翌朝、いつも通りに誰にも挨拶されずに教室に入ると、クラスの連中はちらっと俺の方を見るだけで、すぐに目を逸らす。『なんだ今日も来たのか』と言わんばかりである。
 そりゃ来るよ。あまり休むと成績も下がるし、と心の中で愚痴りながら、自分の席に向かうと、クラスの女子が座って席でおしゃべりしていた。しかし、俺が来たとわかるとすぐさっと立ち上がって、その友達と少し離れた場所でお話を再開する。
 いちいちその反応が傷つくんだけど。別に座っていたくらいで怒りはしないのに。
「おはよっ、麻生君」
 相変わらずの朝に気が滅入っているところに、いつもと違ったのは、女の子から挨拶があったことだ。声をした方を振り返ってみると、噂の転校生・麻宮伊織が天使の様な笑顔を向けてくれていた。
「お、おはよう」
 いきなりで驚いてしまって声が上ずりそうになったが、何とか平静を装って挨拶を返した。この高校生活でこうやって女の子に挨拶してもらえるのは、初めてではないけれど、随分久しぶりな気がする。入学したての頃以来かもしれない。
「昨日はありがとう。お陰様で、書類も無事提出もできました」
 麻宮さんが両手を合わせてにっこりと笑いかけてくる。
「そっか、それはよかった」
 思わずにやけてしまいそうになるが、何とか思い留まった。ここでにやけようものなら、クラスの連中に何を言われるかわからない。彼女の名誉の為にも、教室の中では俺なんかとは少し距離を置いていた方が良いのだ。
 そのまま彼女は何か俺に話そうとしたが、すぐに他の女子生徒に呼ばれてしまった。彼女は「ごめんね」と眉根を寄せて小さく言って、踵を返してその子達のところに向かった。
 あれ、もしかして今もうちょっと俺と話したがっていた? いやいや、そんな事はないか。でも、さすがは麻宮さんだ。もうクラスに溶け込んでいるようで、彼女の周りには人が集まっていた。麻宮さんの性格の良さ、親しみやすさ、それに彼女の気遣いの結果だろうか。
 つくづく俺とは住んでいる世界が違うなと感じながらも、昨日の彼女の気苦労がふと脳裏をよぎった。きっと彼女なりに気苦労の多い生活をしているのだろうとは思うが、その努力は早々に実を結んでいるようだ。おそらく俺のような人間とは先天的に持っているものが違うのだろう。
 ただ、いつもと違うのは教室の中だけではない。今日は廊下もやけにうるさいのだ。これも彼女の影響で、他クラスの連中が麻宮さんを見に来たとかで何やら廊下で騒いでいるのだ。
「お、転校生ってあの子? てかヤバいくらい可愛いじゃん!」
「転校生ー、こっち向いてー」
 ふざけた他クラスの男が廊下からそんな呼びかけをし、彼女は戸惑いながらも会釈するように少しだけ頭を下げていた。同じクラスの女子達があんな奴等放っておけばいいと言う忠告しているが、正直同感だ。
 何となく苛々した面持ちのまま、俺は中庭に目を向けた。
「よぉ麻生、朝から嫉妬か?」
「あ? どこが嫉妬してるように見えんだ?」
「その、ご機嫌斜めなとこだよ」
 苦笑して答える信。
「自称ナイトの泉堂は? こういうときにあいつが必要なんだろ」
「まだ来てないみたいだが、不安だな……麻宮のこの人気ぶりにあいつがいると乱闘になりかねん」
 信の心配ももっともだ。泉堂の事を心配しているわけではないが、それで麻宮さんに危害が及ばないかが心配だった。ただ、もうこんな風に彼女のことばかり考えてしまっている時点で、俺も大概ダメだと思う。
「言ってしまえば、俺等はクラス同じだから話そうと思えばいくらでも話せるが、奴等には接点すら無いんだ。ああやるのも作戦の一つだろ」
「そんなもんかな……」
 納得しているわけではないが、適当に流す事にした。俺も同じクラスで話せる立場ではあるけども、なんだか麻宮さんが見世物みたいになっているので、少しそれが嫌だった。彼女もどこか居心地が悪そうだ。
「お、噂をすれば彰吾だぜ」
 教室の入口を見ると、泉堂彰吾がいた。泉堂は真っ先に麻宮さんのところにずんずんと向かっている。
「ひどいやんか、伊織! 俺を放ったらかしたまま行くやなんて」
「放ったらかしてって……彰吾と一緒に来る約束なんてしてたっけ?」
「そんな殺生な! 俺は伊織のナイトやろ? 一緒にいるんは当たり前やんか」
 そのナイトという臭過ぎるセリフに、麻宮さんの周りにいたクラスメイト達は爆笑する。
「何で笑うんや⁉」
 麻宮さんは額に手を当て呆れている。恥ずかしさをごまかしているのかもしれない。
「それより彰吾、ちゃんと麻生君に御礼言った?」
 麻宮さんが話題を変える為なのか、咎めるように泉堂に言った。
「おぉ、そやった! 麻生、昨日は教えてくれてサンキューや」
 泉堂は俺の方を見ると、少し声を張って手を上げてくれた。俺は『別にいいよ』という感じで、手だけ振って答える。
 話題をすらっと変えている辺りはさすが泉堂を扱い慣れていると言えるのか……ただ、こう、クラスの視線がこっちに集まるので、俺の名前を出さないで欲しいのだけど。それに、横にいた信が怒りに身を震わせているし。
「信、どうした?」
「お、お前……まさか麻宮からの好感度アップの為に彰吾に……⁉」
「何でそうなるんだよ!」
 流れ弾もいいところだ。それからまもなくして一限目のチャイムが鳴った。ゴングに救われたという言葉はあるが、チャイムに救われる事もあるようだ。