「ねえ、向こう岸まで行ってみない?」
僕は川面を振り返ると、いい感じの雰囲気に背中を押されるように、ゆずきに提案した。
川幅は数メートルくらいだろう。この辺りは流れが穏やかで、浅瀬が続く。
「わー、面白そう。行こ行こ!」
ゆずきは好奇心が旺盛だ。
でもだからって、なんとも思ってない異性に誘われて一緒に川を渡ろうなんて言い出さない節度はあるはずだ。彼女のガードを下げられている僕には、チャンスがあると思っていいのかな。
ひとりあれこれ考えている間に彼女はサンダルを脱いでそろえた。
「流されちゃったらまずいもんね。ここに置いとこうか」
「だね」
僕も自分のサンダルをゆずきのサンダルの隣に並べる。
足裏に当たるごつごつとした石の感触が気持ちいい。
僕はジーンズの裾をめくりあげた。
ストライプシャツを着たゆずきは、下は七分丈の、黒のスキニーパンツを履いている。細くすらりと伸びる足がいっそうきれいに見えた。
「わあ、冷たーい」
足先をゆっくりと水面に浸した彼女から笑みがこぼれる。
「でも気持ちぃー」
そしてよろよろしながら一歩ずつ進んでいった。
僕もあとに続く。水の中にはわりと大きな石も転がっていて、表面には藻が生えているのか少しぬめぬめした。足の裏で探りながら力のかけられるポイントを見つけ、少しずつ前へ。
ふと顔を上げる。
慎重な僕に対してゆずきは、すでに流れの真ん中あたりまで来ていた。
ゆったり流れる川のせせらぎに射す太陽光は、細かく砕けてチラチラと散る。
輝く水面に包まれた彼女は腕を開いて指先を伸ばし、からだを反転させた。
まるで、水の上で踊るように。
背中まである彼女の髪が風に吹かれて揺れ、日に透けてきらめいた。
「ゆず」
僕の呼びかけに振り返った彼女がほほ笑みを浮かべたまま僕を見た。
ゆずきのことは親愛の情を込めて『ゆず』と呼んでいる。ただしそれは、彼女とふたりきりになったときだけだ。いまだに照れが勝るときもあるけれど、いまは自然に口にできた。
「ん? どうかした?」
彼女は僕が何か言いたげなのを察したのか、川の中、一歩二歩とこちらに歩み寄ってくる。
――すると、
「きゃっ」
着いた足が川底で滑ったのか、短い叫びとともにゆずきが体勢を崩した。
僕は手を伸ばして――
「ゆずっ」
倒れかけた彼女の腕をとった。
「あー、びっくりしたー」
抱きとめられた彼女は、僕にもたれかかりながら胸を撫で下ろした。
「浅瀬なのに意外と流れ速くて足取られちゃった」
「大丈夫?」
「うん。助けてくれてありがと」
ゆずきはうつむきがちにつぶやいた。
僕はつかんでいた彼女の腕を離す。
「いつも頼もしいよね、コウくんて」
ゆずきの唇からしっとりとした吐息が漏れた。
「僕が?」
「今回の舞台だって、コウくんの脚本がすごくよくて、みんな演じるの楽しそうだったし」
「ああ、舞台の話か」
「あ、ううん、それだけじゃなくて。なんてゆーのかな、えーと……」
ゆずきの顔がいつになく上気する。
「どうしたの?」
「ええっとね、コウくんといると安心するってこと」
「そうなの?」
「うん。あ、あ、もちろんわたしもだけどね、みんなそう言ってるよ」
彼女は赤くなったまま慌てて言い訳のように付け足した。
「うれしいな」
僕は心から笑いかけた。
「僕もゆずきと一緒にいるとすごく楽しい」
「ほんとに?」
彼女の顔にぱっと花が咲く。
「ほんと。でも……」
「でも?」
「欲を言うなら――今度の舞台では、僕の作品のヒロインをゆずきに演じてほしいって思ってる」
「えー、わたし? そんなの無理だよ、迷惑かけちゃうもん」
彼女が身を縮めて謙遜する。
この春から部員になった彼女は、雑務をこなすマネージャーのような立ち回りで部には貢献してくれているが、役者をやろうとはしなかった。
「僕はね、舞台で演じるゆずのこと、いつも想像してるんだ。こんなふうにしゃべってくれたらいいなっていう表情とか、しぐさとか」
僕は呼吸を整えた。
「ゆずならきっと、いい役者になれるだろうし、僕のイメージ軽く越えてくれると思う」
「そんなこと」
ゆずきの頬に赤みが差す。
「いつか、僕の物語のヒロインを演じてほしいな」
彼女はもじもじしながら答えあぐねていたが、その顔はうれしそうに見えた。
よし、決めた。
いまここで言おう。
高架のほうから嬌声が聞こえた。でもたぶん、彼らは川の中の僕たちに気づいていない。いや、たとえ気づいてたって、そんなことはもう気にしない。
「ゆず」
彼女を見つめた。
ゆずきは静かに僕の言葉を待つ。
僕は思いきって声を振りしぼる。
「僕は、ゆずきのことが好きだ――」
風にそよぐ髪と、差し込む柔らかな光。
この光景を、これから先もこの目に永遠に焼きつけておきたい。
彼女は胸に手を当て、瞳を潤ませた。
「コウくん……わたし、」
ゆずきが胸の内を口にしようとしたとき――
ジリリリリリリリ……
けたたましい金属音が鳴り響いている。
周囲を見回せば、いつもの自室。僕はベッドで布団にくるまっていた。
最悪な目覚め。
空気の読めないタイミングで作動した憎たらしい目覚まし時計。
その頭を乱暴に叩いた。
僕は川面を振り返ると、いい感じの雰囲気に背中を押されるように、ゆずきに提案した。
川幅は数メートルくらいだろう。この辺りは流れが穏やかで、浅瀬が続く。
「わー、面白そう。行こ行こ!」
ゆずきは好奇心が旺盛だ。
でもだからって、なんとも思ってない異性に誘われて一緒に川を渡ろうなんて言い出さない節度はあるはずだ。彼女のガードを下げられている僕には、チャンスがあると思っていいのかな。
ひとりあれこれ考えている間に彼女はサンダルを脱いでそろえた。
「流されちゃったらまずいもんね。ここに置いとこうか」
「だね」
僕も自分のサンダルをゆずきのサンダルの隣に並べる。
足裏に当たるごつごつとした石の感触が気持ちいい。
僕はジーンズの裾をめくりあげた。
ストライプシャツを着たゆずきは、下は七分丈の、黒のスキニーパンツを履いている。細くすらりと伸びる足がいっそうきれいに見えた。
「わあ、冷たーい」
足先をゆっくりと水面に浸した彼女から笑みがこぼれる。
「でも気持ちぃー」
そしてよろよろしながら一歩ずつ進んでいった。
僕もあとに続く。水の中にはわりと大きな石も転がっていて、表面には藻が生えているのか少しぬめぬめした。足の裏で探りながら力のかけられるポイントを見つけ、少しずつ前へ。
ふと顔を上げる。
慎重な僕に対してゆずきは、すでに流れの真ん中あたりまで来ていた。
ゆったり流れる川のせせらぎに射す太陽光は、細かく砕けてチラチラと散る。
輝く水面に包まれた彼女は腕を開いて指先を伸ばし、からだを反転させた。
まるで、水の上で踊るように。
背中まである彼女の髪が風に吹かれて揺れ、日に透けてきらめいた。
「ゆず」
僕の呼びかけに振り返った彼女がほほ笑みを浮かべたまま僕を見た。
ゆずきのことは親愛の情を込めて『ゆず』と呼んでいる。ただしそれは、彼女とふたりきりになったときだけだ。いまだに照れが勝るときもあるけれど、いまは自然に口にできた。
「ん? どうかした?」
彼女は僕が何か言いたげなのを察したのか、川の中、一歩二歩とこちらに歩み寄ってくる。
――すると、
「きゃっ」
着いた足が川底で滑ったのか、短い叫びとともにゆずきが体勢を崩した。
僕は手を伸ばして――
「ゆずっ」
倒れかけた彼女の腕をとった。
「あー、びっくりしたー」
抱きとめられた彼女は、僕にもたれかかりながら胸を撫で下ろした。
「浅瀬なのに意外と流れ速くて足取られちゃった」
「大丈夫?」
「うん。助けてくれてありがと」
ゆずきはうつむきがちにつぶやいた。
僕はつかんでいた彼女の腕を離す。
「いつも頼もしいよね、コウくんて」
ゆずきの唇からしっとりとした吐息が漏れた。
「僕が?」
「今回の舞台だって、コウくんの脚本がすごくよくて、みんな演じるの楽しそうだったし」
「ああ、舞台の話か」
「あ、ううん、それだけじゃなくて。なんてゆーのかな、えーと……」
ゆずきの顔がいつになく上気する。
「どうしたの?」
「ええっとね、コウくんといると安心するってこと」
「そうなの?」
「うん。あ、あ、もちろんわたしもだけどね、みんなそう言ってるよ」
彼女は赤くなったまま慌てて言い訳のように付け足した。
「うれしいな」
僕は心から笑いかけた。
「僕もゆずきと一緒にいるとすごく楽しい」
「ほんとに?」
彼女の顔にぱっと花が咲く。
「ほんと。でも……」
「でも?」
「欲を言うなら――今度の舞台では、僕の作品のヒロインをゆずきに演じてほしいって思ってる」
「えー、わたし? そんなの無理だよ、迷惑かけちゃうもん」
彼女が身を縮めて謙遜する。
この春から部員になった彼女は、雑務をこなすマネージャーのような立ち回りで部には貢献してくれているが、役者をやろうとはしなかった。
「僕はね、舞台で演じるゆずのこと、いつも想像してるんだ。こんなふうにしゃべってくれたらいいなっていう表情とか、しぐさとか」
僕は呼吸を整えた。
「ゆずならきっと、いい役者になれるだろうし、僕のイメージ軽く越えてくれると思う」
「そんなこと」
ゆずきの頬に赤みが差す。
「いつか、僕の物語のヒロインを演じてほしいな」
彼女はもじもじしながら答えあぐねていたが、その顔はうれしそうに見えた。
よし、決めた。
いまここで言おう。
高架のほうから嬌声が聞こえた。でもたぶん、彼らは川の中の僕たちに気づいていない。いや、たとえ気づいてたって、そんなことはもう気にしない。
「ゆず」
彼女を見つめた。
ゆずきは静かに僕の言葉を待つ。
僕は思いきって声を振りしぼる。
「僕は、ゆずきのことが好きだ――」
風にそよぐ髪と、差し込む柔らかな光。
この光景を、これから先もこの目に永遠に焼きつけておきたい。
彼女は胸に手を当て、瞳を潤ませた。
「コウくん……わたし、」
ゆずきが胸の内を口にしようとしたとき――
ジリリリリリリリ……
けたたましい金属音が鳴り響いている。
周囲を見回せば、いつもの自室。僕はベッドで布団にくるまっていた。
最悪な目覚め。
空気の読めないタイミングで作動した憎たらしい目覚まし時計。
その頭を乱暴に叩いた。