一時間目、いつ死んでもおかしくないようなおじいちゃん先生の英語の授業は、見事に全然頭に入ってこない。ただでさえ授業の内容は高度なものなのに、厄介なことに村松(むらまつ)先生には変な霊がついている。

たぶん三十代の半ばとかそのへんだと思うんだけれど、陽気な外国人。ちょこちょこ教室を動き回っては、他の生徒のノートを覗(のぞ)き込んで笑っている。それだけならまだいいが、村松先生の退屈な授業に飽きたのか踊り始めた時はぶっと笑ってしまった。すかさず先生に「何を笑っているんですか」と注意されてしまったけれど。


 それをきっかけに、陽気な外国人幽霊はわたしにちょっかいをかけてくるのだ。黒板の前でわたしと目を合わせて変顔をしたり、意地悪なことに板書を手で隠したり。でも教科書を読み上げる時、発音に気を付けて読むと拍手してくれたので、悪い霊ではないらしい。

 悪い霊ではないってだけで、邪魔なことに変わりはないんだけど。

 今日の彼は、授業が退屈なのか窓際で頬(ほお)杖(づえ)をついていた。村松先生の授業は黙々、淡々と、お経のように進むので、ちゃんと集中してないと頭に入ってこない。でもどうしても、外国人幽霊の動向が気になる。頬杖をついたその目の先で、いったい何を見ているんだろう? つい、窓の外に顔が向く。


「仙道さん、どこを見ているんですか」


 すぐに気付かれた。村松先生は静かに怒っている。感情の起伏があまりない村松先生だけど、怒る時は声がきりりと険しくなるのだ。


「すみません」
「授業中は集中するように」


 村松先生は厳しいけれど、怒り方は簡潔だ。カタブツなだけで決して悪い人ではないので、生徒からそんなに嫌われてはいない。


「では榊(さかき)くん、次のページから読んでください」


 授業は何事もなかったように進行していく。当てられたのは、クラスでトップの成績を誇る榊。立ち上がり、すらすらとネイティブのような発音で教科書を読み上げる。教室じゅうがうっとりと、榊のきれいな発音に聴き入っていた。


「完璧ですね。では、ここの文章のポイントを見ていきましょう」


 淡々と続く文章、淡々としゃべる村松先生。


 榊は入学式で新入生代表の挨拶を述べた。つまり、入学試験をトップの成績で合格した天才だ。高校生どころか大学生に見える大人っぽいイケメンで背が高くて、女子たちから密かに人気がある。でも休み時間に大声ではしゃいだり、そこそこ校則の厳しい桜ケ丘で制服をどう気崩すか、熱心に研究するタイプじゃなくて。

いわゆる、二軍男子っていうんだろうか。体育会系の一軍男子のグループとは距離があって、勉強ができる優等生グループに属している。榊の友だちは、テストの結果が出る時だけは感情を表に出すタイプだ。

 あれだけ頭のいい榊っていったい、普段何考えてるんだろうなぁ。

 廊下側の一番前の席に座っている榊の後頭部を見ながら、そんなことをちょっと、思った。





 お弁当、朝にコンビニで買ってきたもの、購買のパン。昼休みの教室は、思い思いのランチを広げる高校生たちで、空気がぱっと華やぐ。優等生が故の悩みを抱えている桜ケ丘の生徒にとって、お昼時は貴重な癒(い)やしタイムなのだ。


「知ってる? 浅倉って、エンコーしてるんだってさ」


 声をひそめ、朋菜がにやつきながら言う。二色の胡麻(ごま)を使った卵焼きをつまむ箸が、ふと止まる。


「えー、マジで! キモッ!」
「ちょっと沙智代、大声出さないでよ」


 波瑠がすかさずたしなめる。オーガニック食材だけを使っているという波瑠のお弁当箱の中身は、今日もミニトマト以外彩りを欠いている。


「夕べさ、裏サイトで見たんだ。浅倉、中学の時からエンコーしまくりだったんだって。浅倉梢じゃなくて、ヤリクラサセエって呼ばれてたらしいよ。略してヤリセ」
「ウケるんだけどー、そのセンス!」


 爆笑している沙智代の横で波瑠が怪訝(けげん)な顔をしている。
 そんな話をしている時でも、わたしは朋菜に憑いている霊が気になってしょうがない。朋菜が人の悪口を言う時、この霊はがるる、と獲物を前にした狼(おおかみ)のような顔になるのだ。


「ちょっとからかってやろうか」


 朋菜が立ち上がる。沙智代がらんらんと目を輝かせ、波瑠が眉を顰(ひそ)めた。


「浅倉さんさー、エンコーでそういうことするのって気持ちいいの?」


 教室の片隅でひとりでぽつんとお弁当を食べていた浅倉さんが、かちり、と固まった。


「一回いくら? 二万? 三万? あ、浅倉さんじゃそんなん無理か。いいとこ、イチゴーってところ?」


 沙智代がたまらずぶっと噴き出した。教室の中の空気がすっと固まった。おとなしめのグループの子たちが朋菜を複雑そうな目で見つめている。


「やめろよな」


 浅倉さんのすぐ隣の机に固まって昼食をとっていた二軍男子グループ、榊がすっと立ち上がる。朋菜が驚いた顔をする。


「そんなの、誰かが言ってるデタラメだろ。憶測で人を判断するのは、人間として最低のことだ」


 それだけ言って、榊はすっと椅子に座ってしまった。朋菜はふて腐れた顔をして、早足で自分の机に戻っていく。


「何よ、正義ぶっちゃって」


 渋い顔のまま、朋菜がコーヒー牛乳片手に焼きそばパンを頬張る。


「ああいうヒーロータイプ、まじウザい。頭良いからって、調子乗ってんじゃない?」
「わっかるー。学年トップだから自分は特別だって、絶対思ってるタイプだよねぇ」


 朋菜と沙智代が小声で今度は榊の悪口を言い始める。波瑠は話に加わらず、苦虫を噛(か)みつぶしたような顔できんぴらごぼうを食べていた。
 桜ケ丘来たらこういうのって、絶対ないと思ってたんだけどなぁ。

 中学時代、多かれ少なかれ、自分の周りでこういう事はあった。クラスにひとりは浅倉さんみたいなどこのグループにも属せない子はいて、そういう子はすぐに気の強い子からいじめの標的になる。朋菜みたいにからかったり、机に落書きしたり、上履きを隠したり。

 わたしの中学ではひどいいじめはなかったけれど、確(たし)か、旭(あさひ)中だかどこだかではいじめによる自殺があって、そのいじめの内容もひどいもので、わたしの学校まで噂(うわさ)が届いてたっけ……

 でも実際入ってみたら、ぴかいちの進学校でもいじめはあった。そして、よりにもよっていじめっ子たちと友だちになってしまうなんて、思わなかった。特に朋菜は中学時代バスケ部で、わたしもバスケ部だったから仲良くなったんだけど、友だち選びを間違えてしまったかもしれない。


 もっとも、浅倉さんにも悪いところはある。浅倉さんは極端におとなしくて、まったくしゃべらない。誰かが話しかけない限り、じっと机に座っているタイプだ。人と仲良くしよう、という気持ちが全然ないのか、あまりにも人見知りがひど過ぎる。


 それに、見た目だってこう言っちゃ悪いけれど、ちょっとキモい。たっぷりした長すぎる髪は幽霊みたいだし、前髪だって伸ばしっぱなし。身体はがりがりに痩せていて、棒みたいな脚は拒食症なんじゃないの? と心配になるほどだ。


「あーあ。もう昼休み終わっちゃう」


 黒板の横の時計に目をやりつつ、朋菜が言った。