トイレを出ると、案内所の脇でゆずきが待っていた。
「お待たせ」
 ずいぶん長く待たせたから絶対に「大」だと思われてるよなあと神妙な顔つきで戻ったが、彼女はそんなことを気にする様子もなく、僕を見るなり「ねえねえコウくん」と、とある提案をしてきた。
「今日ね、コウくんを連れてきたいとこがあるんだ」
 人懐っこい言い方とチャーミングな笑顔にドキッとする。
 夢や想像の中でなら幾度もあったわけだけど、こんなに近くでリアルに会話するのはやはり緊張した。
 しかも、さっき書き換えたばかりの展開になってるし!
「ゆずが、僕を?」
「うん! 題して、ゆずきプレゼンツ『癒しのスペシャルリフレッシュコース』」
 ゆずきの、スペシャルな、リフレッシュの、コース……。
 こじらせ思春期ボーイの僕は、思わずそのワードにどこか性的サービスみたいな響きを感じてしまった。
 (よこしま)……。
「どうかな?」
 僕を覗きこむように見つめるゆずきがまぶしくて、そしてひとり脳内で不埒な妄想を膨らませた自分が恥ずかしくて、僕の顔は沸騰した。
「それ、すごく楽しみだな……じゃあ、今日はお任せします。よろしく」
「やったー。じゃあ、お任せされるね。行こっか!」
 彼女はスカートの裾を翻して振り返ると、僕の腕をとってバスターミナルへと向かった。
 なんだこれ。
 マジで。どうして。
 アオハルってやつだ……。
 夢に描いていた青春そのものだった。

 乗りこんだバスは、市街地を抜け、海のほうへ進んでいった。
 後ろから二番目の、ふたり掛けの席に並んで座った僕たちのからだは、カーブのたびに右へ左へと揺れた。
 窓側のゆずきは、外を見ながら「わー、きれいな花ー」とか「あのお店面白そう!」などと無邪気にはしゃいでいる。
 僕もそれにあわせてなんとか相槌を打っていたものの、まあ、ぶっちゃけ、会話は上の空で……それより何が気になるって、音声情報よりも百倍敏感な触覚よ!
 時折触れる腕と腕の感触。彼女の華奢ながらやわらかい二の腕。
 通学中にたまたま同じバスに乗り合わせたふたりの高校生男女、空いてる席がそこしかなくて並んで座ってみたところ……みたいな、王道シチュエーション。
 よくあるやつ! こういうの、憧れだったんだよなあ。
 これは僕の小説には書いていない。
 でもきっと、ゆずきからのおすすめプラン発動によって派生したのだろう。
 僕はこの展開に感動を覚えた。
 神様、ありがとう……。
 そうこうしているうちに、バスは巨大駐車スペースの一角に着いた。
 そこは全国からの観光客も多い、公営の海浜公園だった。
 海に接した自然豊かなところで、広大な敷地に樹林、草原、砂丘エリアなんかがある。中でも大規模な花畑は圧巻だ。
 親戚がウチにやってきたときには『こんな近くに素敵な場所があっていいなあ』なんて羨ましがったが、僕が過去に来たのは二回だけ。幼稚園と小学校の遠足で。
 それ以来はずっとご無沙汰していた。そのへんはわりと『地元民あるある』かもしれない。灯台下暗しというわけではないが、地元民は案外、住んでいる街の観光をしない。それよりジモティーにとってここは、数年単位で戻ってくる心の拠り所なのだ。
 まずは幼児体験を通して好印象が刷り込まれ、その次は恋人との初デートデビューやグループデートで再訪、そして社会に出て家族ができたあたりでまた戻ってくる、懐かしの場所――という具合に。
「気持ちいいね!」
 バスから地面に降り立ったゆずきがはしゃぐ。
 それと同時に海風が吹き抜け、スカートの裾が舞い上がる。
 彼女は「きゃっ」と声を上げて急いで押さえた。
「見えた?」
 頬を赤らめて問うゆずきに、僕は脳震盪を起こしそうなくらいぶんぶんと首を横に振った。実際には彼女の健康的な太ももが見え、脳内ではその残像を永久保存しようと頑張っていたのだが。

 それから僕たちは、目の前に伸びる散策路を歩き始めた。
 公園の柵沿いに草木が茂っている。ここを五百メートルくらい進むと中央ゲートだ。
 レンガの敷き詰められた道をのんびりと歩いていると、やわらかな風がゆずきの髪を揺らし、その毛先が僕の腕に触れた。
 くすぐったくて、気持ちよくて、幸せ……。
 僕はまたしても心でつぶやいた。
 嗚呼、アオハル……。
 と、そのとき。
 道路沿いに連なる柵の中から子猫がひょこっと顔を出した。
「あれー、どうしたのー」
 笑顔のゆずきが柵に駆け寄ってしゃがみこむ。
「お出迎えしてくれたのかな?」
 僕もゆずきの隣で膝を折った。
 彼女が人差し指で子猫の頭を撫でると、子猫のほうは人に慣れているのかゆずきだからなのか、警戒心ゼロで気持ちよさそうに目を細めた。
「ミャァ」
「かわいいなぁ」
 ゆずきも幸せそうに目を細める。

 ――かわいいなぁ、ってつぶやく君が、かわいいなぁ。  コウ

 思わず一句詠んでしまったよ。
「そういえば、あの日の子も、この子に似てたよね」
 ゆずきが僕を振り向いた。
 ほんの数センチ先に彼女の顔がある。
 さらさらの髪が風になびいて僕の頬をかすめた。
 やわらかくて、いい匂い。
「あ、あの日の子って?」
 ドキドキしながら問い返す。
「初めて会った日に。ほら、木の上から下りられなくなってた子、コウくんが助けてくれた」
「ああ、あの」
 たしかに同じちびっこいキジ猫で、しぐさや鳴き方も似ていた。
 彼女は僕の感嘆が、その偶然に対してのものだと思っただろう。
 でも、僕の頭の中は違った。別の感動を覚えていた。
 まさかのまさか――僕が小説に書いた彼女との出会いのエピソードが、いま目の前にいる彼女にとっても過去の記憶として残っているなんて……。
 つまり、子猫救出作戦も、教室での再会も、そしてそのあと彼女と距離を縮めた数々のエピソードも、そしてゆずきへの告白も。
 しばらくして子猫が柵の中に戻っていき、それを名残惜しそうに見送った僕たちは、再び散策路を歩いた。
 僕は何気に、自分が小説に書いていたゆずきとのエピソードのいくつかに触れてみた。
 すると彼女は、想像通りそれらの思い出を覚えていた。そして楽しそうに語った。
 それはちょうど、恋人同士がまだ初々しかった頃を振り返って、それからぐっと縮めてきた距離を感慨深げに慈しむように。
 空想で思い描いた出会いから今日までのエピソードの全部が全部、現実につながっていた。
 僕たちには共通の思い出がある!