「一応今の、私のファーストキスよ。悠里君にあげるから、ありがたく取っておきなさい」

 いまだに呆けている僕に向かって、奈津美先輩がいたずらっ子のように白い歯を見せて笑う。これまで何度も奈津美先輩の突拍子もない行動に驚かされてきたが、今回のが一番インパクトがあった。
 やっぱり僕は、この人には敵わないらしい。

「いい、悠里君。浮気は絶対に駄目よ。私がいない間に浮気したら、八代先まで呪ってやるんだから」

「しませんよ。第一、そんな暇、僕にはないみたいですから」

 ようやく硬直から脱し、苦笑交じりに肩を竦める。
 そう。僕には浮気をしている暇なんてない。少しでも怠けていたら、あっという間にこの人に置いていかれてしまう。
 奈津美先輩が全力で走るなら、僕も負けないくらい全力で走り続けるしかないんだ。

「次に会う時、自分だけが成長した姿を見せられるなんて思わないでください。司書の採用試験なんか一発で受かって、立派になったところを見せてあげます」

「うん、楽しみにしてる。これも――〝約束〟だからね」

 弓の形に細められた奈津美先輩の目から、一筋の涙が零れる。
 僕も視界が霞んできたけど、男としてここで泣くわけにはいかない。涙が零れないように必死に堪えた。
 すると、奈津美先輩は飛ぶようにさらに一歩、僕から遠ざかった。

「じゃあ、私もう行くわね。このまま悠里君の顔を見ていたら、決心が鈍っちゃいそうだから」

 先輩の声が、鼓膜を打つ。いよいよ別れの時だ。

「またね、悠里君」

「はい、また……」

 僕が別れの言葉を口にすると、奈津美先輩はふわりと絹のような髪をなびかせながら反転した。奈津美先輩の涙が撥ね、陽光に照らされて宝石のように輝く。それはまるで、歴史的な名画のように神々しく、美しい光景だった。

 僕に背を向けた奈津美先輩は、そのまま迷いない足取りで僕の前から去っていく。もう振り返ることはない。ただ前だけを見据えて、自分が進むべき道をひたすらに歩いていく。そんな決意が伝わってくる後ろ姿だった。
 やがて、その後ろ姿も見えなくなる。

 奈津美先輩の後ろ姿を目に焼き付けるように、僕はその場を動かず、去っていく彼女をずっと見つめていた。