いつものように気配を消して体育館に入ると、そそそそそと忍び足で移動し、大道具や小道具が収納された倉庫の前まで来た。
 ちょうどバスケ部の連中がコート狭しと動き回っている。機敏な動きを見せる集団の中でも、とりわけ際立つ存在がいた。
 楓だ。
 スピードスターと呼びたくなるそのボールさばき、足さばきには華がある。 次々と相手をかわし、くぐり抜けるようにしてジグザグと進み、あっという間にゴールを決めた。
 そこでちょうど区切りがついたようで、コートのメンバーと控えだったメン バーが入れ替わった。僕は、ここぞとばかり楓に念を送る。
 さすが持つべきものは十年来の友。あっちもすぐに気づいて、ふらりと倉庫までやってきた。
 楓を中に招き入れ、すぐに扉を閉めた。
「このシチュエーション、女子ならともかく、コウだと全然ドキドキしないな」
 楓が首にかけたタオルで汗をぬぐいながらぼやく。
「女子には目もくれないバスケバカが言うな」
「ひとを呼び寄せといて、ひどい言い草だな」
 喜怒哀楽の欠落した楓は、それでも平然としている。
「ちょっと緊急事態」
「んな大袈裟な」
 大袈裟かどうか、お前の反応しだいでケリがつくんだよ、楓――。
 僕はそう心でつぶやく。
 ゆずきはともかく、さっきしゃべった一穂までが僕の妄想だとしたら、これはなかなかの緊急事態だ。いまが夢なのか現実なのか、僕はもう、自分の意識に自信が持てない状態になり始めている。
もはや頼みの綱は、楓ただひとり。
 こいつ、クラスにおいてはあざとく人当たりのいい男で票を稼いでいる節もあるが、僕の前では絶対に演じない。
 ときにディスり、ときに蔑み、ときに毒を吐く。(いや、全部ネガティブだし!)
 とにかく、僕に対していつだって素の反応を見せる。この十年の付き合いで それだけは間違いなく信じられた。
 だから楓には回りくどいことをしない。
「楓が一番好きなプレイヤーって誰?」
 ストレートに質問した。
「は? バスケの話?」
「ああ、バスケ」
「なんだよいきなり。お前、興味ないだろ」
「いや、いまはすごくあるんだ」
「嘘こけ。この十年、バスケする俺のこと、やれやれって目で見てきたじゃんか」
 楓め、なかなか鋭い洞察力を見せやがるぜ。
「まあ、とりあえず答えて」
「キング・レブロン」
「ん? それ名前?」
「愛称」
 キング・レブロン。
 手元のスマホでググると、本名と経歴が表示された。
 なるほど、短い紹介からも相当の名選手であることが伝わってくる。
 まあ、そんなことはどうでもいい。
 とりあえず第一の局面、クリアだ。
 僕の知らないワードを楓が答え、それはネットで調べてもたしかなことだった。
 つまり、やはりいまは夢でなく現実だと再確認できた。
 さて、ではセカンドフェーズだ。
「ゆずき――って女の子、知ってる?」
 二投目もストレート。
 この質問自体は、別にいきなりしてもおかしくないはずだ。
 だって、知り合いにそんな名前の子がいるかどうかを聞いているに過ぎない。
 僕は知ってるけど楓は? そういうニュアンス――のはずだった。
 でも……楓は眉間に皺を寄せて、訝しげに僕を見た。
「な、なんだよその目」
 僕は狼狽を悟られないよう語気を強める。
 やっぱこの質問、変だったか……?
 いきなり『ゆずき』って。
「知ってる? ってなんだよ」
 楓が不愛想に、質問に質問で返してきた。
「なんだよってなんだよ」
 僕も負けじと質問への質問に質問で返す。
「コウ、お前――カノジョ自慢でもしたいわけ?」
 さらなる質問をかぶせられたが、そんなことより僕が耳を疑ったのは、楓の口から飛び出たこのパワーワード――
 カノジョ自慢……。
 カノジョ?
 カノジョ。
 カノジョ‼
「ゆ、ゆずきが僕のカノジョだって言ってんのか?」
 僕は震える声で楓を凝視する。
「いや、コウが言わせてんだろ、うぜーな」
 やつの瞳孔は揺らがなかった。やっぱり演じているわけではなさそうだ。
「いつから?」
「知るかよ、んなこと。でもお前ら、ゆずきが転校してきてからわりと早い段階で仲良さげだったじゃん」
 ゆずきは転校生――。
 そうだ、僕の小説ではそういう設定だ。
 でも、楓がそれを認識してるとは。
 そしてゆずきと僕が付き合ってるって……たしかにそれも、僕の小説ではその通りなんだけど。
 これって、もう、まさか……え、うそ……ほんと、ん?
「いつからそんなかまってちゃんになったんだよ。新作公演のプレッシャー?」
 プレッシャー……って、一穂にも同じことを言われたばかりだ。
 そもそも、やっぱり次の新作は僕の脚本なのか。
「俺忙しいから行くわ。コウもまあ、ほどほどに頑張れ」
 楓は憮然とした表情で、手をひらひらさせて倉庫を出ていった。