顔を上げた七海が、まっすぐに俺を見た。
ぐしゃりと歪んだ、今にも泣き出しそうな顔で。
泣き顔なんて飽きるほど見てきたはずなのに、なぜだかこんな表情ははじめて見た気がして、一瞬、息が詰まった。
「ひとりじゃなにもできないって。わたしなんか、どうせ頑張っても無駄だって」
「だって、そうだろ」
投げつけるように向けられた言葉に、こっちも投げ返すように答える。
睨むような彼女の目に、ますます頭に血がのぼっていくのを感じた。息がしにくい。
「実際できてないじゃん、お前。ひとりじゃなんにも」
「でも、頑張ってるじゃん」
間を置かず、七海が突っ返す。右手が挙がって、ぐしゃっと自分の前髪を握りしめた。
「なんで認めてくれないの。わたしだって、昔からなにも変わってないわけじゃないよ。身体も昔より強くなってるし、生徒会の活動もちゃんと休まずやれてる。体育もいつもは大丈夫なんだよ。今日はたまたまちょっと調子が悪くて、でもこんなの、十回に一回ぐらいで」
「だから、十回に一回でも調子悪くなるんなら参加すんなって、俺はそう言ってんだよ、ずっと」
「なんで? そんなこと言ってたら、わたし、これからもなんにもできないよ」
「なんにも」
――できなくていいだろ。
口をつきかけた言葉に、はっとした。
それを言ってはいけないと、まだ少しだけ残っていた頭の片隅の冷静な部分が押し止めた。
だって、それは。
「十回に一回体調崩すぐらい、どうってことないんだもん。それで夜に熱が出てもぜんぜんつらくない。頑張れたって証だから。それより、体育を見学してるほうがつらいの」
「意味わかんねえ。なんでたかが体育でそこまで」
「わかんないのは、かんちゃんが健康だからだよ。ずっと、当たり前みたいに体育ができてきたから」
言い返した七海の声には、ほんの少し、憎々しげな色があった。
「はあ?」だからそれに引っ張られるように、俺の口調もますます刺々しくなっていく。
「なんだよそれ。俺がなにをわかってないって」
「みんなを外からひとりで眺めてるとき、自分だけ、みんなと違う不良品なんだって突きつけられるあの感じとか。そんなの、かんちゃんにはぜったいわかんないよ。かんちゃんは不良品じゃないんだから」
「じゃあ、あいつは」
口を開くと、呼吸が少し荒くなっているのに気づいた。
「樋渡は、わかってくれんのか。そういうのも、ぜんぶ」
「わかってくれるよ」
答えは、みじんの迷いもなく返される。
挑むような視線を、七海は俺から外さないまま
「卓くんは知ってるから。わたしの、そういう寂しさとかつらさとか。だから頑張れって言ってくれる。見守ってくれるの」
「……そんなの」
誰だって言える。七海の身体の弱さを知らなければ。
あいつは、知らないだけだ。
知らないから、ただ無責任に背中を押すことだってできるだけで。そんなのは優しさでもなんでもない。ただ、彼女を崖から突き落とすようなもので。
「わたしを生徒会に誘ってくれたのも、卓くんなんだ。卓くんは」
なのに七海は、それを心底大事に抱えるように、言葉を継ぐ。
「わたしの世界を変えてくれたの。わたしも、ひとりでできるんだって。頑張れるんだって。そんなふうに、わたしのこと、対等に見てくれるから」
「……なんだよ、それ」
俺は身体の横で両手をぐっと握りしめた。そうしていないと、思わず手が出そうだった。
「じゃあ俺は、お前のこと対等に見てないって?」
「見てないよ」
苦しげに眉根を寄せた七海が、顔を伏せる。
「だって、かんちゃんは」
そうしていちど、強く唇を噛みしめてから
「……わたしのこと、見下してるもん。ずっと」
これまで積み上げてきたものを壊すように、言った。
「そういうの、わかっちゃうんだ。わたしがかわいそうだから、ずっと手助けしてくれたんだよね、かんちゃん。だけど私が頑張ろうとするのは気に食わない。わたしなんて、なにもできるはずないって思ってるから」
言いながら、自分の口にした言葉に傷つくみたいに、七海がうつむく。
伏せられた睫毛が震える。
「そういうの、しんどい。かんちゃんといると、突きつけられる気がするの。お前はあれもできない、これもできないって。わたしがバカで弱くて駄目な人間なんだって」
その目元がゆっくりと赤みを帯びていくのを見た瞬間、ふいに、ぞっとするほどの嫌な予感にさらされた。
「……なんだ、それ」
たしかに、助けてきた。十五年間。七海ができないことは、俺がずっと。
それが、七海の傍にいる俺の役目だと思っていたから。
だからこれからも、そうしていくつもりだった。当たり前のように。迷うことなく、七海と同じ高校を選んだあのときみたいに。一点の曇りもなく、そんな未来を描いていた。
だから。
七海は、頑張らなくていいと思った。
できないことは、できないままでいい。俺が傍にいるのだから。七海ができないのなら俺が助けてやればいい。代わりにやってやればいい。今までそうしてきたように。これからもずっと、そうしていけばいい。それがいい。
だって、そうすれば。
きっと七海は、俺から離れていかないから。
「かんちゃんは、こんなわたしを見てると安心したの。身体もポンコツで、頭も悪くて、ひとりじゃなにもできない、こんな女が近くにいたら気持ちよかったんだよ。だからわたしが頑張ろうとしても応援してくれない。わたしに変わってほしくないから。見下して、優越感に浸れるような、いつまでもそんな存在でいてほしかったから。だから」
七海の言葉は、それ以上聞こえなかった。
つかの間、頭の中が真っ暗になる。
ものが考えられなくなって、気づけば、俺は手を伸ばしていた。
目の前でうつむく彼女の細い肩をつかむ。思いきり力を込めれば、骨の軋む感覚がした。それにいちど肩を震わせ、七海が顔を上げる。
泣きそうに歪んだ顔が俺を見た。
「わたしは」
だけど目は逸らさず、七海は唇を震わせる。必死に、上擦った声を押し出すように。
「かんちゃんと、対等になりたかったよ。ずっと。もっと」
荒い息の合間、言葉を継ぐ。充血した目から、涙がこぼれた。
「……ふつうの、幼なじみに」
言葉はそこで震え、消えた。
七海の喉が引きつり、ひゅっと音を立てる。
震えながら挙がった彼女の右手が、自分の胸あたりをぎゅっとつかんだ。顔を伏せ、背中を丸める。その肩が苦しげに大きく揺れた。
「七海」
ぎょっとして、思わず手を離す。
知っていた。前にも見たことがある。対処法も知っている。俺が対応したこともあるし、そのときはうまく対処もできた。それも覚えていたのに、なぜだか、俺は動けなかった。縛りつけられたように、そこから一歩も。
目の前で苦しげに短い呼吸を繰り返す七海が、ぞっとするほど遠く見えた。
それに途方に暮れて立ちつくしていたとき、ふいに保健室の戸が開いた。
入ってきたのは、樋渡だった。後ろにはなぜか季帆の姿もあった。
早足に歩いてきた樋渡は、七海の隣に座ると、当たり前のように彼女の頭を自分の胸へ抱き寄せた。そうして七海の耳元でなにかしゃべりかけながら、ゆっくりと彼女の背中をさすっていた。その手の動きに合わせるように、しだいに七海の呼吸が安定していく。
ひどく手馴れた仕草だった。なんの迷いも、動揺もなかった。
そのあいだ、いつの間にか消えていた季帆は、保健室の先生を呼びに行っていたらしい。
しばらくして、季帆が先生を連れて戻ってきた。その頃にはもう、七海の呼吸はほとんど落ち着いていた。
樋渡と先生がなにか話している。だけど彼らの言葉は、なにも聞き取れなかった。分厚い膜でも隔てているみたいな、変な感覚だった。季帆が心配そうにじっと俺を見ているのもわかる。けれどそれも、意識からはひどく遠かった。
俺はただ、七海の手を見ていた。樋渡のジャージの裾を、ほとんど無意識のように握りしめている、子どもみたいなその手を。ぼうっと映画でも観ているみたいに。なにもできず、立ちつくしたままのその場から。
ああ、と思う。
なんか、これ、
死にたい。
ぐしゃりと歪んだ、今にも泣き出しそうな顔で。
泣き顔なんて飽きるほど見てきたはずなのに、なぜだかこんな表情ははじめて見た気がして、一瞬、息が詰まった。
「ひとりじゃなにもできないって。わたしなんか、どうせ頑張っても無駄だって」
「だって、そうだろ」
投げつけるように向けられた言葉に、こっちも投げ返すように答える。
睨むような彼女の目に、ますます頭に血がのぼっていくのを感じた。息がしにくい。
「実際できてないじゃん、お前。ひとりじゃなんにも」
「でも、頑張ってるじゃん」
間を置かず、七海が突っ返す。右手が挙がって、ぐしゃっと自分の前髪を握りしめた。
「なんで認めてくれないの。わたしだって、昔からなにも変わってないわけじゃないよ。身体も昔より強くなってるし、生徒会の活動もちゃんと休まずやれてる。体育もいつもは大丈夫なんだよ。今日はたまたまちょっと調子が悪くて、でもこんなの、十回に一回ぐらいで」
「だから、十回に一回でも調子悪くなるんなら参加すんなって、俺はそう言ってんだよ、ずっと」
「なんで? そんなこと言ってたら、わたし、これからもなんにもできないよ」
「なんにも」
――できなくていいだろ。
口をつきかけた言葉に、はっとした。
それを言ってはいけないと、まだ少しだけ残っていた頭の片隅の冷静な部分が押し止めた。
だって、それは。
「十回に一回体調崩すぐらい、どうってことないんだもん。それで夜に熱が出てもぜんぜんつらくない。頑張れたって証だから。それより、体育を見学してるほうがつらいの」
「意味わかんねえ。なんでたかが体育でそこまで」
「わかんないのは、かんちゃんが健康だからだよ。ずっと、当たり前みたいに体育ができてきたから」
言い返した七海の声には、ほんの少し、憎々しげな色があった。
「はあ?」だからそれに引っ張られるように、俺の口調もますます刺々しくなっていく。
「なんだよそれ。俺がなにをわかってないって」
「みんなを外からひとりで眺めてるとき、自分だけ、みんなと違う不良品なんだって突きつけられるあの感じとか。そんなの、かんちゃんにはぜったいわかんないよ。かんちゃんは不良品じゃないんだから」
「じゃあ、あいつは」
口を開くと、呼吸が少し荒くなっているのに気づいた。
「樋渡は、わかってくれんのか。そういうのも、ぜんぶ」
「わかってくれるよ」
答えは、みじんの迷いもなく返される。
挑むような視線を、七海は俺から外さないまま
「卓くんは知ってるから。わたしの、そういう寂しさとかつらさとか。だから頑張れって言ってくれる。見守ってくれるの」
「……そんなの」
誰だって言える。七海の身体の弱さを知らなければ。
あいつは、知らないだけだ。
知らないから、ただ無責任に背中を押すことだってできるだけで。そんなのは優しさでもなんでもない。ただ、彼女を崖から突き落とすようなもので。
「わたしを生徒会に誘ってくれたのも、卓くんなんだ。卓くんは」
なのに七海は、それを心底大事に抱えるように、言葉を継ぐ。
「わたしの世界を変えてくれたの。わたしも、ひとりでできるんだって。頑張れるんだって。そんなふうに、わたしのこと、対等に見てくれるから」
「……なんだよ、それ」
俺は身体の横で両手をぐっと握りしめた。そうしていないと、思わず手が出そうだった。
「じゃあ俺は、お前のこと対等に見てないって?」
「見てないよ」
苦しげに眉根を寄せた七海が、顔を伏せる。
「だって、かんちゃんは」
そうしていちど、強く唇を噛みしめてから
「……わたしのこと、見下してるもん。ずっと」
これまで積み上げてきたものを壊すように、言った。
「そういうの、わかっちゃうんだ。わたしがかわいそうだから、ずっと手助けしてくれたんだよね、かんちゃん。だけど私が頑張ろうとするのは気に食わない。わたしなんて、なにもできるはずないって思ってるから」
言いながら、自分の口にした言葉に傷つくみたいに、七海がうつむく。
伏せられた睫毛が震える。
「そういうの、しんどい。かんちゃんといると、突きつけられる気がするの。お前はあれもできない、これもできないって。わたしがバカで弱くて駄目な人間なんだって」
その目元がゆっくりと赤みを帯びていくのを見た瞬間、ふいに、ぞっとするほどの嫌な予感にさらされた。
「……なんだ、それ」
たしかに、助けてきた。十五年間。七海ができないことは、俺がずっと。
それが、七海の傍にいる俺の役目だと思っていたから。
だからこれからも、そうしていくつもりだった。当たり前のように。迷うことなく、七海と同じ高校を選んだあのときみたいに。一点の曇りもなく、そんな未来を描いていた。
だから。
七海は、頑張らなくていいと思った。
できないことは、できないままでいい。俺が傍にいるのだから。七海ができないのなら俺が助けてやればいい。代わりにやってやればいい。今までそうしてきたように。これからもずっと、そうしていけばいい。それがいい。
だって、そうすれば。
きっと七海は、俺から離れていかないから。
「かんちゃんは、こんなわたしを見てると安心したの。身体もポンコツで、頭も悪くて、ひとりじゃなにもできない、こんな女が近くにいたら気持ちよかったんだよ。だからわたしが頑張ろうとしても応援してくれない。わたしに変わってほしくないから。見下して、優越感に浸れるような、いつまでもそんな存在でいてほしかったから。だから」
七海の言葉は、それ以上聞こえなかった。
つかの間、頭の中が真っ暗になる。
ものが考えられなくなって、気づけば、俺は手を伸ばしていた。
目の前でうつむく彼女の細い肩をつかむ。思いきり力を込めれば、骨の軋む感覚がした。それにいちど肩を震わせ、七海が顔を上げる。
泣きそうに歪んだ顔が俺を見た。
「わたしは」
だけど目は逸らさず、七海は唇を震わせる。必死に、上擦った声を押し出すように。
「かんちゃんと、対等になりたかったよ。ずっと。もっと」
荒い息の合間、言葉を継ぐ。充血した目から、涙がこぼれた。
「……ふつうの、幼なじみに」
言葉はそこで震え、消えた。
七海の喉が引きつり、ひゅっと音を立てる。
震えながら挙がった彼女の右手が、自分の胸あたりをぎゅっとつかんだ。顔を伏せ、背中を丸める。その肩が苦しげに大きく揺れた。
「七海」
ぎょっとして、思わず手を離す。
知っていた。前にも見たことがある。対処法も知っている。俺が対応したこともあるし、そのときはうまく対処もできた。それも覚えていたのに、なぜだか、俺は動けなかった。縛りつけられたように、そこから一歩も。
目の前で苦しげに短い呼吸を繰り返す七海が、ぞっとするほど遠く見えた。
それに途方に暮れて立ちつくしていたとき、ふいに保健室の戸が開いた。
入ってきたのは、樋渡だった。後ろにはなぜか季帆の姿もあった。
早足に歩いてきた樋渡は、七海の隣に座ると、当たり前のように彼女の頭を自分の胸へ抱き寄せた。そうして七海の耳元でなにかしゃべりかけながら、ゆっくりと彼女の背中をさすっていた。その手の動きに合わせるように、しだいに七海の呼吸が安定していく。
ひどく手馴れた仕草だった。なんの迷いも、動揺もなかった。
そのあいだ、いつの間にか消えていた季帆は、保健室の先生を呼びに行っていたらしい。
しばらくして、季帆が先生を連れて戻ってきた。その頃にはもう、七海の呼吸はほとんど落ち着いていた。
樋渡と先生がなにか話している。だけど彼らの言葉は、なにも聞き取れなかった。分厚い膜でも隔てているみたいな、変な感覚だった。季帆が心配そうにじっと俺を見ているのもわかる。けれどそれも、意識からはひどく遠かった。
俺はただ、七海の手を見ていた。樋渡のジャージの裾を、ほとんど無意識のように握りしめている、子どもみたいなその手を。ぼうっと映画でも観ているみたいに。なにもできず、立ちつくしたままのその場から。
ああ、と思う。
なんか、これ、
死にたい。