翌日は土曜日だったのに、模試があり、お昼を過ぎてからやっと鉄橋へと向かうことができた。数日ぶりに鉄橋に足を踏み入れた私に気づいたレイ君は、少し驚いたような表情を浮かべていた。

「久しぶり」
「うん、久しぶり」
「もう来ないのかと思った」
「今日、模試があったから来るの遅くなっちゃった」

 そういうことを言ってるんじゃないことはわかっていた。でも、ごまかすように言った私にレイ君は「模試かー」なんて苦笑いを浮かべて空を見上げていた。
 隣に並ぶと私はポケットからあのストラップを取り出すと、レイ君に差し出した。

「これ、知ってる?」
「ん? な、に……」

 レイ君の顔色が変わるのがわかった。そして、私が持つストラップへと手を伸ばす。その手が、ストラップに触れることはない。でも、震える指先が全てを物語っていた。

「こ、れは……どうして、二葉が」
「これね、川の橋脚に引っかかってたの。ねえ、レイ君。このストラップ、レイ君の――ううん、遠矢君のだよね」

 私の言葉に、レイ君が息を呑む。

「遠、矢……。どうして……その、名前を……。二葉、君は何を知ってるの」
「優一さんから聞いたの」
「優一……ああ、そうだ。それは優一と一緒に買ったストラップ……。あの日、あいつらがこれを川に投げて……それで俺は、ストラップを追いかけて川に飛び込んで、そのまま――」
「違う」

 遮る私に、レイ君は眉をひそめる。私は伝えなきゃいけない。あのあと何があって、それでレイ君が、遠矢君がどうなったのか。

「たしかにレイ君はストラップを追いかけて川に飛び込んだ。……でも、そのあとしばらくして助け出されてるの」
「え……?」
「優一さんが通報して来てくれた警察の人が助け出してくれて。でも、それでも長い時間水の中にいたレイ君は――今も、あそこに眠っている」
「嘘、だ。死んでない……? 俺が、生きてる……?」
「生きてるよ。私、遠矢君に会ってきたんだから。レイ君と同じ顔して、病院に眠ってたよ」

 振り返ったレイ君の視線の先には、K大附属病院があった。暗闇に白く浮かび上がる無機質な空間。あそこにレイ君はいる。

「そうか……俺は生きてるんだ……。そうか……」

 しゃがみ込んでしまったレイ君が今、どんな感情なのかわからない。喜んでいるのか、それともショックを受けているのか。でも、私は、私自身はレイ君が生きていてくれて、嬉しい。

「は、はは……。今までここで自殺しようとする人たちを止めたりしてたけど、あれは気楽な幽体だったからできたんだね……。いざ自分が生きていると思うと……」
「レイ君……」
「ねえ、俺はどうだった? ちゃんと生きてた?」

 ちゃんとというのが何をもってちゃんとなのかはわからない。けれど……。

「うん、生きてたよ。ずっと眠っているけど、ちゃんと心臓も動いてた。ただ、少し身体が弱り始めてるって」
「眠ってるってことは、植物状態ってことか。……例えばこのまま俺が死んだら、二葉のお姉ちゃんに腎臓をあげられたりしないかな。そうしたら二葉が死ぬ理由もなくなる」

 後ろ向きに前向きなレイ君の言葉に私は苛立ちを感じる。私が、私だけ生きていて嬉しいと思っているのだろうか。私は、レイ君が生きているって知って嬉しかったのに。

「何それ……。レイ君に代わりに生かされて私が喜ぶとでも思う?」
「そうじゃないけど……」
「それにね、親族間以外で誰かに臓器をあげたいっていう要望は通らないの。そりゃお姉ちゃんとレイ君は同じ病院に入院しているからその可能性がないとは言えないけど、でも優先度がお姉ちゃんより高い人がいればその人のところにレイ君の腎臓は行くの。だから、私のためとかお姉ちゃんのためとかそんな言葉に逃げないで! ……レイ君は嬉しくないの? 生きているってわかって」
「わからない」

 それっきり、レイ君が何か言うことはなかった。死んでいると思っていた自分が本当は生きている。それが喜ばしいと思う人ばかりじゃないと知っている。でも、私はレイ君に生きてほしい。それがたとえ、私のワガママだとしても。

「とりあえず、今日は帰るね」
「……だよ」
「え?」

 ずっと黙ったままのレイ君に背を向けると、レイ君が何かを呟いた気がした、どうしたのかと振り返ると、レイ君は苦しそうに顔を歪めていた。

「二葉は勝手だよ」
「レイ君」
「自分は誕生日が来たら死ぬくせに、俺には生きろって? そんな勝手なことがよく言えるよ」

 レイ君の言葉にギュッと唇をかみしめる。今の私じゃ、レイ君に何か言うことはできない。そんな資格はない。

「――また来るね」

 それだけ言うと、私は鉄橋をあとにした。レイ君はもう何も言わない。そして、その場から動くこともなかった。


 家に帰ると電気が消えていて、両親がまだ帰っていないことがわかった。土曜日だしきっとお姉ちゃんのところに行っているんだろう。
 制服を着替えて手紙を書く。口じゃ上手く伝えられないと思うから。
 何度も書いては消してを繰り返しているうちに、車が止まる音が聞こえた。両親が帰ってきたようだ。

「おかえり」

 階段を下りた私を見て、玄関にいたお母さんが少し驚いたような表情を浮かべた。

「ただいま。……帰ってたのね」
「うん。お姉ちゃんのところに行ってたの?」
「ええ。昨日、二葉が来てくれたって喜んでたわよ」
「そっか」

 できる限り普通に、そう思いながら喋っているけれど、私の心臓はいつもの倍ぐらいの速さで鼓動を鳴らす。ポケットに入れたレイ君のストラップをギュッと握りしめると、私は後ろ手に隠していた手紙を差し出した。

「これ」
「え?」
「今日の夜、私が寝てから読んで」
「今じゃダメなの?」
「ダメ」

 かたくなな私の態度に、お母さんは諦めたように「わかった」と言って手紙を受け取った。
 そして翌日の朝。制服に着替えてリビングへと向かった私にお母さんは言った。

「手紙、読んだわ。……明日の夜でいい?」
「大丈夫なの?」
「ええ。お父さんにも言ってあるから。7時には二人とも帰るわ」
「わかった。ありがとう」

 これでもう、後戻りはできない。
 もしかしたらこの選択を後悔する日が来るかもしれない。でも、それでも今の私はこの選択が最善だと思ってて、違う選択をしたらきっとそれはそれで後悔すると思うから。それなら、今の自分が思う方を選びたい。


 翌日、私はレイ君の元に向かうことなく学校が終わるとまっすぐに自宅へと帰った。誰もいないリビングで両親の帰りを待つ。あと1時間。あと30分。両親が帰ってくる時間が迫ってくると、心臓が痛いぐらいに鳴り響く。
 まず、なんて言おうか。今の私が、ううん。今までの私が思っていたことを伝えて、両親はいったいどう思うんだろうか。どう思われたってかまわない、なんてかっこつけたことは言えない。否定されたらきっと私は今まで以上に傷つく。でも、それでも伝えないわけにはいかないから。
 リビングには時計の針の音が鳴り響く。車の音も玄関が開く音もしない。時計の針は――7時20分を指していた。

「あは……これは、想定外だったな……。まさか、すっぽかされるなんて」

 手紙を書いた時点で、話がしたいという私の要求が断られることは想定していた。でも、こんなふうに期待させて突き落とすような、そんなことは想像していなかった。

「っ……くっ……」

 思ったよりも、私は期待していたみたいだ。両親と今までとこれからの話をすることを。話をして、もしかしたら歩み寄れるんじゃないかという未来を。そんな未来、あるはずなかったのに。
 私の頬を伝った涙が食卓に小さな水たまりを作っていく。涙が、止まらない――。

「ごめん、遅くなっちゃった!」

 玄関のドアが開く音と同時に、慌てたように言うお母さんの声が聞こえて、私は慌てて机の上にこぼれ落ちた、そして頬を流れる涙を拭いた。
 バタバタと部屋に入ってきたお母さんは、食卓に座る私を見つけて申し訳なさそうに両手を合わせた。

「ごめんね。駅の近くで事故があったみたいで、凄く混んでて遅くなっちゃった。お父さんももうすぐ着くと思うから」
「そう、だったんだ」
「そうよー。スマホにメッセージ送ったんだけど既読にならなかったから焦っちゃった」

 その言葉に、そういえばスマホを二階に置いてきていたことに気づく。そっか、すっぽかされたわけじゃなかったんだ。

「先にご飯にする? それとも」
「先に、話を聞いてほしい」
「わかった。あ、お父さんも帰ってきたみたいね」

 車の音が聞こえ、しばらくするとお父さんがリビングへと入ってきた。私の向かいにお父さんとお母さんが座り、私は息を吸い込むと、手の中のストラップをギュッと握りしめる。そんな私にお母さんは優しく微笑んだ。
 
「今日はちゃんと最後まで二葉の話を聞くから」
「おねえ、ちゃんは大丈夫なの?」
「ええ。今日は行けないってちゃんと伝えたから」
「どうして……」
「どうしてってことはないでしょ。二葉、あなたも私の大事な娘だからよ。あなたが話したいことがあるなんてよほどのことでしょう? ちゃんと最後まで話を聞かせて」

 綺麗事を言わないで、と叫びそうになるのを必死に堪える。押し殺したように必死で声を絞り出した。

「私が大事なのは、お姉ちゃんのスペアだからでしょ」
「なに、言ってるの? そんなことあるわけないじゃない!」
「隠さなくてもいいよ。私、知ってるから。私が18歳になったらお姉ちゃんに腎臓をあげてほしいって思ってるんでしょ? 私はお姉ちゃんのスペアとして、お姉ちゃんを助けるために作られた。そうなんでしょ」
「誰がそんなこと……」

 お母さんの声が、震えていた。でも今まで押さえてきたものが堰を切ったように溢れ出して止まらない。

「みんな言ってる。おじさんも、おばさんも。おばあちゃんだって。それから言わないだけでお父さんもお母さんもそう思ってるって」
「バカなことを言うな!」

 そんな私の溢れ出る想いを止めたのは、お父さんの泣きそうな声だった。

「バカなこと、言わないでくれ。二葉が優衣のスペア? 腎臓をあげるために二葉を作った? そんなわけないだろう。優衣も二葉も二人とも僕たちにとって大切な娘だ。二葉、お前が生まれたときどんなに父さんと母さんが嬉しかったかわかるか? 君は僕たちの宝物なんだ」
「嘘!」
「嘘なもんか。優衣に元気になってほしい。二葉に笑っていてほしい。どちらも僕たちの心からの願いだよ」

 私は、何か間違っていたのだろうか。それとも、これは私をその気にさせるための嘘……? でも、目の前で涙を流しながら語るお父さんの言葉が嘘だなんて思えなかった。
 私は、愛されてる……? 本当に……?

「そんな想いを、させてたなんてごめんね」
「お母さん……」
「二葉は手がかからなくていい子で、そんな二葉に甘えすぎてた。本当に、ごめんなさい」

 お父さんとお母さんが私の目の前で涙を流す。こんなふうに私のことで、二人が泣くのを初めて見た。
 信じていいの? 私のことも愛してくれてるって。もう一度だけ信じても、いいの……?
 もう裏切られたり、しない……?

「お父さんとお母さんの型が合わなかった時点で、優衣には移植希望登録をしてある。二葉がそんなことをしなくても、ドナーの方が現れたら――」
「でも、他人よりも私の方が適合率が高いんでしょ?」
「それは、そうだが……」

 お父さんは歯切れ悪く言う。私が何を言おうとしているのかわからないとでもいうかのような表情だ。

「私、ねずっと死んでしまいたかった」
「なっ……」
「最後まで聞いて。お父さんもお母さんも私を愛してなんかいない。必要なのは健康な身体と腎臓だけで、お姉ちゃんさえ元気になれば私なんか用済みなんだとずっと思ってた。でもね、私が出会ったお母さんたちがみんな口を揃えて言うの。『あなたのご両親もきっとあなたを愛しているはずよ』って。ずっと信じられなかった。でも、信じてみたいってそう思ったの。私ね、お父さんのこともお母さんのことも、それからお姉ちゃんのことも大好きなの。だから、もしも私が腎臓をあげることでお姉ちゃんが元気になれるなら、ドナーになりたい」

 私の言葉を聞き終わるより早く、私の身体はお母さんに抱きしめられていた。いつぶりだろう。こんなふうにお母さんのぬくもりを感じるのは。

「愛してるに決まってるでしょう! 二葉も優衣も、私の大事な娘よ」
「ありがとう。あり……がと、あれ……なんで、涙が……」

 泣くつもりなんてなかった。でも気が付けば次から次へと涙が溢れ出て止まらない。いったいどうしてしまったんだろう。こんな子どもみたいに泣いたりして。

「ごめ……すぐ、泣き止むから……」
「いいのよ。こんなに辛い想いをさせて本当にごめんなさい」

 ああ、私は辛かったんだ。平気なふりして虚勢を張って、誕生日までに死んでしまいたいなんて言ってたけれど、本当は、本心ではこうやって抱きしめて愛していると言ってほしかったんだ。私は、私は……愛されたかったんだ。

「っ……くっ……ふっ……」

 私はそのままお母さんの胸の中で泣いて泣いて泣きじゃくった。そんな私をお母さんは優しく抱きしめて、お父さんは私の背中をずっと撫でてくれた。
 泣き止んだ私に、お母さんは同じように泣きはらした目を向けた。

「二葉が優衣のためにって言ってくれたのは凄く嬉しかった。でも、お母さんはそんなことをしなくても二葉のことが大好きだし大切なの。だから、ドナーの件は……」
「私ね、ずっと自分で決めることから逃げてた。服装だって学校だって本当はお母さんが言うのと違うことがしたくて。でも、ずっと言われたとおりにしてたらいいんだってそう思ってた。言うことを聞いていたって言えば聞こえはいいけど、実際は自分で自分の行動に責任を負うことから逃げてただけ。だから、今回は私が私の意志で決めたい。私の腎臓をお姉ちゃんにもらってほしい。そりゃ適合検査で不適合って出ちゃったら仕方ないけど、でももしも適合するなら、もらってほしい。それで、きちんとやり直したい」
「やり直すって、何を?」
「……家族になることを」

 本音で話してぶつかって、時には喧嘩をしたりして。そんな家族の一員に私もなりたい。
 こんなふうに思えるようになるなんて思ってもみなかった。でも、こんなふうに思えるようになった私は嫌いじゃない。前の私よりも今の私の方がちゃんと私を生きてるって思うから。

「先生にも相談しなくちゃならないし、検査の結果がどうなるかわからない。でも、それでも二葉がそう思ってくれてるって意志を尊重したいとお父さんは思うよ」
「お父さん……」
「でも、さっきお母さんも言ったとおり僕らにとって二葉、君も大事な存在なんだ。万が一、手術をすることで二葉に危険があるとしたら僕らはいくら二葉に怒られようと止める。わかってくれるね」
「うん、わかった」

 私の返事にお父さんは微笑む。いつの間にか目尻にはしわができ、口元にもほうれい線が見える。いかに私がお父さんやお母さんと向き合ってこなかったかを思い知らされるようだった。
 これから先、私たち家族がどうなるかはわからない。でも、わからないからこそ、今日ここが私たち家族の新しいスタートラインなんだと、そう思った。


 翌日、私は学校が終わってからレイ君のところへと向かった。レイ君は青白い顔で鉄橋にいた。以前よりもずっとずっと薄くなった身体は、もう時間がないと叫んでいるかのようだった。

「レイ君」
「二葉」
「レイ君、大丈夫?」
「わからない。でも、さすがの俺にもわかる。自分の身体が消えかけてることが」

 レイ君は空に手をかざす。その手にもうほとんど色は残っていなかった。
 このままじゃダメだ。このままレイ君が消えるなんて嫌だ!

「ねえ、レイ君。私はレイ君に生きていてほしい」
「またその話。二葉は勝手だ。自分にできないことを俺にさせようとする。今更生き返って何になるっていうんだ。優一は自殺じゃないって言ったかもしれない。でも、俺はあのときたしかにこのままここから飛び降りたら楽になるってそう思ったんだ。いじめからも受験からもそれからいい奴でいることからも逃げてしまいたいってそう思ったんだ!」

 それはレイ君の悲痛な叫びだった。こんなに戻りたくないと言っているレイ君に生きてほしいと言うのは私のエゴじゃないだろうか。自分さえよければそれでいい? そんなことない。そんなことない、けど。

「でも、私はレイ君に生きてほしい。レイ君言ってくれたよね。私が自分の意志で選んでいいんだって。だから私はレイ君に望むよ。生きてくれることを」
「だけど……!」
「私ね、昨日両親と話をしたんだ」
「え……?」

 私の言葉にレイ君は驚いたような表情を浮かべた。まさかそんなことを言われると思わなかったのだろう。思わず「ふふっ」と笑ってしまった。

「話って……」
「これからのこと、それからこれまでのこと。ねえ、レイ君。私、お姉ちゃんに腎臓をあげる。そう決めた」
「それで、二葉はいいの?」
「うん。……正直なことを言うと、今までも私のことを愛してたって言う両親の言葉に都合がいいなって思うこともある。蔑ろにしてお姉ちゃんを優先してたことに変わりはないから。でも、私に甘えてしまってたって謝る両親に、仕方ないなって思っちゃった。それにね、ここでたくさんの人と出会って、生きていくことの苦しさや、それでもたくさんの人が立ち向かっていることを知った。だから私は生きるよ。死ぬことをやめる。でも、そのときは隣にレイ君にいてほしい。こうやって」

 私は鉄橋の手すりに置かれたほとんど消えかかったレイ君の手のひらに、自分の手のひらを重ねた。ぬくもりなんて感じない。伝わってくるのは手すりの冷たさだけ。

「レイ君の手に触れたい。レイ君と一緒に、生きたい」
「二葉……」
「ねえ、レイ君。私は勇気を出すことに決めたよ。でも、この選択ができたのはレイ君。あなたと出会えたからだよ。あなたが私を変えた。あなたがいたから、私は強くなれた」
「俺はなんにもしていないよ。強くなれたというのなら、二葉はもともと強かったんだ。ただ、それを表すすべを知らなかっただけで」

 レイ君は震える手で私の頬に触れる。触れようとする。けれど、どうやっても触れられない手は、私の頬まであと数ミリのところで止まった。

「俺なんかよりも、二葉はよっぽど強いよ。俺は、その選択をすることが、まだ怖い」
「レイ君……」
「でも、俺も強くなれるかな」
「なれるよ。一緒に二人で強くなろう」

 私の言葉に、レイ君は小さく頷いた。消えかけた瞳から、ひとしずくの涙がこぼれ落ちるのが見えた。
 そんなレイ君に、私は私なりの決意を告げた。

「私、もうここには来ない」
「うん」
「移植の準備も始まるしね。これから検査とかして、忙しくなると思うから。だから、次はレイ君が私に会いに来て。そのときまでこれ、預かっておくから」

 私はポケットから取り出したあのストラップをレイ君に見せる。一瞬、驚いたような表情を浮かべて、そのあと困ったように笑った。

「それ、持ってたんだ」
「持ってた。本当は返しに行こうと思ってたけど、やめた。人質ならぬ物質ね。返してほしかったら必ず会いに来ること。わかった?」
「わかった」
「来なかったら、返さないんだから」
「ああ」
 
 泣かない。泣くもんか。
 きっと、きっとレイ君は会いに来てくれるって信じてるから。
 でも、どうしても溢れそうになる涙に、私はレイ君に背中を向ける。そんな私の身体を、レイ君は消えかけた腕で包み込むように、後ろからそっと抱きしめた。

「約束する。必ず会いに行く」
「絶対だよ」
「ああ、絶対にだ」
「約束は必ず守らなきゃなんだからね」
「わかってる。言っただろ? 二葉とした約束は絶対に守るって」

 レイ君は泣きそうな顔で笑うと、小指を差し出した。
 絡まることのない指切りをして――そうして、私たちは別れた。
 出会った頃と同じ青く輝く月明かりの下で。