「そこまで引き留めてもらえるなんて、私は本当に果報者ね。とてもうれしいわ」

 奈津美先輩の穏やかな声が、僕の耳を打つ。僕に優しく微笑みかけるその姿は、普段とは違ってとても大人っぽい。

「けど、ごめんなさい。これは私にとって、またとないチャンスなの。やっぱり私は、今すぐフランスへ行きたい」

 穏やかだけど強い意志を込めた口調で、奈津美先輩は自身の決意をもう一度示した。
 その言葉を聞いて、先輩はどこまでも先輩だ、と思わず納得してしまった。自分の目標に向かって、ただひたすらに、どこまでもひた向きに突き進んでいく。僕のこざかしい揺さぶり程度じゃあ、まったくブレない。それは、僕が好きになった奈津美先輩の姿そのものだった。
 ただ、奈津美先輩の言葉はこれで終わりではなかった。

「……でも、確かに私も勝手だったわ。悠里君を書籍部に引っ張り込んでおいて、いきなりさようならはひど過ぎるわね。書籍部部長としての責任を果たせていないというか、何というか……。第一、引継ぎだってちゃんとやっていないし……」

 不意に腕を組んだ奈津美先輩が、神妙な顔つきで何度も頷いた。
 いや、どう考えてもひどいのは僕の方であって、奈津美先輩は悪くないと思うのだが……。

 そもそもうちの学校の場合、文化部の三年生は早くて六月頃、どんなに長く残った人でも文化祭をもって完全に部活を引退する。確かに、いきなりさようならではあったけど、書籍部としてだけ見れば、奈津美先輩が文化祭後にいなくなるのは既定路線なのだ。

 つまり、奈津美先輩は部長としての責任云々を十分に全うしている。引き継ぎだって、そもそも何か申し受けなければならないほど、書籍部は多くの活動をしているわけではない。

 ただ、奈津美先輩はそれで納得してはいない様子だ。何か真剣に考え込んでいる。
 そのまましばらく待っていると、奈津美先輩は何を思ったか挑戦的な笑みを浮かべ、僕の鼻先に細い人差し指を突きつけた。