季帆は本当に、ひとりで計画を進めているらしかった。

 あの日以降、季帆は俺の前に現れなくなった。
 代わりに、何度か樋渡といっしょにいるところを見かけた。下駄箱で話していたり、廊下をいっしょに歩いていたり。ふとのぞいた二組の教室で、席に座る樋渡の前に季帆が立ち、なにか話しかけている姿も見た。
 当然、そんな二人の姿を見ているのは俺だけではないから、すぐに噂が立ちはじめた。
 季帆が樋渡を狙っている、と。実際そのとおりなのだけど。

 そこではじめて知ったのだが、季帆のクラスでの評判はあまり良くないらしい。
 なんでも、話しかけてきたクラスメイトに素っ気ない対応ばかりしていたせいで、ひんしゅくを買ったという。そんなときに季帆の樋渡へのアプローチが始まったものだから、とくに女子たちは眉をひそめていた。

「――てかさ、坂下さんのあれ、なんなの? 本気で樋渡くんのこと狙ってんの?」
 そんな女子の声が聞こえてきたのは、放課後、下駄箱で靴に履き替えようとしていたときだった。
 俺は思わず手を止める。
「そうでしょ」と下駄箱の向こうではそれに応える別の女子の声が続く。
「うちらにはあんな塩対応のくせ、樋渡くんにばっかやたら話しかけてるし、今日なんかわざわざ教室にまで来て話してたし」
「ありえなくない? 樋渡くん、七海ちゃんと付き合いはじめたばっかじゃん。ちょっとは気遣うとかないのかね」
「てか、横取りしようとしてんでしょ。七海ちゃん相手ならとれるとか思ってんじゃないの」

 聞こえてくるのは、あからさまな敵意のこもった声だった。
 なにか言いたくなったけれど、とくになにも反論できることなんてないことに気づく。その推論は間違っていないから。
 たしかに、季帆は樋渡を狙っている。七海から横取りしようとしている。

 女子たちは季帆への非難を続けながら、下駄箱を出て行く。
 俺は履きかけた靴をまた下駄箱に戻すと、代わりに上履きを履いた。階段を上がり、一年四組の教室へ向かう。
 教室には五人ほどの生徒が残っていて、季帆もまだそこにいた。自分の席に座り、カバーをかけた文庫本を読んでいる。
「季帆、ちょっと」
 そんな彼女に歩み寄って声をかけると、季帆は顔を上げて
「……土屋くん」
 俺の顔を見るなり、読んでいた本をぱたんと閉じた。そうしておもむろに立ち上がると、「来てください」と小声で告げて歩き出す。

 言われるまま彼女について教室を出ると、季帆はひとけのない渡り廊下まで来たところで
「土屋くん、今後、人のいるところで私に話しかけないでください」
 俺のほうを振り向くなり、けわしい表情でぴしゃんと言った。
「え、なんで」
「私と土屋くんがつながってるってみんなに知れたら駄目じゃないですか。私、樋渡くんを寝取ろうとしてるのに。土屋くんが関係してるんじゃないかって怪しまれます」

「……そのことなんだけど」
「はい?」
 俺は季帆の顔を見た。眼鏡と三つ編みはもうやめたらしい。だけど黒いままの髪の毛先は、以前のように巻かれることはなく、まっすぐに肩に落ちている。頬や唇にもなにも色は載っていない。季帆の考える“清楚で素朴”なのだろう。これが。
「もう、いいよ。やっぱりやめよう。寝取るとか」
「え?」
 さっき聞いた女子たちの声が、耳に残っている。本気で敵意のこもった声だった。
 このまま季帆が樋渡へのアプローチを続けて、万が一樋渡が季帆になびくようなことがあれば。季帆への風当たりがどうなるのかなんて、嫌になるほど想像がつく。

 だけど季帆は自身の評判なんて知らないのか
「え、やめませんよ。言ったじゃないですか、土屋くんがなんと言おうとするって」
「だってお前、嫌われるぞ。そんなことしてたら。転校したばっかなのに」
 すでに、だいぶ嫌われている気はするけれど。
 だけどまだここで止めれば、たぶん傷は浅く済む。そう思って、心からの忠告をしたのに
「あ、大丈夫です。そういうのなら慣れてるので」
「……は?」
「とにかく、やめません。ぜったい」

 途方に暮れるほど頑なな声に、ああもう、と俺は大きくため息をついて
「もういいっつってんじゃん。俺が」
「だから、土屋くんのためじゃないって言ったじゃないですか」
「いや俺のためだろ。俺があきらめないとか言ったから」
「違います。私のためです」
 はっきりとした声で言い切る季帆に、眉を寄せる。わけがわからない。
 だって、
「こんなことしたって、お前にはなんの得もないじゃん。お前、樋渡のこと好きなわけじゃないんだろ」
「好きではないですけど、得ならありますよ」
「はあ? どんな」

「これは、仕返しだからです。土屋くんへの」