不穏な空気が漂う。クラス中がぴりぴりと神経を尖らせていた。
それでも、加納さんだけは、凛と前を向いている。三島を睨んだままスカートのポケットからハンカチを出し、浅井の机に書かれた『死』という文字をごしごしと拭った。
そして、ゆっくりと口を開く。
「……あんたたち、死ってどういうものか、分かってるの?」
静かな声だった。でも、その声はよく通り、静まり返った教室の中に染み渡った。
「死ってものが、どれだけ重くて、大きくて、苦しくて、悲しくて……切ないものか、分かってるの?」
三島たちはまだにやにやしたまま答えない。
「……なんにも分かってないくせに」
彼女の声が、ふいに歪んだ。今にも泣き出しそうに聞こえた。
「なんにも知らないくせに……死なんて言葉、軽々しく使うな!!」
悲鳴のような言葉が響いた。
みんな言葉を失ったように黙って加納さんを見つめている。
三島たちも、引きつった表情のまま、何も言わなかった。
加納さんは、誰かの死を、目の当たりにしたことがあるんだろう。それも、きっと、とても大事な人を失ったんだろう。
たぶん全員にそう思わせるほど、その叫びは悲痛で真摯なものだった。
彼女は肩を震わせながら、浅井の机を拭いている。
俺は、みんなが硬直している中を自分の席に戻り、部活用のスポーツタオルを出して、水道で濡らしてきた。加納さんの横に立ち、浅井の机を拭く。
彼女がちらりと顔を上げ、俺を見て「ありがとう」と小さく呟いた。俺は頷き返し、机を拭く手に力を込めた。
そのとき後ろのほうで、がたんと椅子の鳴る音がした。
振り向くと、立ち上がった三島が屈辱に歪んだ表情で加納さんを睨んでいる。彼はしばらく頬をぴくぴくさせていたけれど、唐突に声を荒らげた。
「……いい子ぶってんじゃねえぞ、加納! おっさんに媚売って金もらってるくせに!!」
ーーその声を聞いた瞬間、俺の頭は真っ白になった。
気がついたときには俺は、三島のもとに駆け寄り、すぐ側にあった机に両手を叩きつけていた。
バシッ、と鋭い音が鳴る。
三島たちは目を剥いて俺を見ていた。今まで大人しい転校生だった俺がいきなり豹変したので、驚いているのだろう。クラスのみんなも息を呑んで俺を見ているのを感じた。
波風を立てないようにやってきたけれど、きっとみんなの俺を見る目は変わるだろう。でも、そんなことは、どうでもいい。
俺は怒りと侮蔑を込めて、真正面から三島を睨みつけた。
「………負け犬の遠吠えかよ。情けないことすんなよ。加納さんがそんなことしてるって証拠でもあんのか? 確証もないのに、下らないこと言ってんなよ。浅井のことにしても……ちょっとは相手の気持ち考えろよ。お前らのやってること、むちゃくちゃ情けないし、ダサいよ」
静かな教室に、俺の言葉は、自分でも驚くくらいに大きく反響した。
物音一つしない。
三島たちが引きつった顔で目配せをしている。
こいつら、悪ぶってるけど、大したことないな。俺みたいなのにビビるなんて。
急に下らなくなって、俺は踵を返して加納さんのところに戻った。再び机の上をごしごしと拭く。
「……ありがとう」
俯いた俺の耳に、彼女の声が忍び込んできた。
俺は目を上げられないまま、こくりと頷く。