明治ロマン政略婚姻譚

 優しく微笑む彼は、時計を私に握らせる。


「えっ、そんな。いただけません!」

「でも、また遅れるぞ? それにこれはさっきのお詫びだよ。いくつでも持っているから気にしないで」


 いくつでもって……やはり相当お金持ちなんだわ。


「これはときどきねじを巻いてやらないといけない。そうでないと使いものにならなくなるから気をつけて」


 紳士は私に無理やり時計を押し付けた。


「ですが……」


 これはいったいいくらするのだろう。

 懐中時計なんて身につけたこともないので、見当がつかない。


「きみはさっきから俺の申し出を拒否してばかりで、少々失礼だ。受け取りなさい」
「は、はい」


 ビシッと叱られた私は、小さくなって時計をギュッと握った。


 怒っているのかと思いきや、彼はニコッと笑みを浮かべてなぜか熱い視線を送ってくる。


「ほら、もう着いたぞ」
「はい。ありがとうございました」


 神明神社の近くで人力車を降り、深々と頭を下げる。


「ああ」
「それと……一生大切にします」


 懐中時計を握りしめて伝えると、彼は笑みを浮かべて口を開いた。


「きみは珍しいくらい奥ゆかしいご令嬢なんだね。こんな安物いらないと言われるかと思ったよ」
「まさか」


 女学校に通うお嬢さまたちは、そうなのだろうか。


「そんなに喜んでもらえると俺もうれしい。それに、短い間だったけど楽しかったよ。さて、時間がないので失礼する。出しなさい」


 車夫に声をかけた彼は、そのまま走り去った。


「あっ、名前もお聞きしなかったわ……」


 懐中時計を見つめ、ハッとする。もしかしてああやって叱って、この時計を受け取らざるを得ないようにしたのかしら。


 それにしても、どうしたんだろう。
 心臓がバクバクと音を立てて暴れ回り、自分ではどうすることもできない。

 あの優しい笑みが頭にこびりついて消えてくれない。


 初めての感覚に首をひねりつつ、試しに時計の蓋(ふた)を開けてみると、中にはなにやら文字が刻まれていた。
 けれども英字なので、なんと読むのかわからない。


「あや、遅いわよ」


 そのとき、神社の境内から初子さんの急(せ)かす声が聞こえてくる。


「ごめんなさい」


 私はとっさにその時計を胸元に隠し、初子さんのもとへと走った。

 明治三十一年。

 子爵(ししゃく)一橋家の娘としてこの世に生を受け、十六になった私は、毎日の掃除が嫌いではない。

 お屋敷の廊下をタタタッと雑巾(ぞうきん)片手に駆け抜けるのは、お茶の子さいさい。


「あや、廊下の掃除をさっさと済ませて、庭を掃きなさい」


 奥の十二畳もある広い部屋から声だけで指示を出すのは、母・みねだ。

 母は、私が音を立てて廊下を掃除するのが苦手らしく、母の部屋の近くだけは足音を立てないように気をつけている。

 それでも敏感な母は気がつき、なにかと仕事を押し付けてくる。


「わかりました。お母さま」


 ひとつ上の姉・初子さんは、小さな頃から一度たりとも雑巾がけなんてしたことがない。

 けれども、私は文句を言ったりはしない。
 自分の立場をわきまえているからだ。


 私が自分の出生について知ったのは、尋常小学校四年のときのことだった――。

「お団子がひとつ余ったわね。孝義(たかよし)はもういらないと言っているし……。どうする、あや?」


 弟の孝義は、団子はあまり好物ではないのかいつも残す。
 ひとつ残った団子をめぐり、姉妹喧嘩が勃発した。


「この前は初子さんが食べたでしょ? 今日は私」

「そうだっけ? でも、かりんとうはひとつ多めにあげたじゃない」

「私、かりんとうよりお団子のほうが好きなの。初子さんもそうでしょ?」


 私と初子さんの喧嘩の声は、廊下まで響く。

 すると女中頭のまつが飛んできた。

 もうすぐ四十になる彼女は、二十年近く前から一橋家に仕えていて、私たちの世話も彼女が中心になってしてくれる。


「まあまあ、喧嘩なんておやめくださいませ。おふたりは、一橋家のご令嬢なんですから」


 まつは『ご令嬢』と口にするものの、一橋家は落ちぶれること甚だしい。

 父は子爵という爵位を持ち、宮内省に勤めている官僚だ。
 しかしその父の浪費癖がたたり、祖父の代は女中が十人もいたのに、今やまつを含めて三人だけ。

 それでも、華族であるがゆえ、それなりの品格を求められている。


「だって初子さんが、お団子をくれないんだもの」
「あやだって!」


 もう少しで取っ組み合いの喧嘩になりそうになったとき、「あや!」という母の大きな声がした。

 すると、まつはスッと部屋の隅に寄り、小さく頭を下げた。


「はい、なんでしょう?」


 私は、叱られるなら初子さんも同罪だと思いつつ、母を見上げる。


「この家のものは初子と孝義のものです。あなたはおこぼれでありがたいと思いなさい」


 母の言葉が納得できない私は、口を開く。


「どうしてでしょう? 三人で分け合えばよろしいと思います」


 正論を述べたつもりだったのに、母の眉がキリリと上がった。


「そのふてぶてしい態度。あの女そっくりね。あなたは初子と同等の立場ではないの。身の程をわきまえなさい。今後、初子にたてついたら追い出してやるわ」


 今日は母の虫の居所が悪いようだ。
 それはおそらく、父が母の欲しがっていた着物を買わずに、他で散財してきたからだろう。


「同等の立場ではないとは、どういうことですか? 初子さんは姉ですから、もちろん違いますけど」


 姉に譲れと言われていると思ったのに、『あの女』とはどういうことなのか、見当もつかない。


「妾(めかけ)の子ってことよ。芸妓(げいぎ)の血を引くなんて、一橋家の穢(けが)れなの!」

「奥さま、どうかそれ以上は。あやさまはまだ九歳でいらっしゃいます」


 まつがとっさに私をかばったものの、母の怒りは収まらない。


「まつ、あなた暇(いとま)が欲しいの?」

「……いえ」


 凄(すご)まれて意気消沈したまつは、うつむいた。


「妾……」


 そんなことは初耳だったので、呆然としてなにも言えない。

 母は、怒りの形相のまま部屋を出ていった。


「私……お母さまの子じゃないの?」


 ポツリと漏らすとまつは顔をそむける。
 つまり、嘘ではないのだろう。


「あや、お団子食べていいわよ」


 初子さんは気遣ったのか、団子ののった皿を私に持たせた。


「ううん。これは初子さんのお団子よ。私は、初子さんとは違うんだって」


 冷静に言葉を紡ぐと、彼女は顔をゆがめている。

 でも、不思議と怒りや悲しみという感情が湧き出てくることはなかった。
 それどころか、今までのもやもやがストンと晴れた気がして、妙にすがすがしい気分だ。

 そっか。私は歓迎されて生まれてきた子じゃなかったんだ。
 お母さまに愛されるわけがないんだわ。


 母は、ずっと私には冷たかった。

 食事の作法を初子さんが間違えても、言葉で注意されるだけ。

 しかし私には容赦なく手が飛んだ。ときには、箸をうっかり落としただけで顔が腫(は)れるほど叩かれた。


 他にも……初子さんにはどんどん新しい着物が与えられたが、私は初子さんの着古しばかり。

 次女だから仕方がないと思っていたけれど、おそらくそれが理由ではなかったのだろう。


「ううん。これはあやのものよ。私、意地悪したわ。この前は私が食べたんだもの、今回はあやの番。あやは私の妹なんだから。いい? あなたと私の関係は変わらないのよ」


 初子さんと私は、こうしてつまらないことで喧嘩をするとはいえ、とても仲のいい姉妹だ。

 常に一緒に行動して、同じ遊びをし、大切なものは分け合ってきた。


 だからだろうか。
 初子さんのほうが動揺して、焦点が定まっていないように見える。


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