真っ暗な夜空に、青い月だけが光り輝いている。夏はもう終わるというのにじっとりと汗ばむような気温。それとは対照的に、手のひらが掴む手すりはひんやりと冷たかった。
 さあ、ここから飛び降りて終わりにしよう。
 鉄橋から下を覗き込むと、ずいぶんと流れが速い川が見えた。数日前に過ぎ去った台風のせいで増水し、流れも激しくなっているとテレビで甲高い声のアナウンサーが言っていたのを思い出す。これならきっと、助け出されることもなく逝けるはず。
 私の胸元まである鉄橋の手すりに、まるで鉄棒にするかのように勢いをつけてのり上がると、街の明かりが見えた。マンションやビルに混じって、薄気味悪いほど真っ白で――そして何かを飲み込むように真っ暗なあの病院も。
 吐き気がする。でも、それももう終わりだ。ここから飛び降りれば楽になれる。
 足をかけて手すりの上にのぼるとそのまま、身を――。

「ねえ、何をしてるの?」
「っ……」

 その声に心臓が止まるかと思った。そして……。

「あっ……」

 バランスを崩した私は、そのまま落ちた。鉄橋の向こう側、ではなく先ほどまで立っていたコンクリートでできた橋の上に。

「いったぁ」
 
 尻餅をついて顔を上げると、その人は私を見下ろすようにそこにいた。真っ黒の学生服のズボンに白いシャツを着た男の子は、少し茶色の髪の毛が月明かりに照らされて向こう側が透けて見えた。
 ……透けて?

「え? 何? どういうこと?」
「ああ、君は俺が見えるんだね」

 にっこりと笑うと、その子は透けた手を私に差し伸べる。思わずその手を取ろうとした私の手は宙を掻いた。
 確かにその手を取ったはずなのに、どうして? まさか、そんな……。

「もしかして、ゆう、れい?」
「大正解」
「嘘……」

 思わず口をついて出たその言葉を、すんなりと肯定されてしまうと私はどうしていいかわからなくなる。だって、幽霊なんてそんなのいるわけない。いるわけないのに……。
 目の前に立つその子は相変わらず透けていて、その身体の向こうにあるはずのビルや街明かりが遮られることなく私の目に映る。これはいったいどういうトリックなのだろう。もしかしたらあの服に何か仕掛けがあって、そういうふうに見えているのかもしれない。でも……。
 私は、目の前の男の子の指先を凝視する。さっき、確かにあの手に触れたと思った。なのに、私の手は何を掴むことなく――宙を掻いた。あれは、いったいどういうこと?

「ね、君って自殺しようとしたの?」
「……あなたに関係ないでしょう」

 なんとなく気まずくて視線をそらす私に、目の前の――透けた男の子は小さく笑った。
 とはいえ、ここは有名な自殺スポットだ。そんな場所でこんな時間に鉄橋から身を乗り出している、なんて自殺しようとしてましたと言わんばかりなのはわかっている。でも、それを見ず知らずの男の子に言う必要なんてどこにあるというのだ。
 
「否定しないんだね。まあ、たしかに君がここで自殺しようがしまいが俺には関係ないんだけど。でも、ここで自殺すると俺みたいになるよ」
「え?」
「幽霊ってこと」
「本当に幽霊なの?」
「君だってさっきそう言ったでしょ」
「それは……!」

 そんなふうにヘラヘラと笑うから信じられないんだと、喉まで出かかったけれどやめた。
 改めてまじまじと目の前の男の子を見る。確かに身体が透けていて、その手に触れることはできなかった。でもだからって、幽霊なんてそんな非科学的なこと……。

「あっ、今、幽霊なんて非科学的だ、とか思っただろ」
「ど、どうしてわかったの?」
「ここで会うやつのなかで俺の姿が見えたり声が聞こえたりするのが100人中5人ぐらい。その中ですんなり信じるのが一人、君みたいに非科学的だって思うのが一人」
「あとの三人は?」

 興味本位で思わず尋ねてしまったことを後悔したのは、目の前の男の子が私の反応にやけに嬉しそうな反応をしたから。

「一人は無視して飛び込む。あとの二人はびっくりして逃げ帰っちゃう」
「そう」

 逃げ帰るだなんて、その人たちの自殺しようとした意思はその程度のものだったってことだ。私は違う。私は……。

「でも、こんなふうに俺のことを怖がるでもなくしゃべり続けてくれる子は珍しいよ」
「別に。あなたなんて怖くないもの」
「そうなの?」

 幽霊なんかよりも怖いものがあることを私は知っている。だから、怖くなんかない。

「ねえ、なんで自殺なんてしようとしたの?」
「それ、あなたが言う?」
「俺だから言うんだよ。ちなみにここで自殺する人の中で一番多いのはね、やっぱりいじめかな。女の子だと失恋なんて子もいたけど」
「馬鹿にしないで。そんなんじゃない。私は、そんなちっぽけな理由じゃないの」
「ちっぽけ、ね」

 吐き捨てた私の目の前で、幽霊の顔色が変わった気がした。幽霊に顔色があるかなんてわからないけど一瞬、顔をしかめたようなそんな気が……。

「あの……」
「じゃあ、どうして自殺しようとしたの?」

 だから、さっきまでと同じトーンで幽霊がそう言ったことにホッとして、気づけば私は本音を口にしていた。

「臓器をあげたくなかったから」
「え?」

 こんな見ず知らずの幽霊に、こんなこと言うつもりなんてなかったのに。自分自身でもどうして言ってしまったのかわからない。でも、さっきの表情がまるで傷ついているように見えたから。
 
「それってどういう?」
「あそこに病院があるの、見える?」

 私の言ったことの意味が理解できなかったのか、幽霊は首をかしげながら尋ねた。私は仕方なく真っ暗闇の中、青白く光るその施設を指さした。私たちが住む街で一番大きな大学病院。あそこに私のお姉ちゃんは入院している。小さな頃から、何度も何度も。それこそ、家族で過ごした時間よりもずっと長く。

「知ってるよ。K大附属病院だよね。それがどうかした?」
「あそこに、私のお姉ちゃんが入院してるの」
「……そっか」
「それ以上、聞かないの?」
「臓器をあげたくないってことは、そういうことなんだろ?」

 幽霊の言葉に、私は頷いた。
 私の二つ上のお姉ちゃんは小さな頃から腎臓が悪かったらしい。すぐに具合が悪くなるし、運動だってできない。それでも入退院を繰り返しながらなんとか生きてきたけれど……。

「もう長くないんだって」
「そっか」
「助かる道は腎臓移植しかないって」

 お姉ちゃんのために何でもしてきた両親だったけれど、型が合わずに腎臓をあげることはできないと泣きながら話しているのを聞いてしまった。調べてみると両親よりは確率は下がるけれど、妹である私も適合する可能性は高いらしい。

「冷たいって思う? 姉が死んでしまうかもしれないのに、なのに臓器をあげたくないなんて」
「でも、それと自殺とどういう関係が?」
「……お姉ちゃんのことが嫌いなの。でも、お父さんとお母さんからどうしても頼むって言われたら、きっと私は断ることができない」

 お姉ちゃんのために腎臓を差し出せば、きっと両親は喜ぶだろう。泣いて喜んで私を褒めてくれるかもしれない。でも、そのあとは? 差し出して、お姉ちゃんが元気になったら、両親にとって私は不必要な子になってしまうんじゃないかって、怖くて怖くて仕方がない。

「断ったとしても、ご両親が君を愛していることに変わりは――」
「そんなことない!」

 気付けば、大声で幽霊の言葉を遮っていた。
 この人は何にも知らないからそんなことが言えるんだ。だって、だって……。

「私はね、お姉ちゃんのスペアなの」
「スペア?」
「そう。お姉ちゃんに腎臓をあげるためだけに作られたの」
「誰がそんなことを……」
「みんな言ってるよ。親戚もお姉ちゃんの友達もみんな「早く二葉が大きくなって優衣ちゃんに腎臓をあげてくれたら優衣ちゃん元気になれるのにね」って言ってる。健康な腎臓が二つあるからいいでしょって。みんな綺麗で優しくて頭がいいお姉ちゃんが大好きだから、出来損ないのスペアの私はさっさと腎臓をあげてお姉ちゃんを元気にさせてあげなきゃって!」

 法事や結婚式で親戚が集まると私がいないところで話しているのを何度も聞いた。別に死ねって言ってるわけじゃないから酷いことを言っているつもりもないんだと思う。二つあるうちの一つをお姉ちゃんにあげればいいのよ。あなただってお姉ちゃんが元気になってほしいでしょう? 私に直接言ってきた人もいた。でも、そんなのまるで私はそのために存在してるみたいで、私という存在を否定されているみたいで……。

「だから、私は自殺するの。この身体は全部私のものだから。たった一つだってお姉ちゃんになんてあげない」
「でも、死んだら逆に臓器をとられるかもしれないじゃないか」

 目の前のこの人は、私が死ぬのを止めたいのだろうか。自分だってここで死んだくせに勝手な話だ。
 私は幽霊の言葉を鼻で笑うと口を開いた。
 
「知ってる? 親族間で移植希望者がいる場合、自殺した人間からは臓器提供ってできないの」
「そうなの?」
「私自身が希望したり脳死とかで本人の意思に関係なく家族が同意したりしたら臓器提供できることはあるけれど、自殺した人間からは持っていけないことになってる。だから、私は死ぬの。臓器提供が可能になる十八歳になる前に。それがスペアとして私を作った両親への最大の仕返しだと思うから」

 十八歳の誕生日まであと四週間。数年前にルールが変わって、未成年者からの臓器提供が十六歳から十八歳へと引き上げられたと知ったときはホッとした。これで猶予ができたと。でも、その十八歳の誕生日ももう目前に迫っている。早く、早く死ななければ。

「ね、誕生日いつ?」
「え?」
「だからさ、いつ十八歳になるの?」
「今月の……二十八日だけど」

 今日が十月一日。誕生日は十月二十八日だ。もうたった四週間しかない。移植手術の説明を、そして事前検査を誕生日の日から始めるのだとしたら、そろそろ両親から私に話があるかもしれない。その前に死ななければいけないのだ。
 でも、それがどうしたというのか。

「じゃあさ、君の残りの時間を俺にちょうだいよ」
「は?」
「だから、十八歳までに死ななきゃいけないんだったら、別に今日じゃなくて誕生日の日でもいいわけでしょう? なら、死ぬはずだった君の時間を俺にちょうだい」
「なんで、そんなこと……!」
「だってさー、俺ここで毎日ひとりぼっちで退屈なんだよ。君みたいに俺のことを見えるやつばっかじゃないから誰かと話をすることもできない。かといって、あの世にいくこともできなくて結局ここで毎日が過ぎ去っていくのを待つことしかできないんだ」

 そんなの、ここで自殺したあんたが悪いんでしょう。そう言いたかった。でも、口からついて出たのは全く逆の言葉だった。

「別にいいよ」
「ホントに!?」

 それはほんの気まぐれだった。ホントは幽霊の言葉なんて無視して飛び降りてもよかった。でも、どうしてか私のことを引き留めてくれた彼の言葉に、頷いてしまっていた。

「だって、どうせ今すぐここから飛び降りようとしても、飛び降りる寸前までごちゃごちゃ言われそうだもん」
「やった!」

 私の返事に、幽霊は顔をくしゃっとさせて笑った。
 その笑顔は月明かりに照らされて、青白く輝いていた。
 それを気持ち悪いでも不気味でもなく、「綺麗……」なんて思ってしまったから、私の中の美的感覚は狂っているのかもしれない。

「それじゃあ、四週間。君の誕生日までよろしく」
「よろしく」

 差し出された手を握りしめようとして――幽霊の手は私の手のひらをすり抜けていく。

「うわ……。これ、気持ち悪い」
「そのうち慣れるよ」

 ケラケラと笑う幽霊にどういう反応を返すのが正解かわからず、曖昧に笑うことしかできなかった。
 そんな私に、幽霊は思い出したように言った。

「そういえば、君の名前は?」
「私は、水無瀬《みなせ》二葉《ふたば》」
「二葉か。かわいい名前だね」
「そういうあなたは?」
「俺? レイだよ」
「レイ? 幽霊にぴったりの名前だね」

 ちょっと嫌味っぽかったかな。そう思いながらそっとレイ君の顔を見ると彼は笑っていた。その笑顔の意味がわからなくて、首をかしげた私に彼は言った。

「だって、幽霊のレイから取ったんだもん」
「どういうこと?」
「俺、ここから飛び降りて死んだってこと以外、自分のことを覚えていないんだ。自殺した理由も、年齢も、どこの誰かってことも」
「そう、なの……?」
「まあ、自殺するような人生なんだから忘れたとしても何の問題もないんだと思うけどね。でも何も覚えてないってのはこう、胸の中が空っぽになったような気がして……。それこそ君の言うとおり、幽霊の俺にはおあつらえ向きなのかもしれないね」

 レイ君は笑う。でも、その笑顔がどこか寂しそうに見えた。

「じゃあ、私が死ぬまでの四週間のことは覚えておいてよね」
「え?」
「そしたら、空っぽじゃなくなるでしょ」
「そう、かな」
「そうよ」
「そっか」

 そう言ってはにかんで笑うレイ君の顔が、さっきまでよりも明るく見えて嬉しくなる。
 こんなふうに人と話をしたのはいつぶりだろう。この人の前では、私は私でいられる気がする。出会ってまだ数時間も経っていないのに不思議だ。
 
「そろそろ帰らなくてもいいの?」
「……そうだね」

 死なないのなら、帰らなければいけない。誰も待つ人のいないあの家に。
 ああ、でもこの時間ならもうすぐお母さんが帰ってくるかな。それはそれで気が重い。

「……じゃあね」
「ああ。それじゃあ、また明日」

 重い気持ちを吐き出すように言った私に、レイ君は笑顔で手を振った。手を振り返しながらも帰ってからのことを考えると憂鬱になる。そんな気持ちを、レイ君にぶつけるようについ意地悪なことを言ってしまう。
  
「明日来るなんて言ってないでしょ」
「じゃあ来ないの? つまんないの」
「……来ないとも言ってない」

 でも、レイ君の反応があまりにも素直で毒気が抜かれる。
 だからわざと素っ気なく言うと、私はレイ君に背を向けた。そんな私の後ろからレイ君の「待ってるからね」と言う声が聞こえて、少しだけ胸の奥がくすぐったくなるのを感じた。


 レイ君と出会った鉄橋から歩いて十五分のところにある閑静な住宅街の中に、私の住む家はあった。普段は真っ暗な家に帰るけれど、今日はいつもよりも遅いこともありすでに部屋には電気がついていた。
 どうやらお母さんが先に帰ってきているようだった。

「ただいま」

 玄関のドアを開け、リビングにいるお母さんに声をかけると、夕食を作っているのだろうか。水の音に混じって「おかえりー」と言うお母さんの声が聞こえた。

「あ、そうだ二葉」

 そのまま二階に上がろうとした私を、お母さんが引き留めた。
 普段よりも帰ってくる時間が遅かったことに対して小言を言われるかもしれない。そうしたらなんて言おうか。友達と喋ってた? 本屋に寄ってた? それとも――。

「あなた今日、お姉ちゃんのところ行ってくれなかったの?」

 でもお母さんが気にしていたのは、そんなことではなかった。
 私がどこで何をしていたか、なんて些細なことよりもお姉ちゃんの洗濯物を持って帰ってきたかのほうが気になる。どうしてお姉ちゃんのところに行かなかったのか、それにしか関心はないのだ。

「っ……忘れてた!」
「えー? 頼んでたでしょー? もう、それならママが寄ってきたのに」

 ブツブツと文句を言うお母さんの言葉を無視して、私は二階にある自分の部屋へと階段を駆け上った。真っ暗な部屋の電気をつけて勉強机に投げるようにして鞄を置くとベッドに飛び込んだ。
 嫌だ、嫌だ。
 私のことなんて何にも見てない、それなのにあなたも大事なのよなんて上辺だけの言葉を吐く両親が嫌で仕方がない。
 いっそのこと、病気になったのが私だったらよかったのに。そうしたらお父さんもお母さんも、私のことを大事にしてくれたのかな。

「ふふ……そんなのあり得るわけないし……わら、える……」

 笑いたいのに、涙が出る。
 まるで私が病気になっていたとしても両親が大事だったのはお姉ちゃんだけだって、そう自分自身の心が叫んでいるかのようで、悲しくて情けなくて、それから寂しかった。

「ああ、そっか」

 だから私は、レイ君の言葉が心地よかったんだ。お姉ちゃんを知らないレイ君は私自身を見てくれている。そんな気がして。

「幽霊、か」

 いったいどんな気持ちであそこにいるんだろう。誰にも気付かれることなく、誰にも干渉することなくあの場所にずっといる彼は……。

「なんだ……私と、変わらないじゃない」

 生きているのに、まるで誰からも必要とされず、ただただスペアとしての存在として生かされているだけの私と変わらない。そんな事実に涙があふれてくる。別に悲しくなんてないはずなのに、わかっていたことのはずなのに。どうしてか涙が止まらない。チクリと痛む胸を包み込むように膝を抱えると、私は頭から布団をかぶった。