ちょうどやって来た目的地行きのバスに乗り込む。
奈津美先輩の遅刻+回復時間で、すでに集合時間から十分が経過していた。
しかし、僕だって伊達に奈津美先輩と一年以上行動を共にしてはいない。こんなこともあろうかと、集合時間そのものを十五分早めに設定しておいたのだ。今ならまだ、先方に遅刻することはないだろう。
バスは、定刻通りにターミナルを出発した。向かう先は北。浅場市の山間部地域だ。
バスに揺られながら、奈津美先輩はこれから訪ねる真菜先輩や、真菜先輩が勤めている会社のことを教えてくれた。
「真菜さんが勤めている会社の社長さんは坂野一って方でね、紙資料の修復の名手として有名なの。この道五十年の大ベテランで、国宝クラスの掛け軸とかの修復も任される、本当にすごい職人なのよ」
「あ、その人なら、前に新聞のインタビュー記事で写真を見たことがあります。確か、人間国宝級の技術の持ち主だとか……。今日お世話になるのって、そんなすごい人の会社なんですか?」
緊張が手のひらに伝わり、じんわりと汗が浮かぶ。体も一気にカチコチだ。
人間国宝級の職人か……。そんなすごい人の会社に、僕らみたいな高校生がお邪魔して、本当に良いのだろうか。
「うふふ、そんなに緊張しなくても大丈夫よ。坂野先生は確かに仕事に厳しい人だけど、普段は優しい方だから」
「先輩、坂野先生とも知り合いなんですか?」
「うちのおじいちゃんと坂野先生は古くからの友人でね。小さい頃は、お正月にお年玉なんかもらっていたわ。真菜さんとも、私が中三の時に、坂野先生を通じて知り合ったの」
奈津美先輩と真菜先輩が知り合ったのは、今からちょうど三年前。夏休みに奈津美先輩が、お祖父さんのところへ遊びに来ていた時のことだそうだ。
当時、奈津美先輩は埼玉に住んでいて、高校から親元を離れてお祖父さんのところに引っ越す予定だったらしい。理由はもちろん、製本家としての修業を開始するためだ。
ただ、奈津美先輩は小学生の時に浅場市から引っ越したため、こちらの高校のことなどをよくわかっていなかった。そこで相談相手として、坂野先生が高校を卒業したばかりの真菜先輩を紹介してくれたそうだ。
奈津美先輩と真菜先輩は、会ってすぐに意気投合。今では一緒にお出掛けしたりする仲らしい。
「私が浅場南高校を受験しようと決めたのも、真菜さんの推薦があったからなのよ。書籍部のことも、真菜さんから教えてもらったの」
「なるほど、そんな経緯が……」
つまり、渋谷先輩や僕の苦労の元凶は、真菜先輩にあったというわけか。……少し恨みますよ、真菜先輩。
「それにしても、坂野先生が社長をしている会社に入社できたということは、真菜先輩も相当優秀な人なんですね」
「そうね。確かに優秀な人よ。でも、それ以上に諦めを知らない人ね。会社へ入れたのだって、真菜さんの熱意勝ちだったみたいだし」
ふふふ、と奈津美先輩が思い出し笑いをする。
聞けば、真菜先輩は高三の夏に、仕事に対する熱意やら何やらを坂野先生や他の社員さんたちの前でプレゼンしまくったそうだ。で、その熱弁振りが「この子おもしろい!」と社員さんたちに大ウケ。最初は「今は社員の採用をやっていない」と突っ撥ねていた坂野先生も、「……仕方ない」と根負けして真菜先輩を採用したそうだ。
「すごいですね、それ。そのプレゼン力、今後のために少し分けてほしいですよ」
「そうでしょ、そうでしょ! それに、美人で素敵な人なのよ~」
「へぇ。それは会うのが楽しみですね。ところで先輩……」
「ん? 何?」
奈津美先輩が、「何でも聞いて!」と言わんばかりの表情で、僕の言葉を待つ。
対して僕は、神妙な面持ちで大切なことを尋ねた。
「念のため聞いておきますけど……真菜先輩は、先輩みたいな奇人変人じゃないですよね?」
「どういう意味よ!」
激高した奈津美先輩が、大きな声を上げながら立ち上がった。
まずいな、失敗した。真菜先輩が奈津美先輩の類友である可能性を危惧するあまり、表現がストレートになり過ぎた。
なお、大声を出しながら立ち上がった奈津美先輩は、当然ながら車内にいる乗客の注目の的だ。周囲の視線を感じ取り、奈津美先輩の顔色が怒りの赤から羞恥の赤へと変わっていく。同じ色なのに感情の変化が丸わかりな辺りは、さすがの一言だ。
ちなみに僕は、素知らぬ態度で他人の振りを決め込むことにした。違いますよ~、僕は関係ありませんよ~。
『移動中の車内では、席をお立ちにならないでください』
「す、すみません……」
車内アナウンスで運転手から苦笑交じりの注意を受けて、奈津美先輩がしおしおと席に座り直した。騒ぎが収まり、乗客たちも手元のスマホなどに視線を戻す。
席で背中を丸めて小さくなった奈津美先輩は、涙目で恨みがましく僕のことを見上げた。
「もう! 悠里君のせいで、大恥かいちゃったじゃない!」
「あはは、すいません。つい、いつものノリで……」
先程の赤っ恥が、よほど堪えたのだろう。思いっきり声を落として、奈津美先輩が文句をぶちまける。
さすがに僕もさっきのはやり過ぎたと反省しているので、今は素直に謝っておいた。
けれど奈津美先輩は怒りが治まらない様子で、まだ頬を膨らませている。
「というか、さっきの『奇人変人』ってなんなのよ。あの言い方じゃあ、まるで私がおかしな人みたいじゃない!」
「えっ!」
奈津美先輩の発言に、思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
やばい。今のは素で驚いてしまった。
でもまあ……うん。この人は、こういう人だよな。天然というか、ある意味天才型というか、むしろ天災型というか……。
「む~。何よ、その世にも稀な珍獣を見るような顔は」
「いや~、今のは素で驚い……って、ヤバ!」
驚きで頭が緩んでいたため、ポロッと本音が出てしまった。あるまじき失態だ。
僕の反応を見た奈津美先輩は、もちろんさらに怒り心頭だ。
「悠里君、ちょっと真面目にお話しましょうか。主に、悠里君の先輩に対する態度について」
「あはは。あー……先輩、あんまり怒っていると、眉間にしわができちゃいますよ~」
「誰のせいだと思っているの!? もしも本当にしわができたら、悠里君に責任取ってもらいますからね!」
微妙に意味深なことを言いながら、眉を逆立て口をへの字にした奈津美先輩が迫ってくる。奈津美先輩の黒曜石みたいな瞳に、愛想笑いを浮かべた僕の姿が見える。
というか奈津美先輩、顔近過ぎですってば! 何で説教なのに、そんな近づいてきますか! 頭に血が上って、周り見えなくなり過ぎじゃないですか?
「ああもう、すみませんでした! 今のは僕の失言です。謝りますから許してください」
奈津美先輩の肩を押しやって席に座り直させ、とりあえずこの危機的状況から脱出する。心臓に悪いなぁ、もう……。
「本当に? 本当に反省してる?」
「ええ、もう全力で反省しています。ホント、変なこと言ってすみませんでした」
僕がもう一度謝ると、奈津美先輩も一応は納得してくれたらしい。助かった。
ただし、まだ「本当に悠里君は、デリカシーが欠けているわ」なんてぶちぶち文句を言っているけど……。うーむ、かなり根に持っていらっしゃる。
まあ、今回は僕も口が過ぎたし、甘んじて受け入れるとしよう。
ここから目的地の停留所に着くまで、僕は延々と奈津美先輩のお小言を聞き続けたのだった。
バスを降りると、そこは古き良きといった感じの田園地域だった。近くには山の緑も広がっていて、どことなく目に優しい感じがする。
「それで先輩、坂野先生の会社はどこにあるんですか?」
「ここから東へ歩いて十分くらいのところよ。さあ、張り切っていきましょう」
奈津美先輩が先頭を切って歩き始める。バスの中で言いたいだけ文句を言って、ストレスをすべて発散したのだろう。その表情は、燦々と降り注ぐ太陽の光に負けないくらい晴れやかだ。
さっきの罰として荷物持ちを仰せつかった僕も、奈津美先輩のリュックと自分のショルダーバッグを持って、後に続く。
「先輩は、坂野先生の会社へよく行ったりするんですか?」
「いいえ、私も数回しか行ったことないわ。お正月の挨拶なんかは、坂野先生のご自宅の方へ伺っていたし」
田んぼの畦道を歩きながら話を振ってみると、奈津美先輩は鼻歌まじりに答えた。
「職人にとって、仕事場は神聖かつ不可侵の領域なのよ。大切な場所だからこそ、他人の仕事場に理由もなくお邪魔することはできないわ」
普段とはどこか違う、大人びた声音が僕の耳を打つ。ふと前を歩く奈津美先輩に注意を向ければ、半分振り返ったその顔は、穏やかで優しい笑顔だった。
これはきっと、学校では見せない奈津美先輩の職人としての顔なのだろう。いつもは僕より何倍も子供っぽいくせに、今だけは僕よりずっと大人で、遠い存在に感じる。
「だから、この道を歩くのもずいぶん久しぶり。何だか遠くのおじいちゃんの家に帰省する気分だわ」
と思ったのも束の間。奈津美先輩が、いつもの笑顔で手を広げながらクルリと一回転する。
ああ、そんなことしたら……。
「あいたっ!」
あ、やっぱりこけた。
期待を裏切らないな、この人。
「先輩、運動苦手なんだから、無茶しないでくださいよ。ほら、つかまってください」
「うぅ、ありがとう……」
しりもちをついた奈津美先輩に手を貸し、立ち上がらせる。
とりあえず、こけた拍子に田んぼにまで転がり落ちないでよかった。さすがに泥だらけの人を連れて、〝職人の大切な場所〟に行くわけにもいかないし。
「足首、グキッてなっていましたけど、捻ったりしていませんか?」
「うん、大丈夫みたい」
奈津美先輩は足首を軽く回した後、指で丸を作った。
どうやら怪我をしなかったみたいで、僕は胸をなでおろした。だってここで奈津美先輩に怪我されたら、最悪僕がおぶって移動だし……。
「もうあんまり無茶なまねをしないでくださいね」
「うふふ。悠里君、心配してくれるんだ」
「当たり前です。先輩は、ただでさえ危なっかしいんですから。これ以上、僕の心労が増えるようなことをしないでください」
なぜかうれしそうに笑う奈津美先輩を、ピシャリと叱り付ける。
まったくこの人は、何がおもしろいんだか……。
「怪我をしていないなら、さっさと行きますよ。本当に遅刻しちゃいます」
「はーい。張り切っていきましょう!」
上機嫌な奈津美先輩の横で、僕はやれやれとため息まじりに歩みを進めるのだった。
* * *
途中のハプニングもありつつ、バス停から歩くこと十分ほど。
坂野修復会社に無事(?)辿り着いた僕たちを迎えたのは、ひとりの女性だった。
「いらっしゃい、奈津美ちゃん。待ってたよ」
「真菜さん! 今日はよろしくお願いします」
「うん。こちらこそ、よろしくね」
奈津美先輩が、はしゃいだ様子で勢いよく頭を下げる。
どうやらこの人が真菜先輩らしい。
「で、そっちが噂の〝書籍部のエース〟君かな?」
「エースかどうかはわかりませんが、書籍部副部長の一ノ瀬悠里です。本日はよろしくお願いいたします、先輩」
「ご丁寧にどうも。書籍部OGの清森真菜です。紙資料全般の修復家見習いで、今は主に本の修復やデジタル化を担当しています。今日はよろしくね。あと、私のことは〝先輩〟なんて呼ばなくていいよ。なんか、そう呼ばれるのはこそばゆくって苦手なんだよね。それと、お姉ちゃんと紛らわしいだろうから、下の名前で呼んでくれていいからね」
真菜先輩改め真菜さんが、ショートカットの髪を揺らして朗らかに笑う。
奈津美先輩が言っていた通り、快活な印象のかわいらしい人だ。気取った様子もなくフランクで、とても話しやすい。
それと……すみません。頭の中では、すでに下の名前でお姉さんと区別していました。
と思ったら、真菜さんは猫のように目を光らせて、僕の顔をまじまじと見てきた。
「それにしても……へぇ、ふーん、なるほどね……」
「えっと……僕の顔に何かついていますか?」
美人に近くから見つめられ、思わず気後れする。
すると、真菜さんは愉快そうに笑いながら、「ううん、何でも」と言った。
「ただ、奈津美ちゃんに聞いていた通り、本当にかわいらしい顔だなって思って。その年で女の子に間違われたことがあるっていうのも、頷けるな~ってね」
「がはっ!」
真菜さんの言葉が胸に突き刺さり、思い切りむせてしまった。
なぜこの人が、僕の黒歴史を……って、そんなの理由はひとつしか考えられない。
僕は、抜き足差し足で逃げ出そうとしている犯人へと目を向けた。
「奈津美先輩、ちょっとお話があります」
「ゆ、悠里君? 顔が怖いわよ」
「気にしないでください。全部あなたのせいですから。先日の喫茶店でのこと、真菜さんに話しましたよね?」
「ええと、その~……。話したような……、話してないような……?」
目を逸らして、というか、目を泳がせながらの、しどろもどろの回答が返ってきた。
うん。これは確実に、間違いなく、純度100パーセント黒だ。
それでは、せーの――!
「なんてことしてくれたんですか! あれほど他言するなと釘を刺したのに!」
「ひゃう~! ご、ごめんなさ~い!」
奈津美先輩が頭を抱えて、「許して~。つい口が滑っちゃったの~」と謝ってくる。
まったくこの人は、人の思い出したくない記憶をペラペラと……。おかげで、頑張って頭から消そうとしていた記憶が鮮明に甦ってきてしまった。
あれは、文集会議の翌日。「家庭教師のお礼のケーキを奢るわ!」と奈津美先輩に連れられ、学校帰りに喫茶店に寄った日のことだ。
静かで落ち着いた雰囲気を醸し出した店内で、ボックス席に案内された僕たちは、ティーセットを頼んだ。
そしてその数分後、注文を取ったのと別のウエイトレスがやって来て、こう言ったのだ。
『本日、レディースデイとなっておりますので、こちらサービスのスコーンになります』
まあ、ここまではいい。奈津美先輩も一緒にいるのだから、特に問題はない。
しかし、このウエイトレスはなぜか僕の前にもスコーンを配膳したのだ。
で、僕が『あの、僕、男ですけど……』と言ったら、ウエイトレスは僕の顔と制服(主にテーブルの下に隠れた夏服のズボン)をもう一度よく確認し、慌てた様子で謝ってきたのだ。
『し、失礼いたしました! 綺麗なお顔立ちでしたので、てっきり女性かと!』
ウエイトレスの謝罪文句に、僕は口をあんぐり、奈津美先輩はお腹を抱えて大笑いだ。
その後、ウエイトレスは『お詫びの印に……』と、さらにスコーンを追加して去っていった。ちなみに、そのスコーンは物欲しそうにしていた奈津美先輩にあげた。
今思い出してみても、あれは僕にとって人生でワースト3に入るであろう黒歴史だ。
身長が160センチと低くて童顔なことは僕のコンプレックスなのだけど、まさかこの歳で女性に間違われる日が来るなんて……。あの日はショックで、夜遅くまで枕を濡らした。このままだと、今夜も思い出し泣きで濡らすかもしれない。
そんな僕視点ではとても悲惨な出来事を、この人はペラペラと……。しかも、十日も経たないうちに……。
「で、でもね悠里君、これはある意味、とても素晴らしいことだと思うの。だって、女の子と勘違いされるくらい端正な顔立ちってことだし! うちのクラスの子たちも、悠里君の写真を見て、『男の娘もいける!』って太鼓判を捺しているのよ。それに悠里君は昔から綺麗な顔で、女の私から見ても羨ましいって思うくらいだったわ!」
「……へぇ、そうですか。だったら、小学生の頃から全然変わっていない先輩の胸囲も、大変素晴らしいってことですね」
小声で呟いてみたら、奈津美先輩がピシリと音を立てて固まった。
「ひ、ひどい! ちゃんと変わってるもん。少しは成長しているもん!」
「それ、単純に肋骨が成長した分増えただけですよ、きっと」
「なんてことを……。悠里君、顔と違って性格ひん曲がり過ぎよ! 白雪姫の継母やシンデレラの姉みたい!」
「どっちも女性じゃないですか! あなたも人のこと言えないですよ!」
醜い罵り合いを演じ、荒い息をつく僕と奈津美先輩。互いのコンプレックスを叩き合って、ふたりとも心がすっかりグロッキーだ。
そんな書籍部の後輩たちの姿を目の当たりにし、真菜さんはおかしそうに「あはは!」と笑った。
「ふたりとも、おもしろいね。いつもそんな風に漫才してるの?」
「「していません!」」
真菜さんに抗議するように言い返すと、奈津美先輩と声が重なってしまった。台詞までバッチリ一緒だ。何となく恥ずかしくなって、これまたふたり揃って顔を赤くする。
すると真菜さんは、「息ピッタリだ」とさらに大きな声を上げて笑った。
もはや色々とドツボだ。何を言っても漫才になってしまう。
「いや~、おもしろいものを見せてもらっちゃった。ふたりとも、ありがとう!」
望まない感謝を受けた僕たちは、これでダブルノックダウン。醜い部内闘争は、こうして呆気なく幕切れとなった。
* * *
「さあふたりとも、入って入って! 今日は会社お休みだから他の社員はいないし、遠慮しないでいいよ」
真菜さんが、どうにか精神を持ち直した僕らを会社内へと案内する。
会社の中は、見たことがあるものから見たことがないものまで、様々な道具で溢れていた。
ただし、散らかっているわけではない。使い込まれたと見える道具はきちんと整理され、理路整然と並べられていた。
正に職人たちの仕事場。空気がピンと張り詰めているように感じ、立っているだけで気が引き締まっていく。
けれど、そこに坂野先生の姿はなかった。
「あの、真菜さん。坂野先生は、どちらにいらっしゃるんですか?」
「あ~……。社長ね、今日いないの。急な用事で、今は東京の大学」
誰もいないことを不思議に思ったのだろう。奈津美先輩が首を傾げながら聞くと、真菜さんは「ごめんね」と形の良い眉をハの字にした。
「なんかね、その大学に今、アメリカの有名な古書修復家が来ているんですって。で、その修復家さんと社長って古い知り合いみたいでね。大学の方が気を利かせて、社長に『来ませんか?』って声を掛けてくれたらしいの。社長ったら、大喜びで飛んで行っちゃった」
「あはは。それじゃあ、仕方ないですね」
やれやれといった仕草をする真菜さんに、奈津美先輩がふわりと微笑む。
僕も同感だ。坂野先生に会えないのは残念だけど、そういう事情なら仕方ない。
「社長、『奈津美ちゃんたちによろしく』って言っていたわ。『今日の埋め合わせは、いずれ必ずします』だって」
「それじゃあ、『楽しみにしています!』って坂野先生に伝えてください」
なんか奈津美先輩が、あっさりと次の約束(?)を取り付けた。こういう時に遠慮しない精神は、本当に羨ましい。
あと今の約束って、僕も対象に含まれているのかな。できれば僕も、坂野先生に会ってみたいんだけど……。あとで奈津美先輩に確認しておこう。
「そんなわけで、今日は私ひとりなんだけど……取材って、私だけでも大丈夫かな?」
「ああ、それは問題ありません。元々、書籍部OGである真菜さんに話を聞く企画ですから。――そうですよね、先輩?」
「ええ。今回の記事の主役は、真菜さんですから!」
僕が話を振ると、奈津美先輩はビシッとサムズアップしてきた。そのポーズは微妙にセンスが悪いというか、古いような気が……。ただ、奈津美先輩がやると妙に似合うのはなぜだろう。
「そっか。じゃあ、早速始めようか」
真菜さんが、僕らに「ついておいで~」と手招きする。
「まずは社内を案内してあげるね。それが終わったら、お昼を食べに行こう。私に聞きたいことがあれば、その時に話してあげるよ」
「は~い! お願いしま~す!」
「よろしくお願いします」
奈津美先輩がスキップするように真菜さんの後に続き、僕が最後尾につく。
真菜さんは社内を案内しながら、様々な道具を紹介してくれた。
修復に使う道具は多種多様。刷毛や筆ひとつとってみても、用途によっていくつも種類があった。その使い分けまで、真菜さんは丁寧にわかりやすく説明してくれる。
真菜さんは自分のことを〝見習い〟と言っていたけど、その説明は堂に入っている。修理の工程や道具の用途を熟知した、プロのしゃべり方だ。端的に言って、興味深いし、おもしろい。
そのおもしろい話を少しでも形に残しておこうと、僕らは真菜さんの話をメモするのに必死だ。特に奈津美先輩はこの取材記事の担当だから、これまで見たこともないくらい真剣な表情でペンを動かしている。この集中力を勉強で発揮すれば、赤点や補修から普通に逃れられるのではないか、と真剣に思った。
と、そこで僕はふと気になったことを奈津美先輩に聞いてみた。
「そういえば、先輩は製本をやっているんですから、修理の方面もそれなりに知っているんじゃないですか?」
「そうでもないわ。私は西洋製本ばかりだから、それ以外の修理はそれほど詳しくないの。だから、真菜さんの話は新鮮でおもしろいわ。何だか新境地でも開けてきそうな気分よ」
今度、和本の装丁にも挑戦してみようかしら。なんて言いながら、奈津美先輩はメモを取り続ける。その黒い瞳はキラキラ輝いていて、活力に満ち溢れていた。
いつもはちゃらんぽらんな人だけど、好きなことに打ち込んでいる時だけは本当に眩しい。この人は、やっぱりあの〝奈津美ちゃん〟なんだなって思う。一心不乱にメモを取るその姿に昔の記憶を重ね、思わず懐かしい気分に浸ってしまった。
すると、僕の視線に気づいた奈津美先輩が不思議そうに首を傾げた。
「悠里君、どうかしたの?」
「何でもないですよ。それよりも、どんどんメモを取ってください。この記事は、先輩のメモにかかっているんですから」
「任せといて。書籍部部長の名は伊達じゃないってところを見せてあげるから!」
自信満々にウィンクし、奈津美先輩はまた取材メモ作りに没頭する。
僕も、今は素直に「その意気です」とエールを送った。