あの星が降る丘で、君とまた出会いたい。【新・あの花続編】

「いい言葉だと思わない? 俺、初めて聞いたとき、すげえ感激したんだ。誰かからもらった優しさを、また他の人に渡す。自分が優しくされたぶん、他の人に優しくする。そうやって恩送りの連鎖ができたら、どんどん優しい世界になっていくだろうなって、なんだか嬉しくなった」
 加納さんがゆっくりと瞬きをしながら、じっと俺を見つめている、少し照れくさいけれど、今だけは絶対に目を逸らしちゃだめだ、と思った。
「だから俺はそれ以来、もちろん恩返しもちゃんとしなきゃいけないけど、恩送りもしようって思うようになった。もしも恩返しができないときは、そのぶん恩送りに力を入れようって」
 たとえば、街ですれ違った人が落としものを拾って渡してくれたとき。もちろんお礼は言うけど、見ず知らずの人なので恩返しはできない。だから、もし他の誰かが落としたものを見つけたら、絶対に見て見ぬふりはしないで、本人か交番に届ける。自転車で走っているときに車が道を譲ってくれたら、俺も同じように誰かに譲る。
 みんながそうやって恩送りをするようになったら、きっとここはもっと平和で優しくて温かい世界になる。
「たぶん、加納さんに親切にしてくれたその人たちは、恩返ししてほしくて優しくしたわけじゃないんじゃないかな。ただ、目の前で困ってる女の子を放っておけなくて、加納さんを助けたいって思って、何も見返りなんて求めずにそうしてくれたんだと思う」
 彼女はまるで瞬きすら忘れたように、大きな目をさらに見開いている。そうかもしれない、と囁くように言う声が聞こえた。
「だから、その人たちは『返して』なんて思ってないよ、きっと。あげっぱなしで満足してると思う。だから加納さんはただありがたく受け取って、今度は他の困ってる人に恩を送ってあげたらいいんじゃないかな」
 突然、彼女の目からぼろぼろと涙が零れ出した。顔がくしゃりと歪んで、子どものような泣き顔になる。
 俺は驚いて「えっ」と立ち上がり、慌てて彼女の隣に回って、でもどうすればいいか分からずにおろおろすることしかできない。
「え、え、加納さん、大丈夫!? ごめん、俺、傷つけること言っちゃった? ごめんな、そんなつもりは本当に全然なかったんだけど……」
「ううん、そうじゃないの。すごく、嬉しくて……ほっとして、涙が……」
 彼女は涙に潤んだ声で途切れ途切れに言った。傷つけてしまったわけではないと知って安堵する。
「恩送り、いい考え方だね。私、これから、あの人たちに恩返しできなかったぶん、他の人に優しくする……優しい人になれるように頑張る」
「……加納さんは、充分優しいと思うけど……」
 花瓶事件を思い出しながら、俺はそう言った。
「加納さんは、優しくて、まっすぐで、勇気もあって、すごい人だと思う」
 彼女は両手で涙を拭いながら、ふるふると首を振る。
「全然違うよ、全くそんなことない。私すごく自分勝手だし、ひねくれてるし、甘えてばっかりだった。今は、その人たちのおかげで自分のダメなところに気がつけて、変わろうって頑張ってるところなの」
 少し涙の引いた目を、加納さんは空に向けた。今日もきれいに晴れている。吸い込まれそうな青と、ところどころに清らかな白。
 彼女はいつも空を見ている。学校でも、外でも。よっぽど好きなんだろうな、と思う。空を見上げているとき、いつもどんなことを考えているのだろう。
 私ね、と加納さんが呟いた。
「前はね、別にいつ死んでもいいし、とか思ってたの」
 俺は思わず息を呑む。彼女がそんなふうに投げやりな考えを持っているようには、俺には少しも思えなかった。
 彼女はすっと視線を手もとに落とした。七十年前に、理不尽に命の火を消されてしまった人たちの写真。
「でも、戦争のことを知って……生きたいのに生きることを許されなかった人がたくさんいるって知って、そういうのはやめようって思った。それを教えてくれた人たちに恩返しするために、これから頑張ろうって決めたの」
 うん、と俺は頷く。
「そうだね。そうだよな……」
 うまく言葉にできない。でも、こんなふうに呑気に生きていられる自分は、本当に幸運なんだと、改めて実感した。



 それから二時間ほど作業に没頭しているうちに、日が翳ってきた。
「続きはまた今度にしよっか」
 遅くなっちゃうし、と彼女は言い、ノートを閉じた。
 その表紙に『加納百合』と書かれているのを見て、まだ彼女と話をしたいなと名残惜しく思っていた俺は、思わず訊ねてしまう。
「名前、ゆり、って読むんだよね」
 フルネームはクラスの名簿などで見たことがあったけど、読み方までは書いていなかったので、ずっと気になっていたのだ。
 俺の言葉に、加納さんはふいと顔を上げた。そして、わずかに目を細める。
「うん。ユリの花の百合」
「いい名前だね」
 無意識に言ってから、なに柄にもないこと言ってんだ俺、と急激に恥ずかしくなる。
 彼女は少し驚いたように目を丸くして、じっと俺を見つめている。それから、ゆっくりと口角を上げた。
「………ありがと。私も気に入ってるんだ、この名前」
 その笑顔にどきどきしながら、うん、と俺は頷いた。気恥ずかしくていたたまれなくて、視線を背けてしまう。
「宮原くんは、りょう、だよね? サッカー部の子が呼んでるの、聞いたことある」
 俺のノートを覗き込んだ加納さんが、確かめるように呟いた。俺はこくりと頷く。
「いい名前だね。宮原くんに似合ってる」
「えっ、そう?」
「うん。なんていうか、爽やかで穏やかな感じ」
 加納さんがにこりと笑った。こんなふうに笑顔で話せる日がくるなんて、少し前までは思いもしなかった、としみじみ思う。
 俺は嬉しくてにやけそうになるのを必死に堪えながら、そのときふと気がついた。
彼女の下の名前を、学校で一度も聞いたことがない。一番よく話している女子たちとも、名字で呼び合っているのだ。
 でも、それって、さみしい。すごくいい名前なのに。加納さん自身も気に入ってるって言ってるのに。もったいない。
 そう考えた途端、俺はほとんど反射的に口を開いていた。
「ーー百合、って呼んでいい?」
 言ってから、しまった、と思う。唐突すぎるし、脈絡がなさすぎるし、図々しすぎるし、もう最悪だ。
 自己嫌悪に苛まれながら、俺は恐る恐る加納さんを見る。案の定、きょとんとした顔をしていた。
「……ほんと、ごめん。急に変なこと言って………」
 かろうじて謝ると、彼女はふるふると首を横に振った。
「ううん、別に変じゃないよ。むしろ、えーと………」
 そこで彼女はいったん言葉を切り、目を泳がせた。それから、少し気まずそうに俺を見る。
「………嬉しいよ。下の名前で呼んでくれるのなんて、お母さんくらいだし………」
 やった、と叫び出してしまいそうだった。でもそれは我慢して、俺はひとつ咳払いをする。
「………えーと、百合……ちゃん」
俺がそう言った瞬間、彼女が「えっ」と声を上げる。
「ちょっ、それは恥ずいよ、ちゃん付けはやめて………」
頬をほんのりと紅く染めて、戸惑ったよう視線を泳がせている。こんなに感情が表に出ている加納さんは初めてだ。
「じゃあ……百合さん?」
俺が呟くと、彼女は目を丸くしてこちらを見た。それから、口を手で押さえて小さく噴き出す。
「ふふっ、なにそれ。変なの、同級生なのに、さんって。……いいよ、呼び捨てで」
「そ、そっか………」
呼び捨て。百合、と心の中で呼んでみる。むず痒いような、変な感じだ。
べつに、女の子を下の名前で呼び捨てにするのは初めてじゃない。幼稚園から一緒の、近所に住んでいた女の子たちは呼び捨てにしていたから。
でも、どうしてだろう。彼女を百合と呼ぶことは、ものすごく恥ずかしくて。
「じゃあ……私も、下の名前で呼んでいい?」
加納さんーーー百合がそう言った。
俺はこくりと頷く。顔が赤くなっていないか心配だ。
「じゃ、涼……くん」
その言葉に、俺は噴き出してしまう。
「いや、そこは『涼』だろ。この流れからして」
彼女も「だよね」とくすくす笑う。
なんだろう、この感じ。幸せ? そんな使い慣れない言葉を使いたくなってしまう。
やばい、この顔、サッカー部のやつらには絶対見られたくない。きっと、キモいくらいにやにやしている。



 長い一日を終えて、温かい高揚感に包まれながら、泥のように眠る。
 またあの夢だ、と思った。
 俺は百合の花が咲く丘の上で、寝転んで星空を見上げている。
 頬が冷たいような気がして手を当てて見ると、しっとりと濡れていた。
 俺、なんで泣いてるんだろう。
 怪訝に思う心とは裏腹に、唇は言葉を吐き出す。
『ずっと隣にいて守ってやりたい』
『こんな時代でなければ……』
『生まれ変わったら一緒になろう』
『絶対に、また君を見つけるから』
 そんな、まるで映画か小説の中の台詞みたいな言葉を、俺は泣きながら呟いていた。

 目が覚めたとき、思わず首を傾げた。
 どうしてこんな夢を見たんだろう。戦争の資料や、特攻隊員の遺書を読んだせいだろうか。
『君』というのは誰だろう。いつも夢に出てくるあの長い髪の女の子だろうか。
 でも、なぜか頭には、百合の顔が浮かんでいた。
 そんなはずはないのに、なぜだか俺はずっと昔から彼女を知っていて、ずっと彼女を探していたような、そんな気がするのだ。





 二人で図書館に行ったあの日、別れ際に俺たちはラインのアドレスを交換した。
 調べ学習のことで話を進めやすいように、という目的ではあったけれど、百合とつながれたことが本当に嬉しかった。
 翌朝、まるでサッカーの試合でPKを蹴るような気持ちで自分を奮い立たせて、〈昨日はお疲れ様でした〉という妙に畏まった文章を、緊張に震える指で送った。
 だから彼女から〈お疲れ様、楽しかった〉と返ってきたときは、思わず、よっしゃ、と小さく叫んだ。ガッツポーズまでしてしまった。
 百合は、まっすぐで嘘をつかない人だ。きっと、本当に「楽しかった」と思ってくれたのだ。
〈俺もめっちゃ楽しかった。ありがとう〉
 それから俺たちは、ときどきメッセージを送り合うようになった。
 とはいえ、俺はあまり小まめなやりとりが得意なほうではないし、彼女も普通の女子のように何でもないことでメッセージを送ったりするタイプではないので、話題は調べ学習のことばかりだった。
 でも、その中に少しずつ、世間話のようなものが添えられるようになっていった。
〈部活お疲れ様〉
〈今日も暑かったね〉
〈宿題どう?〉
〈全然進まない〉
〈私も。現実逃避して早めに晩ご飯食べちゃった〉
〈晩ご飯はなんだった?〉
〈カレーだよ〉
〈うちも!〉
 なんということもないやりとりだけれど、それでもすごく嬉しくて、照れくさくて、やっぱり嬉しくて、百合からメッセージが届くたびににやにやしてしまう。
 面と向かって呼び捨てにするのは恥ずかしくて難しかったけれど、文字で送るなら少しはハードルが下がった。そのうち、百合と呼ぶのも、涼と呼ばれるのも、悶えなくてすむくらいに馴染んできた。
 少しずつ、でも確かに縮まっていく距離を、俺は感じていた。
「涼、昼ご飯できたよー」
 母さんが一階から呼ぶ声に、俺は「今いく」と返した。
 やりかけの宿題をそのままにして、学習机から離れる。
 ドアの横に置いてあるボールがふと目に入って、身体がうずくような感覚を覚える。今日と明日は、部活が休みだ。
 他の部員たちは喜んで「カラオケ行こうぜ」なんて言っていたけれど、俺は部活のない日が好きではなかった。
 二日もボールを蹴らないなんて、ものすごく落ち着かない。たった一日休んだだけでも、少し体力が落ちて技術的にも下手になってしまうような気がして不安なのに、二日も休みなんてありえない。
 それに、前の中学の先生と違って今の顧問はサッカー未経験者で、練習でも特に指導することはない。それは仕方がないとしても、生徒指導関連の業務でしょっちゅう出張があるらしく、部活が休みになることも多い。
 その影響なのか、部員たちもあまり熱心ではない。県大会なんて夢のまた夢、と最初から諦めている感じだ。
 このままだとどんどん下手になってしまう気がする。それは嫌だ。
 やっぱりクラブチームに入りたい。引っ越し以来ずっと胸に巣食っていた気持ちが、むくむくと膨れ上がる。
 転校が決まったときに、すぐに新しい土地のチームをインターネットで探した。でも、「前から思ってたんだけど、部活があるんだからクラブは行かなくていいんじゃないの? 土日がつぶれちゃうし」と母さんから言われてしまったのだ。
 それきりなあなあになっていたけれど、やっぱり父さんと母さんに相談してみよう。昼飯食ったら、いつもの川沿いの道まで行って、心ゆくまでボールを蹴ろう。
 そんなことを考えながら、俺は階段を降りた。
 母さんと二人でワイドショーを見ながら冷やし中華を食べ終えると、俺はしばらくリビングのソファに座って、さして興味もない昼ドラを何気なく見ていた。
 そのとき、短パンのポケットに入れていたスマホが小さく震えた。見ると、百合からだ。
〈おはよう。いい天気だね〉
 俺はくすりと笑い、
〈今起きたの? もう昼過ぎだけど〉
 と返す。すぐに百合から、
〈いいじゃん、せっかくの休みなんだから〉
 と返ってきた。
 しっかりしていそうな百合でも、朝寝坊することなんてあるんだ、なんて新しい発見をしたような気がして嬉しくなる。
 俺も今日は部活休み、と返して、しばらくラインでやりとりをする。
〈ところで、今さらなんだけど、涼のプロフィール画像、すごくきれいな写真だね〉
 百合が唐突にこんなことを言ってきた。俺は思わず、「よくぞ気づいてくれた!」と指を鳴らしたくなる。
 俺がプロフィール画像として使っているのは、前に住んでいた街の近くにあった海の写真だ。たまたま友達と泳ぎに行ったとき、よく晴れた夏の日で海も空もあまりにもきれいな青だったから、俺は初めて風景写真を撮った。
 それが気に入って、以来ずっとプロフィール画像にしている。でも、それについて感想を言ってくれたのは、百合が初めてだった。
〈ありがとう。前に住んでたとこの海なんだ。気づいてくれて嬉しい〉
〈そうなんだ。ほんときれい、すごい〉
〈海、好き?〉
〈うん、好きっていうか憧れる。見たことないから〉
「えっ」と思わず一人で驚きの声を上げてしまった。
 洗い物の手を止めて「なにか言った?」と問いかけてきた母さんに「なんでもない!」と返して、急いで返信する。
〈海、行ったことないの?〉
〈ないよ。写真とかテレビでしか見たことない〉
 確かに、このあたりには海がない。かなり遠出をしなければ、自分の目で海を見ることはできないだろう。
 そういえば、彼女の家は母子家庭で、お母さんは昼も夜も働いていると言っていた。どこかに遊びに行くような暇がないのかもしれない。
〈今、電話していい?〉
 頭の中にある考えが浮かび、自分の思いつきにかなりどきどきしながら、そんなメッセージを送った。すぐに〈いいよ〉と返信がくる。
 やばい、めっちゃどきどきする。サッカーの試合前みたいだ。
 急いでリビングを出て、自分の部屋に戻る。そして、大きく深呼吸をして、まだ一度もかけたことのない電話番号をタップした。
『………もしもし?』
 百合の声がすぐ耳許で聞こえる。
 心臓が胸を突き破ってきそうなほど激しく暴れ回り、ばくばくと音を鳴らしている。
 俺は必死に平静を装い、「もしもし、涼です」と言った。
『百合です。どうしたの?』
 なんで電話って、いつもと違う声に聞こえるんだろ。囁きかけるように喋る彼女の声が、くすぐったくてたまらない。
「えと、ごめんな、急に電話なんかして」
『いいよ、そんなの。なんか急用?』
「いや、あのさ………」
 部屋の中に響く自分の声が、情けなく震えているような気がして、落ち着かない。でも、言わないと。人生最大の一番勝負だ。
 俺は一度深く息を吸って、口を開いた。
「………一緒に、海に行きませんか?」
 やけに他人行儀な言い方になってしまった。だって、ものすごく緊張しているから。
 百合が驚いたように『えっ』と声を上げた。
「俺が住んでた街に行ってさ、一緒に海、見ない?」
 もう一度深呼吸をして続ける。返事がない。
 ああ、失敗した、色々急ぎすぎたか……と項垂れる直前、彼女が『いつ?』と返してきた。
 あっさりと受け入れられて、驚きと嬉しさに頬が緩んでしまう。
「あ、いつでも………」
『じゃあ………今日とか?』
 今日って。思わず笑そうになった。そんなに海に行きたいんだ。
「いや、ちょっと遠いから、一日かかっちゃうんだ。今からだと帰りが夜中になるから、……百合がよければ、明日はどう?」
『あ、でも、部活は?』
「今日明日は休みなんだ、先生が出張で。だから、百合の都合がよければ」
『そうなんだ。うん、いいよ。何時にどこで待ち合わせ? 駅に9時とかでいい?』
 こんなに矢継ぎ早に喋る百合は初めてだった。そんなに楽しみなんだ、と思うと、すごく微笑ましくて、俺はにやけるのを堪えきれない。
「うん、それでいいよ。電車で3時間くらいはかかるから、覚悟しときなよ?」
『ぜんぜん平気。たった3時間で海が見れるなんて、知らなかった………』
 彼女はしみじみと呟いた。
 なんだろう………可愛いな。こんな気持ちになったのは初めてだった。
 見た目が可愛いとか、そういうのじゃなくて、もちろん顔も可愛いんだけど。なんて言うんだろう………うまく言葉にできないけど、心が可愛いっていうか。
 女の子に対してそんなふうに思ったことなんて、一度もなかった。
 俺は初めての不思議な感覚に少し戸惑いながら、「じゃあ、また明日」と言って電話を切った。
 次に会う約束をして電話を切るって、こんなにわくわくするのか。
 明日は何を着て行こう、と思いつつ、俺はクローゼットのドアを開けた。





 電話を終えてからいつものように川沿いの道までジョギングをして、河川敷でボールを蹴っていると、いつの間にか4時間ほど経っていた。
 夏の午後の川辺は暑くて、ずいぶん汗をかいてしまった。これ以上やったら倒れるかも、と思って練習を切り上げる。
 うっすらとオレンジ色に染まり始めた西の空を見ながら家に着くと、キッチンから顔を出した母さんに手招きをされた。
「おかえり、涼」
「ただいま。なに、どうかした?」
「うん………ねぇ、涼。またサッカーしてたの?」
「え? うん、そうだけど」
 俺がきょとんとして頷くと、母さんは少し困ったように眉を下げて視線を逸らし、再び俺のほうを見た。
「本当にもう、サッカーばっかりして………部活がない日くらい、家にいて勉強すればいいのに」
 そんなことを言われたのは初めてだったので、俺はびっくりして母さんを見た。
「え……? 宿題ならやってるよ、ちゃんと」
「そりゃ、宿題はね。でもねぇ、来年は受験生になるでしょう。宿題だけやってたって足りないんじゃない?」
 何を言ってるんだろう、急に。
 俺は訳が分からないまま、眉をひそめて「どういうこと?」と訊き返す。母さんは「ちょっと、座って話そうか」と言って、ダイニングテーブルの椅子に腰を下ろした。俺も母さんの向かいに座る。
「あのね………お父さんと話したんだけどね」
「うん」
「それと、パート先で知り合った涼の同級生のお母さんたちとも話したりしてて………」
「うん……」
 なぜか言葉を濁す母さんの様子に不安を感じる。「何を話したの?」と先を促すと、母さんは諦めたように話し始めた。
「ねえ、涼。来年受験でしょう? 三年生になってから受験勉強始めたって出遅れちゃうから、みんな二年生の夏から始めるんだって」
「………え?」
「聞いたら、このへんの進学校を目指す子はほとんどみんな塾に行ってて、今年の夏期講習にも通ってるって言うじゃない。学校のお友達もそうでしょう。涼も塾に行ったほうがいいんじゃないの?」
 急な話すぎて、俺は言葉も返せずに母さんを見つめ返す。
「お母さんね、ママ友に教えてもらった塾に電話して訊いてみたのよ。そしたら、今からでも夏期講習に参加していいって言ってもらえたの。週に3日だけ、朝から夕方の6時まで。ねえ涼、行ってみない?」
 俺は混乱した頭で母さんの言葉を反芻する。
 進学、受験、塾、夏期講習。どれも、今まで一度も真剣に考えたことのない言葉だった。
 確かにサッカー部のメンバーにも、塾を理由に早退するやつや週三日しか参加しないやつがいるし、遠くの難関塾に通うために部活をやめたやつもいる。だからそういうものなのだろうと思っていた。でも、自分の身に引きつけて考えたことがなかったのだ。
 それを急に投げかけられて、理解がついていかない。
 でも、これは良くない流れだ、ということだけは分かった。頭のどこかで危険信号が点滅しているのを感じた。
「………ちょっと、待って。俺、そういうの、考えられない。だって、サッカーあるし。朝から夕方まで塾なんか行ってたら、部活いけなくなっちゃうじゃん」
 塾に通うなんて、考えたこともなかった。だって俺は、一日でも多く、一時間でも長く、サッカーをしていたいんだ。一日ボールに触らないだけでも落ち着かないのに、週に三日も部活を休まなきゃいけなくなるなんて、考えただけでどうにかなりそうだ。
「………俺、進学校とか、行くつもりないし。だから塾もいらないよ」
「進学校に行かないって、じゃあ、高校出たら就職するの?」
「………うん、ていうか」
 俺はごくりと唾を呑み込んだ。
 今まで、親にも言ったことはない。でもーーー百合が笑わずに聞いてくれたから。今なら言えるかも、と思った。
「………俺、プロになりたいんだ。プロのサッカー選手に。高校出たら、頑張ってどこかのチームに入って、それか大学にサッカー進学して、いつかは――」
「なに言ってるの!」
 悲鳴のような声が唐突に俺の言葉を遮った。母さんは気持ちを落ち着けるように何度か大きく呼吸して、それから額に手を当てて溜め息をついた。
「………そんな、夢みたいなこと言って。プロなんて、選ばれたほんの一握りの人しかなれないのよ? サッカーばっかりやってて、プロになれなかったらどうするつもりなの? 涼は成績だって悪くないんだから、ちゃんと塾に行って勉強して、進学校に入っていい大学に入れば安心じゃない。サッカーは趣味でやればいいのよ」
 趣味? 何言ってんだよ、と叫びたくなる。
 俺にとって、サッカーは趣味なんかじゃない。本気でやってるんだ。暇つぶしで適当に遊ぶような、そんな生易しい楽なものじゃない。サッカーがない人生なんて考えられないし、サッカーをしていない俺は本当の俺じゃない。
 だから、疲れ切ってへとへとになるまで毎日練習しているのだ。
 反論しようと口を開きかけたとき、玄関のドアが開く音がして父さんが帰って来た。
「ただいま」
「………おかえり」
 リビングに入ってきた父さんは、硬い表情で向かい合って座る俺と母さんを見て、話の内容に勘付いたらしかった。
「あの話か?」
「ええ………」
「そうか」
 父さんは頷いて、母さんの隣に座った。ネクタイを緩めながら、「涼」と声をかけてくる。俺は静かに父さんに目を向けた。
「塾のことは聞いただろう。とりあえず、夏休みの講習に行ってみて、そこの塾に満足できなかったら、二学期からは他の塾にすればいい」
 断定的な口調で言われて、俺はかっとしてしまい、思わず立ちあがった。
「ちょっと待ってよ。俺、行くなんて、まだ一言も………」
 父さんの眉がぴくりと上がった。