ボウリング場を出たところから住宅街に向かって歩き、なだらかな坂を少し登ったところに俺や信の行きつけの店がある。
確か、信が例のミステリアス眼鏡美人・中馬芙美に振られて、フラフラと入った店がここだったらしい。翌日凹んでいるのかと思えば『めちゃくちゃ旨い店がある!』と何やら喜んでいる信に連れられてくると、確かに旨かった。信が『神様が失恋の慰めにくれた恵みだ!』と言っていたが、あながち否定もできない。
それは料理の味の事だけではなく、そこのマスターがまた良い人なのだ。信が恵みと言ったのは、そっちの方かもしれない。
坂を登っている途中で看板が見えてきた。『SUN’s CAFE』……通称・Sカフェ。太陽のカフェ、という何とも傲慢且つ強気で一瞬笑えてしまう名前だが、インテリアにもかなりこだわっていてこの店全体の雰囲気が俺は好きだった。
「素敵なお店だね」
店の外観を見た麻宮さんの感想がそれだった。ドアを開けるとコーヒー豆の香が鼻を擽る。シャンデリアやテーブル、時計まで地中海風のインテリア家具で揃えられていて、店内はまるでファンタジー世界だ。ランチの時間帯が過ぎているせいか、客は読書をしている老人と雑誌を読んでいる営業サボり中のセールスマンっぽい人だけであった。
「いらっしゃい、真樹。へえ……久しぶりに来たかと思えば彼女連れとは。驚きだね」
カウンターにいたマスターがこちらを見てにやりと笑う。マスターは、細身だが長身で、年はまだ三〇前後と若く、仕事がデキそうなエリート君みたいな印象を受ける人である。名前は知らない。だから俺達はマスターと呼んでいるのだった。
マスターの素性は結構謎だった。基本的に一人で営業しているのだが、信の情報によると、時たま大学生風の美人がお手伝いをしている時があるらしい。仲睦まじい様子から、マスターの彼女なのでは?と言っていたが、まだ俺は見た事がない。
またまたご近所さんの噂によると、過去に何者かの謀略によって精神病院に軟禁され? そこから脱出してその企業と戦った経歴があるとかないとかいう、まるで漫画だか小説だかみたいな話を聞いた事もある(以前マスターに訊いたら一笑されて終わった)。
ただ、ここに至るまでのマスターの経歴は一切の謎だった。
「そんなんじゃねーよ」
ぶっきらぼうに答える。こういう話はどう返していいかわからない。横を見ると、麻宮さんもやや顔を赤らめている。さっきあんな事があったものだから、余計にそれ系のワードはタブーだ。
「おや、すまない。まだ発展途中だったかな?」
「マスタァ……!」
目で威圧する。これ以上何か言われたら間が保たなくなる。せっかく元の状態に戻ったのだから、これ以上乱さないで欲しい。
「悪かったよ。そんなにマジにならなくて良いでしょ」
対して悪びれた様子もなくカウンターに二つ分の水を置いた。
「ま、ゆっくりして行ってよ。昼はもう済ました?」
「いや、まだ」
「じゃあ、特別ランチを作ってあげるから、少し待ってな」
ついでにおしぼりも置き、彼は奥に入って行った。
「何か良い人そうな感じだね」
そんな俺達のやり取りを見ていた麻宮さんが率直な感想を述べた。
「ああ、良い人だよ」
乱暴で多少口が過ぎるけど、とは思っていても口には出さない。何せ地獄耳かと思うくらいの聴力を持っているマスターである。ぼそっと言っただけで命取りだ。恐や恐や、と思いながら水を口に運んだ。
「何か付け加えたそうだね、真樹」
「うわっ!」
水を零しそうになる。知らぬ間にカウンターに戻ってきていたらしいマスターが、目の前にいた。これでは地獄耳というレベルを越えてエスパーだ。
「ったく、せっかく奢りだって言うのに、お前にだけ払わせるよ?」
無礼な奴だ、とでも言わんばかりに俺を見る。何も言ってないのに……。
「え、奢りって……良いんですか?」
「なに、構わないよ。今まで信と来るか、一人でしか来なかった孤独な真樹が女の子を連れてきたんだ。それくらいはさせてもらうよ」
一瞬マスターが仏様に見えたが、彼は次にこう宣った。
「しかし、またどうしてこんな奴と? 同じ学校かい?」
マスターは手元を器用に動かして料理を作りながら麻宮さんに話し掛ける。こんな奴って……それは無いだろう。
「あ、はい。私、先週に桜ヶ丘高校に転入したばかりなんですけど、たまたま麻生君と同じクラスになったんです」
「ほう、転校生と早速デートとは……真樹も案外隅に置けないじゃないか。真樹は優しくしてくれてるかい?」
いきなり何聞きやがんだ、このオッサンは。だからデートじゃねえっつってんだろ、と言おうと思ったが、麻宮さんはにこにこしながら「はい、とても」と答えていた。
「たまにいじめられてますけど」
そう付け加えて、麻宮さんが横目でちらっと俺を見る。そんなにいじめた記憶はないのだが……。
「ははっ! それは照れ隠しだと思いなよ。こいつは自分の気持ちを正直に伝えるのが下手なんだ。自分の思ってる事とは逆の事を言ってしまったり、意識的に本心を隠そうとするのさ」
「あ、そうなんだ?」
麻宮さんが新しい事を知ったと言わんばかりに楽しそうにこちらを見てくる。ここに連れてきたのは間違いだったかもしれない。
「なんだよ。それじゃあまるで俺がコミュニケーション下手糞みたいじゃないか」
「お世辞にも上手いとは言えないでしょ」
そう言われると、唸って下を向くしかない俺である。しかし、そうなのだろうか? 俺はなるべく正直に生きているつもりではある。それはもちろん、嘘を吐いてしまった時もあるけれども。
「やっぱりマスターには敵わないな」
「当たり前だ、アホ。君みたいなケツの青いガキにはまだ負けないよ」
アホって何だよ、アホって……いい加減凹むぞ。麻宮さんはそんな俺を見て、面白そうに笑っていた。確かにここまで俺がやられる姿は学校では見れないし、彼女からすれば新鮮な光景だろう。
「それよりどう? 親がいない生活ってのは」
マスターが野菜を刻みながら訊いてきた。
「え、麻生君って一人暮しなの?」
「何だ、そんな事もガールフレンドに言ってなかったのかい?」
呆れた、とマスターは大きな溜め息を吐いた。
「だから、ガールフレンドじゃないって」
そう……マスター以外には言ってなかったのだが、今うちに親はいない。
ちょうど麻宮さん達が転校してくる少し前の話だ。元々うちの収入は母が経営する英会話教室と父の塾経営だったのだが、親父が夢であったビリヤード店を開いたので、そちらの経営に専念する事になったのだ。
母が経営している英会話の方は国際化ブームの波に乗って上手くいっているのだが、今は休業している。何やらビリヤード店経営でも何でも初めは大変らしく、色々やらなくてはいけない事も多いので、一ヶ月くらい母も向こうにいるそうだ。フードメニューの料金設定やマニュアル作り、細かい経費運用……詳しくは聞いていないが、他にもたくさんあるのだろう。
そのビリヤード店が近かったら自宅通いで問題無かったのだが、埼玉県内にあるので、激務の後に毎日往復するのはやはりしんどいらしい。アルバイトや正社員が見つかるまで母が父をフォローしてやらなければならない、という事なのだ。俺よりも家事ができない親父なので、そちらを優先した母の気持ちも解らなくもない。
というわけで、当分親子三人暮らしはお預けなのである。もっとも、煩い親がいなくて平和な生活を送れているのだけれど。
しかし、その一人暮らし云々を無しにしても、親父の決心についてよくやったと思っている。塾を切り捨てるのは危険も伴うが、四十半ばにもなって自分の夢を持ち、そして叶えることができたのは凄い事だ。優柔不断な俺にはきっとこの選択はできないだろう。
「別に俺としては気が楽だからずっとこれでも良いんだけどな」
「君達くらいの年代ならそうだろうね。気が楽なのは良いけど、ちゃんと飯は食べなよ。体を壊しちゃ話にならないからね。少なくともここに来ればまともな飯が食えるよ」
「営業かよ」
「真樹の体を心配して言ってるんだよ。もちろん、それもゼロじゃないけどね」
マスターは笑って特別ランチを俺達の前に出し、もう一度奥へ入っていった。
「何て奴だ……」
「でも、マスターさんもちゃんと麻生君の事考えてくれてるんだと思うよ?」
「わかってるよ」
もし営業の事を考えているのであればこうやってタダで食わせたりはしないだろう。それに、俺や信の御用達メニュー・学生ランチなんて腹一杯になるのにたったの四百円だ。
赤字覚悟としか思えないし、彼が金儲けの為に店を開いているのではない事はわかっている。きっと彼はこの店を持つ事で新たな人との繋がりや、それ以外の何かを探しているのだろう。それが何かまでは俺にも解らないけれど。
「まあ、体調管理には気をつけてるから。それより、冷めないうちに食べよっか」
「うん、凄く美味しそう。マスターさん居ないけどいただきまーす」
麻宮さんは可愛く手を合わせた後、パスタを口をつけた。
「え、おいしい……!」
彼女の驚きも無理もない。悔しいが、味は本当に旨いのだ。なかなかパスタだけでここまで感動を覚えれる店はそうそうない。
「どうやったらこんな味出せるんだろ?」
「聞いても教えてくれない。企業機密らしい」
「そっかぁ。じゃあ仕方ないね」
ご飯を食べた後は、夕方までカフェで他愛無い話をした。
マスターは途中で会話に入ってこようとはしなかった。彼が奥に行ったのは、おそらく『後は若い二人で楽しめ』といった意図があるのだろう。その辺りはキチンとしている。
もちろん話に入ってくる時はあるが、それは入られても全く問題無い時や、逆に会話に入ってもらいたい時等、こちらの状況を上手く見極めた上での事だ。マスターは、そういった空気の読み方が絶妙に上手い。口では文句ばかり垂れているが、彼の様な大人は凄いと思う。一見それ等は当たり前のようだが、人間、どうしても自分の感情や用事等を優先してしまいがち。細かく空気を読める大人は案外少ないのだ。そういった意味で、マスターは誰よりも思いやりがある人で、彼のそんな人柄に惹かれて、皆この店に足を運ぶようになるのだ。俺や信もそういった客の一人だ。こういった大人がもっと一般化されれば、もう少し日本もマシな国になるんだろうなぁ……等とくだらない事を考えてしまうのであった。
それからしばらく話しこんで、時刻も午後六時に差し掛かろうとしていた。ディナー目当ての客も増えてくる時間でもあるので、マスターの迷惑にならないうちに帰る事にした。
「ご馳走様でした。とても美味しかったです」
「気に入ってもらえて嬉しいよ。またデートの帰りにでも寄ってね」
またこのオッサンは余計な事を言う。しかし、麻宮さんは恥ずかしそうに、一応頷いた。って……頷いていいのか?
「あ、そうだ。真樹はこう見えて案外崩れ易いんだ。何かあったら助けてやって」
「え、あっ……はい!」
顔を赤くしながら返事をする麻宮さん。こっちも頭が沸騰しそうだ。
「は、早く帰るぞ!」
「まぁ気をつけて帰りな。特に真樹、浮かれてドブに嵌まらないようにね」
「嵌まるかぁ!」
そう言い放って、カフェを出た。なに、全部照れ隠しだ。
ともあれ、こんなに充実した休日は久しぶりだった。
確か、信が例のミステリアス眼鏡美人・中馬芙美に振られて、フラフラと入った店がここだったらしい。翌日凹んでいるのかと思えば『めちゃくちゃ旨い店がある!』と何やら喜んでいる信に連れられてくると、確かに旨かった。信が『神様が失恋の慰めにくれた恵みだ!』と言っていたが、あながち否定もできない。
それは料理の味の事だけではなく、そこのマスターがまた良い人なのだ。信が恵みと言ったのは、そっちの方かもしれない。
坂を登っている途中で看板が見えてきた。『SUN’s CAFE』……通称・Sカフェ。太陽のカフェ、という何とも傲慢且つ強気で一瞬笑えてしまう名前だが、インテリアにもかなりこだわっていてこの店全体の雰囲気が俺は好きだった。
「素敵なお店だね」
店の外観を見た麻宮さんの感想がそれだった。ドアを開けるとコーヒー豆の香が鼻を擽る。シャンデリアやテーブル、時計まで地中海風のインテリア家具で揃えられていて、店内はまるでファンタジー世界だ。ランチの時間帯が過ぎているせいか、客は読書をしている老人と雑誌を読んでいる営業サボり中のセールスマンっぽい人だけであった。
「いらっしゃい、真樹。へえ……久しぶりに来たかと思えば彼女連れとは。驚きだね」
カウンターにいたマスターがこちらを見てにやりと笑う。マスターは、細身だが長身で、年はまだ三〇前後と若く、仕事がデキそうなエリート君みたいな印象を受ける人である。名前は知らない。だから俺達はマスターと呼んでいるのだった。
マスターの素性は結構謎だった。基本的に一人で営業しているのだが、信の情報によると、時たま大学生風の美人がお手伝いをしている時があるらしい。仲睦まじい様子から、マスターの彼女なのでは?と言っていたが、まだ俺は見た事がない。
またまたご近所さんの噂によると、過去に何者かの謀略によって精神病院に軟禁され? そこから脱出してその企業と戦った経歴があるとかないとかいう、まるで漫画だか小説だかみたいな話を聞いた事もある(以前マスターに訊いたら一笑されて終わった)。
ただ、ここに至るまでのマスターの経歴は一切の謎だった。
「そんなんじゃねーよ」
ぶっきらぼうに答える。こういう話はどう返していいかわからない。横を見ると、麻宮さんもやや顔を赤らめている。さっきあんな事があったものだから、余計にそれ系のワードはタブーだ。
「おや、すまない。まだ発展途中だったかな?」
「マスタァ……!」
目で威圧する。これ以上何か言われたら間が保たなくなる。せっかく元の状態に戻ったのだから、これ以上乱さないで欲しい。
「悪かったよ。そんなにマジにならなくて良いでしょ」
対して悪びれた様子もなくカウンターに二つ分の水を置いた。
「ま、ゆっくりして行ってよ。昼はもう済ました?」
「いや、まだ」
「じゃあ、特別ランチを作ってあげるから、少し待ってな」
ついでにおしぼりも置き、彼は奥に入って行った。
「何か良い人そうな感じだね」
そんな俺達のやり取りを見ていた麻宮さんが率直な感想を述べた。
「ああ、良い人だよ」
乱暴で多少口が過ぎるけど、とは思っていても口には出さない。何せ地獄耳かと思うくらいの聴力を持っているマスターである。ぼそっと言っただけで命取りだ。恐や恐や、と思いながら水を口に運んだ。
「何か付け加えたそうだね、真樹」
「うわっ!」
水を零しそうになる。知らぬ間にカウンターに戻ってきていたらしいマスターが、目の前にいた。これでは地獄耳というレベルを越えてエスパーだ。
「ったく、せっかく奢りだって言うのに、お前にだけ払わせるよ?」
無礼な奴だ、とでも言わんばかりに俺を見る。何も言ってないのに……。
「え、奢りって……良いんですか?」
「なに、構わないよ。今まで信と来るか、一人でしか来なかった孤独な真樹が女の子を連れてきたんだ。それくらいはさせてもらうよ」
一瞬マスターが仏様に見えたが、彼は次にこう宣った。
「しかし、またどうしてこんな奴と? 同じ学校かい?」
マスターは手元を器用に動かして料理を作りながら麻宮さんに話し掛ける。こんな奴って……それは無いだろう。
「あ、はい。私、先週に桜ヶ丘高校に転入したばかりなんですけど、たまたま麻生君と同じクラスになったんです」
「ほう、転校生と早速デートとは……真樹も案外隅に置けないじゃないか。真樹は優しくしてくれてるかい?」
いきなり何聞きやがんだ、このオッサンは。だからデートじゃねえっつってんだろ、と言おうと思ったが、麻宮さんはにこにこしながら「はい、とても」と答えていた。
「たまにいじめられてますけど」
そう付け加えて、麻宮さんが横目でちらっと俺を見る。そんなにいじめた記憶はないのだが……。
「ははっ! それは照れ隠しだと思いなよ。こいつは自分の気持ちを正直に伝えるのが下手なんだ。自分の思ってる事とは逆の事を言ってしまったり、意識的に本心を隠そうとするのさ」
「あ、そうなんだ?」
麻宮さんが新しい事を知ったと言わんばかりに楽しそうにこちらを見てくる。ここに連れてきたのは間違いだったかもしれない。
「なんだよ。それじゃあまるで俺がコミュニケーション下手糞みたいじゃないか」
「お世辞にも上手いとは言えないでしょ」
そう言われると、唸って下を向くしかない俺である。しかし、そうなのだろうか? 俺はなるべく正直に生きているつもりではある。それはもちろん、嘘を吐いてしまった時もあるけれども。
「やっぱりマスターには敵わないな」
「当たり前だ、アホ。君みたいなケツの青いガキにはまだ負けないよ」
アホって何だよ、アホって……いい加減凹むぞ。麻宮さんはそんな俺を見て、面白そうに笑っていた。確かにここまで俺がやられる姿は学校では見れないし、彼女からすれば新鮮な光景だろう。
「それよりどう? 親がいない生活ってのは」
マスターが野菜を刻みながら訊いてきた。
「え、麻生君って一人暮しなの?」
「何だ、そんな事もガールフレンドに言ってなかったのかい?」
呆れた、とマスターは大きな溜め息を吐いた。
「だから、ガールフレンドじゃないって」
そう……マスター以外には言ってなかったのだが、今うちに親はいない。
ちょうど麻宮さん達が転校してくる少し前の話だ。元々うちの収入は母が経営する英会話教室と父の塾経営だったのだが、親父が夢であったビリヤード店を開いたので、そちらの経営に専念する事になったのだ。
母が経営している英会話の方は国際化ブームの波に乗って上手くいっているのだが、今は休業している。何やらビリヤード店経営でも何でも初めは大変らしく、色々やらなくてはいけない事も多いので、一ヶ月くらい母も向こうにいるそうだ。フードメニューの料金設定やマニュアル作り、細かい経費運用……詳しくは聞いていないが、他にもたくさんあるのだろう。
そのビリヤード店が近かったら自宅通いで問題無かったのだが、埼玉県内にあるので、激務の後に毎日往復するのはやはりしんどいらしい。アルバイトや正社員が見つかるまで母が父をフォローしてやらなければならない、という事なのだ。俺よりも家事ができない親父なので、そちらを優先した母の気持ちも解らなくもない。
というわけで、当分親子三人暮らしはお預けなのである。もっとも、煩い親がいなくて平和な生活を送れているのだけれど。
しかし、その一人暮らし云々を無しにしても、親父の決心についてよくやったと思っている。塾を切り捨てるのは危険も伴うが、四十半ばにもなって自分の夢を持ち、そして叶えることができたのは凄い事だ。優柔不断な俺にはきっとこの選択はできないだろう。
「別に俺としては気が楽だからずっとこれでも良いんだけどな」
「君達くらいの年代ならそうだろうね。気が楽なのは良いけど、ちゃんと飯は食べなよ。体を壊しちゃ話にならないからね。少なくともここに来ればまともな飯が食えるよ」
「営業かよ」
「真樹の体を心配して言ってるんだよ。もちろん、それもゼロじゃないけどね」
マスターは笑って特別ランチを俺達の前に出し、もう一度奥へ入っていった。
「何て奴だ……」
「でも、マスターさんもちゃんと麻生君の事考えてくれてるんだと思うよ?」
「わかってるよ」
もし営業の事を考えているのであればこうやってタダで食わせたりはしないだろう。それに、俺や信の御用達メニュー・学生ランチなんて腹一杯になるのにたったの四百円だ。
赤字覚悟としか思えないし、彼が金儲けの為に店を開いているのではない事はわかっている。きっと彼はこの店を持つ事で新たな人との繋がりや、それ以外の何かを探しているのだろう。それが何かまでは俺にも解らないけれど。
「まあ、体調管理には気をつけてるから。それより、冷めないうちに食べよっか」
「うん、凄く美味しそう。マスターさん居ないけどいただきまーす」
麻宮さんは可愛く手を合わせた後、パスタを口をつけた。
「え、おいしい……!」
彼女の驚きも無理もない。悔しいが、味は本当に旨いのだ。なかなかパスタだけでここまで感動を覚えれる店はそうそうない。
「どうやったらこんな味出せるんだろ?」
「聞いても教えてくれない。企業機密らしい」
「そっかぁ。じゃあ仕方ないね」
ご飯を食べた後は、夕方までカフェで他愛無い話をした。
マスターは途中で会話に入ってこようとはしなかった。彼が奥に行ったのは、おそらく『後は若い二人で楽しめ』といった意図があるのだろう。その辺りはキチンとしている。
もちろん話に入ってくる時はあるが、それは入られても全く問題無い時や、逆に会話に入ってもらいたい時等、こちらの状況を上手く見極めた上での事だ。マスターは、そういった空気の読み方が絶妙に上手い。口では文句ばかり垂れているが、彼の様な大人は凄いと思う。一見それ等は当たり前のようだが、人間、どうしても自分の感情や用事等を優先してしまいがち。細かく空気を読める大人は案外少ないのだ。そういった意味で、マスターは誰よりも思いやりがある人で、彼のそんな人柄に惹かれて、皆この店に足を運ぶようになるのだ。俺や信もそういった客の一人だ。こういった大人がもっと一般化されれば、もう少し日本もマシな国になるんだろうなぁ……等とくだらない事を考えてしまうのであった。
それからしばらく話しこんで、時刻も午後六時に差し掛かろうとしていた。ディナー目当ての客も増えてくる時間でもあるので、マスターの迷惑にならないうちに帰る事にした。
「ご馳走様でした。とても美味しかったです」
「気に入ってもらえて嬉しいよ。またデートの帰りにでも寄ってね」
またこのオッサンは余計な事を言う。しかし、麻宮さんは恥ずかしそうに、一応頷いた。って……頷いていいのか?
「あ、そうだ。真樹はこう見えて案外崩れ易いんだ。何かあったら助けてやって」
「え、あっ……はい!」
顔を赤くしながら返事をする麻宮さん。こっちも頭が沸騰しそうだ。
「は、早く帰るぞ!」
「まぁ気をつけて帰りな。特に真樹、浮かれてドブに嵌まらないようにね」
「嵌まるかぁ!」
そう言い放って、カフェを出た。なに、全部照れ隠しだ。
ともあれ、こんなに充実した休日は久しぶりだった。



