「かんちゃーん、帰ってるのー?」
その日は久しぶりに、学校を出たところでそんな声が追いかけてきた。
昔から変わらない、ちょっと舌っ足らずな高い声。こちらへ駆けてくる、小走りの足音。
振り返ると、少し息を切らした七海がいて
「走るなよ、危ない」
「大丈夫だよー、ちょっとぐらい。今日は体調良いし」
あっけらかんと笑う七海の背後に、俺は思わず視線を走らせていた。
季帆の姿は見えない。
「どうかした?」
「ああ、いや。……樋渡は?」
「生徒会のお仕事。遅くなりそうだから、先帰っててって」
「生徒会なら、七海もじゃないの?」
「わたしは下っ端だけど、卓くんは書記だから。わたしより忙しいんだ」
もしかして、それで季帆はいないのだろうか。七海のいない今、チャンスとばかりに樋渡に接近しているのかもしれない。
「……待っとかなくていいのか、樋渡」
「いいよ。どうせ帰る方向も違うし。それにわたし、今日病院の日だから」
もちろんそんなこと知る由もない七海は、なんの危機感もない笑顔で
「かんちゃんといっしょに帰るの、久しぶりだね」
「そりゃ、お前が生徒会なんて入ったから」
返す声に、思わず恨めしげな色がにじむ。
「……なあ、大丈夫なのか?」
「へ、なにが?」
「生徒会。相当忙しそうだけど。身体きつくない?」
大丈夫、と七海は明るく笑って
「むしろ最近、すごく調子いいの。元気いっぱい。今日ね、体育にもちゃんと参加できたんだ。はじめてバスケしたよ」
「バスケ?」
うれしそうにそんなことを告げる七海に、俺はぎょっとして聞き返す。ちょっと走っただけで倒れたこともあるくせに、バスケって。
「やめろよ。また倒れたらどうすんの。体育は見学しろって言われてんだろ」
「体調が悪いときは、だよ。今日はなんともなかったもん。元気なのに見学するのも変でしょ」
「いいじゃん。見学していいって許可もらってんだから」
俺はため息をついてから、イライラと頭を掻いた。
このやり取りも、もう何度目になるかわからない。
七海は自分の身体を過信しがちだ。ちょっと体調が良いとなんでもできる気になって、すぐ調子に乗る。そのせいで何度体育の授業中に体調を崩したことか。
そんな彼女を、何度背負って保健室へ連れていっただろう。
「大丈夫だよ。元気なときは体育したいもん、わたしだって」
「それで無理して倒れたらどうしようもないだろ」
「無理はしてないよ。わたしの身体のことは自分でわかるし」
「わかってないから倒れるんだろ」
だいたい、七海の言う「大丈夫」ほど信用できないものもない。登校中に倒れたあの日だって、七海は倒れる直前まで「大丈夫」と言い張っていた。
「いいから、体育はちゃんと見学しろよ。これから」
「えー」
「えーじゃない」
語気を強めると、七海は不満げに唇をとがらせて
「なんかかんちゃんて、お父さんみたい」
なんて言われて、憮然とした。
お父さん、と呆けたように繰り返す。
「……せめてお兄ちゃんだろ」
「いやー、この口うるささはお兄ちゃんっていうよりお父さんだよ」
口うるさい、と俺はまたバカみたいに繰り返す。
以前から何度か向けられてきたはずのそんな言葉が、今は妙に胸に刺さった。
樋渡は言わないのだろうか。こういうこと。
言わないんだろうな。「優しい」らしいから。
七海が体育がしたいのだと言えば、もちろんなにも反論なんてせず、笑顔で頷くのだろう。そんな、甘いだけの優しさをくれるのだろう。
だってたぶん、樋渡はなにも知らないから。
昔から“みんなといっしょ”にこだわって、自分の身体の弱さを見て見ぬ振りしようとする七海も。そうやって無理したあと、何日も寝込むことになる七海も。そんな彼女を、何年間も傍で見てこなかったから。だからただ、彼女に甘いだけの優しさをあげられるのだ。無頓着に。
そんな不公平さを噛みしめて、俺がつい黙り込んでいたら
「あ、そういえば模試の結果出てたね。あいかわらずすごかったねー、かんちゃん」
思い出したように七海が言った。にこにこと無邪気な笑顔がこちらを向く。
「ほんと頭良いよねー。すごいな」
「すごくない。二位だったし」
せっかく忘れていたことを思い出して、俺が苦々しく呟くと
「え、すごいよ。一位も二位も変わらないよ」
「いや変わるだろ、一位と二位は」
「わたしからしたらどっちもいっしょだよ。どっちもすごすぎだもん」
子どもっぽい笑顔で、そんな子どもっぽいことを言う。
ふいに喉の奥から苦いものがこみ上げてきて、俺は七海の顔から目を逸らした。
そりゃ、お前にとってはそうなんだろうけど。
心の中でだけ吐き捨てる。
そもそも、成績が上位なのは当たり前なのだ。本来俺が行ける高校より、だいぶレベルを落とした高校に通っているのだから。だからべつに、俺の成績なんて全国偏差値で見ればたいしたことはない。この高校にいる他のやつらの成績が悪いだけ。
本当にそこでいいの、と。受験のときには、担任の先生にも両親にもしつこく確認された。そのたび俺は、迷うことなく頷いていた。あなたの成績ならもっと上の高校に行けるのに、とか、何度言われても、そんなことはどうでもよかった。あの頃の俺は、七海と同じ高校に行くことしか頭になかった。
今思えばバカみたいだ。
なんで俺、こんなレベルの低い高校に通っているんだろう。なんのために。
――ああ、俺も転校したい。
ふいにそんなことを思う。
あいつみたいに年度途中の編入を、なんてちらっと考えてみて、だけどすぐに、面倒くさそうだな、と思って考えるのをやめた。
編入の仕方なんて知らないけれど、とにかく相当面倒な手続きが必要なことぐらいはわかる。試験もあるだろうし、お金もかかるだろうし。
だけどあいつは、そんな面倒なことをしたらしい。
俺と同じ高校に通う、ただそれだけのために。
今更そんなことを実感して、また少し、薄ら寒くなった。
その日は久しぶりに、学校を出たところでそんな声が追いかけてきた。
昔から変わらない、ちょっと舌っ足らずな高い声。こちらへ駆けてくる、小走りの足音。
振り返ると、少し息を切らした七海がいて
「走るなよ、危ない」
「大丈夫だよー、ちょっとぐらい。今日は体調良いし」
あっけらかんと笑う七海の背後に、俺は思わず視線を走らせていた。
季帆の姿は見えない。
「どうかした?」
「ああ、いや。……樋渡は?」
「生徒会のお仕事。遅くなりそうだから、先帰っててって」
「生徒会なら、七海もじゃないの?」
「わたしは下っ端だけど、卓くんは書記だから。わたしより忙しいんだ」
もしかして、それで季帆はいないのだろうか。七海のいない今、チャンスとばかりに樋渡に接近しているのかもしれない。
「……待っとかなくていいのか、樋渡」
「いいよ。どうせ帰る方向も違うし。それにわたし、今日病院の日だから」
もちろんそんなこと知る由もない七海は、なんの危機感もない笑顔で
「かんちゃんといっしょに帰るの、久しぶりだね」
「そりゃ、お前が生徒会なんて入ったから」
返す声に、思わず恨めしげな色がにじむ。
「……なあ、大丈夫なのか?」
「へ、なにが?」
「生徒会。相当忙しそうだけど。身体きつくない?」
大丈夫、と七海は明るく笑って
「むしろ最近、すごく調子いいの。元気いっぱい。今日ね、体育にもちゃんと参加できたんだ。はじめてバスケしたよ」
「バスケ?」
うれしそうにそんなことを告げる七海に、俺はぎょっとして聞き返す。ちょっと走っただけで倒れたこともあるくせに、バスケって。
「やめろよ。また倒れたらどうすんの。体育は見学しろって言われてんだろ」
「体調が悪いときは、だよ。今日はなんともなかったもん。元気なのに見学するのも変でしょ」
「いいじゃん。見学していいって許可もらってんだから」
俺はため息をついてから、イライラと頭を掻いた。
このやり取りも、もう何度目になるかわからない。
七海は自分の身体を過信しがちだ。ちょっと体調が良いとなんでもできる気になって、すぐ調子に乗る。そのせいで何度体育の授業中に体調を崩したことか。
そんな彼女を、何度背負って保健室へ連れていっただろう。
「大丈夫だよ。元気なときは体育したいもん、わたしだって」
「それで無理して倒れたらどうしようもないだろ」
「無理はしてないよ。わたしの身体のことは自分でわかるし」
「わかってないから倒れるんだろ」
だいたい、七海の言う「大丈夫」ほど信用できないものもない。登校中に倒れたあの日だって、七海は倒れる直前まで「大丈夫」と言い張っていた。
「いいから、体育はちゃんと見学しろよ。これから」
「えー」
「えーじゃない」
語気を強めると、七海は不満げに唇をとがらせて
「なんかかんちゃんて、お父さんみたい」
なんて言われて、憮然とした。
お父さん、と呆けたように繰り返す。
「……せめてお兄ちゃんだろ」
「いやー、この口うるささはお兄ちゃんっていうよりお父さんだよ」
口うるさい、と俺はまたバカみたいに繰り返す。
以前から何度か向けられてきたはずのそんな言葉が、今は妙に胸に刺さった。
樋渡は言わないのだろうか。こういうこと。
言わないんだろうな。「優しい」らしいから。
七海が体育がしたいのだと言えば、もちろんなにも反論なんてせず、笑顔で頷くのだろう。そんな、甘いだけの優しさをくれるのだろう。
だってたぶん、樋渡はなにも知らないから。
昔から“みんなといっしょ”にこだわって、自分の身体の弱さを見て見ぬ振りしようとする七海も。そうやって無理したあと、何日も寝込むことになる七海も。そんな彼女を、何年間も傍で見てこなかったから。だからただ、彼女に甘いだけの優しさをあげられるのだ。無頓着に。
そんな不公平さを噛みしめて、俺がつい黙り込んでいたら
「あ、そういえば模試の結果出てたね。あいかわらずすごかったねー、かんちゃん」
思い出したように七海が言った。にこにこと無邪気な笑顔がこちらを向く。
「ほんと頭良いよねー。すごいな」
「すごくない。二位だったし」
せっかく忘れていたことを思い出して、俺が苦々しく呟くと
「え、すごいよ。一位も二位も変わらないよ」
「いや変わるだろ、一位と二位は」
「わたしからしたらどっちもいっしょだよ。どっちもすごすぎだもん」
子どもっぽい笑顔で、そんな子どもっぽいことを言う。
ふいに喉の奥から苦いものがこみ上げてきて、俺は七海の顔から目を逸らした。
そりゃ、お前にとってはそうなんだろうけど。
心の中でだけ吐き捨てる。
そもそも、成績が上位なのは当たり前なのだ。本来俺が行ける高校より、だいぶレベルを落とした高校に通っているのだから。だからべつに、俺の成績なんて全国偏差値で見ればたいしたことはない。この高校にいる他のやつらの成績が悪いだけ。
本当にそこでいいの、と。受験のときには、担任の先生にも両親にもしつこく確認された。そのたび俺は、迷うことなく頷いていた。あなたの成績ならもっと上の高校に行けるのに、とか、何度言われても、そんなことはどうでもよかった。あの頃の俺は、七海と同じ高校に行くことしか頭になかった。
今思えばバカみたいだ。
なんで俺、こんなレベルの低い高校に通っているんだろう。なんのために。
――ああ、俺も転校したい。
ふいにそんなことを思う。
あいつみたいに年度途中の編入を、なんてちらっと考えてみて、だけどすぐに、面倒くさそうだな、と思って考えるのをやめた。
編入の仕方なんて知らないけれど、とにかく相当面倒な手続きが必要なことぐらいはわかる。試験もあるだろうし、お金もかかるだろうし。
だけどあいつは、そんな面倒なことをしたらしい。
俺と同じ高校に通う、ただそれだけのために。
今更そんなことを実感して、また少し、薄ら寒くなった。