哀(あい)川(かわ)菫(すみれ)。
 彼女の名前はそういうらしく、ついでに名前の由来まで話してくれた。
 菫の花のように可憐で、菫の花言葉のように謙虚な、そんな女性に育ってほしいという思いかららしい。彼女は「単純だよね」と笑いながら言った。
 そのうえ、ピアスを開けたときは痛くないか心配されたり、ちょっと具合が悪いだけで病院に行かせようとしてきたり、とても過保護だということも教えてくれた。僕もいっしょに笑ってしまった。
 なんだか、とてもほっこりした気持ちにさせられる。
 愚痴なのに、大学にいるような、今どきの若い女性たちとはまったく違う。
 彼女には、親の陰口のような言葉にもしっかりと暖かさがあって、家族が好きで、大切だということがひしひしと伝わってくる。
 だからこそ、僕は自然に笑えているんだと思った。
「なんだか螢くんって、大人だね」
 彼女はとうとつに言ってきて、つい頬を掻いてしまった。そういうことを言われたことがないということもある。けどそれ以上に、面と向かって言われるのが、なんだか気恥ずかしかったのかもしれない。
「そう、ですか?」
「うん。こんなふうにちゃんと人の話し聞いてくれる人って、あまりいないと思うよ」
 花開くように一段と大きな笑顔になって、彼女から目を離せなかった。
 まるで絵に描いたような、きれいな表情だった。
 でも僕は、彼女の言うようなそんな人じゃないと思った。
 僕は自分が話すより、人の話しを聞いていたほうが楽しいというだけだった。
 そこには単に面白い話しが思い浮かばないという理由もあって、前から直したい性格だとも感じていた。だからとくに、人の話しを聞く、ということに気を使っているわけではないのかもしれない。
 でも、彼女はそんなところを良いところだと思ってくれている。そういう考えもあるんだなと、感心してしまった。
 彼女の視線がこっちを向いて、不思議そうに首を傾げた。僕はとっさにそっぽを向き、意味もなくカメラをいじっていた。
「そういうもの、なんですかね」
「そうだよ。私の弟なんか、ろくに話なんて聞いてくれないんだから」
「弟さんいるんですね」
「うん。私の五つ下の、たしか今は大学二年生だったと思うよ」
「あ、僕も二年です」
「螢くんと同い年なんだね。そっかー」
 彼女は目を落とし、足をぶらぶらさせていた。はたから見れば、それは楽し気に映るのかもしれない。
 けど僕にはその足が、空中でさまよっている花びらのように見える気がした。
 なにかあったんだろうか。
 気になって聞いてみると、彼女はちらっとこっちを見てから、また足元に視線を戻してしまった。
「螢くんとは、こんなに話せるのになって、思ってね」
 彼女は苦笑いをしていて、僕は開きかけた口を止めて、そっと閉ざした。
 喧嘩でもしているんだろうか。
 だから、すぐ仲直りできますとか、そういうものですよとか、何個か励ますような言葉が浮かんだ。
 けど、なにも知らない僕がそんなこと言って良いものなのか、迷ってしまった。
 彼女はたぶん口にしないだろうけど、ただ鬱陶しいだけだと思った。僕が言われても、きっとそう思うだろう。だから、なにも言わずに彼女の話に耳を傾けるしかなかった。