吸い込まれるように屋上の塔屋に入ると、振り返らずに階段を駆け下りた。
 すれ違う女子たちが奇異な目で僕を見る。
 さっきは舌だったもつれが今度は足に伝播したように、途中でよろけてつまずきそうになった。うまく進めない。
 手すりをつかんでなんとか体勢を維持した。
 一段一段踏みしめながらもう一度思考を巡らせる。
 僕の目の前に現れたゆずき――。
 僕の理想の女の子。
 でも彼女は、僕の夢、僕の小説の中の理想――のはず。
 いまは現実世界で、夢じゃない――はず。妄想癖の強い僕だって、さすがに夢と現実の境界くらい認識してる――はず。

 じゃあ、さっきのは?

 現実感は、あった。
 心地よく鼓膜に届いた天使の声音も、吸い込まれそうな瞳も、その瞳に 映った阿呆面の僕も。逆にあれ以上のリアルはない。
 でも彼女は僕の夢の中の――って、同じ思考に戻ってるし。無限ループだし。
 ぐらぐらと足場が揺れ出す感じがした。
 なんか病んでる。病みまくってる。
 現実での自分の存在に自信が持てなくなったら終わりだろ。
 いや、待てよ。
 これってもしかして『明晰夢(めいせきむ)』ってやつなのか?
 二階まで下りた僕は、階段のすぐ脇にあった男子トイレの個室に身を隠した。ズボンは下ろさずそのまま便器に腰かけると、スマホを起動してググる。

■明晰夢とは?
 自分で夢であると自覚しながら見ている夢のこと。

■明晰夢を見るには?
 いろんなサイトがどばっと表示された。意外とニーズがあることにビビる。中でも目を引いたリンクをクリックした。

■夢日記を書いて明晰夢の成功率アップ!

 うわ。これ、なんか近くないか? ていうかそのままだ。僕の場合は見た夢を小説として描いてるわけで、日記より詳細がリアルだし、見た夢のままじゃなくてさらに妄想理想もトッピングしてしまっている。
 続けて明晰夢を見やすくする条件も書かれていた。

■明晰夢を見る条件
・深い眠りに入る前に浅い眠りを維持すること
・見たい夢を維持すること

 なるほどなるほど……、まさにこれだ。毎晩執筆している間にうつらうつら寝てしまうこともある。前頭葉の半覚醒状態。眠りは間違いなく浅い。それに、見たい夢は維持しまくってる。ひたすらゆずきのことを考えてるんだから。
 条件がばっちり合致してる!
 つまりこれはME・I・SE・KI・MU★!
 そうだ、そうなんだ。僕のゆずきへの思いが強すぎて、夢の中の彼女がリアリティマックスの状態で現れたんだ。
 だったら、夢から目覚めれば現実に戻るはず!
 さっきゆずきには冷たい態度をとってしまった。もうこの夢では彼女に顔向けできない。一度目覚めてやり直そう。うん、そうしよう。
 そう結論づけて無理やり気持ちを切り替えた。
 ――で、どうすれば目が覚める?
 夢から意識的に目覚める方法なんてあるんだろうか。
 僕は再びスマホで検索した。
 すると今度は映画の考察サイトがずらりと並んだ。そのうちの一つに目が留まる。
 海外の有名監督が手掛けた、ひとの夢の中に潜入する映画。僕は観たことないけど、たしか日本人俳優も出てたと思う。
 そのサイトに目を走らせると結構いろいろ書いてあった。
 熟睡してても三半規管は機能しているのだと。ふむふむ、そうなんだ。
 だから平衡感覚を崩せば強制的に目が覚める。なるほど。
 で、具体的には、座ったまま椅子を倒す――、高いところから飛び降りる――、水に飛び込む――。たしかにそれなら強制的に目覚めそうだ。
よし、早速やってみるか。
 トイレの個室を出て階段に戻ると、二階の最上段から下を見下ろした。
踊り場までジャンプすれば目覚めるか。
 全部で十二段か。さすがに高いな。五段下りた。よし、七段だったらいけるか。
 僕は腕を振り、せーの、で飛んだ。
 どんっ。
 両足で床を踏みしめた。なかなかの衝撃が足から上半身にジーンと上ってくる。
 やばい、目覚めない。やっぱ段数を減らしたのがまずかったのかも。
 今度は踊り場から一階を見下ろした。
 しょうがない、十二段一気に飛ぶか。
 どうせ夢だ。着地で目覚めるんだから痛みはないはず。
 すくみそうになる足をペシペシ叩いて、僕はまた腕を振り、せーの、で飛んだ。
 ……!
 飛距離が足りず、階段の途中辺りで足がつきそうになって血の気が引いた。
 勢いづいたまま足を滑らせ、階段に思いっきり尻を打ちつけると、そのまま派手に下まで転げ落ちた。
「痛ってぇ!」
 叫んだあとで襲い来る、全身の凄まじい痛み。呼吸が止まりそうだった。
 最悪最悪最悪!
 なんてこった! 全然目覚めないし!

 全身打撲は確定だが、幸い捻挫や骨折は免れたようだった。
 しばらくのびていた廊下でのそのそと上半身を起こす。
 あっと思い出してポケットからスマホを取り出した。
 よかった、画面に傷はなさそうだ。ああ、そういえば……。
 先ほど検索した映画の中で、いまが夢なのか現実なのかを知るためのアイテムが登場していた。僕にとってそれはスマホだろう。
 執筆エディタを起動してみる。
 ずらりと文章が表示された。昨夜書いたパートまでだ。
 アプリを閉じ、次にニュースサイトを見た。株価、天気、芸能と、どれも最新ニュースだ。これはさすがに夢じゃない。
 そうなんだ。夢じゃない。
 夢じゃない――。
 そうなると、なんなんだ?
 考えられるのは……、
 ――僕の妄想。
 ゆずきのことを想いすぎて幻影まで見るようになったのか。
 演劇部次回公演脚本の審査で後輩に敗れたストレスがこういう形で顕在化したんだったら情けない。

「あれ、どうしたの、そんなとこ座って」
 そのとき背後から声が掛かった。
 聞き覚えのある声に振り返ると――
 一穂だった。
 彼女は肩まであった髪を後ろで小さくひとつに束ね、上下とも白を基調としたスウェットに身を包んでいた。フードと胸元に入ったワンポイントのロゴがしゃれている。
「あ、あの……」
 どんな言葉を口にしていいかわからない。
 一穂の目力に圧倒されたから、というのもあるけれど、彼女と一対一のシチュエーションで向かい合うこと自体が久しぶりだった。
 もちろん彼女とは、普段から挨拶は交わすし、演劇部の部室でも自然に接していた。ただ、それは逆にいえば、あくまで部員のひとりとしてであって、決してそれ以上に距離を縮めることはないということでもある。
 だから……もう振り返りたくもない昨年の、とても苦い経験をして以来、ここ一年ほどは彼女とまともに話した記憶がない。
 床に尻をついたまま戸惑っていた僕に、彼女が手を差し伸べた。
 ――えっ?
「ほら、立ったら」
 手を貸してくれているのか。あの、一穂が。
「う、うん」
 彼女のまっすぐな眼差しに惹き込まれ、僕も手を伸ばす。
 ほっそりした指先と、やわらかな手のひら。そして、体温。
 からだがかっと熱を帯びた。
 初めて一穂に触れた。
 なんて温かいんだろう。これはやっぱり夢じゃない。
「そっちこそ、どうしたの」
 スウェット姿ってことは、いまは新作舞台の稽古中のはず。
「だって、コウがなかなか戻ってこないから」
 コウ――。名字じゃなくて、下の名前で呼ばれた。
「僕? え、戻る?」
 ちょっと何を言ってるのかわからない。
「戻るって?」
「書いた本人が抜けたらブタカンや演出陣だって困るでしょ」
 一穂が口を尖らせる。
「書いた本人? どういうこと?」
「ちょっと、からかってるの? 怒るよ。コウが書いた今度の話、すっごい面白いから、みんなやる気になってるんだよ!」
「……」
 急に押し寄せてきた情報量に狼狽えた。
 マジで、何を言ってるんだ?
 スパコン並みの情報処理速度で彼女の言葉を整理する。
 僕の書いた脚本が採用されて、みんなが楽しみにしてくれてるってことなのか?
「ごめん、言い過ぎた」
 一穂が急にしおらしい声を出した。黙っていた僕に頭まで下げてくる。
 え、え、え……。
 なぜに?
「誰よりも頑張ってるのはコウなのに。わたし、あんな素敵なヒロイン役、ほんとにちゃんと演じられるか不安でしょうがなくて」
 こんなけなげな彼女、見たことない。
 そもそも一穂に「コウ」と下の名を呼び捨てにされたのも今日が初めてだ。
「コウだって最高の舞台にしなきゃっていうプレッシャー、あるよね」
 あるのかな……。
「でもそういうの、全然顔に出さずにみんなを盛り上げてて」
 そう……なの?
「すごいな、コウは」
 褒められてる……?
「いまだって、屋上で大道具作ってる一年生たちに声掛けてたんでしょ」
 はい?
「そういう気遣いが自然とできるの、尊敬しちゃう」
 尊敬された……。
「でも、もうそろそろ戻ろ。みんな次のシーンどうやって演じようかって、コウのイメージ聞きたがってるから」
 待ち望まれてる……!
「あ、そういえば」
 一穂が何かを思い出したように言った。
「――ゆずきと会わなかった?」
「……」
 僕はぽかんとした。
 ――ゆずきと会わなかった?
 ――ゆずきと会わなかった?

 …………。

 びっくりしすぎて一穂の言葉がリフレインしまくった。
 え……? いま、なんて?
「ゆずき?」
 幻聴か?
「コウ、屋上から下りてきたとこなんでしょ。ゆずき、わたしより先にコウのこと呼びに行ったんだよ?」
 一穂の口からゆずきの名前が出た。
 僕の空想の産物である”ゆずき”を、彼女が認識しているって……?
「もしかして、ケンカとかした?」
 一穂が眉を寄せる。なぜか僕のことを心配するように。
「まさか」
「じゃあ、ゆずき、上?」
 彼女はほっとした表情で人差し指を立てた。屋上を指しているのだろう。
「う、うん」
 僕がさっき見たゆずき……。妄想じゃなくて、ほんとにいるのなら、まだ上だ。
「一年生たちとしゃべってるのかな。わたし、ゆずき連れてくるから、コウは先に戻ってて」
 一穂が僕に小さく手を振って、階段を駆け上がっていった。

 …………。

 いったい、どういうことだ?
 僕だけがゆずきを見てるなら妄想で話は済む。(いや、済んでないかもだけど)少なくとも他者に影響はないはずだ。
 でも、一穂が絡んでくるとなると話は別だ。
 理解不能――。
 ゆずきは僕の頭の中とスマホの小説エディタでしか存在しないはずなのに。
 それをなんで、一穂が知ってる?
 まさか……。
 僕のスマホを盗み見た彼女が、演じてるとか?
 いや、でも待てよ。僕はいつもスマホを手放さないし、仮に何かの折に一穂が観る機会を得たとして、僕はアプリの起動にパスワードをかけている。しかもそのパスワードは『yuzuki』だ。そんなの誰も知るはずがない。
 さらにさらに百歩譲って、もしも一穂がパスワードを知って僕の小説を読んだとしても、だ。マジキモイと青ざめてドン引きするのならともかく、僕の理想に沿って演じる意味や意義やメリットはあるだろうか?
 皆無――。
 かつて彼女の抹消したい過去――黒歴史を作った張本人である僕を、彼女がフォローする理由? そんなの、誰かにとんでもない弱みを握られない限り、断じてない。
 ひょっとして、いましゃべった一穂もまた、僕の妄想だったら……?
 そうだとしたら、もう何が何だかわからない。
 混乱しまくる頭で演劇部の稽古場に向かう勇気などなかった。