考え事をしていたところで、不意に奈津美先輩が声を掛けてきた。
 やばい。今の、かなり声が裏返っていた気がする。
 もっとも、奈津美先輩は僕の動揺なんて気にしていない様子だ。というか、よく見たら奈津美先輩の方が僕よりも緊張しているっぽい。なんか油が切れたブリキ人形のようにギクシャクした動きだ。

「明日の金曜日なんだけどね、悠里君、暇?」

「明日ですか? 特に用事はないので、暇と言えば暇ですけど……」

「――ッ! そ、そうっ! だったら!」

 勢いよく立ち上がった奈津美先輩が、僕に迫る。
 突然のことに驚きながら見上げると、奈津美先輩は僕に向かって一枚のチラシを差し出した。

「明日、一緒にこれを観に行かない?」

 勢いに押されるままにチラシを受け取り、目を通す。
 それは、駅ビルで開催されている古書の展示即売会のチラシだった。

「その展示即売会ね、〝近代印刷の三大美書〟も展示されているの。だから、ぜひ観に行きたいと思っているんだけど……悠里君もどうかな~って思って」

 髪の襟足を指にクルクル巻きながら、奈津美先輩が言う。

 なるほど、〝近代印刷の三大美書〟か。確か、ケルムスコット・プレスの『チョーサー著作集』、アシェンデン・プレスの『ダンテ著作集』、ダヴズ・プレスの『欽定英訳聖書』のことだったかな? 前に何かの本で読んだことがある。
 実物をこの目で見られるのなら、それは見てみたい。他にも歴史に名を残す銘品が多く展示されるみたいだし、なかなかおもしろそうだ。

「いいですよ。僕もこれ、興味あります」

「ほ、ホント!」

 僕が頷くと、奈津美先輩の顔色がパッと華やいだ。
 そうまで喜ばれると、なんだか心がくすぐったくなる。

「それじゃあ、明日の午後一時に駅前集合ね」

「わかりました。先輩、真菜さんのところへ行った時みたいに、遅刻しないでくださいよ」

 僕がからかい交じりに言うと、奈津美先輩が「今度は大丈夫よ」と腰に手を当てて胸を張った。
 本当に大丈夫かな、この人。こうやって自信満々な時は、大抵失敗するフラグなんだけど……。

 まあ、今回は完全に私用なわけだし、多少遅刻しても問題ないか。僕も「じゃあ信じます」と返しておいた。
 古書の展示即売会か。そういった催しに行くのは初めてだけど、楽しみだ。
 僕は製本の作業を進めながら、展示されているであろう芸術的な本に思いを馳せた。