手燭で照らされた部屋に、小さな溜息が落ちた。
そこだけ洋風の物で溢れた空間で、慎司は吸いかけた息を詰め、立ち上がり、身をそらすようにして目の前の物を眺める。
キャンバスにかけられた一枚の大きな絵は、町の風景を描いたものだった。月の光に照らされ、闇に沈み、同時に淡く瓦斯灯に照らされた町並み。自然の風景と、割り込むものとの均衡。
人物はあまり描かないことにしていた。描きたいと思うほどの人もなく、題材も見つからなかった。
そしてもし描いたなら、自分の心の中の、人に対する暗い思いが余すことなく表れてしまいそうな気がした。決して明るいとは言えない思いを自分で暴き出してしまいそうで、それは自分でも気味がいいとは思えなかった。
だから、綾都のことは決して描かない。
再び息を吐き、慎司は筆を置いた。思ったよりもうまく進んだ絵を見て、少し頬に笑みを浮かべる。
気がついたら夜が更けている。描いている時は、打ち込むあまりに時間を忘れることが多かった。今日はもう休もうと立ち上がる。
洋服の上にまとっていた、絵の具で汚れた布を脱いで、背もたれに丁寧にかける。明かりを消して部屋を出た。寝る前に綾都の様子を見ようと、彼の床が敷かれている部屋へ向かう。
慎司のいた部屋の、すぐ隣り。物音も聞こえず、女中の声もなく、綾都はめずらしく、大人しく部屋にいるようだった。
「綾、具合はどう」
襖の前に立ち、声をかける。返答がなかった。木板の長い廊下で所在なく首を傾けて、慎司はもう一度声をかける。やはり声は返らない。
「綾都」
無視をしているだけなのだろうか。もう眠ってしまったのだろうか。
「入るよ」
それとも、気づかない間に外にまた出かけてしまったのだろうか。訝しみながらも、慎司はそっと襖を開けて部屋の中へ足を踏み込んだ。
隙間から差し込む月明かりに照らされて浮かび上がる。敷かれている布団には、人が入っている膨らみがあった。
戸口の方、慎司の側へ背を向けて横たわっている人の姿が見えた。掛け布団がずれて、横向けに伏している綾都の肩が出ている。
なんだ、寝てしまっていたのか、と胸をなで下ろした。畳の上、音をたてないように布団へ近づいていく。
綾都の横、背の後ろに膝をついて、身を屈めた。少し笑み、慎司はそっと丁寧に、布団を引きずり上げた。
手が、綾都の肩に触れる。そして指先が違和感を拾い上げる。
外気に触れて冴えた肩からは、吐息の気配がない。身じろぎがないのはともかく、微かに上下して息を吸う、寝息の気配すら感じられない。
何となくただ不思議に思って、今度は掌を肩に乗せた。
異様に冷えている。冬もようやく終わる兆しが見え始めたばかりだ、寒いからだろうとは思う。体に毒なのに、と思うが。
あまりに、冷たすぎる。
堅く強張っている。寒さか恐怖にか、息を詰めて、身を縮こませているかのようだった。
――悪夢でも見ているのか。
「綾都」
起こさないようにと配慮していたのも忘れて、声をかける。上擦った声が出た。自分でぎくりとする。
――ちがう。
自分の声に含まれる恐れを否定する。それに思い至る自分を、意識の中で叱り付ける。
違う、まだ決めつけるな。
背を向けたままの綾都の、布団の上に投げ出された片手、固く握りしめられた拳に、身を乗り出して触れた。冷たい。
これが人の手だろうか。氷のようだ。夜の藍に染まった、華奢な氷細工のようだ。あり得ない、信じられない。信じたくない。
避けていたい事態に、目の前が揺れた。血の気が引いて、慎司の指先までもが、同じように冴えた。
息がうまく吸えない。浅く早く繰り返す呼吸を宥め、抑えて、背けられた顔を覗き込めば、綾都の顔はとても穏やかな表情を浮かべていた。
瞳を閉じて眠っている。ただ、眠っている。
寝息もたてずに。
「綾都」
呼びかける声が震えた。綾都の手を握る慎司の手が、大袈裟なほどに揺れていた。
たどたどしい動きで、綾都の肩を揺する。起こさないと。
そんなはずはない。まだその時期じゃない。あり得ない。否定する言葉を、ただただ並べ立てながら。
けれど、声をかけられて、手に触れられて、揺さぶられて、それでも彼は目を覚まさなかった。瞼は閉ざされたまま、震える気配すらない。
そんなはずはない。
死に至る病だと知っていた。今の医療では治らないと言われていた。覚悟するようにとも。
けれども、それは、もっと先のはずだ。まだまだ、ずっと先の話のはずだった。
綾都の病は、衰弱が激しくなり、末期になれば立つこともできなくなると言われていたのではなかったか。
死ぬときには、これ以上ないほどに苦しんで、苦しんで、悶えて死んでいくのだと。かつて同じ病の者を見たことがあるが、目を背けたくなるような、苦悶を浮かべた死に顔だったと、医師は言っていた。
祖父はどうだったか思い出そうとする。だが分からない。知ろうともしなかった。
でも、綾都は。彼はまだ、つい最近まで走り回って、外へ出掛けたりもしていた。
近頃は表へ出る前に、慎司が見つけて連れ戻すことの方が多かったが。そんな考えに至って、ぎくりとする。でも。
今の彼の、この顔の、どこに苦悶の痕があるというのだろう。
「ばか」
綾都が少しでも苦しんで声を上げれば、暴れていれば、慎司は気がついた。どんなに小さな声でも呼んでくれれば、駆けつけた。何をしていても、自分がどうなっていても、絶対に。
なのに綾都はただ、静かな顔を床に押しつけて、眠っている。
どうして。どうして気がつかなかったのだろう。彼が苦しんでいることを察して、駆けつけられなかったのだろう。
心臓が止まって、それでもしばらくは温もりが残るものなのに、こんなに冷たくなるまで気がつかなかったなんて。
ひとりで、放っておいたなんて。
「……ごめんね、綾都、ごめんねぇ」
病み衰えた細い肩に額を押しつけて、つぶやく。
涙が、綾都の衣服に、透明な染みを広げていった。声が揺れて、悲しく響く。
――――綾都。
二人きりで、生きてきた。
実に鬼といふものは昔物がたりには聞もしつれど。
現にかくなり給ふを見て侍れ。
後
濃い花の香が、闇の中を絡みつくように漂っている。熟れた女のような香りだ。沈丁花。この花が香りを振りまくようになると、次いでさまざまな花が開き始める。
春を告げる使者。けれど、明るい春を連れてくるには、濃厚に過ぎる香りだ。じっと佇んでいると酔いと眩暈が襲う。
闇に沈んだ町は、深く寝静まっている。周りを山に囲まれた町は、海の中にあるのと変わりない。閉ざされ、沈んでいる。
明かりを灯す燃料は高価なもので、人々は早いうちに床につく。日が長くなり始めたとはいえ、冷え込む夜は身を寄せ合って。
けれども、宿を台所としてある町は、普段ならば夜が更けても、華やかに賑わっていた。
一部ではあっても、町の中心には瓦斯灯が燃えているし、闇は掃われ、夜道を歩くのにもほんの少しだけ、頼れるものがある。
表に旅人の眠りを守る宿があれば、裏には花街がある。政府によって、遊女を奴隷のように扱うことを禁じられたが、認可さえもらえば堂々と営業することができる。
もちろん、それは町の体面にも関わることだから、密やかに、けれど公然と、営まれていることだった。湯屋、銘酒屋、飯盛旅篭、幕府が倒れる前からあったものは、多少形を変えながらも残っている。そういった、ある種の華やかさも遊びも、旅人を町に引き止める道具ではあった。
しかしながら、町は寂寞として人影がない。天上から光を投げかける月と、わずかばかりの瓦斯灯に照らし出されたものは、ひっそりと沈む町の閑寂さばかりだった。
「もっと、賑わっていそうなものなのに」
静寂の中に、少年の声が落ちる。荷を背負い旅装の少年は、無理をして山を越えて来て、辿り着いた町の様子に驚いたようだった。
宿は閉まっていたとしても、身を落ち着ける場所はそれなりにあるだろうと思っていた当てが外れてしまった。
「前に来たときよりも、寂れている気がするんだけどな。暖かくなってきたから、もっと人が増えているものだと思っていた」
花も賑わいだすこの季節にしては、閑散としすぎている。
「帝都じゃないんだし、田舎なんてこんなもんだろ。もともと派手な場所でもないんだし」
並んで歩いていた道連れの人が応えるが。
「田舎って言ったって、瓦斯灯がちゃんとあるし、名家のお膝元なのにさ」
「設備が整っているから、しゃんとしてるって訳でもないだろ」
つまらないことのように、相手が言い捨てる。確かに、そうだ。少年は妙に納得し、それから首を傾ける。
「何かあったかな」
「あまり治安も良くないみたいだけど」
「それは、山の中の話だろう」
「ぼくには細かいことなんて関係ないね」
興味なさそうに、切り捨てる。まあ、そうだろうな、と少年はつぶやいた。
決して大きな声ではないはずなのに、未だ冷える夜の中、彼らの声はやけに響いた。
人のざわめきが無いだけで、昼と夜の違いだけで、町の様相は随分と変わるものだ、と思った。人の作った明かりなんて、太刀打ちできない。
風が吹いた。
ふと後ろで空気が揺れた気がして、柾が振り返る。
後ろに、人が立っていた。
「え……」
誰何の言葉すら出なかった。いつからそこにいたのか、いつの間にそこに来たのか。話していたとはいえ、音に気づかなかった。
気配にすら、気づかないなんて。
何よりもそのことに驚愕して、初動が遅れた。鋭く光がきらめいて、それを認めたときには遅かった。
静寂の中を悲鳴が響き渡った。赤い潮が吹く。空気が温く熱を持つ。鉄錆の臭いが花の香を乱す。
雨のように降りかかるものに目を細め、それに気づいて、再び悲鳴をあげた。柾が、ではない。
凛は大きな目を見開いて、あふれる柾の血を見て悲鳴をあげた。後ろから迫ってくるものに凜も気づかなかった。斬りつけられ、傷口を抑えて後ずさった柾を見て、そして相手を見た。
「この……!」
小柄な人影が、照らし出されて立っている。血塗れた刃を持って。刀というには短い。そのくせ拵えがちゃんとしている。脇差だ。
滅多な人間はあんなもの持たない。特に、町の人間は。
――まさか。
柾は再び驚き相手を見る。けれど瓦斯灯に頭上を照らし出され、俯く人の顔は見えない。ざんばらに顔にかかった前髪が、濃い陰影が、縁取って隠している。
そして『それ』は、無造作に、再び刃を振り上げた。刃に付着していた赤い飛沫が散る。
凜が柾の前に出ようとして、これをまた無造作に、柾が傷口を抑えていない側の手で押しのける。よろめいた凜は驚き、それからムッとした顔で柾を見た。その間にも、凶刃は柾を襲う。
首から溢れる血を抑えていた手を解いて、迷い無く腕で刃を受けた。骨に当たって固い音が響く。再び血が重吹いた。
「この、大馬鹿」
凜が叫ぶ。割って入ろうとするのに気づいて、柾が、駄目だと言葉を返そうとしたが、目の前の相手が動く方が早かった。
唐突に刃を引いて後ろに下がる。その動きには、やはり執着のようなものが見えない。
人を襲いながらも、傷つけることへためらいや、逆に獲物を逃がすことへの躊躇や、そういうものがまるで感じられない。何か、希薄で。――だから、気配に気づかなかったのか。
けれど、何故いきなり身を引いたのか分からない。思った耳に人の声が聞こえた。途端に、締めきられたようだった意識が開ける。足音が聞こえる。一つや二つではない。
誰か駆けつけてくる。思ったときには、人影は、くるりと背を向けて走り出していた。
凜はその背を、苛立たしげな舌打ちひとつで見送り、柾の元に駆け寄ってくる。柾は首元の傷をきつく抑え、立っていられなくて地面に膝をついた。
さすがに目の前が揺らいでいた。血が溢れていくのと一緒に、目の前が暗くなっていくようだ。
「この大馬鹿」
立ち尽くしたままで凜が再び、柾に向かって怒鳴りつける。柾の血に濡れた手は、身なりに気を遣う凜の着物を汚したが、凜はそれに気づいた様子も無い。思わず笑ってしまった。
「何笑ってんだよ、本当に、頭おかしいんじゃないの」
「いや、その」
「怪我してなかったら、ぼくがぶちのめしてるのに」
「いや……ごめん」
「あんたがやられてんのに、ぼくを庇ってどうするのさ。意味分からないよ」
烈火のように怒鳴りつけてくる。平静であれば、こんな時間にやめなさいと叱るところだが、この時ばかりは柾に分が悪かった。愁傷にしていると、細いため息が落ちてきた。
「傷は」
眉をひそめて凜が問う。柾は痛みをこらえて傷を抑えた手元に目を向け、それから軽く笑った。
「大したことない」
「その血の量で」
「いや、ほんと」
「ばっくりやられてただろ」
「ああ、うん、確かに、一日くらいは休まないとまずいかもしれないけど」
「世話が焼けるよ、本当に」
ああ、凜に言われてしまったな、と心の中で笑う。だがこれも今日ばかりは仕方ない。凜が顔を上げて、先へ目を向けている。
ばらばらと人が駆けてくるのが分かった。先程まであんなに静かだったのに。
「用意のいいことで」
唇をゆがめて、凜がつぶやく。
「町の人間か」
「他に考えられないけどね」
吐き捨てるような声に、変に騒ぎ立てないでくれよ、と心の中で頼み込んでいた。
いきなり襲われて、すぐにたくさんの人間が駆けつけてきて。尋常の事とは思えない。刺激するのは得策でない。凜だって分かっているだろうが、普段でさえ過激なところがあるのに、これだけ怒っていては、どうか分からない。
柾は少しふらつきながら立ち上がる。必要以上に弱みを見せて干渉されたくなかった。
「おい、あんた。大丈夫か」
最初に駆けつけてきただけでも、四人はいる。本当に、待ち構えていたかのようだった。
かけられた声に柾は笑みで応えた。柾は普段通りのつもりだったが、よりによって首筋を切りつけられ、血まみれで微笑む様子は、痛ましさが勝ったようだった。
「生きてるか」
「俺は、頑丈な性質でね」
傷口は手で押さえていて見えないはずだ。どれだけの深い傷かもわからないはずだ。
だが、血の量からしても、押さえている場所からしても、能天気に構えていられるようなものではないことは、町の人間も気づくだろう。
分かっていたが、能天気にそう応えた。案の定、町の人間は彼の言葉を信用した様子もなく、口々に声をかけてくる。
「おい見せてみろ」
「いや、手を離したらまずいのじゃないか」
「とにかく医師を」
言い合う人々に少し困った顔で、柾は応える。
「そんなに大げさに騒ぐほどのものじゃないよ」
顔に飛び散った血が、顔を斑に染めているが、本人はそれにも傷にも頓着した様子も無い。
「だが、その血の量は」
「さっき確認した。血の量の割には、たいした傷じゃないよ。そんなに深くもなかった」
横から凜が口を挟む。不機嫌な麗人の通りの良い声に、人々は少し気を取られた様子で、騒ぎ立てるのを止めた。
「そうやって騒いで邪魔される方が、ぼくは苛立たしいけどね」
冷ややかに言い放つ。顔立ちが整っているだけに、見遣る眼差しの冷たさが際立っている。人々は、そこに潜む苛立ちと怒りに、束の間口を閉ざし、顔を見合わせた。
それから今度は、腫れ物に触るように、そっと言ってくる。
「本当に大丈夫なのか」
「いや、平気だよ。どこか場所を貸してもらえば、包帯くらいは自分で巻けるし」
「そういう問題じゃないだろう。傷を洗わないと」
「一通り応急用の道具は持っているし、平気だよ」
「いや……でも」
妙に、町の人間は食い下がってくる。単純に親切心とは到底思えない。今までの町の様子と、この人たちの様子を見ても。
「本当に、なんとかなるから」
柾が笑顔で押し切ると、人々はとうとう口をつぐむ。取り囲んで、立ち尽くして、どう出ればいいか迷っているようだった。その間にも、次々に人が集まってくる。
「怪我人に無理させる方が体に障るって、分からないかな。いい加減に」
再び凜がいらいらと吐き捨てて、周囲の人間は、ハッとした様子で顔を見合わせる。その中から、ぽつりと言葉が落ちた。
「そうか。まあ……運が良かったな」
途端に、凜の蛾眉がつりあがる。
「それどういう意味」
振り返り、町の人間を見回す。中から、先の言葉を放ったのだろう、凜の間近にいた人間がうろたえて少し後ずさった。
「あ、いや。不幸中の幸いというか」
「いきなり襲われて、よりによってあんなとこ切りつけられた人間に言うことか」
怒りに染まった目が、相手を睨みつける。眦がつりあがる。凄味の増した美貌に、町の人間がたじたじとなっている。柾は苦笑して、凜の前に出る。
「凜、少し落ち着け」
「あんたが、そういうこと言うわけ」
「いや……すみません」
薮蛇だったか。苦笑が深くなる。自分が割って入ったくせに、誰かに助けを求めたくなって、柾は凜から目をそらした。後から駆けつけてきた人間と目が合う。
「坊主」
相手が、何か気づいた様子で声を上げた。
「お前の顔、覚えがある。少し前にも、ここに来ただろう」
「確かに、来たけど」
「覚えてないか」
束の間柾は迷い、それから思い出して声を上げた。
「ああ、お店の旦那さん」
ひと月前、綾都と会った店の店主だ。相手は頷き、ゆっくりと言った。
「お前、久我の若君と親しくしていただろう」
その言葉に初めて、柾が眉を寄せた。人々の間にざわめきが生まれる。柾は目線だけで周囲を見回して、再び茶店の店主に戻す。
「どういうことだ」
「あとでゆっくり話す。その前に、手当てだろう」
「だからそれは」
「わたしらの手がいやなら、場所だけでも貸す。いいから、一緒に来てくれないか」
「ここと、犯人を放置してか」
「頼む。警官隊を頼むのはそれからでも遅くないだろう」
遅くない、はずがない。
だが柾は、あきらめたような笑みと共に、頷いた。
警護の詰め所に使っている建物の一室を借り、もらった包帯を巻きつける。
首元を覆う白い包帯は痛々しいが、当の本人は変わらず、にこりと笑いながら、出された茶に礼を言っている。
茶を運んできた若い男は、怪我人とも思えない暢気な笑みに面食らったようで、驚いた顔をして下がっていった。
「本当に、休まなくて大丈夫なのか」
柾に声をかけた茶店の店主は、自分が無理に引っ張ってきたものの、やはり心配そうだった。
狭い畳の部屋の中、座卓を挟んで向かい合う視線が問うようで、柾はそれにも笑みを向ける。
「俺の方はね。別に、まだなんとか」
柾よりも凜の方が余程興奮していた。怪我をしただけでなく、厄介事に関わろうとする柾に大憤慨で、別の部屋でお茶をすすっている。
話を聞くつもりなどさらさらないということだ。柾が何をしようとも、自分はそれを許容したわけじゃないという、意思表示だった。
機嫌を損ねると後が大変なんだけどなあ、と柾は内心苦笑してしまう。
「お前さんは、どうしてまたこの町に戻ってきた」
湯飲みから口を離して、柾は相手の不安そうな顔を見た。
「往路と同じ道を復路に選んで、何か問題があるかい」
「いや、そういうわけではないが」
珍しいことでもないし、同じ道を通ってくれたほうが、町にとってはいいはずだ。
そんな分かりきったことを尋ねるのは、勿論他に言いたいことがあるからだ。
「言いたいことがあるのなら、はっきり言ったほうがいい」
遠まわしな話は好きじゃないんだよ、と柾は人の好い笑みのままで、意地悪く言った。相手は少し逡巡し、視線をそらして畳の目を追い、そのままで言った。
「久我様のことで、頼みがある」
「久我の家に何かあったのかい」
問いかけに、相手は再び躊躇いを見せる。ゆっくりと、自身で確かめるように口にした。
「何もない」
あれだけ思わせぶりに、何かある風を臭わせていたくせに、店主は目を上げて言った。
「何もないのが、おかしい」
柾は苦笑してしまう。
「それは、決め付けってやつじゃないのかい」
「お前さんは土地の人間じゃないから、そう言っていられる。何かあるはずなのに、何もない」
言いたいことが、要として掴めない。
凜ならば、思わせぶりに人を引っ立てておいてその言い草はなんだ、と怒ったところだろう。だが柾は茶を飲み、大きく息をついて、苦笑を微笑に変えて言った。
「まあ、土地の人間じゃないからと言われてしまったら、その通りだし、何にも言えないけどね」
「まあ、な」
責められるよりも、相手は申し訳なさそうに下を向いた。それに、と続ける。
「綾都様を、最近見かけない」
「病が深くなったってことじゃないのか」
「そうかもしれない」
息をつく。
「そうじゃないかもしれない」
なんだ、と柾はまた笑う。
「慎司はどうした」
「お姿が見えない」
「はっきりしないな」
「はっきりしない。したくない部分もある」
土地の者にしか分からない、窮屈で、そして訴えるに訴えられない事情と心情。
「久我様は、この土地の庇護者だからな。久我様のおかげで、こんな辺鄙な場所でも人の出入りがあって、町も栄えている。誰もが感謝している。ここはそういう土地なんだ。昔から」
感謝、と言うがそれは、ただの礼ではないだろう。自分たちよりも力あるもの、まったく違う階層、世界を生きている者への畏怖。そして、打算。
だから、何か不審に思うことがあっても、誰も問いただすことが出来ない。叩き込まれた身分の壁はそう簡単に取り壊せるものじゃない。
「慎司様はとてもいいお人だし、綾都様も、最近はあんなだが、とても気さくで屈託の無いお人だった。だが、もともと久我の家は、町の人間とは遠く離れたものだ。先代は町の人間と自分たちは別の生き物だと思っているかのようだったし、代々がそうだろう。実際我々もそう思っていたよ」
「あちらのお家は、よくない噂も多いと聞いたけど」
「ああ、慎司様と綾都様のお生まれのことか」
「まあね」
「ああいうお家の人には、側室の一人や二人いるもんだろうし、とかく決まりが新しくなって煩い世になったものだから、余計に裏で色々おありなのだろう」
簡単に言う店主の言葉からは、自分たちには関わりのないことだ、という臭いと、そういったことはどうでもいいのだという意識が見える。それは、どうでもいいことであるくらい、相手を盲信しているのか、相手が与えてくれる利潤が大事なのか。
「慎司様が、綾都様に毒を盛って、病を装って亡き者にしようとしたのだとかも、誠しやかに言われてもいるな」
その話は初耳だった。だが、そういう話が出てもおかしくはないのだろう。
彼らに触れること出来ない、名家の囲いの中を、人々は好き勝手に想像する。
「慎司が間違いなく家督を継いだのなら、わざわざ綾都を殺す必要はないだろう」
「さあ、人の噂なんてものは無責任だしな。お二人は昔からこの土地で過ごされていたから、土地の人間はお二人が親しくされていたのを知っているが、都の人間はどうかな」
「確かに、形式だけ聞くと相続争いのようなものがおきてもおかしくないように思えるけどね」
都の人間は、それは楽しそうに、噂話を捏造し、語ることだろう。
「今問題なのは、そんなことじゃないが」
店主は、大仰にため息をついた。疲れきっているのがよく分かる。町の誰もが、同じように暗い表情をしていた。
「お前さんには悪いが、上に届け出るのは、少し待ってもらえないか」
首に斬りかかられ、殺されかけたのに。怒鳴り散らす凛の姿を想像しながら、柾は、小さく笑みを落とす。
「揉み消す気か」
決して、珍しいことではない。こんな辺鄙な町なら。
「全部が解決してからでも、遅くは無いだろう」
「遅いとは思うけどね」
詰るではなくただ事実を言う柾に、店主は再び息を吐いた。空気が重く澱む。
冬を越え、花が賑わう季節にさしかかっているというのに、この町の人はまだ、捕らえられている。
「この町には異変が起きている。ここのところ、ずっと。何人も襲われている。あんたに、運がいいと言ったのは、今まで襲われた人間で生き残った者がいないからだ」
「目撃者がいないということか」
「姿を見た者はいる。だが、動転してしまって、しばらくろくにもしゃべれなかった。落ち着いてきた頃には、相手の顔も何も覚えていないと言うし、すっかり自分で記憶を封じてしまったようだ」
人は、自分に都合の悪いことは、意図的にであろうとそうでなかろうと、簡単に捨ててしまえる。そう都合よく出来ている。そうでなければ生きていけないほどに弱い。
「それなら、尚更届け出て、政府に動いてもらった方がいいんじゃないか」
「それだけじゃない。ただの人殺しならさっさと届け出ている。だが、殺されるよりも酷いことが」
店主は言い淀んで口を閉ざした。柾はただ視線を向けて、相手が口を開くのを待っている。真っ直ぐ向かってくる眼差しに店主は再び目を落とし、口にするのを躊躇い、結局言った。
「人を食う鬼が出ている」
放たれた言葉に、柾は眉をあげる。
「それは、何かの例えか。言葉通りの意味なのか。野犬とかじゃないのか」
「言葉通りだ。最初は人の死体が盗まれていた。生き残りの男が犯人を見たのは、その警護の時だ。うわごとで人だ鬼だと言っていた」
「それで鬼だと皆が信じたのか」
「こちらだって、本当はこんな話したくもないし信じたくもない。だが、動物は刃物を使わない。人は人を食わない。もし人だとしても、もう人じゃない者の仕業だ」
食う、という言葉については、問わなかった。沈黙した柾に、店主は自嘲気味に言う。
「笑えるだろう」
「いや」
否定しながら、柾は密やかに苦笑する。信じないも何もない。
人々が示し合わせて、大掛かりな行事でもしているのでなければ、これだけ悲痛な空気が満ちていることがおかしい。だがこの宿場の町で、わざわざこんな時間に、旅人を脅かして楽しむ意味がない。
柾が否定もせず笑いもしなかったことに、店主は少し安堵したようだった。
「あまりな醜聞と恐怖に、皆が口を閉ざしていたい」
分かる気がした。表立って話にしないことは、認めていないことだ。何が起きているか知っていても。でも言葉にして、人とそれを交わしてしまえば、現実になる。都合よく消し去ることが不可能になる。
「随分あっさりと話すね」
「誰も口に出さないが、皆、久我様を怪しんでいる。だが、我々は近づけない」
外の人間の手が必要なのだ、と相手は言った。
「生き残った者なんて、いないのだろう」
どうしてそこに行き着く。予想はしていたが、実際に口にされると違和感がぬぐえない。
「確証は」
「何も」
はっきりと相手は言った。
違和感があるということ。怪しむ理由なんて、人にはそんなもので十分なのか。
自分たちと違う、というだけで。散々今まで助けられていても、異質なものは、真っ先に疑われるのか。ただ、確かに、久我の家には危ぶまれる要素が潜んでいるのも事実ではあった。
「綾都か、慎司か」
疑っているのはどちらだ、と問う声に、店主は首を振るだけだった。
綾都か、慎司か。綾都なら、人を襲った挙句、走って逃げていく力がまだ残っているだろうか。今までの放蕩ぶりから怪しまれるのは彼だろうが、しかし。
店主は答えない。口にしてしまいたくないのか。ゆるゆると逃げ、ただ欺瞞に満ちている。
「で、俺にどうしてほしい」
苦笑気味に訪ねると、相手は顔を上げて、すがるように見てくる。
「本当に、同じ道を選んだだけか」
どう言ってほしいのだ、と凜なら答えただろう。だが柾は、苦笑気味に言った。
「久我の家を訪ねるつもりだった。そう答えてほしいのだろう」
もともと、そのために戻ってきたのは事実だった。復路に同じ道を選ぶ必要などなかったのだ、本当は。戻ってくる意味がないのだから。行く当てのない旅路には、戻る場所もない。
柾の言葉に、相手は、そうだ、と頷く。
真意はもはや、尋ねるまでも無い。
「視察して来いってことか」
「……言い方は悪いが、そういうことになるな」
「自分たちでは行かないのか」
「わたしたちには、あのお家は、あまりにも遠くて親密なんだ」
真逆の言葉を言うが、それはどちらも真実だろう。疎遠だが、頼っていたいもの。真正面から弾劾はしたくないもの。
「どっちにしても、様子は見に行くつもりだったけど」
柾は、やれやれ、という調子で言った。言外に、承知したと伝える彼に、店主はあからさまに安堵の息を吐く。そして続けて言った。
「お前さんたちには申し訳ないが、事件がおさまるまで、ここに留まってほしい」
外聞か。
無言の問いかけに、相手は自嘲の笑みを浮かべた。
「分かってくれ。我々には生活がある」
「それで被害者を増やしていたら世話無いよ」
「分かっている。だから、助けてくれ」
声音はもう、哀願するものになっている。
「生き残ったのはあんた一人だ。相手を見れば、あんたは分かるのだろう」
困ったな、と柾は苦笑を浮かべる。
いくら柾が平気そうだからと言って、危うい箇所を切りつけられた怪我人であることも、すっかり忘れてしまっているのだろう。だからと言って相手を責める気は無かったが、やはり少し苦笑はしてしまう。
どうせ放っておけなかったし、断るつもりもなかったが、凜がどう言うかな。
考えるだけで、少し気が重い。
山中の久我の家は、場違いなほどに大きく立派だ。元は大名家筋というだけあって、無骨で圧力を放つ。町の人間が近づきたがらないのも、遠慮をしてしまうのも分かる気がした。
この土地と関わりをもたない人間にとっても、その威力は十分なものだった。
とはいえ、柾はそもそも身分だとかそういうものを気にしない性質だから、他の人間とは比べられないのかもしれない。それでもこの門からは強さを感じる。
他者を圧しようという、抑圧を感じる。容赦なく、他者と切り分けようとした意志が、確かにあった。砦のようだ。
一人で久我家を訪れた柾は、木と鉄で出来た重圧な門を見上げ、少し考え、結局拳を持ち上げた。
どんどんと、強く叩く。傷口に響いたが、仕方ない。
最近、慎司も綾都も町にも姿を見せないというから、突然押しかけても出てきてくれるかどうかわからなかった。だからこそ、遠慮よりも、呼ばわり続けないと駄目かな、という意識があって門を叩き続ける。
「誰かいるか」
それでも、反応が無い。
傷の痛みがひどくなってきて、拳も痛みだしたので、柾は眉をしかめながら門から離れた。拳をさすろうにも、空いた腕も怪我をしているので、思うようにならない。
お前は騒ぐから、と凜を置いてきてしまったが、来てもらったほうが良かっただろうか。わざわざ機嫌を損ねてまで言い聞かせたのに。
やれやれ、と大きく息を吐く。
日は高く上っていて、太陽の光は暑いくらいだ。久我の家は強固にそこにあるが、周囲は草木に満ちている。木上にも、根元にも小さな花が咲き、のどかな風景が広がっている。
昼になってしまえば、陽があれば、夜の恐怖など、幻のようだった。
自由が利くほうの腕を腰に当て、そびえる門を見て、どうしたものか考える。真正面から正攻法で行くつもりだったのだが、やはり、どうしたものか。
もう一度声をかけてみようか。そう思い、再び門に近寄って拳をあげようとしたときだった。
がたん、と向こう側で音がした。
大きな門の下、出入りのための戸が小さく口を開ける。あげかけた拳を下ろし、様子を見ていると、身を屈めて少年が姿を現した。
少しまぶしそうな顔をして、中天の太陽を見上げる。その顔がいやに青白い。
「驚いた」
ほんの数ヶ月しか経っていないとは思えないくらいの変わりようだった。少し髪が伸びたせいもあるかもしれないが、以前よりも頬がこけ、顔に落ちる影が濃い。
慎司は柾を見て、少し考えるように目をさまよわせ、ああ、と声を出した。
「お久しぶりです」
眩しそうに目を細め、茫洋な笑みをうかべる。曖昧な表情に、柾は不安を抱きながらも、普段通りに「おう」と軽く応えた。
「迷惑かなと思ったんだが、やっぱり放っておけなくてさ。戻ってきたんだけど」
「そうですか。それは、気にかけていただいてありがとうございます」
丁寧な物腰は変わらない。だが、以前と何かが違う。――覚えている姿よりも、痩せたように見える。そのせいだろうか。
「大丈夫なのか。随分痩せたな」
「そうですか。あまり、気にしていないので」
「看病する側が倒れないように、気をつけろよ」
「ええ、まあ」
「綾都は」
問いかけに、慎司はぴたりと口を閉ざした。柾を見ているのに、視線は結ばれていない。
聞いているのかとあやしく思い、柾は再び問うた。
「先に町を通ってきたら、誰も最近綾都を見ないって言うから。どうしているのか、心配になって」
「それは、ありがとうございます。心配されていたと伝えておきますから」
「うん」
以前は、見知らぬ彼らを気軽に家へ招き入れたのに、彼の口ぶりからだと、門から中に入れるつもりはないようだった。別に期待していたわけではないが、態度の豹変振りが気になる。
それとも、外部の人間を入れたくないくらい、綾都の病が悪化したということだろうか。――それとも。
慎司は柾の着物の襟から覗く包帯に気づいたようで、驚いたように声をあげた。
「その傷は」
「ああ、昨夜ちょっと」
「ちょっと、というものでもないでしょう。どうされたのですか」
「町の方で騒ぎがあって。知ってるかい」
「――ああ」
嘆息のような声で、慎司はただ声を出した。曖昧で、明確に答えない。手応えのなさを感じながらも、柾は続けて言った。
「死体を狙った盗人が出ているのを知っているかい」
「ええ、騒ぎくらいは耳に届きます」
「ここのところずっと、町も人が襲われているそうだな」
「恐ろしいことです」
「お前さん、この町の名士なんだろう」
「ええまあ、名目上はそうですが」
「把握していないとまずいんじゃないのか」
「ぼくが、何から何まで、面倒を見ないといけないのですか」
少し憂鬱そうに彼は言う。
綾都のことであれだけ必死になっていたから、他が疎ましくなるのは仕方が無いのかもしれない。
けれど以前見た慎司は、町の人間に対して丁寧に接していた。久我と町の人間は同じ土地に囚われながらも、別のものとしてそこにあった。それでも慎司は、人々と同じであろうとしているように見えたのに。
彼の言葉とも思えないことに、柾は驚きを禁じえない。けれど同時に、妙な納得があった。先刻からの、気だるそうな様子を見れば。
「綾都は、生きているのか」
言葉を口にした途端、横をすれ違うようだった慎司の目が、柾を捉えた。
「無遠慮に過ぎませんか。どういう答えがほしいのですか。あまりにも不躾ではありませんか」
眇められた目が、敵意を孕んだ視線が真っ直ぐに向かってくる。以前、綾都を背負って現れた柾を見たのと同じ目だった。害するものを見る目だ。
「ああ、悪い」
柾は朗らかに、素直に謝った。
「最近誰も、綾都の姿を見ないって聞いたから」
心配になって、と言うと、慎司は表情を和ませた。微笑むのとは違う。以前は悲痛に眉を寄せていることが多かったが、そうではない。悲壮感の漂う、そのくせ悠然とした笑みだ。
「安静にしているからでしょう。今までの方が、おかしかったのですから」
「綾都に会えないかな」
「いえ、それは」
間をおかずに拒絶が返る。
「無理させるつもりはないんだけど。そんなに悪いのか」
「そういうことではありませんよ。綾都もやっと、ぼくの言うことを聞いてくれるようになったというだけで」
「家で雇っていた人間に、暇を出したのだって聞いたが」
「ひとりですることに慣れてきましたので、必要ないかなと」
「前までは医者が多く出入りしていたのに、その様子もないと聞く」
「もっと良い医者を雇っただけです」
「言うね」
柾も笑みを返す。
「だけど、その医者だってここに来るには、町を通るだろう。町の人間は、誰も知らないみたいだけど」
「噂話ばかり好きで、困った人たちですね」
哀れむような吐息がひとつ。
「そう、変な噂話が流れてるよ」
慎司は、何ですか、とは問わない。興味がないということなのだろうか。以前なら、お愛想でもそう尋ねたと思うのに。
「人を食う鬼が出るって」
「何が、おっしゃりたいのです」
「用心しろよってだけ」
「ご忠告、痛み入ります」
「あんたや綾都が姿を見せないから、町の人間が不安がってるんだ。綾都の様子が落ち着いたら、少し散歩でもさせてやれよ」
「そうですね」
「お前さん、様子がおかしいぞ。大丈夫なのか」
「ええ」
何を言っても、慎司は淡々と相槌を打つ。水面をたゆたうように、頼りない笑みをにじませたままで、あやふやに。迷惑がられているのはあからさまで、柾は少し困ってしまった。
それでも、再び問いかける。何よりも、気にかかる問いを。
「綾都は本当に、ここにいるのか」
慎司はもう、過敏な反応を見せることも無かった。風に揺れる花を見遣り、少し睫毛を伏せたまま応える。
「何をおっしゃっているのか分かりません」
考えては、いけない。
「綾都はいつだって、ぼくのそばにいます。ぼくらはもう、別の者ではなくなったのだもの」
少年はしあわせそうに、やわやわと微笑んだ。
「何をした」
「ぼくは、何も」
――――何も。
お大事に、と言った柾に慎司は、あなたも、と返して、道を下っていく背を見送る。
のどかな風を感じ、大きく息を吸い込んでから家に戻り、門を固く閉めた。軽い足取りで広い家を渡り、自室に戻る。
家の中で、ここだけ異質な空間だった。和風にしつらえられ、無骨な空気を放つ家の中で、ここだけが西洋のものにあふれている。切り取られたように。切り離したように。
キャンバスの前に座る。筆を手に取り、パレットで絵の具を捏ねて混ぜて、画面に押し付ける。何度も何度も。塗りこめていく。鮮やかな血の赤。空の青。夜の藍。繁る緑。灯火の色。どんどん、厚さを増していく。
もはや画面には、何の形も残っていなかった。何の造形も。
ただ、感情だけが押し付けられて。
絵筆を放り出し、いつの間にか眠っていた慎司は、床の上で伏していた顔をあげて身を起こす。
「待って」
唇から声がついてでた。瞳を開き、瞬いて、目の前を確認する。うつらうつらとしていた眼差しのまま。
嫌な夢を見た。
あの夜の、静かな夢。
「綾、どこなの」
ゆらゆらと、まどろむように現実と夢を行き来する。ただよって、ただよって、目覚める気もないまま、ただ揺られている。
たくさんの感情と理性が、人の心の中で渦巻いている。憎しみ、恐れ、憐れみ、優しさ、純真、名のついた細い糸が織り込まれて、ひとりの人間の心を形作っている。
けれどもまるで、ひとつひとつ、その糸をほぐしていくかのように。
きちんとていねいに織り込まれ文様を形作っていたところから、くしゃりと絡まっていたところから、そうしてようやく保っているそこから、狂気と言う名の指先がほぐしていくかのように。
男ならしゃんとして武術を学べ、とやかましく言う祖父もいない。久我の次期当主が絵だなんて、と叱る祖母もいない。父も母も、始めから記憶には遠い。そして。
慎の絵は奥が深いな、と悟ったような、半分おどけたような口調で言ってくれた綾都も、もういない。幼い頃からずっと一緒に育って、助け合いながら生きてきた綾都は。
彼はもうあの頃のように笑ってはくれない。
深く深く病の底に眠るだけで。
「綾?」
ぼんやりとした声を出しながら、立ち上がる。仕草が危うく、歩くことを覚えたばかりの赤子のように、ぽてぽてとした動きで、歩を進める。
「綾都」
そして庭を眺めて、少年はふわふわとした笑みを浮かべる。嬉しそうに笑う。
綾都は寒椿が好きだった。雪の中に、緑と赤の花はとても鮮やかによく映えた。
静謐の中にも、綾都がとても華やかだったように。けれど決して賑々しくはなかったように。精悍でも、存在を強く教える強い花。だから、慎司も好きだった。
今、その花はもうない。
変わりに、別の季節を告げる色とりどりの花が、むせ返るような匂いを振り撒き、満ちている。
先陣を切る沈丁花。淡い色合いとは真逆に、香りを撒き散らす花。
艶やかな寒緋桜。つぼみをつけた鶯神楽。家を出れば、蒲公英や菫が咲き始めているはずだ。命が沸き返る季節。
だけど、少年の姿は。
すこしずつ、ひとつずつ、壊れていく。
ゆるやかに。