噂が町を満たし、男たちが警戒をしていても、夜の出入りを完全に禁じることなど不可能だった。街道を行く旅人がいて、それを相手に商売(あきない)することで町が成り立っている以上、できることではない。夜の街を彩る店も閉め切られる気配はなく、ただ少しだけ華やかさを抑えている。

 大っぴらに行動できないのは、警官隊を頼み、悪評が立ち、人が来なくなることが、何より恐ろしいのだ。そして、完全に夜を閉ざして、寂れた印象を与えることすら、尾を引くことになる。
 そんな宵の口、しんと静まり返った中を、身を縮こまらせて歩く人がいた。必死に山を越えてきたのだろう。

「やあ、お兄さん。こんな遅くに大変だね」
 突然声をかけられて、男は飛び上がらんばかりに驚いた。柾は、振り向いた相手に笑って見せた。

「どうした。大丈夫かい」
 間延びした呑気な声で、もう一度声をかける。男は大げさに驚いたのが恥ずかしくなったのだろう。いや、と苦笑気味に声を返してきた。

「ちょっと驚いただけだよ。急に声をかけるから」
「それは悪かったね」
「人通りも少ないし、ちょっとビクついていたんだ」
「ああ、気持ちは分かる」
 くすくすと柾が笑う。だが、柾はもともと少しも怯えていない。和やかな笑いに、男の緊張もほぐれたようだった。

「この町は、多少遅くなっても、他所よりは安全だと聞いていたんだがな」
「瓦斯灯があるからかい」
「東京ほどとはいかないが、隣の町にも、その隣にも、こんなものはなかった」
 東京に行ったことがあるのならば、比べものにならないことくらい、分かっているはずだ。だが男は、物珍しそうに上を見上げていた。

「田舎で、夜道がこれだけ明るい場所もあまりない」
「まあ、そうだな」
 柾が同意すると、旅の男は不思議そうに見てきた。疑問を浮かべる目線に、柾は笑う。
「俺も、元々はこの土地の人間じゃないんだ」
 そうか、と旅の男も笑みを返した。

「瓦斯灯、か。最初は驚いたがな」
 松明のようには揺らがない、硬質な光を見上げる。上を仰ぐ旅の男に、柾もつられて見上げた。
 確かに、とつぶやいて。

「はじめて見た人間は、真昼のようだと騒ぐが、慣れてみるとたいしたことないな。明るいのは、真下だけだ」
「そうだな」
「この程度の光じゃ、夜道の安全をはかれない。無いよりはましだけどな」

 柾の言葉に、旅の男は少し身震いした。今まさに彼は、夜道の上を、身を寄せる場所も無くさまよっていたところだ。
 その仕種に小さく笑みを浮かべて、柾は少し鼻をひくつかせるようにして、息を吸った。深く空気を吸い込み、臭いを嗅ぐ。煙る(けぶ)ような花の香が入り込んでくる。

「どうした?」
「水の臭いがするね」
 旅人はそれを見て、同じように鼻を鳴らしているが、何もわからなかったようだ。
「そうかな。何も感じられないが」
「ああ、雨が降るね」
 男は首を傾げ、再び鼻を鳴らして臭いを嗅いだ。首をかしげている。

「旅の習いで、雨の気配には敏感になったものだが、わからないな」
 柾も、もう一度臭いを嗅いでみる。やはり、闇の向こうからは、むせるような花の香に混じって、湿った土の臭いが、空気を蒸らす湿気の臭いがしている。
 薄く笑う。
「気をつけたほうがいい。雨は、あやかしを呼ぶ」
「……なぜ」
「彼岸と此岸(しがん)を結ぶからさ。水の圧力は、人の思考を鈍らせる」
 言って、柾は再び笑った。にこりと、懐こい顔で。

「宿はどこか、お決まりで」
 柾の言葉に、男は少し、ぽかんとした顔をした。宿の呼び込みだったのか。ようやくと言うべきか、気づいて旅の男も笑いをこぼした。苦笑気味に。なんだ、脅かすなとつぶやいて。

「まだ入れてくれるだろうか」
「お望みとあらば」
「商売上手だな」
「そうかな」
 柾は頓着せず、旅の男を案内して歩いていく。町の人通りは極端に無いが、向かいから提灯を携えた男が歩いてくる。柾は向かってくる灯りに向かって、軽く手をあげた。

「おう、ちょうどいいところに」
「どうした」
 男を指して柾は、提灯を携え、下からも明かりに照らされた相手に言う。
「宿探してるんだって。空いてたら、入れてやって」
「分かった」
「悪いな」
 柾が言うと、相手は曖昧な顔で笑う。

 悪いも何も、柾があまり町をうろついて勝手なことをしてくれない方が、町の人間にはありがたいからだ。
 やはり彼らも、所詮は余所者である柾が一人で出歩くことにいい感情を持っていない。それを分かっていながら、少しの嫌味も無く、柾は彼らの思惑に乗っている。だから旅人を早々と彼らに引き渡して、案内を任せる。

 町の男が客人を案内し、歩いていくのを見送って、柾は再び歩き出した。
 曖昧なまま迷走する町の人間は、一体どうするつもりなのか。

 淡い明かりの下、思案して歩いていた柾は、唐突に響き渡った悲鳴に、慌てて足を止めた。
 振り返り、先頃町の人と別れた場所を見る。当然そこにはもう誰もいない。

 静寂をつんざくような悲鳴が、再び耳に飛び込んでくる。今度は考える前に走り出した。絶え間なく聞こえる大声を目指して、路地を曲がって駆けていく。