「悠里君、あまり動かないで。失敗しちゃう」

 一方、奈津美先輩は今の状況には、まったく気が付いていない様子だ。手元の本だけに意識を集中している。真剣さで彩られた瞳は、息を飲むほど綺麗に輝いている。それはもう、ずっと見ていたいと思うほどに……。

 けど、この状況はヤバ過ぎるだろう!

 僕は心の中で叫び声をあげた。
 顔だけではない。気が付けば、体まで寄り添っていて、左腕の辺りに奈津美先輩の体温が感じられる。どうやら無意識に作業しやすい体勢を取ろうとして、さらに近づいてきたらしい。

 この人、集中し始めると、とことん周りが見えなくなるからなぁ。僕の存在なんて頭から吹っ飛んでいるのだろう。かと言って、今動いたら図書館の本がひどいことになってしまうし……。ああ、もう! 何でもいいから、早く終わってくれ!

「よーし、できた! 悠里君、もう閉じていいわよ」

「そうですか? はぁ……。助かった」

「ん? 何が?」

 奈津美先輩は満面の笑顔で、僕のつぶやきに反応する。やっぱり僕のことなんて、置物程度にしか思っていなかったようだ。

 あなたの一挙手一投足で、僕の心拍が乱れまくりです。とはさすがに言えないので、「何でもありません」とお茶を濁しながら、さりげなく体を離しておいた。

 これでようやく一息つける。奈津美先輩にドギマギしていたなんて、決してバレないようにしなければ……。
 と思ったら、「お熱いね~」という顔をした真菜さんと目が合った。あ、なんか「どうぞ続けて」ってジェスチャーをしている。もう、穴を掘って埋まりたい……。
 そんな僕の心情や真菜さんの視線など露知らず、奈津美先輩はノリノリで次の本を手に取った。

「そう。じゃあ、次の本行くわよ」

「もうですか!」

「当たり前よ。まだこんなにたくさんあるんだから。ほら、こことここを押さえていて」

 パパッと僕の手を握り、本を支えさせる。そして自分は水で薄めた糊と筆を持ち、さっさと破れたページの補修を始めた。
 くそ! 手際が良すぎる。心を休める暇を与えてくれない。しかも、また体が近寄ってきているし!

「先輩、もう少し離れて……」

「シッ! 静かに。今集中しているから」

「…………」

 こうして僕は無言で素数を数えながら、本の修理が早く終わることをひたすら祈るのだった。