それから二時間ほど作業に没頭しているうちに、日が翳ってきた。
「続きはまた今度にしよっか」
遅くなっちゃうし、と彼女は言い、ノートを閉じた。
その表紙に『加納百合』と書かれているのを見て、まだ彼女と話をしたいなと名残惜しく思っていた俺は、思わず訊ねてしまう。
「名前、ゆり、って読むんだよね」
フルネームはクラスの名簿などで見たことがあったけど、読み方までは書いていなかったので、ずっと気になっていたのだ。
俺の言葉に、加納さんはふいと顔を上げた。そして、わずかに目を細める。
「うん。ユリの花の百合」
「いい名前だね」
無意識に言ってから、なに柄にもないこと言ってんだ俺、と急激に恥ずかしくなる。
彼女は少し驚いたように目を丸くして、じっと俺を見つめている。それから、ゆっくりと口角を上げた。
「………ありがと。私も気に入ってるんだ、この名前」
その笑顔にどきどきしながら、うん、と俺は頷いた。気恥ずかしくていたたまれなくて、視線を背けてしまう。
「宮原くんは、りょう、だよね? サッカー部の子が呼んでるの、聞いたことある」
俺のノートを覗き込んだ加納さんが、確かめるように呟いた。俺はこくりと頷く。
「いい名前だね。宮原くんに似合ってる」
「えっ、そう?」
「うん。なんていうか、爽やかで穏やかな感じ」
加納さんがにこりと笑った。こんなふうに笑顔で話せる日がくるなんて、少し前までは思いもしなかった、としみじみ思う。
俺は嬉しくてにやけそうになるのを必死に堪えながら、そのときふと気がついた。
彼女の下の名前を、学校で一度も聞いたことがない。一番よく話している女子たちとも、名字で呼び合っているのだ。
でも、それって、さみしい。すごくいい名前なのに。加納さん自身も気に入ってるって言ってるのに。もったいない。
そう考えた途端、俺はほとんど反射的に口を開いていた。
「ーー百合、って呼んでいい?」
言ってから、しまった、と思う。唐突すぎるし、脈絡がなさすぎるし、図々しすぎるし、もう最悪だ。
自己嫌悪に苛まれながら、俺は恐る恐る加納さんを見る。案の定、きょとんとした顔をしていた。
「……ほんと、ごめん。急に変なこと言って………」
かろうじて謝ると、彼女はふるふると首を横に振った。
「ううん、別に変じゃないよ。むしろ、えーと………」
そこで彼女はいったん言葉を切り、目を泳がせた。それから、少し気まずそうに俺を見る。
「………嬉しいよ。下の名前で呼んでくれるのなんて、お母さんくらいだし………」
やった、と叫び出してしまいそうだった。でもそれは我慢して、俺はひとつ咳払いをする。
「………えーと、百合……ちゃん」
俺がそう言った瞬間、彼女が「えっ」と声を上げる。
「ちょっ、それは恥ずいよ、ちゃん付けはやめて………」
頬をほんのりと紅く染めて、戸惑ったよう視線を泳がせている。こんなに感情が表に出ている加納さんは初めてだ。
「じゃあ……百合さん?」
俺が呟くと、彼女は目を丸くしてこちらを見た。それから、口を手で押さえて小さく噴き出す。
「ふふっ、なにそれ。変なの、同級生なのに、さんって。……いいよ、呼び捨てで」
「そ、そっか………」
呼び捨て。百合、と心の中で呼んでみる。むず痒いような、変な感じだ。
べつに、女の子を下の名前で呼び捨てにするのは初めてじゃない。幼稚園から一緒の、近所に住んでいた女の子たちは呼び捨てにしていたから。
でも、どうしてだろう。彼女を百合と呼ぶことは、ものすごく恥ずかしくて。
「じゃあ……私も、下の名前で呼んでいい?」
加納さんーーー百合がそう言った。
俺はこくりと頷く。顔が赤くなっていないか心配だ。
「じゃ、涼……くん」
その言葉に、俺は噴き出してしまう。
「いや、そこは『涼』だろ。この流れからして」
彼女も「だよね」とくすくす笑う。
なんだろう、この感じ。幸せ? そんな使い慣れない言葉を使いたくなってしまう。
やばい、この顔、サッカー部のやつらには絶対見られたくない。きっと、キモいくらいにやにやしている。
「続きはまた今度にしよっか」
遅くなっちゃうし、と彼女は言い、ノートを閉じた。
その表紙に『加納百合』と書かれているのを見て、まだ彼女と話をしたいなと名残惜しく思っていた俺は、思わず訊ねてしまう。
「名前、ゆり、って読むんだよね」
フルネームはクラスの名簿などで見たことがあったけど、読み方までは書いていなかったので、ずっと気になっていたのだ。
俺の言葉に、加納さんはふいと顔を上げた。そして、わずかに目を細める。
「うん。ユリの花の百合」
「いい名前だね」
無意識に言ってから、なに柄にもないこと言ってんだ俺、と急激に恥ずかしくなる。
彼女は少し驚いたように目を丸くして、じっと俺を見つめている。それから、ゆっくりと口角を上げた。
「………ありがと。私も気に入ってるんだ、この名前」
その笑顔にどきどきしながら、うん、と俺は頷いた。気恥ずかしくていたたまれなくて、視線を背けてしまう。
「宮原くんは、りょう、だよね? サッカー部の子が呼んでるの、聞いたことある」
俺のノートを覗き込んだ加納さんが、確かめるように呟いた。俺はこくりと頷く。
「いい名前だね。宮原くんに似合ってる」
「えっ、そう?」
「うん。なんていうか、爽やかで穏やかな感じ」
加納さんがにこりと笑った。こんなふうに笑顔で話せる日がくるなんて、少し前までは思いもしなかった、としみじみ思う。
俺は嬉しくてにやけそうになるのを必死に堪えながら、そのときふと気がついた。
彼女の下の名前を、学校で一度も聞いたことがない。一番よく話している女子たちとも、名字で呼び合っているのだ。
でも、それって、さみしい。すごくいい名前なのに。加納さん自身も気に入ってるって言ってるのに。もったいない。
そう考えた途端、俺はほとんど反射的に口を開いていた。
「ーー百合、って呼んでいい?」
言ってから、しまった、と思う。唐突すぎるし、脈絡がなさすぎるし、図々しすぎるし、もう最悪だ。
自己嫌悪に苛まれながら、俺は恐る恐る加納さんを見る。案の定、きょとんとした顔をしていた。
「……ほんと、ごめん。急に変なこと言って………」
かろうじて謝ると、彼女はふるふると首を横に振った。
「ううん、別に変じゃないよ。むしろ、えーと………」
そこで彼女はいったん言葉を切り、目を泳がせた。それから、少し気まずそうに俺を見る。
「………嬉しいよ。下の名前で呼んでくれるのなんて、お母さんくらいだし………」
やった、と叫び出してしまいそうだった。でもそれは我慢して、俺はひとつ咳払いをする。
「………えーと、百合……ちゃん」
俺がそう言った瞬間、彼女が「えっ」と声を上げる。
「ちょっ、それは恥ずいよ、ちゃん付けはやめて………」
頬をほんのりと紅く染めて、戸惑ったよう視線を泳がせている。こんなに感情が表に出ている加納さんは初めてだ。
「じゃあ……百合さん?」
俺が呟くと、彼女は目を丸くしてこちらを見た。それから、口を手で押さえて小さく噴き出す。
「ふふっ、なにそれ。変なの、同級生なのに、さんって。……いいよ、呼び捨てで」
「そ、そっか………」
呼び捨て。百合、と心の中で呼んでみる。むず痒いような、変な感じだ。
べつに、女の子を下の名前で呼び捨てにするのは初めてじゃない。幼稚園から一緒の、近所に住んでいた女の子たちは呼び捨てにしていたから。
でも、どうしてだろう。彼女を百合と呼ぶことは、ものすごく恥ずかしくて。
「じゃあ……私も、下の名前で呼んでいい?」
加納さんーーー百合がそう言った。
俺はこくりと頷く。顔が赤くなっていないか心配だ。
「じゃ、涼……くん」
その言葉に、俺は噴き出してしまう。
「いや、そこは『涼』だろ。この流れからして」
彼女も「だよね」とくすくす笑う。
なんだろう、この感じ。幸せ? そんな使い慣れない言葉を使いたくなってしまう。
やばい、この顔、サッカー部のやつらには絶対見られたくない。きっと、キモいくらいにやにやしている。