メタセコイアの並木道を楽しんだ僕たちは、樹林エリアからレンタサイクルやレストラン、ショップが並ぶプレジャーエリアへと移った。
 僕はまだそれほどお腹が空いていたわけではなかったけど、ゆずきはそろそろランチでも食べたい頃かな、なんて思っていたら、
「ねえコウくん、あれ乗らない?」
 彼女が空を指した。
 見上げた先には観覧車。カラフルなゴンドラが回っている。
 そういえば入場ゲートからも、このエリアのシンボルのように見えていた。
「いいね」
「やったー」
 ぴょんぴょん跳ねて喜ぶ彼女に、やっぱり僕もうれしくなる。
 乗車口まで行くと、カップルや家族連れで数名の列ができていた。
 しばらく待って、ドアの開いた赤色のゴンドラが、降車位置から滑るようにして流れてきた。スタッフに誘導されて、先にゆずきが乗り込む。僕もあとに続いてステップをまたいだ。
 隣同士で座ろうか一瞬躊躇したものの、彼女がシートの真ん中あたりに座っていたので向かい合う形で腰を落ち着けた。
 ほんの数秒でぐんぐんと上昇し、地上の人々は早くも小さくなっていく。
 格子窓からさわやかな風が吹き込んでゆずきの髪を揺らした。
「今日はごめんなさい」
 急にゆずきが謝った。
「ん、何?」
「だって、コウくんにリフレッシュしてもらおうって思って誘ったのに、なんだかわたしばっかり楽しんでるから」
 彼女は申し訳なさそうに言ってから、小指で流れる髪をすくい、耳にかけた。
 なんだ、そんなことを気にしてたのか。
 ゆずきはほんとに優しい子だ。
「ゆずが楽しそうにしてるの見てると僕もうれしいよ」
「ほんと?」
「うん、ほんと」
「よかったぁ」
 彼女の顔がぱあっと明るくなる。
 視線を落とすと、ワンピースからすらりとした白い足が伸びていた。
 僕の靴先の数センチ先に、かわいらしいサンダル。そして丁寧に塗られたピンクのペディキュア……ってどこ見てるんだ僕は!
 慌てて視線を戻した。
「風、気持ちいね」
 ゴンドラはぐんぐんと高さを増していく。
 ゆずきは両手を窓枠に置いて、外の景色を眺めた。
 僕は同じほうを見ながらも、そわそわしていた。
 からだをよじっているせいか、彼女のスカートの裾が膝からだいぶずり上がり、太ももが露わになっている。
 隙を、見せているのか……な。
 いったいどこに注目してるんだよ。
 僕は顔を上げて再び外を見た。
 つがいの鳥が気持ちよさそうに大空を飛んで太もも。
 ……って、太もものことが頭から離れない!
 僕は顔を動かさずにもう一度視線を落とした――が、すでにスカートの裾は元通り直されていた。太ももはしっかり隠れている。
 胸の中にはある思いが沸々と湧き出す。
 初デート、観覧車、ふたりきり……。
 やるなら、いまだ。
 心の中ではっきりと声にした瞬間、心臓がバクバクいって悲鳴を上げた。
 よく、人は死ぬ前に、これまでの人生の思い出が走馬灯のようによみがえるというけれど、もしそれが本当なら大変だ。いままさに、僕の頭にもゆずきとの出会いから今日までのことが次から次へと浮かんだ。
 目の前のゆずきはいじらしいほどにかわいい。
 風にそよぐ髪、差し込むやわらかな光。
 これから先も永遠に、この目に焼き付けておきたい。
 全身の血液がどくんどくんと波打つように流れる。
 そっとスマホを取り出すと、小説エディタを起動した。
 ひとつ後ろのゴンドラには誰も乗っていない。たしか前のゴンドラは女子学生二人組だったはず。
 前を行くゴンドラが見えなくなった。
 僕たちを乗せたゴンドラが最上部に差しかかる。
 僕はデート・パートの続き――観覧車に乗った場面で、ゆずきが『ある行動』を起こすと書き足した。
 スマホから視線を起こすと、外を見ていた彼女も僕を向き直る。
 ごくり、とつばを飲み込んだ。
 すると――。
 ゆずきが自分のスカートの裾を持ち、少しずつめくりあげていく。
 !
 小さくてきれいな膝――きめ細かな肌――太もも――そして……
座っていたシートが透けて見えた。
 ――ん?
 どゆこと?
 顔を起こすと、ゆずきの全身が透明になり、消え始めていた。

 ……‼‼‼

「うわーっ‼ ちょちょちょ待っ、待った待った‼ 嘘嘘嘘です、冗談です! 思春期特有の出来心なんです! 神様見てるんですよね、ほんとすみませんごめんなさい赦してください! いや違う、怒って‼ あああ怒られたい! どうか叱ってください罵倒してください蔑んでください‼ もう二度としませんから、どうかどうか‼‼」
 僕は取り乱しながら付け足した文を急いで消した。
「どうしたのコウくん」
 気づくと、消えかけていたゆずきのからだは元に戻っていた。
 彼女は自分が僕に操られかけていたことを認識していないようで、慌てふためく僕の顔をぽかんと見つめている。
「あ、いや、ごめん。スマホが誤作動して入れてたアプリ全部消えたと思って。でも勘違いだった」
「そっかー、びっくりしたねー」
「うん」
 ほんとのびっくりは君が消えかけたことなんだけどね、と心でつぶやく。
 またひとつ学んだ。
 ゆずきが現実世界に存在するというこの奇跡は、邪悪な心を許容しないのだろう。
 魔が差してとんでもない衝動に駆られてしまったが、越えてはいけない一線だったのだ。神様じゃなくたって、もしも隣のゴンドラから見られていたら、あの変態少年絶対ヤバいって通報されてたかもしれない。
 危ない危ない。
 もう、絶対、エロ禁止!

 観覧車を降りた僕たちは、ファストフードショップが並ぶ一角に来た。
「お腹ぺこぺこー」
「ほんと」
 ゆずきに言われて僕も自分の腹をさすった。観覧車に乗る前はたいして空腹感なんてなかったのに、ゆずき消失の危機に遭ったパニックでずいぶんとライフを消費したらしい。
「何食べようか?」
 彼女が居並ぶショップを見回す。カフェやレストランという選択肢もあったけど、ひとの目が気にならない屋外で、ふたりきりで食べることにしたのだ。
 アイスにスイーツ、ホットドッグ、揚げパン、焼きそば、串焼き……などなど。
 なかなかチョイスに迷う。
「全部買っちゃう?」
 ゆずきが笑った。
 まあ、分け合えばそんなに多い量じゃないよね。いろんな味を楽しめていいか。
 そんな感じで僕たちは、結局ゆずきの言葉通りほとんどのフードを両腕いっぱいにひとしきり買い込んだ。
 芝生の脇に設置されたベンチに掛けると、
「いただきまーす」
と手を合わせ、ふたりしてむしゃむしゃと食べ始める。
「ゆず、そこケチャップついてる」
「えー、どこどこ」
「ほら、そこ」
「きゃーはすかしー。でもおいしい!」
 ゆずきはとても幸せそうに食べる。
「これもすっごくおいしい。ちょっと待って、いま分けるね」
「あー、ほんとだ。すごいすごい!」
「なんか贅沢なランチだね」
「ねー」
 なんなんだ、この自然な感じ。初デートにもかかわらずまるで力みがない。
 かつて一穂と過ごした一日は記憶にないほど緊張したっていうのに。
 それに、このランチの場面は小説に書いてない。
 全部ありのままの、彼女と僕のやりとりだ。
 にこにこしながら口いっぱいに頬張るゆずきを見ていると、僕は思わず叫び出しそうになる。

 最の高‼

 もう小説に書かなくたって、僕たちはうまくやれるのかもしれない。
 彼女の表情や反応がいちいちかわいかった。

 とんでもない量をふたりで完食すると、今度は眠気が襲ってきた。
 僕が無防備な間抜け面であくびすると、
「ほわぁー」
 ゆずきも大きなあくびを返した。
「やだ、つられちゃった」
「気持ちよすぎて、ちょっと横になりたいくらいだね」
「じゃあ、なる?」
 ポシェットを覗いた彼女が、なにやら固まりを取り出した。
「じゃーん!」
と両手で開いたそれは薄手のビニルシートだった。
 シラカシの枝から茂った葉がつくる、涼しそうな木陰。
 この辺りにはほかに人影がない。僕たちだけの空間だ。
「ちょうどふたり分サイズだね」
 僕とゆずきは裸足でビニルシートに寝そべった。
 下は芝生の絨毯だったので、ふわふわしていて背中の感触が心地いい。
 空は雲ひとつなく澄み渡っていた。
 木の葉が風に揺れ、体にチラチラと木漏れ日が当たる。
 なんだか、時間が止まったみたいだ。こんな幸福感に満ちた昼下がりが僕の身に訪れるなんて。
 今朝まで、彼女が現実に存在するなんて信じていなかった。
 だって彼女は、僕の夢と妄想と創作の中だけの女の子だったんだから。
 もしかして、ここは彼女が存在する並行世界――パラレルワールドだったりして。
 ありえないことばかりが起こり過ぎて、そんな可能性まで受け入れられそうだ。
 顔だけ横に向けると、ゆずきが目を閉じてうつらうつらしていた。
 きめの細かい、白い肌。耳たぶにほくろが見えた。
 それにしても気持ちよさそうな寝顔だ。
 なんて無防備で無垢な子なんだろう。
 ゆずき、隙を見せすぎだって。
 僕の視線に気づいたのか、彼女がうっすらと目を開けた。
 僕は顔を戻し、目を閉じる。いわゆる寝たふりだ。
 するとゆずきのほうからビニルシートの擦れる音がした。
 からだを横に向けたのだろう。
「ねえ。コウくん」
 突然耳元にかかる吐息。そして至極のウィスパーボイス。
 鳥肌が立つと同時に、全身に電気が走った。
 思わず「わっ」とのけ反る。
「あ、ごめん、びっくりさせちゃったね」
 ゆずきも上体を起こした。
「ゆずの声、好き」
 僕の言葉に彼女は「えへへ」と照れた。