、と思った。
「………俺、プロになりたいんだ。プロのサッカー選手に。高校出たら、頑張ってどこかのチームに入って、それか大学にサッカー進学して、いつかは――」
「なに言ってるの!」
悲鳴のような声が唐突に俺の言葉を遮った。母さんは気持ちを落ち着けるように何度か大きく呼吸して、それから額に手を当てて溜め息をついた。
「………そんな、夢みたいなこと言って。プロなんて、選ばれたほんの一握りの人しかなれないのよ? サッカーばっかりやってて、プロになれなかったらどうするつもりなの? 涼は成績だって悪くないんだから、ちゃんと塾に行って勉強して、進学校に入っていい大学に入れば安心じゃない。サッカーは趣味でやればいいのよ」
趣味? 何言ってんだよ、と叫びたくなる。
俺にとって、サッカーは趣味なんかじゃない。本気でやってるんだ。暇つぶしで適当に遊ぶような、そんな生易しい楽なものじゃない。サッカーがない人生なんて考えられないし、サッカーをしていない俺は本当の俺じゃない。
だから、疲れ切ってへとへとになるまで毎日練習しているのだ。
反論しようと口を開きかけたとき、玄関のドアが開く音がして父さんが帰って来た。
「ただいま」
「………おかえり」
リビングに入ってきた父さんは、硬い表情で向かい合って座る俺と母さんを見て、話の内容に勘付いたらしかった。
「あの話か?」
「ええ………」
「そうか」
父さんは頷いて、母さんの隣に座った。ネクタイを緩めながら、「涼」と声をかけてくる。俺は静かに父さんに目を向けた。
「塾のことは聞いただろう。とりあえず、夏休みの講習に行ってみて、そこの塾に満足できなかったら、二学期からは他の塾にすればいい」
断定的な口調で言われて、俺はかっとしてしまい、思わず立ちあがった。
「ちょっと待ってよ。俺、行くなんて、まだ一言も………」
父さんの眉がぴくりと上がった。
「夏休みの最後に大きな大会もあるんだ。それに向けて今、必死に練習してるし……これ以上サッカーする時間が減ったら、どんどん下手になっちゃうよ」
「………そんなにサッカーばっかりやっていて、将来どうするつもりなんだ」
「母さんにはさっき言ったけど………俺、プロになりたいんだ。だから………」
「プロなんて、そんな簡単になれるわけないだろう!」
父さんがいきなり怒鳴り声を上げた。俺は気圧されてしまい、言葉を止める。
「社会はなぁ、そんなに甘くないんだ。夢ばっかり見ていて、学歴も資格もスキルもなくて、まともな仕事にも就けずに落ちぶれていく人間が、ごまんといるんだ。お前もそんなふうになるつもりなのか?」
そんなことは、言われなくたって分かっている。プロになるのがどんなに大変か。才能も実力も運も、全てを兼ね備えた人だけがなれるのだ。それは、普段からサッカーに触れ合っている俺のほうが、父さんや母さんよりもよっぽど理解している。
それでも、俺はサッカーで食べて行きたいんだ。途方もない夢かも知れないけれど、夢を見て何が悪い?
俺は百合の言葉を思い出した。
『夢が見れるのって、将来の夢があるのって、すごく幸せなことだよね』
『もしも日本が今みたいじゃなくて……例えば、戦争してる国だったら……。子供たちは夢どころじゃない。生き抜くのに必死で、将来の夢なんて考える暇さえないもん。……だから、当たり前みたいに、夢があるとかないとか言えるのって、本当に幸せなことだと思う』
そうだ。夢を見られるのは、俺たちの特権。とても幸運で、恵まれたこと。
世界には、今も、夢さえ見られない子供たちがいる。
だからこそ、俺たちは夢を見て、その夢を叶えるために、諦めずに努力しつづける義務がある。そうすることで誰かに夢を見せることができる。大好きな選手たちが俺に夢や活力を与えてくれたのと同じように。もちろん、俺にその力があるか、プロになれるかは分からないけれど、でも。
「………俺は、サッカーがしたい。もちろんプロになれるかは分からないけど、今ここで諦めたら絶対になれない。でも頑張って続けてたら、もしかしたらなれるかもしれないだろ。今は、一時間でも一分でも長く、サッカーの練習をしていたい。だからーーー塾に行くのは………嫌だ」
俺はまっすぐに顔を上げて、父さんと母さんをゆっくりと交互に見つめた。
「父さん、母さん、お願いです。俺にサッカーをする時間を下さい。俺、できるかどうかも分からないうちに簡単に夢を諦めたりしたくないんだ。もっともっと練習して、もっともっと上手くなるから……。お願いします」
俺はテーブルに両手をついて、頭を下げた。親にこんなことをするのなんて、初めてだった。
リビングに沈黙が流れる。かち、かち、と壁掛け時計の針が進む音だけが聞こえていた。
母さんは眉根を寄せて唇を噛み、じっと俺を見ている。父さんがはぁ、と息を吐き出した。
「………なあ、涼。父さんたちは何も、夢を見るなと言っているわけじゃない。お前が頑張っているのは知っている……。でもな、父さんはお前のことが、お前の将来が心配なんだよ。サッカーにばかり夢中になっていたら、いざサッカーを失ったとき、お前がどうなってしまうか。身一つでこの厳しい世の中を生きていけるわけがないだろう? だから、逃げ道として、ちゃんと普通の社会人になる道を用意しておけ、と言っているんだ」
父さんは言い聞かせるようにそう言ったけど、俺は納得なんて出来なかった。
「なんだよ、逃げ道って………。なんで、挑戦する前から、逃げ道なんて考えないといけないんだよ? 逃げることなんか前提にして考えてたら絶対だめになる、気持ちが弱くなる。だから、逃げ道は塞いで、自分の全部を賭けて努力しないといけないんだろ?」
これは、俺の憧れのスポーツ選手が言っていた言葉だ。
最初から逃げることを考えていたら、努力する気持ちが鈍ってしまう。人間は弱い生き物だから、追い詰められると、苦しさに耐えきれなくて、どうしても逃げることを考えたくなる時が来る。
だから、逃げ道は塞いでおかないといけない。自分にはこの道しかないのだと、前だけを見つめて、脇見をせずに、全身全霊をかけて、それに挑まないといけない。
俺はその言葉にすごく胸を打たれたのだ。それ以来ずっと、自分を甘やかさずに、逃げることなど考えずに、サッカーだけに全てを賭けてきたつもりだ。
俺は必死で自分の考えを、気持ちを伝えたつもりだった。でも、父さんと母さんの顔色はちっとも変わらない。
「好きなことだけやっていれば、それは楽しいかも知れないけどな。そんな甘いことばっかり言っていても、現実は厳しいんだ。やりたいことだけやっていても、生きてはいけないんだよ。お前だって、もう中学生なんだから、それくらい分かるだろう?」
「そうよ、涼。お父さんもお母さんもね、あなたのことが憎いから言ってるわけじゃないの。あなたのためを思って言ってるのよ?」
――『あなたのためを思って』。ずるい言葉だな、と思う。そんなふうに言われると……子どもは、何も言い返せない。
「……分かったよ」
俺は溜め息さえ吐き出せないまま、自分の心臓をナイフで刺すような気分で呟いた。
「行けばいいんだろ? でも、サッカーは絶対にやめないから」
低く言うと、母さんが嬉しそうに笑った。
「じゃあ、明日、さっそく塾に申し込んでおくわね」
俺は何も言わずに自分の部屋に戻った。
第六章 知らなかった真実
*
「おはよ」
待ち合わせ場所の駅に立っていた俺を見た瞬間、百合は驚いたように目を丸くした。
「どうしたの、涼……ひどい顔してる」
「いや、うん……。昨日の夜、ちょっと、寝れなくて」
「そうなの? 大丈夫? 具合が悪かったとか?」
ここで、さらりと「いや、今日のことが楽しみでさ」なんて言えたら格好もつくのに、まだ昨日のショックから立ち直れていない俺は、もごもごと正直に話すことしかできなかった。
「いや、体調は大丈夫。ただ、ちょっと、親とケンカっていうか、ケンカにもならなかったけど………」
「え?」
「サッカーのことで色々言われちゃって、なんかへこんだっていうか、いろいろ考えてたら寝れなくなっちゃって……」
百合はじっとこちらを見上げている。俺はなんとか笑みを浮かべて、
「………とりあえず、中、入ろうか」
と駅の改札を指差した。百合は「あ、うん、そうだね」と答えて、鞄から財布を取り出した。
朝早い時間なので、車内は比較的空いていた。これから三時間、電車に揺られていく。
俺たちは無言のまま肩を並べて座り、向かいの窓に映る景色を眺めていた。
「……嫌だったら、べつに、いいんだけど」
ふいに百合が口を開いた。
「よかったら、何があったか話して? ええと、それで楽になるなら、だけど………話したくないなら、何も言わなくていいんだけど」
不器用ながら気をつかってくれているのだと分かり、俺はくすぐったい気持ちになる。
「いや、うん………聞いてくれるなら、すごく嬉しい」
俺はそう言って、ゆうべあったことをかいつまんで話した。
彼女は何も言わずに、ただ窓の外を走り去る景色を見つめながら聞いていた。
「……そっか、そんなことがあったんだ」
百合は少し目を細めて、やっぱり窓の外を見ている。
さっきの大きな駅でほとんどの人が降りてしまって、車内はがらがらだ。一番奥の席に、大学生くらいの男の人が乗っているだけで、その人はイヤホンをつけて音楽を聴きながら寝入ってしまったようだった。
朝の光に照らし出された静かな空間に、がたん、ごとん、と電車の音だけが響いている。
「………それで、涼はなんて答えたの?」
「え?」
「塾に行くように言われて、涼はなんて返したの?」
「………色々反論したんだけどさ、父さんも母さんも全然わかってくれなくて。だから、最後は、もういいやってなって、分かった行くよ、って……」
百合はふっと視線を俺に向けた。その顔には、なんとも言えない複雑な色が浮かんでいる。
「……なんで?」
彼女が小さく呟く。
「なんで、そんなこと言ったの? だって、涼は、サッカー選手になるんでしょ? 塾に行ってたら、練習する時間どんどんなくなっちゃうよ?」
まるで自分の心を見透かされたような言葉で、俺は目を瞠った。
「本当にいいの? それで。塾なんかより、受験勉強なんかより、今の涼にとって大事なことがあるんじゃないの?」
胸に深く突き刺さる鋭い言葉。あまりの痛みに、俺は思わず俯いた。
「………だって、しょうがないよ。親の言うことだし。いくら頼んだってどうせ無理だよ……聞く耳持たないって感じでさ」
情けなく言い訳するような口調になってしまう。
「そりゃ、俺だって、勉強よりもサッカーの練習してたい。でも、父さんが言いたいことの意味も、心配してくれてる気持ちも分かったし……。だから、しょうがないかなって。頑張って両立してくしかないよ」
ぽつぽつと話すと、黙って聞いていた百合が突然、「何それ」と低く呟くのが聞こえた。
俺はぱっと顔を上げて百合を見る。彼女はきつく唇を噛み締めていた。
「………しょうがない、って、なに? なんでそんなこと言うの?」
強い眼差しが、容赦なく俺を射抜く。
俺は息を呑んで百合を見つめ返した。
「しょうがない、なんて、言い訳だよ。そんな言い訳、しないでよ………。涼はあんなにサッカー頑張ってるじゃん。プロになるんでしょ? それなのに、今無理やり塾に行かされて、受験勉強に時間とられて、本当にいいの? それでいいの? いつか後悔するんじゃないの? あの時もっと練習しておけば、って……」
無口な百合が、こんなに一気に、まくしたてるように話すのを、初めて聞いた。
「夢を見られるのも、それを叶えるために必死になれるのも、すごく奇跡的なことなんだよ。私たちは、今の日本に生まれたから、好きなことに熱中することができるんだよ。昔の人たちは、戦時中に生きた人たちは、自分の夢も希望も全部諦めなくちゃいけなかった。
好きなこともやりたいことも何一つできなくて、ただ生き抜くことだけ考えるしかなかったの。そして、そんな悲しくてつらい状況を、全部、『仕方ないことだから』って受け入れてたの。食べ物がないことも、着る服がないことも………大事な人の命が失われることさえも」
百合は苦しげに眉根を寄せた。
あまりの剣幕に俺は何も言えず、ただ彼女の言葉に耳を傾けている。
「………だから、私たちは――平和な国に、平和な時代に生まれることができた私たちは、どうせ無理だからとか、しょうがないとか、言っちゃだめなんだよ。全てを諦めるしかなかったあの人たちの代わりに、私たちは何ひとつ、諦めたりしちゃだめなんだよ………」
そこまで言い終えると、百合は小さく息を吐き出した。
呼吸さえ忘れて、それくらい必死に、俺に伝えようとしてくれたのだ。
痛いくらいまっすぐな言葉。きっと言う側だって痛い。だから俺も、たとえどんなに痛くても、まっすぐに受け取らないと。
「………涼。だめだよ、諦めちゃ。納得してもらえるまで何度だって、自分の気持ち伝えればいいんだよ。ただ自分の気持ちを押しつけるんじゃなくて、どうやったら伝わるか、納得してもらえるか、一生懸命考えて話すの。涼が頑張ってることは、きっと、お父さんとお母さんが一番分かってくれてる。だから、いつかきっと、分かってもらえるよ………」
俺は唇を引き結び、何度も頷いた。
「そうだよな。こんなことで諦めるなんて、バカだよな………」
百合の言葉を聞いているうちに、まとっていた鎧がひとつずつ剥がれていって、裸の自分が出てきたような気がした。自分の本当の希望、譲れない夢。
分かってほしいと言いながらも、少し否定されただけで心が折れてしまって、説明するのも理解してもらうのも面倒くさくなり、自分で目隠ししてしまっていたもの。
「……俺、なに考えてたんだろう。こんなにサッカーが好きなのに、なんで簡単に諦めたりしたんだろう。今日、うち帰ったら、もう一回話すよ。サッカーが終わったら、ちゃんと自分で勉強するからって言えば、分かってもらえるよな。分かってもらえなかったら、ちゃんと結果出して見せつければいいんだもんな」
百合はいつも俺に勇気をくれる。
きっと今までだったら、なんの反論もせずにすぐに諦めて、親の言う通りにしていたと思う。『親の言うことだから仕方ない』と。
転校のときもそうだった。本当は夏休み中は向こうにいたかったのに、俺は何も言わずに受け入れた。父さんと母さんの言うことには逆らえない、逆らっても無駄だと。
でも、たとえ希望は通らずに終わるとしても、せめて一度は勇気を出して、自分の気持ちを主張すればよかったのだ。初めから諦めてただただ我慢するなんて、本当に俺って情けない、と自分に呆れる。
まあでも、転校のことは結果オーライだったと今は思う。だって、百合に出会えたから。一日でも早く出会えたから。
そうして出会った彼女が、俺を変えてくれた。百合の凛とした強さとまっすぐさが、変わらなきゃと俺に思わせてくれた。一歩踏み出す勇気をくれた。
「――やべー、もう……」
俯いた顔を両手で覆い、俺は絞り出すように呟いた。だらりと背もたれに身体を預ける。
百合が、よく聞こえない、というように、「え?」と首を傾げるのが気配で分かった。
俺は指の隙間から百合を見る。
そして、気がついたら、こう言っていた。
「めちゃくちゃ好き……」
「……え?」
「もう、すげー好きだ……」
まんまるの目が俺を見ている。
しばらくそうしていて、俺の言葉の意味が急に腑に落ちたのか、百合は息を呑んだ。
色白の頬が、みるみる紅く染まっていく。
いつも落ち着いている彼女がこんな顔をするのは初めてで、俺のほうまでどきどきしてきた。
でも、その表情がだんだんと色を変えていくことに気づき、今度は俺が息を呑む。目が細くなって、眉が下がって、口許が歪んでいく。今にも泣き出しそうな顔に見えた。
頭が真っ白になる。なんと言えばいいのか分からなくなってしまった。
俺たちは無言のまま電車に揺られる。
なんとなく、百合も自分と同じような気持ちでいてくれているんじゃないか、と思っていた。もちろん大きさや強さは全く違うだろうけれど、彼女も俺に対して少しは特別な感情を抱いてくれているんじゃないか、と。名前で呼ぶのを許してくれて、ラインでやりとりをしてくれて、こうやって二人で出かけることを受け入れてくれたのは、そういうことなのだろうと想像していた。
だから昨日、彼女と海の話になったときに、海で告白しようと思いついて、一緒に行こうと誘ったのだ。
もしかして、全て俺の勘違いだったのだろうか。自分に都合のいい勝手な思い込みだったのだろうか。
さっき顔を赤くしていたのは、ただただ俺の告白に驚いて、そして困っていたのだろうか。
気まずさに吐きそうな気持ちに堪えきれなくなって、向かいのガラスに映る顔を盗み見る。
百合は、今まさに告白された人とは思えないぼんやりとした表情で、揺れる吊り革のあたりか、窓の外の空を見ているようだった。
終わった。これは、終わった。告白は失敗したのだ。返事を聞くまでもない。
魂が抜けたように呆然としていると、いつの間にか目的の駅に近づいていた。見慣れた地名が目に飛び込んできて、少し力が戻ってくる。
せっかく百合に海を見せるために来たのに、俺がこんなふうじゃ、彼女が楽しめない。テンションを上げないと。
俺は意識して笑顔を浮かべ、隣に目を向ける。明るい声を心がけて、
「着いたよ。降りよう」
「あ、うん」
俺が立ち上がると、百合も鞄を持って腰を上げた。
改札を出ると、たった一ヶ月ぶりなのに、ずいぶんと懐かしい光景が広がっていた。
久しぶりだ。嗅ぎなれた海辺の街の空気を胸いっぱいに吸いこんで、俺はぐるりとあたりを見渡した。
「田舎だね」
百合がそんなことを言う。お世辞もへったくれもない言葉がおかしくて、俺はぷっと噴き出した。
「うん、田舎だよ。コンビニはむちゃくちゃ少ないし、一番近いショッピングモールも車で三十分以上かかるし」
「ふうん……でも、のんびりしてていい街だね」
おばちゃんたちがゆっくりと行き交っている駅前の古くさい商店街に目を向け、彼女は微笑む。
そのとき、さっと風が吹いた。
「……でも、なんか、生ぐさい……」
百合が少し眉をひそめて言う。
「ははっ、だよね。これが海のにおいだよ」
「え……海ってこんなにくさいの?」
「うん、まあ、くさいね」
「あははっ、そっか、くさいんだ。知らなかった……」
明るく笑う百合の顔が嬉しい。告白のせいで気まずくならなくてよかった。
「あ、においが濃くなってきた」
「うん。五分も歩けば着くよ」
海へと向かう坂道をしばらく下ると、ぱっと視界が開けて、海が見えてくる。百合が「あ」と小さく声を上げた。
「海だ……」
坂の頂点で足を止めて海に目を向けた彼女の髪が、潮風に柔らかくなびく。このまま映画になりそうな光景だった。
それから並んで歩いて砂浜に降りた。
観光地でも海水浴場でもない海には、ほとんど人がいない。近所の子ども連れが潮干狩りをしていたり、おじさんが堤防で釣りをしたりしているくらいのものだ。
特に海に来て何をするという目的もない俺たちは、並んで砂の上に腰を下ろし、ぼんやりと海を眺めた。
夏の真昼の明るい陽射しを受けて、海面がどこまでも白く煌めいている。波も穏やかで、遠くを船がゆっくり横切っていった。
百合は目を細めて、押し黙ったまま遠くの海を見つめている。
何を考えているのだろう。もしかしたら、俺の告白にどう返事をするか――というか、どう断ろうかを考えているのかもしれない。
もう断られる覚悟は決まっていた。いつ、どんな答えをもらっても、俺は受け入れる。
でも、百合は何も言わない。彼女は優しいから、きっと少しでも俺を傷つけない言い方に頭を悩ませているのだと思う。俺が勝手に告白したせいで、百合に精神的な負担をかけているのが申し訳なかった。
自分から告白を取り消そうと声を上げかけた、そのときだった。
彼女がすうっと目を上げ、空の彼方に視線を向けた。俺はつられてそちらに目を向ける。水平線から湧き上がる入道雲。
「……ねぇ、涼」
静かな声が、海風の合間から聞こえてきた。
びくりと心臓が跳ねる。やばい、先を越されてしまった。どう答えようかと迷ったものの、彼女が話そうとするのを遮るのもどうかと思い、黙って目を向ける。
すると百合は空の彼方を見つめたまま、囁くように言った。
「……今からね、すごく変な話するけど……聞いてくれる?」
予想外の言葉だった。てっきり「ごめん」と言われると思っていたのに。
「うん、聞くよ」
「本当に変な話だよ? 嘘みたいな話だけど、信じてくれる?」
「もちろん。百合は嘘なんかつかないって知ってるから」
彼女はこちらを振り向いて少し目を見開き、それから微笑んで、ゆっくりと口を開いた。
「私ね………戦時中の日本に行ったことあるんだ」
意味がよく分からなくて、俺は眉を上げて百合を見る。
百合はくすりと笑い、「たぶん、タイムスリップってやつ」と言った。
「え? タイムスリップ……?」
「うん。ある日突然、目が覚めたら、一九四五年の日本にいたの」
何かを思い出すように、彼女は遠くに目を向けた。
「………ひどい世界だった。食べ物がなくて、飢え死にしていく子どもがたくさんいた。戦争に召集されて、そのまま帰ってこない人もたくさんいた」
ゆっくりと語る顔が、声が、苦しげに歪んで震えていく。
「空襲にも遭った……。私の目の前で、何人もの人が、炎に焼かれて、苦しみながら死んでいった」
俺は圧倒されて言葉も出ない。信じられない話だった。
でも、一方で妙に納得がいった。百合は戦争の話をするとき、いつもつらそうだった。そしてその語り口は、まるで自分の記憶をなぞっているようにリアルだった。
彼女は確かに本当のことを、自分が体験したことを話しているのだと、俺には分かった。
「……本当にひどい、残酷な世界だったけど、でも、そこで出会った人たちは、みんな優しくて、温かくて………」
何かとても大切なもののことを思い出したように、百合の目が細くなる。
「どこの誰かも分からない私を、みんなが助けて、そして受け入れてくれた。そこで私は――二人の大事な人に出会ったの」
大事、という言葉を、彼女は本当に本当に大切そうに口にした。
「一人は、私の第二のお母さんみたいな人。前にちょっと話したよね。帰る家がないって言った私を心配して、ご飯を食べさせてくれて、そのころはすごく貴重だったお風呂にも入らせてくれて、しかも家に住ませてくれて……本当にあったかい人だった。私を本当の家族みたいに大事にしてくれて、優しくしてくれた」
「そっか。優しい人に会えてよかったね」
「うん……」
そこで百合の言葉が止まったので、俺は先を促すように、「もう一人は?」と訊ねる。
すると、彼女の瞳がゆらりと揺れた。複雑で微妙な、感情の読み取れない色が浮かんでいる。
「………百合? どうした?」
「うん………大丈夫」
彼女は何かを覚悟するように、大きく息を吸い、そしてゆっくりと息を吐いた。