高校二年生の春。
 それは盛大に咲き誇った桜の花があっという間に散り、透き通るようにきれいな青葉へと変わった頃だった。
 自転車登校だった僕は、朝日を浴びながら颯爽とペダルをこいでいた。
 ちょうど街の中でもシンボル的な神社の脇を走り抜けようというところだ。境内の周りには青々とした木々が立ち並ぶ。ここを過ぎるともうすぐグラウンドが見える。
 そこでふと、道の先の女の子に目が留まった。
 いや、正確にいえば――僕の目は彼女に釘付けになった。
 その立ち姿に一瞬で魅かれてしまったのだ。
 僕と同じ高校の制服だが、見たことのない子。新入生だろうか。
 うちの制服をこんな清楚に着こなしている子は見たことがない。
 彼女はなにやら木の枝を見上げていた。
「どうかした?」
 彼女の手前でブレーキをかけ、自転車を降りた。
 僕を振り返った女の子は小さく会釈すると、すぐに顔を戻し、
「あの子」
と視線の先を指差した。
 なんだろう。
 女の子の脇まで近寄り、僕も彼女の示す方向を向いて目を凝らす。
 見上げた枝の中ほどになにかが乗っている。
 クッション? それともぬいぐるみか? いや、ちがう。
 丸っこい小さな耳がふたつピンと立ち、続いてくりくりとした瞳が開く。
 それはかわいい声で「ミャァ」と鳴いた。
 縞模様が特徴の小さなキジ猫だ。
「あの猫、どうしたの」
「通りかかったらいまみたいに鳴き声が聞こえて。ずっとあの状態なんです。降りられなくなっちゃったのかな」
 彼女は瞳を潤ませた。ひどく不安げな表情だ。
 子猫は犬に追いかけられたり車に驚いて登ってしまったりということもあるらしい。
「助けよう」
「えっ。どうやって」
 僕は自分の自転車を引いて子猫の登った木の下に移動する。
 そしてスタンドを立てると、よっ、と勢いをつけてサドルの上に片足立ちした。
 幹に片手を当てたままバランスを保ち、もう一方の腕を子猫へと伸ばす。
 子猫はゆっくりと腰を上げた。どうしようか、迷っているようだ。
「ほら、こっち」
 僕は手のひらを上に広げて差し出す。
「あとちょっと。がんばれっ」
 下から彼女の声がした。
 子猫に声援を送っているのか、もしかして僕に?
「さあ、来い」
 限界まで手を伸ばしたとき、子猫が枝からジャンプした。
「「あっ」」
 僕と彼女の声が重なった。
 子猫の体は弧を描いて僕に迫り、伸ばしていた腕をひと蹴りしてから肩に飛びついた。
「おおっ」
 バランスを崩しそうになった僕は、なんとかサドルの上で体勢を整えた。そのままゆっくりと身をかがめる。最後は彼女が、僕の肩に乗った子猫を手に取った。
 女の子に抱き寄せられた猫はおとなしく丸まっている。
 彼女は大切なものを愛でるようにまつげを伏せた。
「ほんと、よかったぁ」
 その表情に、僕の胸がトクンと跳ねた。
 なんて穏やかであどけない顔をするんだろう。
 女の子は何度か子猫を撫でてから、身をかがめて地面に下ろした。
 子猫は「ミャァ」と鳴いてから神社の敷地へと駆けていった。
「もう下りれない高さまで登るんじゃないぞー」
 笑いながら叫ぶ僕に、腰を上げた彼女が深々とお辞儀した。
「どうもありがとうございました」
「なんともなくてよかった」
 僕は照れ隠しに頭をかく。
 彼女は頬にかかった髪を耳にかけ直してほほえんだ。
 そのしぐさにまたドキリとした。
 そこへちょうど、チャイムが鳴り渡った。校舎からだ。
 朝のオリエンテーション開始を告げる合図だ。
「わ、やばっ! 急ごう」
 呼びかけると、彼女が弾んだ声で「はいっ」と応えた。

 女の子とは昇降口で別れ、僕はそのまま自分の教室に直行した。
 静かにうしろのドアを開けて忍び込んだが、教室の中ではみんな席にもつかずにワイワイしゃべっていた。
 よかった、今日はまだ先生が来ていなかった。
 席について呼吸を整える。
 しばらくすると前方のドアが開き、担任が入ってきた。
 定年間近ののんびりした先生だ。
「おお、遅くなってすまんなぁ。ちょっとこの子が来るのを待っててね。さあ、どうぞ」
 先生は廊下を振り返って手招きした。
 すると女の子が、少し緊張した面持ちで現れる。
「転校生だ。みんな仲よくしてくれ」
 クラスがどよめく。
 男子からは、「わっ! かわいー!」なんていう歓声もちらほら。
 僕は目を見開いた。
 先ほどまで一緒だった、子猫救出作戦の彼女だった。
 彼女は教卓の横に立つと、自己紹介を始めた。
 名を、ゆずきというらしい。
 ゆずき――。
 僕は彼女の名前を心で反芻する。
 出身地や天候の経緯、趣味や特技などを話し終え、ゆずきは「よろしくお願いします!」
 と挨拶した。
 透き通るような声だ。
愛くるしい笑顔でぺこりと頭をさげる彼女に、僕は一瞬で恋をした――。

   *   *   *

 憧れの出会いには偶然が多い。
 図書館で借りようとした本に手を伸ばしたら、偶然好きな人と手が触れあったり。
 好きなひとと偶然同じ場所でふたりきりになったり。
 怖そうなひとに絡まれたとき、偶然好きなひとが助けてくれたり。
 雨宿りをしていたら、偶然好きなひとが傘に入れてくれたり。
 でも、僕と彼女の出会いはすべてが偶然だろうか。僕が自転車を停めたのも、ゆずきに声を掛けたのも、子猫を助けようとしたのも全部僕の意志だ。
 僕の意志が彼女を引き寄せたんだ。
 過去に夢で見た、ゆずきとの出会いの場面。
 僕はそれを小説にした。
 ああ、ゆずき。
 君が傍にいたら、きっと僕の人生を照らしてくれるだろうに。
 ゆずき――。
 枕の横の目覚まし時計に目をやると、すでに午前零時を回っていた。
 もっと、ゆずきのことを書き続けたい。
 夢で見た場面も、それからまだ見ぬ彼女との未来も。
 明日はたしか数学の課題テストがあった気がするけど……そんなこと、もう知るか。
 明日は明日の風が吹く!
 僕は心で名作映画のきめ台詞を叫んだ。
 ふたたび両手でスマホを操作する。
 湧き水のように、書きたい気持ちがどんどん溢れ出してくる。
 ゆずき、
 ゆずき、
 ゆずき――。
 僕は一心不乱でキーボードを打った。
 そうして、いったい何時間経っただろうか。
 執筆中にまどろむ中、昨夜の夢の続きを見た。

   *   *   *

 ゆったり流れる川のせせらぎ。
 そこに射す光が、細かく砕けてチラチラ散った。
 輝く水面に包まれた彼女は腕を開いて指先を伸ばし、からだを反転させる。
 まるで、水の上で踊る妖精のように。
 背中まである彼女の髪が、風に吹かれて揺れ、日に透けてきらめいた。
「ゆず」
 僕は愛しいひとの名を呼んだ。
 振り向く彼女のしっとりとした艶のある唇に、潤んだ瞳。
 ふたりして浅瀬の中で向き合う至福のとき。
 ゆずきは上目遣いで静かに僕の言葉を待つ。
 僕は彼女を見つめ、思いきって声を振りしぼった。
「僕は、ゆずきのことが好きだ――」
 ゆずきが頬を赤らめる。
 この光景を、これから先もこの目に永遠に焼きつけておきたい。
 彼女は目を伏せると、胸に手を当て、呼吸を整えた。
「コウくん……わたし、」
 その声はかすかに震えていた。
 周りの景色が視界から消え、彼女だけが見える。
 少しの間をおいて、
「うれしい」
 あたたかな吐息とともに、ゆずきは答えた。
 そして僕の目を見つめ直し、「ありがと」と。
 僕は彼女を、包み込むように抱きしめた。