僕らは出会う、青く輝く月明かりの下で。



 相変わらず鉄橋で日が暮れるまで過ごして土日が終わった。違ったことといえば、巴ちゃんが来なかったことだろう。土日で学校も休みだし、日曜日はお母さんの誕生日だと言っていたからきっと家で楽しく過ごしたんだと思う。
 そして月曜日がやってきた。約束の、月曜日が。
 空高く青空が広がる。今日から一週間、試験休みだ。それでも家にいたくなかった私は、巴ちゃんに話していた通り朝から鉄橋に向かった。

「暇人だって言われても、仕方ないかもしれないなぁ」

 でも、行きたくないところはあっても行きたいところもやりたいこともなかった私は、昨日も一昨日も歩いた道を今日も歩き、こうやって鉄橋に向かってしまうのだ。
 巴ちゃんは今日から通常授業だって言っていた。巴ちゃんが来るまで何をしていようか。そんなことを考えながら歩いていると――橋のたもとで巴ちゃんと出会った。

「え、あれ?」
「二葉ちゃんが朝からいるって言ってたから、私も来ちゃった」
「学校は?」
「今日はね、なんと創立記念日!」
「そっか」

 本当は疑うべきだったのかもしれない。でも、出会ったときとは比べものにならないぐらいの笑顔でそう言う巴ちゃんにそれ以上何も言えず、私たちは鉄橋を歩くとレイ君の元へと向かった。
 私たちを見たレイ君は一瞬驚いた表情を浮かべたあと、ふっと笑った。

「二人とも、朝からこんなところ来ちゃって暇なの?」
「一日中ここにいるレイ君よりは暇じゃないよ」
「ねー」
「あ、言ったね?」

 屈託なく笑う巴ちゃんに、少しホッとする。それから私たちはとりとめのない時間を過ごした。このまま今日が終わり、巴ちゃんがお母さんと話をする。そんなに一日になると誰もが思っていた。でも――。

「あ……」
「え?」

 その人たちは温和そうな笑顔を浮かべて、カンカンと足音を立てながらやってきた。ニッコリと笑っているのに、目だけまっすぐに私たちを見据えていてなんとも言えない不気味さを携えて。

「こんにちは」
「……こんにちは」
「君たち、今日学校は?」
「……それは」

 それはパトロール途中の、警察官だった。私と巴ちゃんの姿をジロジロ見て、何かを後ろの警察官に伝えている。

「サボりかな? いけないなー」
「きょ、今日は試験休みです」
「試験休みねぇ。じゃあ、そっちの子は?」
「この子は――」
「君に聞いてるんじゃないんだ。ねえ、お嬢ちゃん。今日学校は?」

 巴ちゃんの目線に合わせるようにかがむと、警察官は問いかけた。でも、巴ちゃんは何も言わず首を振るだけだった。

「確認取れました。やはりそちらの子は――」
「そうか。ねえ、君たち。申し訳ないんだけど、ちょっと今から来てくれるかな」

 尋ねているようで答えなんて求めていない。警察官は一方的に言うと、私たちの腕を掴んでパトカーに押し込んだ。
 それからは一瞬だった。パトカーに乗せられて私と巴ちゃんは最寄りの警察署に連れて行かれた。
 テレビでよく見る取調室のようなところ、ではなく。小さな会議室のようなところに連れて行かれ、私たちは話を聞かれた。
 しばらくすると、どこからか別の警察官が現れて、目の前の貼り付けたような笑顔を浮かべる警察官に耳打ちした。

「君は試験休みだっていうのは本当みたいだね。確認が取れたよ。でも、小学生の子が学校をサボってあんなところにいるのがいいことじゃないことは高校生の君ならわかるよね?」
「え……? でも、創立記念日って……」
「あの子がそう言ったのを信じたの? じゃあ、君は今日外で小学生の子が歩いているのを見た? 本当は、どこかで違うって、わかってたんじゃないの?」

 警察官の言葉に、私は何も言えなくなった。
 たしかに、私の家から鉄橋まで歩いてくる間に子どもの姿なんてほとんど見なかった。創立記念日で休みだとしたら、もっとたくさんの子どもの姿を見てもおかしくないのに。
 でも、もしかしたら学区が違うのかもしれない。私立の小学校なのかもしれない。そう、思い込もうとしていた。
 本当は――どこかで気づいていたのに。

「もしかして、先週もこの子と一緒にあそこでいた?」
「え……? どうして……」
「いたんだね。……さっき学校に確認したら、彼女先週一週間、風邪を引いていることになってて休んでいたらしい」
「嘘……」

 風邪を引いていることになってて……? だって、先生の勉強会で午前授業だって、そう言っていたのに……。
 どうして鵜呑みにしていたんだろう。それほどまでに、巴ちゃんは学校から、ううん。クラスメイトから逃げたがっていたのに。

「もしかしたらこの子が嘘をつかせていたのかもしれないですね」

 耳打ちする声がやけに大きくて私は顔を上げた。今、なんて……。
 
「どうします? 未成年者略取でこっちの子も補導しますか?」
「そうだなぁ。そうせざるを得ない、か」
「違うの!!」

 目の前で繰り広げられる会話に、何も言えずにいた私はその声で我に返った。
 警察の人の言葉を遮ったのは、巴ちゃんだった。

「二葉ちゃんはなんにも悪くないの! 私があそこに逃げていって、二葉ちゃんが助けてくれたの! 全部私が悪いの! 嘘をついたのも私! 二葉ちゃんはなんにもしてない! だから……!」
「あーはいはい。ちょっと待ってね。君の話はあとで――」
「巴!」
「……お母さん」

 バタンと大きな音を立てて扉が開き、セボンの、ううん。巴ちゃんのお母さんが入ってきた。
 巴ちゃんのことをギュッと抱きしめる姿に、こんなに心配させて申し訳ない気持ちと、それから……ほんの少しだけうらやましさを覚えた。

「巴! 大丈夫なの!? 怪我は!? どうしてこんな……」
「おかあ、さん……」
「無事でよかった……学校からあなたが来てないって連絡が来て心臓が止まるかと思ったのよ……どうして……。先週もずっと休んでたって……あなた……」

 隣にいた私に気づいた巴ちゃんのお母さんは――私をキッとにらみつけた。

「あなた、いつもお店に来てる……! まさかお店に来てたのは下見!? そうだと知ってたらパンなんて売らなかったわ!」
「違うの! お母さん!」
「巴、いいのよ。怖かったでしょ、もう大丈夫よ! あとはおまわりさんが――」
「だから違うの! 私の話を聞いて!」
「巴……?」

 お母さんの身体を押し戻すと、巴ちゃんは私の前にかばうように立った。小さな身体に似つかわしくない大きな声に、部屋にいたみんなが巴ちゃんの方を向いた。

「二葉ちゃんはなんにも悪くないの。二葉ちゃんは……あの橋の上から飛び降りようとした私を助けてくれたの」
「え……? 巴……? 何、言ってるの……?」

 信じられないといった表情で巴ちゃんのお母さんは巴ちゃんと、それから私の方を見た。私はなんと言っていいかわからずそっと視線をそらす。こんな形で娘が自殺しようとしたことを知って、お母さんは動揺しているようだった。

「嘘、でしょ……?」
「ホントだよ。お母さん、私……学校でいじめられてるの。靴を隠されたり、ランドセルを踏まれたり、足を引っかけられて転ばされたり……それから、階段から突き落とされたり」
「そんな……! でも、そんなこと巴一言も言ってなかったじゃない……いったいいつから……」」
「二学期が始まってからずっと。でも、お母さんには言えなかった」

 巴ちゃんの肩が震えているのがわかった。椅子に座ったまま巴ちゃんの手をそっと握りしめると、後ろを向いて巴ちゃんは小さく「大丈夫」と呟いた。

「あの日も『巴なんて死んじゃえばいいのに』って言われて、ホントに辛くて、悲しくて……。それで町外れの鉄橋に行ったの。あそこから飛び降りたら楽になれるって……。そんな私を止めてくれたのが、助けてくれたのが二葉ちゃんだったの! 二葉ちゃんがいなかったら私、きっと死んでた! 今ここにいなかった!」
「っ……巴」

 巴ちゃんのお母さんが言葉を失うのがわかった。ううん、巴ちゃんのお母さんだけじゃない。部屋にいた警察の人もみんな、巴ちゃんの話に声が出ないようだった。

「だから、二葉ちゃんを怒らないで。怒るなら私を怒って!!」
「バカ……!」

 巴ちゃんの身体を、そう言って巴ちゃんのお母さんは抱きしめる。そして……。

「生きていてくれて、よかった……」
「おかあ、さん……ごめんなさい……」
「お母さんこそ、気づいてあげられなくて、ごめんね。本当に、ごめん……」

 狭い部屋の中に、巴ちゃんと巴ちゃんのお母さんの嗚咽だけが聞こえ続けていた。


 しばらくして、二人が落ち着くと警察の人は困ったように頭をかいた。

「まあ、それじゃあ今回は事件性はないということで。でも、親御さんに心配かけるようなことをしちゃいけないよ」
「……はい。ごめんなさい」
「それから、君」
「はい?」

 警察の人は、私の方へと向き直ると――怖い顔を崩し優しい表情を浮かべて言った。

「この子を助けてくれてありがとう」
「あ……いえ、私は別に……」

 なんて言っていいかわからず、微妙な表情を浮かべる私に、警察の人は不思議そうな顔をした。
 私はぺこりと頭を下げるとその部屋をあとにする。そんな私の背中に、巴ちゃんの声が聞こえた。

「二葉ちゃん、またね!」
「……今度は、ちゃんとお母さんに言ってからおいでね」
「うん!」
「あ……待って」

 そのまま立ち去ろうとした私を、巴ちゃんのお母さんが引き留めた。いったいどうしたのか……。

「あの……さっきは、ごめんなさい。私、勘違いして失礼なこと言っちゃって」
「えっと、いえ。警察からかかってきて突然こんなことになったら動揺するのも仕方ないと思いますし」

 巴ちゃんのお母さんの気持ちを思えば仕方ないことだと思う。それにあんなに怒れるぐらい巴ちゃんのことを心配していたんだと思えば、私が勘違いで怒鳴られるぐらい問題ない。
 でも、巴ちゃんのお母さんは首を振ると私に頭を下げた。

「巴を止めてくれてありがとうございました」
「そ、そんな。頭を上げてください。私は別に」
「毎日クルミパンを買っていったのは、巴のため……ですか?」
「……はい。巴ちゃん、セボンのクルミパンが美味しいって言ってたので」
「っ……あり、がとう」

 涙がこぼれるのもかまわす、巴ちゃんのお母さんは頭を下げた。

そんな巴ちゃんのお母さんになんと言っていいかわからず、私はもう一度小さく頭を下げると、その場を立ち去った。
 きっともう、巴ちゃんは大丈夫。そう思ってホッとする気持ちと――それから、少しだけ寂しさと、切なさを感じる。

「『生きていてくれてよかった』、か」

 あんなふうに、私も言ってもらえるのだろうか。私を抱きしめて、痛いぐらいに伝わってくる愛情を込めて。
 ……なんて、愚問かな。
 お母さんはきっと言ってくれる。だって、私が死んだらお姉ちゃんに腎臓をあげる人がいなくなるんだから。その日まで、私には生きててくれなくちゃ困るから。
 でも、もしかしたら。そんな感情が自分の中で沸き上がる。そんなわけないとわかっているのに。わかっていたはずなのに、巴ちゃんと巴ちゃんのお母さんの姿を見ていると、もしかしたら私も愛されてるんじゃないかと、愛してくれているんじゃないかとそう思ってしまう。

「ふ……ふふ、あはは……あはははは……」

 そんな自分自身が可哀想で、情けなくて、無性におかしくて……気づいたら笑っていた私を、すれ違う婦警さんが不審そうな表情で見ていた。


 巴ちゃんのことはこれで解決、そう思っていたのに、そうはいかなかった。

「ただいま」
「二葉、ちょっと来なさい」

 すっかり日が暮れた頃、家に帰った私をリビングから聞こえるお母さんの固い声が出迎えた。渋々リビングに向かうと、そこには眉間にしわを寄せたお母さんと――それからいつの間に帰ってきたのかお父さんの姿があった。

「……何?」

 嫌な、予感がする。それと同時に、笑い飛ばしたあの感情がよみがえる。
 もしかしたら。もしかしたら。もしかしたら。
 いつも通りをよそおいながら、でもどこかドキドキと鳴る心臓の音を感じながら私は二人へと視線を向けた。

「ここに座りなさい」

 目の前の椅子を指さされ、仕方なく席に着いた。居心地が悪い。でも、こんなふうに二人と向き合うのはいつぶりだろう。
 目の前に座るお父さんとお母さんは――冷たい視線を私に向けていた。

「……どうしたの? 用がないなら、私宿題があるから――」
「今日、警察から連絡があったわ」
「……そっか」

 まあ、そうだろう。そうじゃないかと、薄々思っていた。
 警察で連絡先や学校の名前など一通り聞かれたときに、親に連絡が行くことは覚悟していた。でも、特に迎えが来ることもなかったし、そもそも私は試験休みで補導される対象ではないから巴ちゃんのことが事件にならない以上、そこまで大事にならなかったんだと、そう思おうとしていた。
 けど、やっぱり連絡行ってたんだ。警察から連絡が来たのに、迎えにも来なかったんだ。
 別に迎えに来てほしかったわけじゃない。でも、ほんの少しでも私のことを想う気持ちがあれば警察に駆けつけただろうと、そう思うと胸の奥が苦しくなる。
 これがお姉ちゃんだったら、すぐに駆けつけたと思うと余計に。

「あなた、お姉ちゃんのところに行かずに毎日毎日何をやってるの?」
「別に、なんにもしてないよ」
「小学生の女の子と一緒にいるところを補導されたって……。試験休みだったってことを説明して学校の方にも確認ができたから大丈夫ですって言ってたけど、どういうつもりなの」
「お母さんに関係ないでしょ。私になんて興味ないんだから放っておいてよ」
「興味ないって……そんなことあるわけないでしょ!」

 バンッと、お母さんが机を叩く。その態度に、胸の奥に閉じ込め続けた感情の扉が少しずつ開いていくのを感じる。もしかしたら、私のことを本気で心配してくれているのかも知れない。お姉ちゃんのスペアだから、じゃなくて私自身のことを本気で……。
 そんなことない、と否定するのにもしかしたらという感情がわき上がってくるのが止められない。警察まで迎えに来なかったのは来られなかった理由があるんじゃないかとか、ホントは行こうとしたけど警察の人に来なくても大丈夫ですよって言われたとか。
 夢物語だってわかってるのに、そう思うのをとめられないのは、きっと巴ちゃんに対する巴ちゃんのお母さんの愛情を目の当たりにしたから。
 でも、現実は――。
 
「二葉! いい加減にしないさい! どうしてあなたは! 優衣は病院で一人頑張っているっていうのに恥ずかしいと思わないの! どうしてあなたが……!」

 その言葉に、お母さんの本音を見た気がした。
 ああ、なんだ。やっぱり母親なら誰でも子どもを愛しているなんて、ただの幻想だ。家族の数だけ愛の形はあって、うちの家の愛は全てお姉ちゃんに向かっている。そんなのわかってたし、期待なんてしないようにしていたのに。したってこうやって余計に傷つけられるだけだってわかっていたのに。

「お母さん、それ以上は……」
「あなたは黙ってて! だいたい、二葉。あなた――」

 お母さんの声を遮るように、携帯の着信音が鳴る。個別に設定されたその音がどこからかなんて、表示された名前を見なくても全員がわかった。
 お母さんの言葉の続きなんて、聞きたくもなかった私は机の上に置かれたそれを指さした。

「早く出なよ。お姉ちゃんに何かあったみたいだよ」
「待ちなさい! ……ああ、もう! はい、水無瀬です。お世話になっております。え、優衣が? はい、すぐ伺います」
「……行ってらっしゃい」
「帰ってきたら話の続きをしましょう」
「…………」
「二葉!」

 私は返事をすることなく、二階にある自分の部屋へと駆け上がった。布団の中でジッとしながら、もしかしたら追いかけてきてくれるかもしれない。そうしたら私はどうしたらいいんだろう。そんなことを考えながら耳をすましていたけれど、階段を上がる音どころかドアが開く音すらすることはなかった。
 それからしばらくして、玄関のドアが閉まる音と、車のエンジン音が聞こえた。
 ああ、私はいったい何を期待していたのか。そんなこと起きるわけがない。起きるわけがないのに。何度も何度も期待して、裏切られて。もう愛情なんて求めないと、そう思っていたのに、まだこんなにも胸が締め付けられるように苦しい。
 車の音が完全に聞こえなくなったのを確認してから、布団からそっと顔を出す。
 窓から月が見える。レイ君とみた月は青々と輝いていてあんなにも綺麗だったのに、この家から一人見上げる月はどこかくすんで見える気がした。
 結局、あのあと夜遅くに帰ってきた両親とは翌日も顔を合わせることはなかった。今週いっぱいは試験休みということもあり、普段よりも遅く起きた頃には両親はとっくに家を出ていたのだ。
 申し訳程度に置かれた朝ご飯から、トーストだけ手に取ると私は家を出た。机の上にあった『今日こそはお姉ちゃんのところに行ってね』という紙は見なかったことにして、まっすぐに鉄橋へと向かった。巴ちゃんにはあんなことを言ったけれど、私にとっても、ここしか居場所はなかったから。

「おはよう、レイ君」
「おはよう。昨日はあのあと大丈夫だった?」
「心配してくれてたの?」
「そりゃそうでしょ。二人して警察に連れて行かれたんだから」
「ごめんね」

 私は、昨日警察に連れて行かれてからの話をレイ君にした。巴ちゃんがかばってくれたこと、巴ちゃんのお母さんが本当に心配していたこと、それからきっともう大丈夫だってこと。

「そっか、巴がきちんと自分のことをお母さんに離せてよかったね」
「そうだね。でも、ちょっと寂しくなるなぁ」
「なら、今度は二葉が巴に会いに行けばいいんじゃない?」
「私が? そうだね。……ううん、もう会わない。だって、これ以上仲良くなったら、私が死んだときに巴ちゃんは泣くでしょ。私は私が死ぬことで誰にも傷つかないでほしい。だから、これ以上仲良くはならない」

 私の答えに、レイ君は何も言わない。私たちは黙ったまま、緩やかに流れる川を見つめた。

「そういえば」

 レイ君はふと思い出したように口を開いた。

「巴を見ていて少しだけ思い出したことがあるんだ」
「え、レイ君のこと?」
「そう。っていっても、本当に断片的なことだけどね」
「たとえばどんなこと?」

 身を乗り出すように聞く私に、レイ君は苦笑いを浮かべると空を見上げた。

「たいしたことじゃないよ。……巴と一緒だったなってそう思っただけ」
「一緒?」
「ああ。俺がいじめられる前に、親友がいじめに遭っていたってことと、それを庇った俺に標的が移って、それで――ここから川に飛び込んで死んじゃったって、それだけ」
「っ……そう、だったんだ」

 レイ君の言葉に、なんと言っていいかわからない。でも、レイ君を追い詰めた奴らが憎い。そして、レイ君を身代わりにしてのうのうと生きているであろうその親友という人が。

「……その人のこと、恨んでないの?」
「いじめたやつ? 別に。もうどうだって」
「そうじゃなくて。レイ君を身代わりにしたお友達のこと」
「……恨んでなんかない。そんな気持ちはさらさらないよ。もうどんな奴だったかも思い出せないけど、でも俺のことなんか忘れて、元気で過ごしてくれてたらって想うよ」

 どうして、そんなふうに想えるのだろう。だって、その人がいなければ。ううん、その人がレイ君を身代わりにしなければ、レイ君は死ぬことなかったのに。なのに、どうして……。
 
「あと……」

 レイ君はふと思い出したように、ポケットに手を入れて何かを探す。でも、目当てのものは見つからなかったようで残念そうに肩をすくめた。

「何か入ってたの?」
「何か、大切なものが入ってた気がしたんだけど、なんにもなかったや」
「なんだったか、覚えてないの?」
「忘れちゃったな。ってことは、たいしたことないものだったのかもしれないね」

 その言い方に、違和感を覚えた。たいしたことないなんて言っているけれど、レイ君の口調は、表情はそんなことないと訴えているようだったから。だから私は思った。

「……逆なんじゃない?」
「逆?」
「大切で、大切すぎて、覚えているのが辛くて忘れてしまったのかもしれないよ」

 覚えてない、じゃなくて忘れてしまった大切な何か。それはもしかしたら、たいしたことがないから覚えてないんじゃなくて、大切だからこそ忘れてしまったんじゃないだろうか。覚えていたら心が壊れてしまいそうだったから。
 そう言った私に、レイ君は驚いたような表情を浮かべた。

「そんなこと、思ってもみなかった」
「ね、レイ君はどうしてここにいるの?」
「だから、前にも言っただろ。ここで自殺をしたからここから動けないんだって」
「でも、幽霊がその場所に居続けるのって、何か理由があるんじゃないの?」
「理由……」

 未練、と言った方が正しいのかもしれない。レイ君にとって、ここにいる……ううん、ここにいなければいけない理由はいったいなんなんだろう。それがわかれば、ここから解放されるかもしれないのに。

「なに? 二葉は俺を成仏させたいの?」
「うーん、どうなんだろ。でも、このままここでレイ君がひとりぼっちになってしまうのは嫌だなって思ったから。……私だって、もうすぐ死んじゃってここには来れなくなるんだから」
「そうだね。そうしたら、二葉の未練が俺になるかもしれないね」
「何それ」

 私たちは笑う。顔を見合わせて、ケラケラと、だんだん何がそんなにおかしくて笑っているのかわからなくなるほどに笑って――それから、ふいに黙り込んだ。どうしてだろう、レイ君の横顔がどこか寂しそうに見えるのは
 レイ君と出会って今日で14日目。誕生日まであと二週間。18歳になったら、私は死ぬ。その決意は揺るがないけれど。
 隣に立つレイ君の姿をそっと見る。
 少し、ほんの少し、このままレイ君をここでひとりぼっちにするのは嫌だなって、そう思ってしまった。

「早く成仏できるといいね」
「できるかなあ」
「きっとできるよ」
「なんか、二葉が言うとホントにできそうな気がするから不思議だ」
「レイ君が成仏して、私が死んで、二人で天国に行くぞー!」
「何それ」

 さっきの私と同じセリフを、私より呆れた口調で言いながらもレイ君は笑う。こうやって笑っていてほしい、そんな感情が自分の中に湧いたことに少し驚きながらも、芽生えたその感情になんとなく悪い気はしなかった。


 お昼の時間になり、私はレイ君と別れ少し歩いたところにある雑貨屋さんに併設されたカフェに向かった。平日のお昼時、大人たちで混み合う店内でサンドイッチとアイスティを注文し、待っている間に店内を見て回る。特にほしいものがあるわけではなかったけれど、ガラス細工の小物やストラップ、キーホルダーなどいろいろなものが置いてあった。
 その中の一つ、空色のビー玉のようなものがついたストラップが目についた。

「可愛い」
「――それ、気に入りました?」
「え?」

 いつの間にか隣に立っていた店員さんがニコニコと笑いながら話しかけてきた。人当たりの良さそうな笑みを浮かべた店員さんは、私が見ていたストラップを手に取った。

「これ、僕が作ったんです」
「そうなんですか? 空色が凄く綺麗だなって思って」
「ありがとうございます。仕入れたものもあるんですが、いくつか自分で作ったものも置いてて。だから、そう言って頂けると嬉しいです」

 ゆっくりしていってくださいね、そう言い残して店員さんは去って行く。私は、店員さんが置いたストラップに一瞬視線を向ける。けれど、すぐに注文したランチができあがったと言われ、そのまま席へと戻った。


 ご飯を食べて、カフェをあとにする。でも、なぜかずっとあのストラップのことが気にかかっていた。どうしてこんなにも気になるのかわからない。でも、お店を出て一歩、また一歩と歩く足取りが重い。

「っ~~! ああ、もう!」

 回れ右をして、元来た道を歩くと、私はさっきまでいたカフェに飛び込んだ。少し驚いた表情を浮かべた店員さんに「忘れ物ですか?」と聞かれるのが恥ずかしい。

「あの、さっきの……ストラップ」
「ああ、あれですか」
「買おうと思って……」
「わざわざ戻ってきてくれたんですが? そのために? ……ありがとうございます」

 店員さんは嬉しそうな表情を浮かべると、さっき私が見ていたストラップを持ってきてくれた。それを可愛い袋に入れてもらい、私はお金を払って今度こそカフェをあとにした。
 鉄橋に戻るために歩きながら、私は袋からストラップを取り出す。太陽にすかすと、本当に青空がそこにあるみたいだ。ううん、青空というより――。

「ああ、そっか。レイ君と見た、月に似てるんだ」

 吸い込まれそうな水色のビー玉のようなそれは、いつか見た青い月を思い出させた。


 鉄橋に足を踏み入れた私に気づいたのか、レイ君がこちらを向いた。

「ただいま」
「おかえり。もう戻ってこないのかと思ったよ」
「まだこんな時間なのに帰るわけないでしょ」
「そう。あれ? それ、なに?」
「ああ、これ?」

 手の中のストラップに気づいたレイ君に、私はさっき買ったストラップを見せる。カフェで買ったんだ、と口を開くよりも早く、レイ君が息をのむのが分かった。

「レイ君?」
「そうだ、ストラップ。ここに、入れておいた……ちぎれて、取れた……」
「レイ君!」
「あ、ああ」
「どうしたの? 大丈夫?」

 幽霊に顔色なんてものがあるのかなんてわからない。でも、レイ君は真っ青な顔でポケットに手を入れ何かを探すような仕草をしていた。これは、もしかして……。

「なにか思い出したの……?」
「わからない。でも、そんな感じのストラップを、持っていたような気がする。大事な、ストラップ。誰かと買った……」
「誰かと……?」

 その言葉に、一瞬胸の奥がツキンと痛んだ気がした。でも、その痛みについて考えるよりも、目の前で座り込んでしまったレイ君のことが気がかりで私は慌てて隣にしゃがんだ。

「レイ君!? どうしたの!?」
「あ、ああ。いや、なんでもない」
「なんでもないって……」

 なんでもない、という顔ではなかった。透き通っているレイ君の姿がいつもよりもさらに透けているように見える。もしかして――消えかかっている?
 幽霊に期限があるのかなんてわからないけれど、もしかしたらレイ君がここにいられるのももう少しなのかも知れない。そう思わせるほど、レイ君の姿が薄くなっていた。

「本当に大丈夫なの……?」
「ああ……。それ、もう一度見せて」
「これ?」

 私はレイ君の前に先ほどのストラップをかかげた。レイ君は「やっぱり似てる」と小さな声で呟いた。

「何と似ているの……?」
「ポケットに入れてた……ストラップ。あいつと一緒に買って……あいつ、あいつの名前は……わからない、思い出せない!」
「レイ君、落ち着いて! ねえ、レイ君!」
「わからない、思い出せない。でも、それを見ると、冷たくなったこの心臓が熱くなる気がする。胸の奥に熱が宿って、まるで生きていたときのように……。生きてるときのことなんて思い出してもどうにもならないってそう思ってたのに、思い出したら苦しくなるだけだって……。俺は、何を忘れてるんだ……?」

 目の前のレイ君が泣き出しそうに見えて、私は初めてレイ君に触れられないことを辛く感じた。もしも触れることができたら、手を繋ぐこともそっと抱きしめることもできるのに。こんなに近くにいるのに、こんなにも遠い。

「ねえ、レイ君。本当は、思い出したいんじゃない?」
「何を?」
「生きていたときのこと」
「……わからない」

 そんなことない、とは言わなかった。ただ、不安そうに両足を抱えて首を振るレイ君を、どうしても私は放っておけなかった。
 触れることはできないけれど、隣にいることはできる。レイ君が少しでも元気になるまで、私は隣にいるから。
 身体をそっとレイ君に寄せると、私の肩とレイ君の肩が重なる。触れた感触はない。でも、どうしてか重なった肩が温かいような、そんな気がした。

「……二葉?」
「ん?」
「え、あれ? 嘘。もう真っ暗だよ。二葉、帰らなきゃ」

 ふと気が付いたようにレイ君が顔を上げたのは、太陽がとっくに沈み、月が空高くから暗闇を照らし始めた頃だった。時計を見ていないからわからないけれど、8時か9時すぎだと思う。
 昼間に見たときよりも、さらにレイ君の身体の色が薄くなったように見える。
 私は不安を吹き飛ばすように、わざと明るい声を出した。

「ホントだ。んー、お尻痛くなっちゃった」

 立ち上がって伸びをすると、身体のどこからかバキッという音がする。ずっとコンクリートに座っていたからかお尻が冷たい。
 さあ、そろそろ帰らないとさすがにもう両親ともに帰ってきているはずだ。ポケットからスマホを取り出すと、何通もメッセージが届いていて、どれもお母さんからだった。
 開くことなくそれを閉じると、私はレイ君の方を向き直った。

「じゃあ、私帰るね」
「……送っていくよ」
「鉄橋の端っこまでだけど?」
「まあね」

 ふふっと笑いながら、私はレイ君と一緒に鉄橋を歩く。ゆっくり、ゆっくりと。このままずっと鉄橋が続けばいいのに。そんなことを思って、私はようやく私にとってレイ君という存在が大切なものになっているのだと気づく。

「ここまでだ」

 レイ君が鉄橋の端で手を伸ばすと、まるでそこに壁があるかのようにレイ君の手が前に進むのを遮る。同じように伸ばした私の手は、そのまま鉄橋の向こうへと通り抜けるのに。

「じゃあ、また明日ね」
「うん、また明日」

 レイ君に見送られながら、私は鉄橋をあとにする。
 ねえ、レイ君。
 もしもあなたが、この世界に存在していたら、そうしたら私も――。

「でも、レイ君は幽霊だからなぁ」

 呟いた自分の言葉に、思わず苦笑いを浮かべてしまう。
 幽霊じゃなければ、レイ君と出会うこともなかった。でも、幽霊だから一緒に生きることはできない。
 それがどうしてこんなにも苦しいのか。
 その答えを出すことを、私はまだ躊躇っていた。


 翌日も、私は両親が家を出てから起き出した。
 昨日の夜、結局家に着いたのは9時を余裕で過ぎていて、どこに行っていたんだと怒る両親の言葉を無視して自分の部屋にこもった。
 晩ご飯を食べずに寝たからさすがにお腹がすいた、と思いながらリビングに向かうと、そこには昨日のご飯だったのかシチューとサラダ、それからトーストが用意されていた。ラップがかかったシチューを温めてから一人食卓についた。

「……美味しい」

 牛乳アレルギーがあるお姉ちゃんが食べられないからと、作ってくれることのなかったシチュー。私は好きなのに、理不尽だってずっと思っていた。なのに、今になって作ってくれるのは――まるでご機嫌取りのようだ。
 本当は素直に、私が食べたいと言っていたのを覚えてくれていたんだと、そう思えばいいんだとわかっていた。でも、いったいいくつのときの話をしているんだと笑いそうになる私もいる。シチューが好きで食べたかったのは小学生のときの私だ。17歳の、今の私じゃない。今の私の好きな物なんて、あの人たちは知らないんだ。 

「ごちそうさまでした」

 シチューを食べ終え、食器を洗うと私は家を出た。行くところなんて一つしかない。
 通い慣れた道を歩いて鉄橋へと向かう。そこにはレイ君と――それから、見覚えのない人影があった。
 大きなお腹を抱えたその人は、鉄橋の上から川を見つめていた。その隣には、気まずそうな顔をしたレイ君の姿もあった。

「あの……」

 恐る恐る声をかける。そんな私にレイ君は首を振っていた。どうやらこの人からレイ君は見えていないようだ。

「あら、こんにちは」
「こんにちは。……こんなところでどうしたんですか?」

 どうした、なんて白々しかっただろうか。ここは言わずと知れた自殺スポットだ。ここから川を覗いている人の目的なんて一つしかない。
 でも、私の問いかけにその人は優しく笑みを浮かべると首を振った。

「ううん、ただ病院に行く途中にふと寄り道しただけ」
「病院?」
「そう。今日はこの子の検診なの」

 大きなお腹にそっと手を当てる。どうやらお腹の赤ちゃんの検診のようだった。もしかしたらあの病院に向かうのかもしれない。あそこはこの街で一番大きな病院だから。

「そうですか。あんまり覗き込むと落ちちゃったら危ないから気をつけてくださいね」
「ありがとう。あなたはこんなところでどうしたの?」
「えっと、学校がテスト休みなので暇つぶしに」
「そっか。あなたこそここから落ちないように気をつけてね」

 女の人はもう一度微笑むと、私に手を振って鉄橋をあとにした。
 残された私は、レイ君の方を振り返る。

「あの人、レイ君のこと見えてなかったね」
「普通は見えないんだよ。二葉や巴みたいなのがイレギュラーなの」
「そっか。でも、飛び降りようとしてるんじゃなくてよかった。もしもレイ君の姿が見えない人でここから飛び降りようとしてたんだったら止めることもできなかったもんね……」

 あのおじさんのように、とは言えなかった。
 でもレイ君は私の言葉に、眉間にしわを寄せ何かを考えるような表情になった。

「レイ君?」
「あの人、ここに来るの初めてじゃないんだ」
「病院が近くだからじゃない?」
「……前に来たのは数ヶ月前だったんだけど、そのときはあそこから飛び降りようとしてたんだ」
「え……?」

 レイ君のまさかの言葉に、私は何も言えなくなった。お腹に赤ちゃんがいるのに、飛び降りようとしてたの……? そんなの……。

「思い直したように帰って行ったから安心してたんだけど、もしかしたらまた何かあったのかもしれないね」
「たまたま! たまたま病院に行く途中に寄ったのかもしれないじゃん」
「だったらいいんだけど」

 レイ君は不安そうだった。でも、私はお腹に赤ちゃんがいるのに自殺をするような人がいると信じたくなかった。だってそんなの、赤ちゃんも一緒に死んでしまうようなこと、お母さんなのに、そんなこと。

「……二葉は変わったね」
「変わった?」
「うん。初めて会った頃ならきっと『死にたいなら死なせておけばいいじゃない』って言ってたと思う。なのに今は、ここから飛び降りようとしている人のことを心配してる。二葉は変わったよ。いい方向に」

 レイ君に言われて、私は初めて自分の気持ちの変化に気づいた。たしかに、今までならあんなふうに飛び降りなくてよかったなんて思わなかったかもしれない。私が、変わった……? だとしたら、それは。

「レイ君のおかげかもしれないね」
「俺の?」
「……やっぱり違うかも」
「なんだそれ」

 あまりにも嬉しそうなレイ君の声色に、反射的に否定してしまう。そんな私を、レイ君はおかしそうに笑う。
 私は私自身があまり好きじゃない。でも、レイ君と一緒にいるときの私は、少しだけ好きになれそうだ。

「もっと早く出会いたかったな」

 思わず声に出してしまったその言葉はいつかと同じで。でも、今度は――レイ君は寂しそうに微笑んだ。

「俺もそう思うよ」

 私とレイ君の手のひらが手すりの上でそっと重なる。触れた感触も温度も感じない手のひらが、泣きたいぐらいに愛おしかった。


 数日後、その日は土曜日で、けれど学校に用事があったので昼過ぎに鉄橋へと向かった私は、鉄橋に誰かがいることに気づいた。

「あれ、あの人……」

 この間、鉄橋から川を見下ろしていた妊婦さんだった。あんなことを言っていたけれど、やっぱり……。

「あれ? あなたこの間もここにいた子だよね? こんにちは」
「……こんにちは。今日も病院ですか?」
「そうなの。土曜日だから混んじゃって。8時から行ったのに今やっと終わったとこなの。あなたは学校? 土曜日なのに?」
「私立なので……」

 私の答えに、目の前の女性は「そっか、そっか」と笑っている。自殺をするようには見えない。もしかしたらこの間言っていたとおり、ただ通りかかっただけなんだろうか。でも、あのときのレイ君の表情がなんとなく気にかかる。

「あの、えっと」

 でも、なんて言っていいのかわからない。そんな私に、目の前の女性が困ったように笑った。

「あ、もしかして私が自殺しに来たってそう思ってるんでしょ? そういえば、この前もそんなこと言ってたよね」
「えっと、その……はい。ここに来る人って、みんなそういう目的の人ばかりなので」
「――あなたもそうなの?」

 返された質問に、私は言葉に詰まる。そりゃそうだ。さっきの私の言い方じゃあそう言っているようなもんだもん。
 でも、私の返事よりも早く、その人は口を開いた。

「なんてね、意地悪な質問だったよね。……私ね、この間ここであなたに会ったとき。あの日が初めてじゃなかったの。ここに来たの」

 知ってます、とは言えない。だから私は少しだけ驚いたように見えるように、軽く目を見開いた。

「ビックリした? ……そのときはね、本当にここから飛び降りようかって思ってたの」
「……どうしてか、聞いてもいいですか?」
「お腹の子に、病気が見つかったの」
「え……? 病気……?」

 優しい表情でお腹に手を当てるその人の言葉の意味が一瞬わからなかった。
 お腹にいる赤ちゃんの病気がわかるのだろうか。いや、わかるからそう言われたんだろうけど、でも……。

「周りからは堕ろせって言われるし……。これから先、生まれてきたこの子がずっと大変な目に遭って生きるぐらいなら最初から生まれてこない方がいいんじゃないか。でも、この子一人で逝かすなんてこと私にはできない。それならいっそ一緒に死んじゃった方がいいんじゃないかって。その方がみんな幸せになれるんじゃないかって。……バカよね」
「そこまで思ってて、どうして死ぬのをやめたんですか……?」
「家で待ってる夫と、それから娘の顔が思い浮かんで」
「娘さん……」
「頭が回ってなかったの。残された娘がどんな思いするかなんて考えることもできてなかった。情けないわよね、お母さんなのに。母親失格よ」

 病気が見つかった子のために、今いる娘さんを置いてお腹の子と死んでしまおうとする。それが、娘さんへのどれほどの裏切りかこの人はわからなかったのか。大切なお母さんが、まだ生まれていない妹か弟のせいで死んでしまった。そんな思いをさせることになるなんて……!

「最低ですね」

 口に出してから、ハッとした。目の前で悲しそうに微笑む姿があったから。
 でも出てしまった言葉が戻ることはない。気まずくなって私はその人から目をそらした。
 そんな私に、その人は話し続ける。

「そう、最低なの。ホントに……」
「どうして、死ななかったんですか?」

 まるで死んでほしかったとでも言うような言い方になってしまった。でも、実際この人からはレイ君のことを見えないのなら誰も止める人はいなかったはずだ。なのに、どうして。
 そんな私の問いかけに、その人はお腹に手を当てて優しく微笑んだ。

「お母さんだから、かな」
「お母さん、だから?」
「うん、この子の、それから娘の。どちらも大切で愛しくて……この子たちを守れるのは私しかいないんだってそう思ったの」
「……本当に?」
「え?」

 思わず聞き返してしまった私に、その人は顔を上げた。私は今、どんな顔をしているのだろう。でも、目の前の勝手な女性が許せなかった。

「あなたはそれでいいかもしれない。でも、今もうすでにいる娘さんがどう思うか考えたことある?」
「ど、どうしたの?」
「私は……! 私のお姉ちゃんは、小さな頃から腎臓が悪くて、今もあの病院に入院してる。子どもの頃からお母さんとお父さんの一番はいつだってお姉ちゃんだった。お誕生日会も運動会も劇で主役をしたときも、必ず見に行くからって言っといてお姉ちゃんの具合が悪くなったらそっちを優先して私の方になんて来てくれなかった。こんな思いを、娘さんにさせないって本当に言える!? 私みたいに親から愛されてない子にしないって!」

 ああ、こんなのただの八つ当たりだ。自分の両親への不満をこの人にぶつけているだけだ。頭ではそうわかっているのに、止めることができない。辛くて苦しくてずっと蓋をしてきた感情が一気に溢れだしてくる。
 怒鳴るように言ったせいで呼吸がうまくできない。苦しくて涙が溢れてくる。肩で息をする私の背中を、女の人は優しく撫でた。

「苦しかったね。辛かったね。……ごめんね」
「なんで、あなたが謝るんですか……」

 必死に絞り出した声に、その人は申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
 
「きっとあなたのお母さんもごめんって思ってると思うから」 
「そんなこと……」
「ないわけないわ。だって、上手く伝えられないだけできっとあなたのことだってお母さんは大好きだと思うから。……ね、名前なんていうの?」
「二葉、です」
「二葉ちゃん、か。あ、私は椿っていうの。でね、二葉ちゃん。もしかしたらお母さんはあなたなら許してくれるって思ってるのかもしれない。もしかしたらいっぱいいっぱいで二葉ちゃんなら大丈夫っ言ってくれるかもしれないって、そう思ってるのかもしれない。もしかしたらそこまで思う余裕すらないのかもしれない。でもね『そんなことない』って言ったっていいのよ」

 椿さんは優しく言うけれど、私は反射的に首を振っていた。だって……。

「どうして?」
「だってそんなことしたら……困らせちゃう」
「困らせたっていいじゃない、あなただってお母さんの子どもなんだから。だだをこねたってわがまま言ったっていいの。言ってあげて。それを言われるのはお母さんの、親の特権なのよ」
「特権……」

 そんなふうに思ったことなんてなかった。私のわがままはいつだってお母さんの迷惑でしかないのだとずっとそう思っていた。でも、もしかしたら私が声を上げていたら、お母さんと私の、家族の関係はもっと違ったものになっていたのだろうか。
 今となってはもうどうでもいい。なけなしの期待すら、何度も何度も裏切られてきたのだから。

「そう思うんだったら、椿さんは娘さんを、今いる娘さんのことも大事にしてあげてください。私みたいにお姉ちゃんを恨んで家族に愛情のかけらもなくなるような、そんな子にならないために」
「二葉ちゃん……」
「それから、もうここに来ないでください」

 ここは別に私のための場所なわけではない。なのにずいぶんと勝手なことを言っていると思う。でも、この人がここにいると胸の奥がザワザワする。棄ててきた感情を掘り起こされているようで苦しい。
 椿さんは何か言いたげに私を見つめていたけれど、小さく「わかった」と呟いた。

「もうここには来ない。……でも、最後に」

 ふわっと、優しいぬくもりに包み込まれていた。そのぬくもりは、私がずっと焦がれて焦がれて、そして諦めてきたものだった。

「たとえ誰かがあなたのことを不必要だと思ったとしても、あなただけはあなたのことを必要としてあげて。あなたは誰かのものじゃない。あなた自身のものなんだから」
「私、自身の……」

 レイ君にも似たようなことを言われたのを思い出す。
 私は、私を大事にできていないのだろうか。大事にするとはどういうことなんだろうか。その答えはまだ私にはわからなかった。


 椿さんが鉄橋を去り、私はレイ君の元に向かう。少し離れたところから私たちの様子を見ていたレイ君は歩いてきた私に微笑んだ。

「やっときた」
「待ちくたびれた?」
「まあね」

 優しく笑うレイ君に心臓がどくんと跳ね上がるのを感じる。正直なところ、この感情の名前を知らないわけじゃない。でも、今は気づきたくなかった。いつかレイ君が言っていたとおりこのままだとレイ君が私の未練になる。だから気づきたくない。この世界に未練を残させないで。
 そう思っているのに、気づけば足はこの場所へと向かってしまう。行く場所がないから、家にいたくないから。そんなの多田の言い訳だって知っている。私はただレイ君に会いたいんだ。でも、それを認めたくなくて、今日も私はいつも通りの言い訳をレイ君に告げた。

「家にいても気まずいだけだから来ちゃった」
「そっか。お昼ご飯はもう食べたの?」
「来る途中にセボンで買ってきた」

 私は手に持った袋をレイ君に見せると、中からクルミパンとクリームパンを取り出した。久しぶりに行ったセボンはたくさんのお客さんがいて、ずいぶんとお腹が大きくなってきた巴ちゃんのお母さんとお父さん――それに巴ちゃんが忙しそうに働いていた。
 最近じゃあ学校が終わるとお店のお手伝いをしているらしい。

「そっか。元気そうだった?」
「うん。まだいじめについては学校といじめた子たちとの間で話し合いをしている最中らしいけど、クラスに話せる子ができたって喜んでたよ」
「そっか、ならよかった」

 結局、いじめっ子たちの仲間になった親友とは仲違いしたままらしいけれど。「でも、いいの」と言った巴ちゃんの顔が明るかったから、きっともう大丈夫なんだと思う。

「うん、やっぱりセボンのパンは美味しい」
 
 買ってきたクルミパンにかぶりつくと、私は明るく言った。
 そういえば、最初は食べることのできないレイ君の隣でこうやって私が食事をするのはどうなんだろう、なんて思ったこともあったけれど、特にレイ君が気にしている様子もなかったので考えるのをやめた。
 私はこっそりとレイ君の横顔を見つめた。あの日、幽霊に顔色があるなんてわからないとそう思ったけれど、今はもうそれが間違いだったと、そうはっきりとわかるぐらいにレイ君は青白い顔をしていた。日に日に顔色が悪くなっていくレイ君に私は背筋が寒くなるのを感じた。

「二葉? どうかした?」
「あ、えっと」

 あまりにもジッと見つめている私の視線に気づいたのか、レイ君が不思議そうに私を見る。私は慌てて適当にごまかした。

「そ、そういえば、あれからどうなのかなって」
「どうって?」
「だから、生きていたときのことって何か思い出したりした?」
「ああ、そのこと。いや、あれからは全く。でも別にいいさ。生きていたときのことを思い出したってなんにもならないから。しょせん僕は幽霊なんだ。過去も未来も、今すらもない、虚ろな存在なんだ」

 その言葉が、なぜか無性に私を苛立たせた。まるで私と過ごしている今すらも否定されているかのようで。レイ君と過ごす今に――救われているのはまるで私だけのようで。

「帰る」
「二葉?」
「……レイ君にとって、私はしょせんその程度の存在みたいだから」
「どういう……」

 まだ何か言いたそうだったレイ君を振り切って私は鉄橋を駆け抜けた。追いかけてきてくれるわけなんかない。そもそも鉄橋を渡りきったら追いかけられるわけないんだ。

「っ……くっ……」

 どうして、私は今、泣いているんだろう。
 何がこんなにも辛くて苦しいんだろう。レイ君に否定されただけで、どうして……。

「いつの間に、こんなにも好きになってたんだろう」

 もう気づかないふりなんてできなかった。こんなにも、こんなにも心が叫んでいるのに、自分自身をだまし続けることなんてできなかった。
 私は、レイ君が好きなんだ。レイ君が好きで好きで仕方がないんだ。

「どう、しよ……これじゃあ、本当にレイ君が未練になっちゃう……」

 一瞬、それもいいかもしれないと思った。そうしたら死んでからもずっとレイ君と一緒にいられるかもしれないのだ。
 でもきっと、私がそんなことになったら彼は自分自身を責めるだろう。レイ君はそういう人だ。じゃあ私はどうしたらいいんだろう。
 答えの出ない問いの答えを、私はひたすらに考え続けた。
 翌日、私はいつものように鉄橋へと向かっていた。でも、どうしてもあと一歩が踏み出せない。
 結局、鉄橋の手前の土手に座って、橋の上にいるレイ君の姿を見つめ続けていた。ここにいると私からはレイ君が見える。でも、レイ君からは私のことを見ることができない。彼は今、どんな気持ちであそこに立っているのだろう。私が来ないことを不思議がっているだろうか。心配しているだろうか。少しは寂しく思ってくれているのだろうか。

「結局、ずっとレイ君のこと考えちゃってる」

 レイ君と一緒にいるときより、レイ君のそばにいない今の方がレイ君のことを考えている気がする。これならいっそ鉄橋に行って話をした方がマシかもしれない。
 しゃがみ込むように座っていた私は、そう思って立ち上がろうとした。そのとき、一番手前の橋脚にあるボルトに何かが引っかかっているのが見えた。

「あれは……」

 それがどうしても気になって、私は一歩踏み出した――そこが土手だということも忘れて。

「わっ、ちょ、まっ……!」

 気づいたときにはもう遅かった。私は体勢を崩すとそのまま土手の下に転がり落ち――る、はずだった。
 でも、前のめりになった私の腕を誰かが掴んでくれたおかげであわや転落、というところを免れていた。

「あー、ビックリした。落ちるかと思った」
「ホントだよ。君、大丈夫?」
「え……?」

 一瞬、もしかして、と思った。そんなことあるわけないのに。でも、どうしてかレイ君が助けてくれたようなそんな気がした。
 慌てて振り返った私の目の前にいたのはレイ君――ではなく、どこかで見たことのある、でもどこの誰だかわからない男の人だった。
 私より一つ二つ年上だろうか。めがねをかけたその人は、私を引っ張り上げてくれると、優しい口調で言った。

「怪我はない?」
「あ、はい。すみません、助けてもらっちゃって」
「いや、間に合ってよかったよ。と、いうかさ君どこかで会ったことない?」
「私もそれを思ってたんですが……でも、お兄さん私よりも年上ですよね? 学校の先輩、というわけでもなさそうだし」

 でも、たしかにどこかで会ったことがある。会った、というよりすれ違ったというか……。

「あぁ、わかった。君、K大附属病院によく行ってる子だ」
「あっ!」

 その一言で思い出した。お姉ちゃんのために洗濯物を取りに行った病院でこの人と何度かすれ違ったことがあった。子どもだけで行くような場所じゃないそこにいた私たちは、なんとなく異質で、お互いに認識していたんだと思う。

「最近見かけなかったから心配してたんだ。その、何かあったのかって……」

 そこまで言って、目の前の男の人は言葉に困ったように苦笑いを浮かべた。
 何度も病院へとお見舞いに通っていた人間が来なくなるなんて、退院したか――来る必要がなくなったかのどちらかだから。
 だから私は、わざと明るい口調で言った。

「学校が忙しくなって、姉のお見舞いに行く頻度が下がっちゃったんです。何かあったわけじゃないから、そんな困った顔しなくても大丈夫ですよ」
「ああ、そっか。ならよかった」
「お兄さんは今から病院ですか?」
「ああ。休みの日ぐらいは、行ってやりたくて」
「優しいんですね」

 休みの日までお見舞いに行ってあげたいと、そう思ってあげられる相手というのはどんな存在なんだろう。家族か、友達か、それとも恋人か。どちらにしてもそんなふうに思ってもらえる相手は幸せだと思う。義務感で渋々行っていた私とは違う。
 でも、私の言葉に目の前の男の人は顔を歪めた。

「僕にはそれぐらいしかできないから」
「あの……?」
「あ、いや。なんでもない。それじゃあ、僕は行くよ。また落ちないように気をつけて」
「ありがとうございました」

 頭を下げた私に手を振ると、その人は土手沿いを歩いて行く。このまままっすぐ行くとあの病院に着く。
 お姉ちゃんは今頃、何をしているのだろう。お父さんとお母さんと三人で楽しく過ごしているのだろうか。腎臓の具合はどうなのだろう。

「悪く、なってないといいな」

 思わず呟いていた自分自身の言葉に、一瞬驚き、それから笑ってしまった。
 矛盾しているにもほどがある。あれほどお姉ちゃんに腎臓を渡したくないから死にたいとそう思っていたはずなのに、それでもお姉ちゃんの具合が悪くならないことを願うなんて。そのために何が必要かなんて、わかっているのに。そして、それがないと、どうなるかも。

「レイ君に、会いたいなぁ」

 それでいつもみたいに「相変わらずいい子だなぁ」とか「そう二葉が思ってるならそれがきっと二葉にとって正解なんだよ」なんて呆れた口調で言われたい。そうすれば何かが変われる気がする。
 でも、それで私が変わったとしても何の意味もないことを今の私は知っている。本当に変わりたいのなら、その決断をするのは自分自身だということも。
 でも、まだ私は決断できずにいた。18歳の誕生日は、もうすぐそこに迫ってきているというのに。


 レイ君の元に行かなくなって5日が経った。けれど行くところのない私は今日も一人、土手に座って鉄橋にいるレイ君を見つめていた。レイ君はここからでもわかるほど、顔色が悪くなっていた。以前よりも透明度が増して、まるでもうすぐ消えてしまいそうなほど――。

「そんなこと、ない」

 自分の考えに、背筋が寒くなる。レイ君が消えるなんて、そんなこと。
 私は首を振ると、何か違うことを考えようと辺りを見回す。そして視線の先に、この間見つけた何かを捉えた。それは相変わらずボルトに引っかかるようにしてそこにあった。でも、この間と違うのは……それが少しずつボルトから落ちそうになって行っていることだった。

「そういえば、似てるかもしれない」

 少し離れたところにあるからよくわからないけれど、この間買ったストラップと似ている気がした。
 もしかしたら、という気持ちがあった。あそこなら、土手の一番下まで降りて手を伸ばせば届くかもしれない。
 そう思ったら、もう止められなかった。私は転げ落ちないようにバランスを取りながら土手を下る。一番下から見たそれは、やっぱり私が持っているストラップとよく似ていた。でも、土手の上から見たときよりも実際の場所は遠かった。あれじゃ、いくら手を伸ばしたところで……。

「ううん、やってみなくちゃわからないよ」
 
 落ちないように、そっと手を伸ばす。もう少し、もう少しだけ……。

「あっ!」

 あと少しだけ――そう思って背伸びをして手を伸ばしたその瞬間、身体がグラッと傾くのを感じ、そしてまるでスローモーションのように水面が近づいてくるのが見えた。
 落ちる! そう思うのと同時に、誰かが私の身体を掴んだ。

「危ない!!」
「あっ……あの時の、お兄さん?」
「どうして君は、僕が通りがかるたびに川に落ちようとしてるんだ。……それに、よりにもよってこの川に。まさかと思うけど、飛び込もうとしたんじゃ」
「あ、いえ。そ、そういうんじゃなくて」

 何がそう言うんじゃなくて、なのか。実際に鉄橋からこの川に飛び込もうとしたことはあったし、なんなら数日後にもそうするつもりなのに。
 でも、焦った様子で私を酷く心配してくれている目の前のお兄さんに、そんなことを言えるはずもなかった。

「なら、いいんだけど。で、飛び込もうとしてたんじゃなければ何をしようとしてたの?」
「あの、あそこに何かが引っかかってるの見えますか?」
「え? あそこ? ……っ!」
「ちょ、ちょっと!? なにして……」

 私が指さす方を見た瞬間、お兄さんの顔色が変わったのがわかった。そして、私が止める間もなくその人は川に足を踏み入れた。ここの川は浅瀬から少し行くとすぐに深くなる。そのせいで、すぐにお兄さんは胸の辺りまで水に浸かってしまう。

「だ、ダメですって! ここ、川の流れが急で危ないから」
「知ってる」
「知ってるんだったら余計に……」
「大丈夫だから」

 転けないように、慎重にお兄さんは進むと、橋脚までたどり着いた。そして手を伸ばし、少し上のボルトに引っかかっていたものを手に取った。
 そしてそれを、大事そうに手に握りしめると行きと同じようにゆっくりと戻ってくる。

「大丈夫ですか?」
「ああ。……ごめん、そこの鞄からハンカチだしてもらっていいかな」
「は、はい」

 土手の途中に放り投げられていた鞄からハンカチを取り出すと、お兄さんに渡す。でも、ハンカチで拭けるようなそんな程度じゃなくて、お兄さんは苦笑いを浮かべた。

「これは一度帰らないと無理だな」
「急に川の中に入っていくからどうしたのかと思いました」
「ビックリさせてごめんね。これを、どうしても取りたくて」
「それって」

 お兄さんの手の中にあったのは、私の持っているストラップとよく似たものだった。私のは空色だったビー玉が、お兄さんが持っているのは銀色で、まるで月のように見える。
 でも、どうしてこれを……?

「これは、僕の親友の、遠矢のものなんだ」
「え……?」

 お兄さんの、親友……?
 まさか、その親友って……。

「修学旅行に行った先で、二人で買ったんだ。僕は太陽を、遠矢は月をモチーフにしたストラップを。願掛けだったんだ。いつか二人の夢が叶いますようにって」
「そ、の人、は……」

 声が震える。もしかして、とまさか、が頭の中をぐるぐるする。
 私の問いかけに、その人は一瞬表情をゆがませたあと、顔を上げて鉄橋を見上げた。

「あそこから――。いじめられていた、僕を庇ってあいつが……」
「そん、な……」
「ああ、ごめん。こんなショッキングな話……」

 私は必死に首を振る。そうじゃない、そうじゃないんです。
 でも、私がショックを受けたと思ったお兄さんは優しく微笑んだ。

「ごめんね……。でも、だからこの川に飛び込もうとしているように見えた君を見てられなかったんだ。あのとき、僕は遠矢を助けることができずに、あの橋から落ちていくのを止められなかったから」

 その通りだと責め立てたかった。レイ君を返してと、どうして助けてあげなかったんだと泣きわめいて責めて責めて、レイ君に向かって跪いて謝らせたかった。
 でも……。
 目の前で、自責の念に駆られ、涙を流すお兄さんを見て、私は首を振った。
 きっと、レイ君自身がそんなこと望んでいないから。
 
「お兄さんの、せいじゃないですよ。悪いのはいじめた奴で、だから……」
「違う、僕のせいだ! 僕が……弱くて……あいつが僕の代わりにいじめられてるのに気づいてたのに、何もできなかった。あの日も、僕がもっと早く気づいていれば! 遠矢はあんなところから冷たい水面に飛び込まずにすんだのに!!」

 レイ君の最期の瞬間を、あまりにもリアルに感じてしまって――気づけば私は泣いていた。
 しばらくお互いに何も言うことなく水面を見つめ続け、そして小さなくしゃみをしたあと、お兄さんが立ち上がった。

「今日はもう帰るよ。……これ、見つけてやってくれてありがとう。明日、遠矢に渡してくる」
「渡し、て……?」

 その言い方が妙に引っかかった。墓前に置いてくると、そういう意味だろうか。いや、でも、まさか。

「あの、遠矢さんって死んじゃったんですよね……? あの橋の上から自殺して……」
「バカなこと言うな! あいつは生きてる。今も、頑張ってるんだ! それに、あれは自殺なんかじゃない!」
「え……」

 お兄さんの言葉があまりにも衝撃的で、私は何も言えなくなった。
 レイ君が、生きている……? 自殺じゃない……? まさか、そんな。
 やっぱり私が知っているレイ君とこの人が言っている人は別人なんだろうか。たまたまたストラップっていう共通点があっただけで。
 でも、もしも、もしも本当にレイ君が生きているのだとしたら……!

「あ、の」
「ん?」
「それ、届けに行くの、私も一緒に行って、いいですか……?」

 目の前でお兄さんが怪訝そうな表情を浮かべるのが見えた。でも、今の私には人にどう思われようがもうどうでもよかった。


 結局、あのあと服が濡れたままじゃどこにも行けないからとお兄さんは帰っていった。何度も食い下がる私に、明日またこの場所で待ち合わせしようと渋々約束をして。
 翌日、私はお兄さん――優一さんとの待ち合わせのために土手に来た。相変わらず橋の上にはレイ君がいて、私は今日もそれを土手から見るだけだった。
 もしも本当に、病院にいるのがレイ君だったら、私はどうしたらいいんだろう。昨日はあんなにも勢いづいていたというのに、いざ本当に会えるかもしれないとなったら、怖い。
 そんな私の思いなんて知らない優一さんが「やあ」と声をかけた。

「本当に来たんだ。変わった子だね」
「そ、その。もしかしたら前にあの鉄橋で会った人かもしれなくて。その人のおかげで私、すっごく助けられて……もしも本当にあの人だったらお礼、言いたいなって」

 必死に考えた言い訳に、優一さんは疑うことなく頷くと歩き出す。私もそのあとを慌てて追いかけた。

「遠矢はよくあの鉄橋に来ていたから、そうかもしれないね。……それに、もしも本当に遠矢に会いたいのだとしたら、早めにあった方がいいと思うし」
「それって、どういう……」

 尋ねようとした私は、病院の自動ドアをくぐると反射的に口を閉じる。待合を通り抜け、入院病棟へと向かう。
 遠矢君は慣れた手つきで進んでいく。そこはお姉ちゃんがいるのとは違う病棟だった。

「ここだよ」

 優一さんが立ち止まった病室には『大月遠矢』と書かれたプレートがかかっていた。
 ノックをして中に入る。そこには――。

「レイ、君」

 私がよく知っているレイ君が、ベッドの上でたくさんのコードに繋がれたまま眠っていた。ううん、レイ君よりも少しだけ大人びて見えるのは、眠ったままの彼が成長しているかもしれない。
 でも……。

「君の知ってる奴で会ってた?」
「は、はい。あの、この人――遠矢さん、大丈夫なんですか……?」

 眠ったまま起きないんだと、優一さんからは聞いていた。でも、いざレイ君――ううん、遠矢さんを見ると、彼は眠ったままというには顔色が悪かった。繋がれた心電図も、ずいぶんと波形が緩やかな気がする。

「ああ……。いわゆる植物状態ってやつだ。二年間、高校三年の夏からこうやって眠ったままだったんだけど、だんだんと弱っていっているみたいで……。もしかしたら、もうあまりもたないかもしれないって遠矢のお母さんから言われたんだ」
「そんな……!」
「だから、会いたいなら会えるときに会わせてあげなきゃって思って。もしかしたら違うかもしれないとも思ったんだけど、でも君の会いたかった奴が遠矢でよかった」

 だから、連れてきてくれたんだ……。
 正直なところ会いたいと言ったからって、赤の他人の、それも本当に知り合いかもわからない私をどうして連れてきてくれたのかわからなかった。でも、遠矢さんがこんな状態だから……もう長くはもたないかもしれないから……。

「なあ、遠矢。お前が落としたこれ、この子が見つけてくれたんだ」

 優一さんは、橋脚に引っかかっていたあのストラップをそっと遠矢君の手のひらに握らせた。けれど遠矢さんが反応することなく、人差し指に引っかけるようにして持たせると、その手を布団の中に戻した。

「あのとき、お前が追いかけたこれ……やっと戻ってきたよ。だから、もう起きろよ……。捜し物は見つかったぞ。もう探さなくていいんだ。だから、だから……!」

 泣き叫ぶように言う悠一さんに、私は何も言えない。嗚咽と、心電図の音だけが響き渡る部屋で、私は真っ青な顔をしたレイ君のことを思い出していた。

「ごめん、取り乱して」

 服の裾で涙を拭うと、優一さんは苦笑いを浮かべたまま私の方を向いた。

「いえ。あの、聞いてもいいですか……? さっき言ってた、そのストラップを追いかけて川に落ちたってどういう」

 私が知っている話と違う。レイ君は自分が橋から飛び降りて自殺したとそう言っていた。どういう……。

「言っただろ、こいつは自殺じゃない。ストラップを追いかけてそれを取るために川に落ちたんだって。あの日、俺を、そして遠矢をいじめていた奴らがふざけて遠矢のスマホからストラップを取ったんだ。男同士でお揃いをつけてるなんて気持ち悪って。返せよって向かっていった遠矢をせせら笑うようにあいつらは川にストラップを投げて、それで……」
「酷い……! どうして誰かにそれを言わなかったんですか?」
「言ったさ! でも、大人は誰も信じてくれなかった。いじめを苦にした自殺。そう大人たちは決めつけた。僕が何を言ったところで無駄だったんだ」
「そんな……」
「自殺なんてするような奴じゃないんだ。凄くいい奴で、人のことばっかり心配して……そんな遠矢が、このまま死んだら自殺で死んだことになるなんてあり得ないよ」

 目尻に滲む涙を拭うと、優一さんはもう一度遠矢君に声をかける。

「だからさ、早く起きろよ。それでさ、僕に謝らせてよ。あのとき、遠矢のことを守れなくてごめんって」

 けれど、優一さんの呼びかけに、返事が来ることはとうとうなかった。


 夕日が沈み始めた病室を私たちはあとにした。行くところがあるから、と優一さんにお礼を言って私は病院のエレベーターの前で別れた。本当は特に行くところなんてなかった。でも、優一さんと一緒にいて遠矢君の話題を避けることは難しかったから。
 でも、そんな私の言葉を優一さんは都合よく解釈してくれたようで「ああ」と思い出したように言った。

「お姉さんのところに行くの?」
「え、あ……はい、まあ」
「そっか。君も大変なのに、遠矢のところ来てやってくれてありがとね。……じゃあ」
「ありがとうございました」

 そういうことにしておこう、と曖昧に返事をした私に優一さんは頷く。そして優一さんに見送られ、私は――お姉ちゃんがいる病棟へと向かうエレベーターに乗り込んだ。
 このまま頃合いを見計らって優一さんに気づかれないように病院を出ようかと一瞬、真剣に考えた。でも、結局私は開いたエレベーターを降りて通い慣れた廊下を歩き、お姉ちゃんのいる病室へとやってきた。

「二葉? どうしたの?」
「……久しぶり」
「久しぶりね。元気だった? 風邪とか引いてない? 元気にしてる?」

 久しぶりに会ったお姉ちゃんは、最後にあったときと比べて随分と痩せて見えた。心なしか頬が痩けたような気がする。点滴の刺さった腕も、あんなに細かっただろうか。

「お姉ちゃんこそ、大丈夫なの?」
「大丈夫、大丈夫。心配しないで」

 微笑むお姉ちゃんの姿に、泣きたくなった。自分の方がどう見たって大変なのに、私のことを心配して元気なふりをするお姉ちゃんに。
 ベッドの横の椅子を差し出され、おずおずとそこに座った。こんな風に話をするのはいつぶりだろう。

「あ、そうだ。お友達とは上手くいってる? 学校は楽しい? 勉強は? そろそろ試験の時期じゃない?」
「そんなに一気に聞かれても答えられないよ」
「そっか、ごめんね。二葉が来てくれたことが嬉しくって」

 いつだってそうだ。誰にだって優しくて、いい人で、みんなからの愛情を一身に受けるお姉ちゃん。でも本当は知っていた。みんながお姉ちゃんを大好きなのは、ちゃんとお姉ちゃんがみんなのことを大切にしているからだって。だから――みんなも私も、お姉ちゃんが大好きなんだ。

「……ごめんね」
「どうしたの? 何を二葉が謝ることあるの? あ、もしかしてやっぱり学校上手くいってない? やっぱりねー、私はあそこしか選べなかったけど、二葉ならもうちょっとレベルの高いところもそれこそ周りの友達と一緒の公立だって選べたのに……。本当は他のところに行きたかったんでしょ? ごめんね、お母さんが無理に勧めちゃったから」
「……ううん。勉強そんなに難しくないから勉強しなくてもそこそこいい成績取れるし、大学だって内部進学で行けるし……。でも、ホントはちょっとだけ中学の時の友達と会えないのが寂しいかな」
「そうだよね。二葉はさ、お母さんの前でいい子になっちゃうから。もっとわがまま言っていいんだよ? 私のところに来るのだって二葉の仕事じゃないの。二葉は自分の好きなことをして、自分の好きなように生きていいの」

 お姉ちゃんは、レイ君と同じことを真剣な顔をして言った。こんなふうにお姉ちゃんが私のことを思ってくれていたなんて、初めて知った。もしかして私は、誰にも愛されていないとそう思っていたけれど、お姉ちゃんは、お姉ちゃんだけは私のことを愛してくれていたんじゃないだろうか。

「ねえ、お姉ちゃん」
「なあに?」
「お姉ちゃんは、恨んでないの? 私が、腎臓をあげるって言わないこと」
「――二葉、こっちおいで」

 私の言葉に、お姉ちゃんは笑顔で手招きをした。私は身を乗り出すようにベッドの方に身体を近づける。そして――お姉ちゃんの両手が私の頬を掴み、思いっきり引っ張った。

「いっったい!」
「当たり前。痛くしたんだもん。あのね、二葉。私は二葉の腎臓がほしいなんてこれっぽっちも想ったことないし、それはこれからだってそう。私は元気になるの。だからあなたの腎臓なんていらないのよ」
「でも……」
「でも、じゃない。もう二度とそんなこと言わないで。私は、二葉のお姉ちゃんなんだから。妹に助けてもらったりなんかしたら、もうあなたに顔向けできないでしょ。それに私のために、二葉の身体に傷がつくなんて思ったら……私……」

 頬から手を離し、お姉ちゃんは私の身体を抱きしめた。その手が、肩が震えている。
 泣いてるの、とは聞けなかった。その代わり私もお姉ちゃんの身体をそっと抱きしめた。
 細くて折れてしまいそうな背中。お姉ちゃんはこんなにもちっちゃかっただろうか。いつの間に、こんなに弱ってしまったのだろう。
 私がここに来なくなってから何日が経った? ううん、ここに来ていたときも私は仕方なしに来て荷物だけ取ってお姉ちゃんの顔を見ることも話をすることもなく帰ってた。
 もっと早く、向き合わなきゃいけなかったんじゃなかったのかもしれない。

「ごめん」

 謝る私に、お姉ちゃんは不服そうに頬を膨らませた。

「それ以上謝ったら、もう一度ほっぺた引っ張るよ」
「う……ごめ……」
「ん?」

 反射的に謝りそうになった私を、お姉ちゃんはジッと見つめる。だから私は慌てて「なんでもない」とごまかして、それから話をそらすように、お姉ちゃんに問いかけた。

「ねえ、お姉ちゃん。もしも元気になったら何がしたい?」

 そう尋ねた私の問いかけに、お姉ちゃんが笑ったのがわかった。そっと身体を私から離すと、お姉ちゃんは口に人差し指を当てた。

「秘密」
「えー、どうして?」
「お願い事は誰かに喋っちゃうと叶わないっていうじゃない」
「それって神社とかの話なんじゃあ」
「なんでもいいの、私の願掛けなんだから」

 優しく微笑むお姉ちゃんにそれ以上何も言えなかった。でも、元気になったらやりたいことがあるというお姉ちゃんの願いを叶えたいと、そう思った。
 でも、それを口にする勇気は、まだ私にはない。

「ごめんね、お姉ちゃん」
「どうして二葉が謝るの?」
「ううん……。でも、ごめん」

 弱虫な私で、ごめん。


 しばらくお姉ちゃんの病室で過ごした私は、夕食が運ばれてきたタイミングで病室を出た。手には、お姉ちゃんの洗濯物を持って。

「やっぱり、それ置いていって? 今度お母さんが来たときに持って帰ってもらうから」
「いいよ、ついでだし。それに今持って帰ったら、次お母さんが来るときには洗ったのを持ってきてもらえるでしょ?」
「それは、そうだけど……。ありがとう」

 お姉ちゃんに見送られて、病室を出る。そしてエレベーターで一階に下りると、私は足音を立てないように、誰もいない廊下を一人歩いた。
 さっきまでいた病棟に向かうエレベーターに乗る。
 誰にも会いませんように。
 必死に願った甲斐があったのか病室までの道のりで誰かに咎められることはなかった。
 プレートを確認して病室の中に入る。そこには、数時間前と同じ姿で眠る遠矢君の姿があった。
 相変わらず、無機質な心電図の音だけが響く病室。ベッドに眠る遠矢君に近づくと、私はさっき優一さんが手渡したストラップをそっと抜き取った。代わりに、私のスマホにつけてあったあの空色のストラップを握らせる。

「少しだけ、これ貸してください。あなたに――あなたのことを忘れてしまったもう一人のあなたに、これを届けたいんです」

 遠矢君は返事をしない。でも、一瞬だけ、心電図の波形が乱れたようなそんな気がした。
 翌日は土曜日だったのに、模試があり、お昼を過ぎてからやっと鉄橋へと向かうことができた。数日ぶりに鉄橋に足を踏み入れた私に気づいたレイ君は、少し驚いたような表情を浮かべていた。

「久しぶり」
「うん、久しぶり」
「もう来ないのかと思った」
「今日、模試があったから来るの遅くなっちゃった」

 そういうことを言ってるんじゃないことはわかっていた。でも、ごまかすように言った私にレイ君は「模試かー」なんて苦笑いを浮かべて空を見上げていた。
 隣に並ぶと私はポケットからあのストラップを取り出すと、レイ君に差し出した。

「これ、知ってる?」
「ん? な、に……」

 レイ君の顔色が変わるのがわかった。そして、私が持つストラップへと手を伸ばす。その手が、ストラップに触れることはない。でも、震える指先が全てを物語っていた。

「こ、れは……どうして、二葉が」
「これね、川の橋脚に引っかかってたの。ねえ、レイ君。このストラップ、レイ君の――ううん、遠矢君のだよね」

 私の言葉に、レイ君が息を呑む。

「遠、矢……。どうして……その、名前を……。二葉、君は何を知ってるの」
「優一さんから聞いたの」
「優一……ああ、そうだ。それは優一と一緒に買ったストラップ……。あの日、あいつらがこれを川に投げて……それで俺は、ストラップを追いかけて川に飛び込んで、そのまま――」
「違う」

 遮る私に、レイ君は眉をひそめる。私は伝えなきゃいけない。あのあと何があって、それでレイ君が、遠矢君がどうなったのか。

「たしかにレイ君はストラップを追いかけて川に飛び込んだ。……でも、そのあとしばらくして助け出されてるの」
「え……?」
「優一さんが通報して来てくれた警察の人が助け出してくれて。でも、それでも長い時間水の中にいたレイ君は――今も、あそこに眠っている」
「嘘、だ。死んでない……? 俺が、生きてる……?」
「生きてるよ。私、遠矢君に会ってきたんだから。レイ君と同じ顔して、病院に眠ってたよ」

 振り返ったレイ君の視線の先には、K大附属病院があった。暗闇に白く浮かび上がる無機質な空間。あそこにレイ君はいる。

「そうか……俺は生きてるんだ……。そうか……」

 しゃがみ込んでしまったレイ君が今、どんな感情なのかわからない。喜んでいるのか、それともショックを受けているのか。でも、私は、私自身はレイ君が生きていてくれて、嬉しい。

「は、はは……。今までここで自殺しようとする人たちを止めたりしてたけど、あれは気楽な幽体だったからできたんだね……。いざ自分が生きていると思うと……」
「レイ君……」
「ねえ、俺はどうだった? ちゃんと生きてた?」

 ちゃんとというのが何をもってちゃんとなのかはわからない。けれど……。

「うん、生きてたよ。ずっと眠っているけど、ちゃんと心臓も動いてた。ただ、少し身体が弱り始めてるって」
「眠ってるってことは、植物状態ってことか。……例えばこのまま俺が死んだら、二葉のお姉ちゃんに腎臓をあげられたりしないかな。そうしたら二葉が死ぬ理由もなくなる」

 後ろ向きに前向きなレイ君の言葉に私は苛立ちを感じる。私が、私だけ生きていて嬉しいと思っているのだろうか。私は、レイ君が生きているって知って嬉しかったのに。

「何それ……。レイ君に代わりに生かされて私が喜ぶとでも思う?」
「そうじゃないけど……」
「それにね、親族間以外で誰かに臓器をあげたいっていう要望は通らないの。そりゃお姉ちゃんとレイ君は同じ病院に入院しているからその可能性がないとは言えないけど、でも優先度がお姉ちゃんより高い人がいればその人のところにレイ君の腎臓は行くの。だから、私のためとかお姉ちゃんのためとかそんな言葉に逃げないで! ……レイ君は嬉しくないの? 生きているってわかって」
「わからない」

 それっきり、レイ君が何か言うことはなかった。死んでいると思っていた自分が本当は生きている。それが喜ばしいと思う人ばかりじゃないと知っている。でも、私はレイ君に生きてほしい。それがたとえ、私のワガママだとしても。

「とりあえず、今日は帰るね」
「……だよ」
「え?」

 ずっと黙ったままのレイ君に背を向けると、レイ君が何かを呟いた気がした、どうしたのかと振り返ると、レイ君は苦しそうに顔を歪めていた。

「二葉は勝手だよ」
「レイ君」
「自分は誕生日が来たら死ぬくせに、俺には生きろって? そんな勝手なことがよく言えるよ」

 レイ君の言葉にギュッと唇をかみしめる。今の私じゃ、レイ君に何か言うことはできない。そんな資格はない。

「――また来るね」

 それだけ言うと、私は鉄橋をあとにした。レイ君はもう何も言わない。そして、その場から動くこともなかった。


 家に帰ると電気が消えていて、両親がまだ帰っていないことがわかった。土曜日だしきっとお姉ちゃんのところに行っているんだろう。
 制服を着替えて手紙を書く。口じゃ上手く伝えられないと思うから。
 何度も書いては消してを繰り返しているうちに、車が止まる音が聞こえた。両親が帰ってきたようだ。

「おかえり」

 階段を下りた私を見て、玄関にいたお母さんが少し驚いたような表情を浮かべた。

「ただいま。……帰ってたのね」
「うん。お姉ちゃんのところに行ってたの?」
「ええ。昨日、二葉が来てくれたって喜んでたわよ」
「そっか」

 できる限り普通に、そう思いながら喋っているけれど、私の心臓はいつもの倍ぐらいの速さで鼓動を鳴らす。ポケットに入れたレイ君のストラップをギュッと握りしめると、私は後ろ手に隠していた手紙を差し出した。

「これ」
「え?」
「今日の夜、私が寝てから読んで」
「今じゃダメなの?」
「ダメ」

 かたくなな私の態度に、お母さんは諦めたように「わかった」と言って手紙を受け取った。
 そして翌日の朝。制服に着替えてリビングへと向かった私にお母さんは言った。

「手紙、読んだわ。……明日の夜でいい?」
「大丈夫なの?」
「ええ。お父さんにも言ってあるから。7時には二人とも帰るわ」
「わかった。ありがとう」

 これでもう、後戻りはできない。
 もしかしたらこの選択を後悔する日が来るかもしれない。でも、それでも今の私はこの選択が最善だと思ってて、違う選択をしたらきっとそれはそれで後悔すると思うから。それなら、今の自分が思う方を選びたい。


 翌日、私はレイ君の元に向かうことなく学校が終わるとまっすぐに自宅へと帰った。誰もいないリビングで両親の帰りを待つ。あと1時間。あと30分。両親が帰ってくる時間が迫ってくると、心臓が痛いぐらいに鳴り響く。
 まず、なんて言おうか。今の私が、ううん。今までの私が思っていたことを伝えて、両親はいったいどう思うんだろうか。どう思われたってかまわない、なんてかっこつけたことは言えない。否定されたらきっと私は今まで以上に傷つく。でも、それでも伝えないわけにはいかないから。
 リビングには時計の針の音が鳴り響く。車の音も玄関が開く音もしない。時計の針は――7時20分を指していた。

「あは……これは、想定外だったな……。まさか、すっぽかされるなんて」

 手紙を書いた時点で、話がしたいという私の要求が断られることは想定していた。でも、こんなふうに期待させて突き落とすような、そんなことは想像していなかった。

「っ……くっ……」

 思ったよりも、私は期待していたみたいだ。両親と今までとこれからの話をすることを。話をして、もしかしたら歩み寄れるんじゃないかという未来を。そんな未来、あるはずなかったのに。
 私の頬を伝った涙が食卓に小さな水たまりを作っていく。涙が、止まらない――。

「ごめん、遅くなっちゃった!」

 玄関のドアが開く音と同時に、慌てたように言うお母さんの声が聞こえて、私は慌てて机の上にこぼれ落ちた、そして頬を流れる涙を拭いた。
 バタバタと部屋に入ってきたお母さんは、食卓に座る私を見つけて申し訳なさそうに両手を合わせた。

「ごめんね。駅の近くで事故があったみたいで、凄く混んでて遅くなっちゃった。お父さんももうすぐ着くと思うから」
「そう、だったんだ」
「そうよー。スマホにメッセージ送ったんだけど既読にならなかったから焦っちゃった」

 その言葉に、そういえばスマホを二階に置いてきていたことに気づく。そっか、すっぽかされたわけじゃなかったんだ。

「先にご飯にする? それとも」
「先に、話を聞いてほしい」
「わかった。あ、お父さんも帰ってきたみたいね」

 車の音が聞こえ、しばらくするとお父さんがリビングへと入ってきた。私の向かいにお父さんとお母さんが座り、私は息を吸い込むと、手の中のストラップをギュッと握りしめる。そんな私にお母さんは優しく微笑んだ。
 
「今日はちゃんと最後まで二葉の話を聞くから」
「おねえ、ちゃんは大丈夫なの?」
「ええ。今日は行けないってちゃんと伝えたから」
「どうして……」
「どうしてってことはないでしょ。二葉、あなたも私の大事な娘だからよ。あなたが話したいことがあるなんてよほどのことでしょう? ちゃんと最後まで話を聞かせて」

 綺麗事を言わないで、と叫びそうになるのを必死に堪える。押し殺したように必死で声を絞り出した。

「私が大事なのは、お姉ちゃんのスペアだからでしょ」
「なに、言ってるの? そんなことあるわけないじゃない!」
「隠さなくてもいいよ。私、知ってるから。私が18歳になったらお姉ちゃんに腎臓をあげてほしいって思ってるんでしょ? 私はお姉ちゃんのスペアとして、お姉ちゃんを助けるために作られた。そうなんでしょ」
「誰がそんなこと……」

 お母さんの声が、震えていた。でも今まで押さえてきたものが堰を切ったように溢れ出して止まらない。

「みんな言ってる。おじさんも、おばさんも。おばあちゃんだって。それから言わないだけでお父さんもお母さんもそう思ってるって」
「バカなことを言うな!」

 そんな私の溢れ出る想いを止めたのは、お父さんの泣きそうな声だった。

「バカなこと、言わないでくれ。二葉が優衣のスペア? 腎臓をあげるために二葉を作った? そんなわけないだろう。優衣も二葉も二人とも僕たちにとって大切な娘だ。二葉、お前が生まれたときどんなに父さんと母さんが嬉しかったかわかるか? 君は僕たちの宝物なんだ」
「嘘!」
「嘘なもんか。優衣に元気になってほしい。二葉に笑っていてほしい。どちらも僕たちの心からの願いだよ」

 私は、何か間違っていたのだろうか。それとも、これは私をその気にさせるための嘘……? でも、目の前で涙を流しながら語るお父さんの言葉が嘘だなんて思えなかった。
 私は、愛されてる……? 本当に……?

「そんな想いを、させてたなんてごめんね」
「お母さん……」
「二葉は手がかからなくていい子で、そんな二葉に甘えすぎてた。本当に、ごめんなさい」

 お父さんとお母さんが私の目の前で涙を流す。こんなふうに私のことで、二人が泣くのを初めて見た。
 信じていいの? 私のことも愛してくれてるって。もう一度だけ信じても、いいの……?
 もう裏切られたり、しない……?

「お父さんとお母さんの型が合わなかった時点で、優衣には移植希望登録をしてある。二葉がそんなことをしなくても、ドナーの方が現れたら――」
「でも、他人よりも私の方が適合率が高いんでしょ?」
「それは、そうだが……」

 お父さんは歯切れ悪く言う。私が何を言おうとしているのかわからないとでもいうかのような表情だ。

「私、ねずっと死んでしまいたかった」
「なっ……」
「最後まで聞いて。お父さんもお母さんも私を愛してなんかいない。必要なのは健康な身体と腎臓だけで、お姉ちゃんさえ元気になれば私なんか用済みなんだとずっと思ってた。でもね、私が出会ったお母さんたちがみんな口を揃えて言うの。『あなたのご両親もきっとあなたを愛しているはずよ』って。ずっと信じられなかった。でも、信じてみたいってそう思ったの。私ね、お父さんのこともお母さんのことも、それからお姉ちゃんのことも大好きなの。だから、もしも私が腎臓をあげることでお姉ちゃんが元気になれるなら、ドナーになりたい」

 私の言葉を聞き終わるより早く、私の身体はお母さんに抱きしめられていた。いつぶりだろう。こんなふうにお母さんのぬくもりを感じるのは。

「愛してるに決まってるでしょう! 二葉も優衣も、私の大事な娘よ」
「ありがとう。あり……がと、あれ……なんで、涙が……」

 泣くつもりなんてなかった。でも気が付けば次から次へと涙が溢れ出て止まらない。いったいどうしてしまったんだろう。こんな子どもみたいに泣いたりして。

「ごめ……すぐ、泣き止むから……」
「いいのよ。こんなに辛い想いをさせて本当にごめんなさい」

 ああ、私は辛かったんだ。平気なふりして虚勢を張って、誕生日までに死んでしまいたいなんて言ってたけれど、本当は、本心ではこうやって抱きしめて愛していると言ってほしかったんだ。私は、私は……愛されたかったんだ。

「っ……くっ……ふっ……」

 私はそのままお母さんの胸の中で泣いて泣いて泣きじゃくった。そんな私をお母さんは優しく抱きしめて、お父さんは私の背中をずっと撫でてくれた。
 泣き止んだ私に、お母さんは同じように泣きはらした目を向けた。

「二葉が優衣のためにって言ってくれたのは凄く嬉しかった。でも、お母さんはそんなことをしなくても二葉のことが大好きだし大切なの。だから、ドナーの件は……」
「私ね、ずっと自分で決めることから逃げてた。服装だって学校だって本当はお母さんが言うのと違うことがしたくて。でも、ずっと言われたとおりにしてたらいいんだってそう思ってた。言うことを聞いていたって言えば聞こえはいいけど、実際は自分で自分の行動に責任を負うことから逃げてただけ。だから、今回は私が私の意志で決めたい。私の腎臓をお姉ちゃんにもらってほしい。そりゃ適合検査で不適合って出ちゃったら仕方ないけど、でももしも適合するなら、もらってほしい。それで、きちんとやり直したい」
「やり直すって、何を?」
「……家族になることを」

 本音で話してぶつかって、時には喧嘩をしたりして。そんな家族の一員に私もなりたい。
 こんなふうに思えるようになるなんて思ってもみなかった。でも、こんなふうに思えるようになった私は嫌いじゃない。前の私よりも今の私の方がちゃんと私を生きてるって思うから。

「先生にも相談しなくちゃならないし、検査の結果がどうなるかわからない。でも、それでも二葉がそう思ってくれてるって意志を尊重したいとお父さんは思うよ」
「お父さん……」
「でも、さっきお母さんも言ったとおり僕らにとって二葉、君も大事な存在なんだ。万が一、手術をすることで二葉に危険があるとしたら僕らはいくら二葉に怒られようと止める。わかってくれるね」
「うん、わかった」

 私の返事にお父さんは微笑む。いつの間にか目尻にはしわができ、口元にもほうれい線が見える。いかに私がお父さんやお母さんと向き合ってこなかったかを思い知らされるようだった。
 これから先、私たち家族がどうなるかはわからない。でも、わからないからこそ、今日ここが私たち家族の新しいスタートラインなんだと、そう思った。


 翌日、私は学校が終わってからレイ君のところへと向かった。レイ君は青白い顔で鉄橋にいた。以前よりもずっとずっと薄くなった身体は、もう時間がないと叫んでいるかのようだった。

「レイ君」
「二葉」
「レイ君、大丈夫?」
「わからない。でも、さすがの俺にもわかる。自分の身体が消えかけてることが」

 レイ君は空に手をかざす。その手にもうほとんど色は残っていなかった。
 このままじゃダメだ。このままレイ君が消えるなんて嫌だ!

「ねえ、レイ君。私はレイ君に生きていてほしい」
「またその話。二葉は勝手だ。自分にできないことを俺にさせようとする。今更生き返って何になるっていうんだ。優一は自殺じゃないって言ったかもしれない。でも、俺はあのときたしかにこのままここから飛び降りたら楽になるってそう思ったんだ。いじめからも受験からもそれからいい奴でいることからも逃げてしまいたいってそう思ったんだ!」

 それはレイ君の悲痛な叫びだった。こんなに戻りたくないと言っているレイ君に生きてほしいと言うのは私のエゴじゃないだろうか。自分さえよければそれでいい? そんなことない。そんなことない、けど。

「でも、私はレイ君に生きてほしい。レイ君言ってくれたよね。私が自分の意志で選んでいいんだって。だから私はレイ君に望むよ。生きてくれることを」
「だけど……!」
「私ね、昨日両親と話をしたんだ」
「え……?」

 私の言葉にレイ君は驚いたような表情を浮かべた。まさかそんなことを言われると思わなかったのだろう。思わず「ふふっ」と笑ってしまった。

「話って……」
「これからのこと、それからこれまでのこと。ねえ、レイ君。私、お姉ちゃんに腎臓をあげる。そう決めた」
「それで、二葉はいいの?」
「うん。……正直なことを言うと、今までも私のことを愛してたって言う両親の言葉に都合がいいなって思うこともある。蔑ろにしてお姉ちゃんを優先してたことに変わりはないから。でも、私に甘えてしまってたって謝る両親に、仕方ないなって思っちゃった。それにね、ここでたくさんの人と出会って、生きていくことの苦しさや、それでもたくさんの人が立ち向かっていることを知った。だから私は生きるよ。死ぬことをやめる。でも、そのときは隣にレイ君にいてほしい。こうやって」

 私は鉄橋の手すりに置かれたほとんど消えかかったレイ君の手のひらに、自分の手のひらを重ねた。ぬくもりなんて感じない。伝わってくるのは手すりの冷たさだけ。

「レイ君の手に触れたい。レイ君と一緒に、生きたい」
「二葉……」
「ねえ、レイ君。私は勇気を出すことに決めたよ。でも、この選択ができたのはレイ君。あなたと出会えたからだよ。あなたが私を変えた。あなたがいたから、私は強くなれた」
「俺はなんにもしていないよ。強くなれたというのなら、二葉はもともと強かったんだ。ただ、それを表すすべを知らなかっただけで」

 レイ君は震える手で私の頬に触れる。触れようとする。けれど、どうやっても触れられない手は、私の頬まであと数ミリのところで止まった。

「俺なんかよりも、二葉はよっぽど強いよ。俺は、その選択をすることが、まだ怖い」
「レイ君……」
「でも、俺も強くなれるかな」
「なれるよ。一緒に二人で強くなろう」

 私の言葉に、レイ君は小さく頷いた。消えかけた瞳から、ひとしずくの涙がこぼれ落ちるのが見えた。
 そんなレイ君に、私は私なりの決意を告げた。

「私、もうここには来ない」
「うん」
「移植の準備も始まるしね。これから検査とかして、忙しくなると思うから。だから、次はレイ君が私に会いに来て。そのときまでこれ、預かっておくから」

 私はポケットから取り出したあのストラップをレイ君に見せる。一瞬、驚いたような表情を浮かべて、そのあと困ったように笑った。

「それ、持ってたんだ」
「持ってた。本当は返しに行こうと思ってたけど、やめた。人質ならぬ物質ね。返してほしかったら必ず会いに来ること。わかった?」
「わかった」
「来なかったら、返さないんだから」
「ああ」
 
 泣かない。泣くもんか。
 きっと、きっとレイ君は会いに来てくれるって信じてるから。
 でも、どうしても溢れそうになる涙に、私はレイ君に背中を向ける。そんな私の身体を、レイ君は消えかけた腕で包み込むように、後ろからそっと抱きしめた。

「約束する。必ず会いに行く」
「絶対だよ」
「ああ、絶対にだ」
「約束は必ず守らなきゃなんだからね」
「わかってる。言っただろ? 二葉とした約束は絶対に守るって」

 レイ君は泣きそうな顔で笑うと、小指を差し出した。
 絡まることのない指切りをして――そうして、私たちは別れた。
 出会った頃と同じ青く輝く月明かりの下で。
 レイ君と別れてからの三ヶ月はあっという間だった。私がドナーとなるための検査や未成年ということもあり誰かに強制されての移植ではないか、ということの確認などがあった。その間、何度も両親からは『やめてもいいんだよ』『無理しなくてもいいんだよ』と言われたけれど私は首を縦に振らなかった。
 お姉ちゃんからは『そんなこと望んでいない』と泣かれてしまったけれど、最終的に私の意志が固いとわかったのか諦めたようだった。


 本当に不安がないか、と言われたら嘘になる。ドナーになるにあたってたくさん受けた説明の中には移植といえど手術は手術。全身麻酔でおこなわれるから万が一のことがないとは言えない、と先生に言われた。
 レイ君と出会う前の私は、死ぬことなんて怖くなかった。早く死んで全てから解放されたいとそう思っていた。
 でも、今の私は違う。今まで流されるままに生きてきたけれど将来についても考えたい。行きたいところもある。大切にしてくれる家族もいる。それから、もう一度会いたい人もいる。だから、死ねない。死にたくない。
 私の顔色が変わったのがわかったのか、先生は優しく微笑んだ。

「移植の予定日までまだ一ヶ月あります。もう少し考えましょうか」
「でも……!」
「移植はね、ドナーとなってくれる人にほんの少しでも不安や迷いがあればしない方がいいんです。今回はレシピエント《臓器移植希望者》がお姉さんということもあってマイナスなことは言いにくいかもしれない。でも、あなたには「したくない」という権利があるの。前日でも手術当日でも、それこそ手術室に行く直前まで、あなたには「やっぱり無理という権利があるのよ」

 先生の言葉は優しくて、私のことを心配してくれているのがわかって、それ以上何も言えなかった。
 お姉ちゃんのところへ行ってから帰るという両親と別れ、私は一人病院の屋上へと向かった。お昼過ぎから話を聞いていたはずなのに、いつの間にか空には月が昇っていた。
 ここからだと、レイ君と一緒に過ごした鉄橋がうっすらと見える。彼はまだあそこにいるのだろうか。もしかしたらあのまま消えてしまったのかもしれない。きっと会いに来てくれると信じているけど、たまに無性に不安になるときがある。

「レイ君、今何をしてるの」

 私はポケットから取り出したレイ君のストラップを握りしめた。預かったままのストラップ。いつか本当に返せる日が来るのだろうか。

「レイ君、遅いよ。早く来てくれないと、私――」

 夜空に輝く青い月に願いを込める。早くレイ君が目覚めますように、と。

「うん、大丈夫」

 私は顔を上げた。いつかレイ君が目覚めたときに、恥じない自分でありたい。そのためにも、自分で決めたことをきちんと終わらせよう。他の誰でもない、これは私が決めたことなんだから。

「待ってるからね」

 そう呟くと、私は屋上を後にした。誰もいなくなった屋上を、青い月が優しく照らしていた。


 先生に移植についての説明を再開してもらい、そしてあっという間に手術の日はやってきた。数日前から入院していた私は、手術着に着替えるとお姉ちゃんの部屋へと向かった。これから私たちは隣り合った部屋で手術を受けるそうだ。

「緊張してる?」
「まあね。お姉ちゃんは?」
「少しだけ。でも、隣の部屋に二葉がいてくれるから」

 これでようやくお姉ちゃんの入院生活が終わるんだ。そう思うと、やっぱり嬉しくて仕方がない。結局、私はお姉ちゃんのことが大好きなんだ。
 私はいつかした質問を、もう一度投げかけた。

「ねえ、お姉ちゃん。退院したら何がしたい?」
「んー、二葉と一緒に出かけたい」
「私と? ってか、お願い事は叶うまで秘密なんじゃなかったの?」
「もういいの。それにこれはお願い事じゃなくて、未来の予定だから」
「未来の予定?」

 思わず聞き返した私に、お姉ちゃんは優しく笑いながら頷いた。
 
「そう。未来の予定。願望なんかじゃなくて、必ず元気になって二葉と出かけるっていう未来の約束」
「約束、か。なら、守らなきゃね」
「うん、約束は必ず守らなきゃ。私ね、二葉にお姉ちゃんらしいことなんにもできなかったから。これから先、二葉が困ったり大変なことがあったりしたとき真っ先に手を差し伸べたい。だって、私はあなたのお姉ちゃんなんだから」

 お姉ちゃんの目に涙が浮かんでいるのが見えて、私はそっと手を伸ばすと涙を拭うと小さく笑った。
 
「お姉ちゃんなのに泣いてるじゃん」
「あ……。ホント、情けないお姉ちゃんだよね」
「でも、そんなお姉ちゃんが大好きだよ」
「私も、二葉のことが大好きよ」

 コンコンというノックの音が聞こえて看護師さんが私たちを呼びに来た。
 ストレッチャーに乗せられて私たちはそれぞれ運ばれていく。

 ねえ、レイ君。あなたに出会えて私の、ううん。私たちの未来は変わった。
 ねえ、レイ君。今、あなたはどこにいますか? まだあの鉄橋で一人、青い月を見つめていますか?
 ねえ、レイ君。私、待ってるから。あなたが会いに来てくれる日を――。


 12時間にわたる手術は無事成功した。お姉ちゃんよりも早く病室に戻った私は、目が覚めると今まで感じたことのない痛みに襲われ、そして手術が終わったことを実感した。
 あの日から一週間。ようやく今日、私は退院だ。
 お姉ちゃんはもう少し入院しなければいけないらしいけど、あと一週間ぐらいで家に帰ってこられるだろうと担当の先生が話していた。
 レイ君と出会った頃は秋の終わりだった空も、すっかり冬の空に変わっていた。春が来て夏が過ぎまた秋が来る頃にはレイ君と再会できているのだろうか。
 荷物をまとめてあとはお母さんが迎えに来てくれるのを待つだけ。そう思っていた私の耳にノックの音が聞こえた。お母さんだろうか? それとも看護師さんが何かの説明に?

「はーい」

 返事をするけれど、ドアは開かない。どうかしたのかと、私は座っていたベッドから降り、入り口へと向かった。

「なにかありま、し……た、か」
「――久しぶり」

 そこには車椅子に乗ったレイ君の姿があった。鉄橋にいた頃の透けた顔でもなく、病室で眠っていた青白い顔でもない、一緒にいた頃より少し大人びた表情でレイ君がいた。

「レイ、君」
「その名前は、もうやめてよ」
「レイ君!!」

 苦笑いを浮かべるレイ君に、私はかまわず抱きついた。車椅子の上で体勢を崩しそうになりながらも、私の身体を抱き留めるとレイ君は優しく背中を撫でた。

「ただいま、二葉」
「おかえり! レイ君!」

 ギュッと抱きしめたレイ君――ううん、遠矢君の身体は温かくて、優しかった。心臓の音が伝わってくる。ああ、生きてる。遠矢君が生きてる。生きてるんだ。
 初めて触れた遠矢君の身体は、少し骨っぽくて、どこか弱々しくて、でもちゃんと生きている人間のそれだった。

「やっと、二葉に会えた」
「いつ、意識が戻ったの?」
「一ヶ月ぐらい前かな。二葉が鉄橋に来なくなってからもどうしても動き出せなくて。でも、一ヶ月ぐらい前のある日、なぜか二葉に呼ばれた気がしたんだ」
「一ヶ月前……もしかして」

 それは私が屋上で一人、レイ君のことを考えていたあの日だった。不安に駆られて、でもレイ君に恥じない自分でいたいとそう思い直したあの日。

「それで、二葉に会いたいって思ったんだ。もう一度、二葉に会ってそれでこの手で二葉に触れたいって」
「私も、ずっとレイ君に触れたかった」

 私たちは顔を見合わせて笑った。いつの間にか、私たちの頬を涙が伝い落ちていた。

「手術は無事終わったの?」
「うん、お姉ちゃんはもう少し入院が必要だけど私は今日退院だよ」
「そっか。……強くなったね」
「そうかな?」
「うん、もう俺なんていなくてもいいぐらいに」

 寂しそうに微笑むレイ君に私は首を振る。そして、ポケットの中からあのストラップを取りだした。

「これ……」
「私のそばにはずっとレイ君が、遠矢君がいてくれたよ。これがあったから頑張れた。不安なときも、寂しいときも、ずっとこのストラップが私を支えてくれていたよ」
「二葉……。俺も同じだ」

 レイ君は入院着のポケットから何かを取り出すと私に差し出した。
 それは、私がまだ意識が戻らない遠矢君の手に握らせた空色のストラップだった。

「目が覚めて、これが手の中にあったからビックリしたよ。でも、それと同じぐらい二葉の存在を近くに感じられて胸の奥が温かくなった。目覚める前も、目覚めてからもこれがあることで二葉と繋がってるようなそんな気持ちになれたんだ」
「レイ君……」
「もう俺はレイじゃない。遠矢って呼んでよ」
「遠矢、さん」

 その呼び方は照れくさくて、でももう彼が幽霊じゃないのだと思い知らせてくれる。
 彼は幽霊のレイ君じゃなくて、生きている遠矢君なんだ。
 
「でも、優一がビックリしてたよ」
「え?」

 何かを思い出したように遠矢君がくつくつと笑う。唐突に出てきた優一さんの名前に私の頭にはクエスチョンマークが浮かぶ。そんな私に、遠矢君は笑いをかみ殺しながら説明してくれた。

「二葉、優一と一緒に俺に二葉が持ってる方のストラップを持ってきてくれてたでしょ? なのに、目覚めた俺が持ってるストラップがそのときのと変わってて、川のそばにずっとあったから変色したのか、とか俺が握りしめ続けてたから色が変わったのかとかなんか色々言って唸ってた」

 優一さんも、まさかストラップが入れ替わってるとは思わなかったのだろう。そのときの様子を思い浮かべて申し訳ないやらでもバレなくてよかったやら複雑な気持ちになる。
 けれど、そんな私の気持ちになんて気づくことなく、遠矢君は言った。

「俺は目覚めたときにあったのが、二葉のこのストラップで嬉しかったけど」
「そんなこと言ったら優一さんガックリしちゃうよ」
「まあね。あ、そうだ。二葉に俺、言い忘れてたことがあって」
「え?」

 身体を離した私に、遠矢君は思い出したように言う。忘れていたこと? 何か、あったっけ。
 不思議そうな顔をする私に、遠矢君は優しく微笑んだ。

「遅くなっちゃったけど、18歳の誕生日おめでとう」
「っ……ホントに、遅いよ」
「あの日言いそびれたから。ねえ、二葉。今更だけど誕生日プレゼント贈らせてよ。何がいい?」

 そんなの決まってる。

「遠矢君と、二人で出かけたい。鉄橋じゃなくて、その向こうに続く場所に、二人で」

 私の答えに遠矢君は嬉しそうに微笑む。
 いつか二人で出かけよう。青い空の下を、降り注ぐ太陽の光の下を、二人で手を繋いで。
 数ヶ月後、私は一人あの鉄橋の上にいた。私たちの始まりの場所に。
 レイ君と出会った頃は紅葉が舞っていた川も、今では桜の花びらが舞い散っている。
 レイ君と過ごしたあの四週間は、私にとってかけがえのない宝物だ。
 
「なんて、もうレイ君はいないのにね」
「勝手に殺すな」
「遠矢君。検査は終わったの?」

 いつの間に来たのか、遠矢君は私の頭を小突くと隣に並んだ。こうやって一緒にいると、まるであの日々に戻ったみたいだ。

「ああ。後遺症とかも残ってないし、もう大丈夫だろうって」
「そっか、よかった」

 二年間も眠り続けていたのに、後遺症の一つもないなんて奇跡のようだと先生が言っていたという話を遠矢君から聞いた。ただどうしても筋力の低下は免れなかったようで、この数ヶ月の間、遠矢君はリハビリに励んでいた。
 
「そっちは? お姉さん、その後どう?」
「もう元気が有り余ってるって感じで、うるさくて仕方がないよ」

 型が一致したことが幸いしたのか、拒絶反応もほとんどなく、その後の生活は一変した。今まで不自由に暮らしていた反動なのか、お姉ちゃんはいろんなところに行きたがった。それに付き合わされたせいで、遠矢君と遊びに行く約束もなかなか果たせなかった。そう文句を言った私に、遠矢君はおかしそうに笑った。

「ふーん? でも、困ってるって感じでもないね」
「まあ、ね。こんなふうにお姉ちゃんと出かけたり家族みんなでわいわいするってことなかったから、今は凄く家族してるなーって思う」
「そっか。二葉が幸せそうでよかった」

 伸びを一つすると、遠矢君は私に手を差し出した。

「それじゃあ行こうか」
「うん」

 その手を取ると、私たちは手を繋いで歩き出す。
 悲しい思い出は全て鉄橋に置いて、前を向いて歩いて行こう。
 繋いだ手の中には、まだ見ぬ未来が待っているのだから。

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