はなまる縁結び〜バツイチさんとこじらせ店主〜

 かつて城下として栄えた町であり、水郷として今も人気観光地である町……からやや外れた、とある町。
 その町の目抜き通りから一本奥まった通りに、喫茶「丸屋」はある。
 以前は小物を扱う店だったというそこは、今の店主になってから喫茶店になったのだという。
 オープン以来店主に商売っ気もやる気もなく、先代からの知り合いや近所の人間が利用するに留まっていた丸屋は今、かつてないほどの賑わいを見せている。


「ええー! そんなのって……そんなのってないよ。わあ……悲しい。切ないー」

 賑わう丸屋の店内で空になったトレンチを胸に抱き、初一(はついち)琴音(ことね)は客の話に相槌を打って滂沱の涙を流していた。

「もー琴音さん、泣きすぎだって!」
「だってぇ……聞いてたら涙が出ちゃって……」
「これで涙拭いて」

 話し手だった女子高生に紙ナプキンを差し出され、琴音はそれで涙を拭った。それでも、涙はあとからあとから出てきてしまう。

「じゃあ、次はあたしの失恋話ね」
「えっ……今日はもう勘弁して……また泣いちゃうからぁ」
「でもー、あたしも琴音さんに話聞いてもらって泣いてもらいたいー」
「今度……また今度ね。……今日はもう、これ以上泣いたら……」

 乱れた呼吸が整って涙が止まりかけたかに見えたのに、先ほど聞かされた話を思い出したのか、琴音はまた涙ぐんだ。それを見て、四人組の女子高生は「泣きすぎだって」と笑う。
 
 客の失恋話や恋バナを聞いて店員である琴音が涙を流すというのは、この丸屋で定番の光景となりつつある。
 ワケあってこの店で働き始めた琴音は、集客率をアップさせ店の雰囲気をよくしたのまではよかったのだけれど、「琴音に失恋話をすると次の恋がうまくいく」だの、「琴音に泣いてもらうと運気アップ」だの、変なジンクスも生み出している。
 変なジンクスありきだとしても、琴音を目当てに女子高生を始めとした若い客層を呼び込むことに成功したのは、普通の店なら喜ばしいことなのだろう。
 でも店主である九田(くだ)は、えぐえぐ泣く琴音と彼女を面白がる女子高生たちを迷惑そうに見ている。
 その顔には、「うるさくてかなわん」と書いてあった。
 九田としては、たとえ閑古鳥が鳴いていても、儲けが出なくても、店内が静かでただ黙って座っていられたほうがよかったのだろう。


「九田さん。今日もお客さん、来ませんでしたね」

 表にクローズの札をかけて戻ってきた琴音が、ドアをパタリと閉めて言う。夕方から長いこと女子高生たちの相手をしたからか、ちょっぴりぐったりとしている。
 でも表情は晴れやかだし、何より明日の営業に向けて掃除をしようと箒を握りしめる手にはやる気がこもっているように見える。ワケあって琴音はここのところ気分の浮き沈みの激しい状態にあるのだけれど、今はふわふわと浮上した気分なのだ。
 置物のようにカウンターの向こうでむっすりと座っていた九田が、そんな琴音を横目に見て不機嫌そうに眉をしかめた。

「来てただろ、うるさいくらいに」
「喫茶店のほうじゃなくて、縁結びのお客さんです」
「そうそう来てたまるかよ。ずっと来なくていい」

 九田にふんと鼻を鳴らされ、琴音は溜息を吐きながらカウンターの端に視線をやった。そこには、不安そうに丸まって琴音を見つめる小さな毛玉が数匹いる。

「大丈夫だからね」

 フェレットを手のひらサイズにしたようなその毛玉たちに、琴音は小さく声をかけた。けれども半分は、自分に向けての言葉だ。

 大丈夫だよ。あなたたちの願いを叶えるから。
 大丈夫だよ。この目はちゃんと治る。

 心の中で呟いて、琴音は決意を新たにした。
 絶対に、九田に縁結びがいいものだと思ってもらうのだ――と。
 初一琴音|《はついちことね》はバツイチである。
 結婚したばかりの状態を新婚ホヤホヤというのだから、琴音の状態は離婚ホヤホヤというやつだ。
 夫の浮気が原因で離婚して、仕事を辞め、元々縁のなかった土地を離れ実家に戻り、ホヤホヤの離婚ライフを送っている。
 夢と希望と幸せに満ちあふれていた新婚生活に対して、離婚ホヤホヤ生活は虚無と悲しみと不安でできている。
 浮気をするような夫と離婚したことを不幸せだとは思わない。けれども、思い描いていた結婚生活を手に入れられなかったことや、これまで熱心に注いでいた愛情が行き場をなくしたことには、喪失感を覚えている。
 喪失感だけでなく、未練や怒りも当然ある。そういった感情はそれぞれ単品で存在することはもはやできず、ぐちゃぐちゃに混ざり合ってドロドロになって、大分県の観光名所・地獄めぐりのひとつである坊主地獄の如くボコボコとあぶくを噴き上げている。

 その胸の中の汚泥のように存在する感情をどうにかしようと、琴音は昼間から酒をかっ喰らい、リビングのソファで映画を見ている。
 汚れた心を少しでも浄化しようと、高校生などの若者が主人公の青春恋愛映画を中心に見ているのだけれど、琴音の心は洗われるどころか真冬の手入れ不足の踵のようになっていっていた。

「なぁにが、『俺はお前しか見えてない』よ! うそうそうそー! はい、うそー! 絶対に、ぜぇったいに、すぅぐよそ見するんだからねー……ひっく」

 缶チューハイを片手に琴音は、テレビの中の男子高校生に悪態をついていた。その目は据わり、睨みつけているかのように見えている。
 男子高校生が主人公に熱心に思いを告げるシーンが始まってからというもの、ずっとこの調子でいちゃもんをつけているのだ。「永遠なんてない」「ずっとなんて簡単に言うな」「『お前じゃなきゃだめ』なんて、所詮思い込み」「できない約束をするんじゃない」「あんたのような軽薄な男に、主人公ちゃんは渡さないぞぉー」などなど……いちゃもんはかなりのバリエーションを誇っている。
 そのくせ、途中で止めることもせずに最後まで見るのだ。そして号泣し、「わらひだって……わらひらって、られかに愛されたいー!(私だって……私だって、誰かに愛されたいー!)」と言って泣くのだ。
 それが、琴音の日課になっている。

「琴音、そんな映画を見るのはやめなさいよー。傷に塩を塗るようなことしてどうするのよ」

 見かねた母親がそう声をかければ、琴音はキッと鋭い視線を向ける。

「なによ! 私は恋愛映画を見ちゃいけないって言うの? 私がバツイチだからそんなこと言うんでしょー? うわーん」

 琴音は自分でそう言って勝手に傷ついて、子供のように泣きじゃくる。こういった切り返しも実家に帰ってきてから定番になっていて、もはやネタだ。でも、この自虐ネタであるバツイチ芸は自身を含めた誰も笑えないから、まったくもって不毛である。

「そういえば、あんたが離婚したって言ったら花代おばちゃんが心配してたよ。連絡してあげてね。もしかしたら、何かいいお話を持ってるかもしれないし」
「花代おばちゃんー?」
 
 子供のようにわんわん泣く二十六歳の娘を慰めるように母が言えば、琴音の目がさらにつり上がる。

「何で花代おばちゃんに話しちゃうの? もしかしてお母さん、親戚中に私が離婚したことを触れ回ってるの?」
「そんなわけないでしょ。あの人は不思議と勘がいいからね、向こうからかけてきたのよー。それで琴音のことを聞かれたから、正直に答えただけよ」
「そうなんだ。……でも、今連絡するのはなあ」

 花代とは、琴音の母の叔母にあたる。つまり、琴音にとっては大叔母にあたる人物だ。
 人好きのする人で面倒見がいいのだけれど、適齢期を迎えた男女がいれば隙あらば縁組みしたがるから、琴音は年頃になってから苦手意識を持ってしまっている。結婚前に強引にお見合いを勧められたこともあり、今は接触したくない人物ナンバーワンかもしれない。

「どうせさ、お見合いを勧めたがってるんだと思うけどな。だから、今は連絡したくないよ。お母さんだって、今の私にお見合いしろなんて、さすがに言わないでしょ?」
「そりゃあね。今はっていうより、今後も無理強いするつもりはないわ。……結婚だけが幸せじゃないし、ましてや人生のすべてじゃないもの」
「お母さん……」

 母の思いやりあふれる言葉に、琴音はまた涙ぐんだ。けれども、その目には再び険しい表情が浮かんでいく。

「け、結婚が人生のすべてじゃないってわかってるけどさぁ……私だって、できるならすべてだって言えるほどの結婚がしたかったよー! 末永く幸せになりたかったよー! うわーん」
「あんた面倒くさいわね!」

 慰められようと良い話をされようと、琴音は最後には自虐ネタに落ち着けてしまう。治る暇もなくそうして塩を塗り込んでいくから、琴音の心の傷は日増しにひどくなっていくばかりだ。


 そうやって自ら進んでボロボロになりながら過ごしていたある日のことだった。琴音のもとに、不思議な手紙が届いたのは。

「この住所は花代おばちゃん? ……じゃない。“喫茶 丸屋”って……?」

 その日もリビングでアルコールを摂取していた琴音は、「あんたに手紙よ」と母に渡された封筒をしげしげと眺めた。
 差出人の住所は大叔母の住んでいる場所にほど近いのだけれど、その名前にはまったく覚えがなかった。
 ともあれ、開けてみないことには何もわからない。ソファから立ち上がってペーパーナイフを取ってくるのも億劫で、琴音は指先を封の隙間に突っ込んで、ペリペリと開封した。

「……仮雇用契約書?」

 封筒から出てきたのは、一枚の書類だった。パソコンで印刷したのとは違う、独特の風合いの書面だ。おそらくタイプライターの文字だろう。

「なになに……契約期間の定めなし、従事すべき業務の内容は九田屋に関する業務……?」

 仮雇用契約書と書かれたそれは、始業・終業時刻や出勤・休日などについて記してある、ごく一般的な契約書だ。無茶なことは書かれていないし、賃金も悪くない。
 ただ不思議なのは、どうしてこんなものが突然送られてきたかということだ。

「契約書って聞こえたけど、もしかしてあれじゃない? 花代おばちゃんがあんたに仕事を紹介しようかって言ってたから、その話かも」
「あ、やっぱりおばちゃんか。……確かに、仕事はありがたいなあ」

 キッチンから様子を見守っていた母に言われ、ようやく合点がいった。得体の知れないものではないとわかって訝る気持ちが薄れると、なかなか魅力的な紙切れに見えてくる。
 家でやさぐれているのも今の琴音にとって必要な時間ではあったものの、いつまでも続けるわけにはいかないことはわかっていた。
 両親は傷ついた娘を優しく迎え入れてくれたけれど、このまま居座られては困るだろう。生活費を入れてはいるものの、たぶん気になるのはそういったことではない。
 それに何より、どう生活するにしたってお金は必要だ。このまま貯金を切り崩していくにしても限界は来る。

(……働かなくちゃ)

 そう強く思った途端、ふっと身体の力が抜ける感覚がした。
 それから、操られるように立ち上がり、ペンを握り、書類に記名していく。

「え? なに? なにこれ?」

 身体が勝手に動いていると気がついたときには印鑑を取ってきていて、朱肉にポンポンして押印してしまっていた。

「きゃっ……!?」

 その直後、ポンッという音とともに白い煙が上がり、視界を塞いだ。軽くパニックに陥った琴音はブンブン手であおいでそれを晴らす。

「え……?」

 突然目の前を覆ったその煙は、あっけなく消え去った。けれど、その代わりに自分の視界が様変わりしてしまっていることに気がついた。

「……なにこれ?」

 まず最初に気づいたのは、テレビの中の異変だ。その日もいつものように恋愛映画を見ていたのだけれど、あきらかに余計なものが映り込んでいたのだ。
 それは糸だった。細い糸が無数に、画面を縦横無尽に走っている。
 ごく細い糸だから邪魔ではないけれど、だからこそ違和感を覚えた。目を凝らさなければ見えないし、煙が目の前を覆う前まではそんなものはなかったのだから、演出ではないのだろう。
 ゴミでも入ったのかと思って目をこするも、それらは変わらず視界の中にありつづけている。それどころか、画面の中に走る糸が自分の指からもどこかへ伸びているのを見つけてしまった。
 小指から伸びるうっすら赤いその糸は、掴もうとしても一向に掴めない。触れようと思っても、触れられないのだ。
 テレビのほうに視線を戻すと、画面の中の糸がそれぞれ俳優や女優の小指から伸びているのがわかった。中には、糸端が別の誰かの糸と結びついている人もいる。
 それを見て、琴音は気がついた。

「……これって、赤い糸ってやつ?」
 ***

 一時的に目がおかしくなったか、酔っ払ったか――そう思ってその日は寝たのだけれど、翌朝になっても症状は改善していなかった。
 とはいえ、「赤い糸が見えるようになった」と家族に話せば心配されるのはわかっている。下手をすると、病院に連れて行かれるかもしれない。でも、病院に行ったところで治らないのは確実だ。
 赤い糸がちらついて落ち着いてテレビも見ていられないし、このままでいいわけもない。
 困り果てた琴音は、花代に連絡をした。
 離婚のことをいろいろ聞かれるかもしれない、お見合いを勧められるかもしれない、何より明るくパワフルな人を相手にする気力がない――足踏みする理由はたくさんあったものの、頼れる人が他にいなかったから。
 けれど、そんな琴音の不安とは裏腹に、花代の反応はあっさりしたものだった。

『喫茶丸屋から手紙が来とった? 早かったねー。人手がいるって言っとったから、琴音ちゃんのことを話しとったんよ。働く気はある? それなら、住むところも手配しておこうね。やけん、琴音ちゃんは自分の必要なものだけ持ってきんしゃい』

 赤い糸のことを伏せて届いた手紙について話すと、花代はすぐに何もかも了解したというふうな口ぶりでそう言った。「気分転換にもなるやろうけね。自分のことをよう知らん人たちばかりのところで心機一転するのも、琴音ちゃんのためになるやろ」とも言っていた。
 過剰に憐れまれなかったことと深く尋ねられなかったことで、琴音の気持ちは一気に楽になった。花代に対して身構えていたのが嘘のように、素直に頼ろうという気分になっていた。
 そういうわけで電話をかけた数日後、琴音は新幹線と私鉄に揺られ、花代のもとを訪ねていた。

「よう来たね、琴音ちゃん」
「久しぶり、花代おばちゃん」
「疲れたやろ。今、車を回してくるけね。とりあえず、琴音ちゃんの住む部屋に行って荷物下ろそうね」

 改札を出ると、元気のいい花代に迎えられた。
 大叔母ではあるけれど祖母の七歳下で琴音の母とは十三歳差だから、やはり大叔母というより叔母に感覚が近い。そして何より、六十五歳に見えないほど若々しい。縁結びのお節介を焼くという楽しみがあるから、生き生きしているのだろうか。

「久しぶりに来たけど、やっぱり雰囲気があっていいところだね」

 駅前のロータリーから車に乗り込んで、琴音はしみじみと言った。
 観光地とはいえシーズンを外れているからか、人がごみごみしていない。それでも常に外から人が訪れる場所として意識しているのだろう。清潔に整然と保たれていて、飾りつけや雰囲気づくりに余念がないのがいい。

「琴音ちゃんがおったのは埼玉やったっけ? ああいうところのほうが若い子にはいいんじゃないの?」
「確かに便利ではあったね。東京も近いからよく行ったし。……でも、私は馴染めなかったな」

 埼玉での生活は、琴音にとって即ち結婚生活のことだ。そのことを思い出してつい声や表情が暗くなってしまいそうになったけれど、車を運転中の花代は気がつかなかったようだ。

「それなら、ここでの暮らしは水が合えばええねえ。水と言えば、川下り! 今度、気が向いたら川下りの船に乗ったらええわ。住んでしばらくすると乗ろうって気にならんけね、お客さん気分の抜けきらんうちに」
「そうだね」

 このあたりは水郷として有名だから、町のいろんなところに川が流れている。暮らしの中に川があるというのは、他の地域から来た人間にとってはなかなか不思議な光景だ。
 船頭によるガイドつきの川下りが観光の目玉のひとつなのだけれど、小さな頃に親と乗ったきりだ。また乗ってみたいと思いつつも、冬の寒空を見ればそんな気も失せてしまう。乗るにしても、もっと暖かくなってからがいい。
 花代ととりとめもない話をしながら三十分ほど車に揺られているうちに、目的地に到着した。
 それは趣きある三階建のアパートだった。外観からして古いけれどよく手入れされているのがわかる。古いというよりこれは、レトロというのかもしれない。

「これ、丸屋さんまでの地図ね。歩いていけるから。行ったら、住むことになったご挨拶も済ませときね」

 アパート前で琴音を下ろすと、花代はまたいそいそと車に乗り込む。

「おばちゃん、どっか行くところだったの? 忙しそうなところありがとう」
「忙しいっていうか、今から若い人たちの顔合わせの付き添いにね。うふふ。やっぱり初回は付き添ってやらんとねえ。じゃあ、お夕飯の時間にはうちにいらっしゃいねー」

 にこやかに手を振ると、花代の車は走り去ってしまった。その慌ただしさに、取り残された琴音は唖然とする。それに、車中でいろいろ言われなかったのは他に世話を焼く相手がいるからだとわかって、何だか脱力してしまう。花代は親切だけれど、やはりお節介なのは変わりないらしい。

(働き始めるのは後日だとしても、早めに行っておくにこしたことはないか。挨拶もってことは、喫茶店に大家さんがいるのかな?)

 琴音が住むことになったのは、三階の部屋だ。花代に必要なことを説明されずおいてけぼりにされた感たっぷりで戸惑ってはいるものの、とりあえず身軽になろうとキャリーを引いて階段をのぼった。
 渡されていた鍵でドアを開けると、すぐにキッチンが目に入った。
 事前に渡されていた間取り図によると、五畳のダイニングキッチンとバスルームとトイレ、そしてその奥に六畳の洋室がある。手狭かと思っていたけれど、こうして実際に目の当たりにするとちょうどよい広さに思えた。

「今日からここが、私の部屋か……」

 花代がどこかからもらって搬入しておいてくれた冷蔵庫と電子レンジ以外何もない部屋で、琴音は呟いた。
 夫と幸せに暮らしていくのだと気合いを入れて不動産屋を回って探した部屋とは違い、なし崩し的に住むことになった何の思い入れもない部屋だ。でも、ここでこれから生きていくのだと思うと、妙にしっくりくる気もした。
 長居をして新婚当初のことを思い出して泣きたくなってもいけないから、琴音はキャリーバックを適当なところに転がしてまた外に出ることにした。
 先ほどまで大きなキャリーバックを引いていただけあって、小さなポシェットにスマホと財布だけ入れて歩くのは何だか自由な気分になった。
 でもそれも、身体の軽さと動きやすさに関してだけだ。
 少しでも視界に人が入れば、その人の指の先から伸びる糸が見えてしまう。
 新幹線の中でも、私鉄でも、花代と一緒にいるときにも、実は相変わらず赤い糸は見えていた。でも、あまり意識しすぎると疲れるから、努めて視界から外すようにしていたのだけれど、それでもチラチラ目に入っていた。

(喫茶丸屋に行けば、何らかの解決策があるはずよね)

 送られてきた仮雇用契約書に何か秘密があるのだろうと踏んで、それだけを頼りに慣れない土地を歩く。
 同じ市内でも、観光地として大々的に売り出しているところを離れると普通の住宅街だ。特に目立つ目印もなく、おまけに花代の書いた地図はわかりにくい。
 それでも何とか迷いながらもぐるぐると歩いて、やっとのことでたどり着いた。たどり着いてみると、おそらくアパートから十分もかからない場所にあることがわかる。

「ここか……」

 樹齢のいった木をそのまま切り出したかのような板材に「丸屋」と墨文字で書かれた看板を掲げるその店は、二階建の日本家屋だった。確か、土蔵造の町家というのだったなと琴音は思い出す。

「……ごめんください」

 引き戸をそっと開けると、ドアベルがカランと音を立てた。店内に人の気配はない。けれどそう感じたのは薄暗いからで、少しして目が慣れてくると、カウンターに男性がいるのがわかった。
 着物を着流した気怠げな男性が、頬杖をついて目を閉じている。眠っているのだろうか。営業中なのに?

「あのー、すみません」

 琴音は信じられない気持ちで、男性に声をかけた。すると、男性はおもむろに目を開けた。

「なに? 客?」

 低く、それでいて響く声でそう問われ、琴音は驚いた。その発言や態度に対してもだけれど、無駄に美声なのと目を開けたらなかなかいい男だったことに。
 歳は三十代半ばくらいだろうか。琴音はこれまで生きてきて、仕事中にこんなにやる気のない三十代男性を見たのが初めてで衝撃を受けていた。

「いえ、客ではなくて、吉田花代の紹介で来たんですけど」
「え? 誰?」
「初一と申します」
「バツイチ? ……ああ、花代さんのところの」

 男性は気怠げな態度を崩すことなく、おまけに失礼なことまで言ってきた。おおかた、この男性の頭の中で琴音の情報は「花代の親戚の、離婚してバツイチになった女」という感じなのだろう。
 そのことだけでもむかついたのに、男性の言葉はさらに琴音を苛立たせた。

「いや、話は聞いてたし人手はほしいからお願いしようと思ってたけどさあ、こうしていきなり押しかけられたら困るなあ」
「いきなりって……私は、この仮雇用契約書ってものが届いたからここにきたんですけど」
「契約書ぉ?」

 腹を立てながら琴音がカバンから三つ折りにした契約書を取り出すと、男性はそれをひったくった。

「……俺は、こんなもの送ってないぞ」
「え?」
「だが、うちの社判が押されている。丸屋じゃなく九田屋のだけどな」

 書類をじっと見つめて、男性は困り果てたように頭を抱えた。
 この契約書は本当に覚えがないことらしく、さらに無下に突き返すこともできないもののようだ。

「あの、私も契約書を見たとき気になったんですけど、九田屋って何ですか? 喫茶丸屋さんとは違うんですか?」

 差出人は喫茶丸屋だったのに、従事するのは九田屋の業務と書かれているのが引っかかっていたのだ。本来ならその疑問を解決するまで署名すべきではないなのだけれど、操られるようにして書かされてしまったのだから仕方がない。

「そんなことも知らねえでって……普通の契約書じゃないから仕方ねえのか。あいつらの仕業だよなあ……」

 男性はブツブツ言ってから、悩ましげに頭をかいた。その動きに合わせて、一本に束ねた髪の先が肩の上で揺れている。髪型までものぐさな様子だ。
 男性は苦悩し、迷っていたようだけれど、しばらく頭をもみくちゃにすると吹っ切れたように顔を上げ、琴音を見た。

「俺は九田だ。喫茶丸屋の店主で、九田屋の跡取りだ。一応な。で、九田屋ってのは――縁結び屋だ。あんたが契約を結んだのは、縁結び屋ってことだ」

 九田と名乗った男性は、そう言い放った。それがすべてだというように、他に言うことも言いようもないというふうに。
 それが、琴音と九田の出会いだった。
 縁結びと聞いて、琴音の中で何割かのことが納得できた。
 縁といえば、赤い糸だ。だから縁を結ぶために赤い糸が見えるようになったのだろう、と。

「……この仮雇用契約書に署名捺印してから赤い糸が見えるようになったから困ってたんですけど、業務に必要なものだったからなんですね」

 言いながら、内心では「何そのオカルト」とツッコミを入れていた。自分の身に起きていることだから受け止めなければならないけれど、心のどこかではそれを信じきれていないし、バカバカしいとも思っている。
 ただ、病院ではなくここに来た段階で、自分の身に起きている事態が鼻で笑えないものである自覚は持っているのだ。騒がないのは受け止めきれているからではなく、そんな気力がないだけだ。

「あいつら、そんなことまでしたのか……その目、不便だろ? このくらいの薄暗さならいくらかましだとは思うが」
「そういえば……」

 九田に言われて、琴音は自分の指を見た。全く見えなくなっているわけではないけれど、明るいところよりも見え方が薄い。それだけで少し気が楽になった。
 でも、九田の発言が他人事なのが気になる。

「あの、さっきから“あいつら”って言ってますけど、一体誰なんですか? 私に契約書を送ってきたり、目をこんなふうにしてしまったのは……」
「あー……見せないわけにもいかないよな。――おい、出てこい」

 九田は少し悩んでから、店の奥に声をかけた。すると、トコトコと小さな足音がして、何かがひょっこりカウンターの上に現れた。
 それは、茶色や白や灰色の毛玉だ。目がクリクリしていて、丸い耳が生えている。

「ハムスター?」
「いや、どう見ても違うだろ。こいつらはクダギツネだ。簡単に言えば、使い魔だな。俺の家はいつの頃からかこのクダギツネってあやかしを使って人と人の縁をつなぐことを生業(なりわい)とするようになったんだ」
「クダギツネ……」

 ハムスターではないと言われて、琴音は改めてその生き物を見た。確かにネズミではないけれど、キツネにはとても見えない。近い生き物といえば、フェレットやイタチだろうか。でも、そのどちらもこんなに小さくはない。

「クダギツネで縁結びなんて、聞いたことありませんけど。縁結びといえば東京大神宮とか出雲大社とか神様に頼むことだし、そういった神のお使いはシカやウサギですよね。それに、クダギツネってあまりいいイメージがありませんし」

 小さな生き物たちの手前控えめに、でも気になることを琴音は尋ねた。

「まあ、そうだろうな。大昔はクダギツネを使役する家は管屋(くだや)とか管使(くだつか)いとか呼ばれて嫌われたもんだからな。病気にしたり災いをもたらしたりするんだから、嫌われて当然だ。それで何代か前のうちのご先祖はこれじゃいかんと一念発起して、呪いを生業にするのをやめて、人に喜ばれる縁結びを始めたってわけだ」

 気怠く面倒くさそうに九田は説明する。九田家が家業を呪いから縁結びに変えたという華々しい話だというのに、ちっとも誇らしそうではない。

「……俺はどうでもいいけどな。だから他人の縁なんぞ結ばず、こうして日々だらけて過ごしてるから、クダたちが痺れを切らしてあんたと仮契約を結んだんだろ」
「何て迷惑な!」

 琴音は、九田のダラッとした態度や発言に腹が立って思わず叫んでしまった。でも、クダギツネたちがその声にビクッとしたあと悲しそうな顔をしたのを見て、悪いことをしたと少し反省した。

「迷惑なって言われてもなあ。俺は縁結びに興味ないし、いいものだとも思ってない。だからやらない。でも、喫茶店に人手が必要なのは間違いないし、巻き込んだのに帰れなんて言えねえから、明日から働きにきてくれて構わない。というわけで、以上」
「以上って……ちょっと……ええー……」

 以上という言葉の通り、九田はこれ以上はとりあわないというように目を閉じた。挙げ句、小さくいびきをかきはじめた。
 琴音は信じられない気持ちになったけれど、叩き起こして文句を言う気力は残っていなかった。明日から働きに来ていいというのだから、文句を言うにしても明日以降にすればいいと考えることにする。

「あれ? いない?」

 店を出る前にもう一度、クダギツネとかいうあやかしを見ようと思ったのに、いなくなってしまっていた。小さくて柔らかそうだったから、少し触ってみたかった。
 静かな店内に、九田の寝息が響いている。喫茶店なのに、音楽のひとつも流していないのはいかがなものだろうか。そんなことを思いつつ、琴音は店を出た。
 それから、どこかに買い物に行こうかと考える。花代の家を訪ねるまでまだ時間があるし、買い揃えたいものもある。生きていくには、いろいろ必要なものがあるのだ。

 ***

 琴音は花代宅で夕飯をごちそうになってから、ほろ酔いで帰宅した。
 飲みすぎて泣いたり騒いだりという失態を演じてはいけないからと思って、本当にほろ酔いだ。だから、久しぶりに涙を流さずにお酒を飲んだということになる。
 ほろ酔いがこんなに心地よいものだと思い出した。楽しく飲めたのは、花代宅で離婚のことを深く掘り下げられることも妙にいたわられることもなかったからだ。
 ただ、就職おめでとうと言って小さな門出を祝われただけだ。どうやら九田家はこのあたりでは名の知れた家のようで、あんな開店休業中のような店でも雇ってもらったとなるとめでたいことで、安心できるということだった。

「ふふ。おめでとうって言われちゃったー」

 冷たい床にコロンと転がって、琴音は呟いた。自分の人生にまた何かめでたいことがあるなんて思っていなかったから、誰かにおめでとうと言われる些細なことでもたまらなく嬉しかった。
 離婚ですべてを失っただなんてことは考えていないけれど、いろんなものを失ったのは確かだ。夫の浮気による離婚だ。夫と浮気相手にはいろいろなものを踏みにじられたし、そのせいでいろんなものがすり減った。実家にいたときはそのことをたびたび思い出して悔しくて苦しかったけれど、こうして何もない部屋にいるとそんな気持ちは薄れていた。
 久しぶりに、心が穏やかな夜だ。
 お風呂に入らなくてはと思ったけれどあまりに心地よくて、琴音はほろ酔いのまま毛布に包まって眠りについた。泣かずに眠ったのは、かなり久々のことだった。
 だからだろうか。不思議な夢を見た。

 視覚情報はない。音だけの夢だ。カサカサとカツカツの中間のような音だ。
 それが小さな生き物の足音だとわかったときには、その気配はすぐそばまで来ていた。


 『むすんで むすんで』


 可愛らしい声が聞こえた。子どもの声というより、オモチャみたいな声だ。作りものめいた可愛い声。


 『結んで たくさんたくさん結んで』

 
 可愛い声と気配は、琴音を急かすように言う。
 結ぶって、何を?
 心の中で問いかけてみるけれど、それに対する答えはない。


 『結んで 結んで たくさん結んで 結ぶっていいことだって ヨリヒトに思い出させてあげてね そしたら、その目ももとに戻すよ』


 それだけ言うと声はふっつり途絶え、気配もなくなった。




(言い逃げか。何だったの)

 そんなことを思ったところで目が覚めた。
 目が覚めて、あれはクダギツネたちの声だったのではと気がついた。つまり結んでとは、縁なり赤い糸なりのことだろう。でも、“ヨリヒト”というのが誰のことかはわからなかった。

「……お腹空いたな」

 起き出してシャワーを浴びて部屋に戻ると、急に空腹を感じた。実家にいたときは当たり前のように母が用意してくれていたけれど、今日からそういうわけにもいかない。基本的に買ってくるか作るかしなければ、何も食べられないのだ。
 冷蔵庫を開けると、食パンと昨夜花代が持たせてくれたサバの切り身があった。野菜室にはスーパーで見つけて買っておいたわさび菜がある。
 サバを焼いて挟めばサンドイッチができるなと思い、少しためらってから切り身を取り出した。
 料理をするのには、まだ少し抵抗がある。
 本当はすごく料理が好きだったのに、夫と浮気相手に生活空間を踏み荒らされてからは、すっかり作る気をなくしていた。自分の作ったものにも何となく嫌悪感があって、作っても食べられなかったという事情もある。
 でも今は、作らなければ何も食べるものがない。それに、魚を焼くくらい何だというのだ?

「あっ! ああー!」

 そんなことを考えながらキッチンに立っていたからだろう。サバに火が入りすぎて、モクモクと煙を上げ始めた。軽く火事のようになってしまって、あわてて火を止めた。掃除がしてありそうだから大丈夫かと思ったけれど。やはり安全確認もせず備えつけのコンロを使うのはよくないのかもしれない。でも、サバは少し皮が焦げただけで無事だった。

「おい! 大丈夫か!?」

 叫び声と、ドンドンドンとドアを殴る音。それに続いて、インターホンが慌ただしく鳴らされた。
 サバによる混乱が落ち着いたばかりだから本当は嫌だったけれど、いつまでもドアの向こうで騒がれるのも嫌だったから出ることにした。

「はーい、どちらさま……って九田さん?」

 チェーンをしたままドアを開けると、その向こうには喫茶丸屋の店主・九田がいた。だらしない着流しは昨日見たときと同じだけれど、様子が違った。焦っているみたいだ。

「あの、九田さんがどうしてここに?」
「どうしてって、大家が店子の心配して何が悪い? あんた、さっき煙が……火事にでもなったかと思ったんだよ。思いつめて、火でもつけたんじゃないかって思って……」

 キッチンの小窓からの煙を見て大急ぎで来たのだろう。そこまで言って、九田は苦しそうに息を整えた。

「サバを焼いていたら焦がしてしまって、それですごい煙が……って、思いつめて火をつけるって、どういう意味ですか?」
「いや、あんた、離婚したばっかって聞いてたから……」

 火事ではなくただのサバを焼く煙で、おまけに思いつめた様子のない琴音を見てバツが悪くなったのか、九田は困ったように頭をかいた。やる気はなさそうだけれど、こうして本気で心配してくれるあたり、いい人なのだろうと琴音は思った。

「……サバ、うまそうな匂いだな」

 そのまま立ち去るのも何となく居心地が悪かったからだろう。ボソッと九田が呟いた。

「食べていきますか? 大したおかまいはできませんが」
「いいのか? やった。朝、まだ食べてなかったんだ」

 琴音としても心配してくれた人を無下に追い返すこともできず、仕方なく上がってもらった。着流しの上に半纏(はんてん)を羽織った九田は、寒い寒いと呟きながら冷気をまとって部屋に入ってきた。
 昨夜は酔っていてあまり気がつかなかったけれど、そういえば今は冬で、寒いなと思って琴音はエアコンをつけた。

「そういえば、大家さんって九田さんだったんですね。大叔母に任せきりにしてしまっていて知らなくて……昨日はご挨拶もなしにすみません」

 パンにバターを塗りながら、琴音はペコリと頭を下げた。でも、ダンボールを組み合わせただけの簡易テーブルの前に居心地悪そうに座っている九田を見ると、謝るところはそこじゃなかったかと思い直す。

「ああ、いいよ、別に。花代さんから菓子折りもらってるし、知り合いのよしみだし。……それより、いらんテーブルあるから、いるか?」
「今、めちゃくちゃ私のこと憐れんでません? 大丈夫ですよ。荷物がまだ届いてないだけで、ちゃんとテーブルも椅子もありますから」
「そうか、それならいいんだが」
 
 一刻も早くテーブルがほしいのだろうなと思って、少し申し訳なくなった。でも、じっと顔を見られて自分が今ノーメイクなのを思い出して、気にするのはそこではないと思い直す。とはいえ、テーブルも化粧も、人を招く予定などなかったのだから仕方がない。

「あ、丸屋のほうに行くの、荷物を受け取ってからでいいですか? たぶん、そんなに遅くならないと思うんですけど」
「いいよ、急いで来なくて。ちゃんと搬入してセッティングして、生活できるように整えてからで。何なら、手伝うけど」
「大丈夫です。ひとり暮らし用の小さめの家具ばかりで、量も少ないですし」
「そうか」

 気怠げでやる気がなさそうに見えるけれど親切だなと、琴音は改めて九田を評価した。あの店で働くのはちょっとどうかなと思っていたけれど、この人とならうまくやれる気がする。

「できました。どうぞ」
「……和食の支度ではないと思っていたが、なんとパンに挟まれて出てくるとは」
「サバサンド、結構いけるんですよ」

 できあがったサンドイッチを皿に乗せて出すと、九田は眠たげなたれ目を少し見開いた。そしておそるおそるといった様子でひと口かじって、さらに目を見開く。

「……うまいな」
「でしょう? 私もテレビの海外の食べ物を取りあげる番組でこういった魚を挟んだサンドイッチを見てから半信半疑でやってみたんですけど、意外にイケるなあって。ネットで調べたらレシピも結構あるから、わりと一般的なのかもしれません」
「そうか。……うまいなあ」

 九田は黙々とサンドイッチをかじった。たまにサンドイッチと並べて出した紅茶を口にする。でも、すぐにまたサンドイッチに集中した。
 その姿を見ると、琴音の中に小さな喜びがふつふつと湧いてくる。自分の作ったものを誰かがこうして美味しそうに食べてくれるというのは、琴音にとって救いだった。

(第一印象は控えめに言っても悪かったけど、九田さんはいろいろと私の救いになってくれるのかな)

 そんなふうに九田との出会いに感謝しかけた琴音だったけれど、その後の九田の発言がすべてを台無しにしてしまった。

「料理うまいんだな、バツイチさんって」

 ピキッと、琴音は自分のこめかみに青筋が浮くのがわかった。最近涙もろくなっているだけでなく怒りっぽいとも自覚してはいるものの、ひどい間違いだ。腹を立てるなというほうが難しい。それとも、わざとなのだろうか。あだ名的な?

「……ハ・ツ・イ・チ、です! それに今時、離婚したからって戸籍にバツなんてつかないんですからね!」

 ふんっと鼻を鳴らして、琴音は自分のサンドイッチにかじりついく。それを見て、九田は口の端をニッと上げた。

「すまん、間違えた」

 絶対わざとだ!――琴音はそのとき、九田がただ親切なだけの人間ではないと確信した。
 スマホのアラームで目を覚まし、朝食を摂り、着替えて歯を磨いて顔を洗ってメイクをして、改めて鏡を覗き込んで琴音は「よし」と呟いた。
 鏡の中には、そこそこ美人な顔がある。化粧さえすればなんとかなるものだなあと、特に感慨もなく思う。
 琴音は化粧を落とすと眉毛がない。髪の毛を含め全体的に体毛の色素が薄いせいか、眉毛が薄いというよりほぼないように見えるのだ。おかげで、メイクができるような年頃になるまでわりと人相が悪かった。
 おまけにいわゆる薄顔というかのっぺり顔で、メリハリをつけたメイクを心がけないとどうにも存在感が薄くなる。
 でもその代わりに、メイクの技術さえ手に入れてしまえば、“美人風”を装えるから、得といえば得だ。
 装うこと、繕うこと、それっぽく見せること――これらはいろんな場面で大事だなと、働き始めたばかりの職場・喫茶丸屋に出勤して琴音は思った。

「九田さん……もっとこのお店、内装だとか雰囲気作りだとかに力を入れませんか?」

 店内を見回して、琴音は溜息まじりに言った。
 カウンター席に四人がけのテーブルが八卓と、店内はまずまずの広さだ。けれども、店主の九田と同様に店内は何となくやる気がない、もとい味も素っ気もない。ただ空間の中にテーブルと椅子があるだけという感じだ。
 音楽も流れていなければ、華やかさや趣きを添える飾りもない。これでは人が入ってこないし、もし入ってきたとしても寛ぐことはできないだろう。

「雰囲気作りー? 別にそういうのはいいや。だって俺は別に、この店が儲からなくてもいいし」

 一応店主としての務めを果たす気はあるのか、琴音が出勤してくる頃合いにはふらりとやってきて鍵を開けてカウンターの奥に収まっている九田は、あくびを噛み殺しながら言った。
 なんてやる気のない姿でなんてやる気のない発言なのだろうと、琴音はちょっぴり苛立つ。

「儲からなくていいって……どうやって生きていくつもりですか」
「不労所得で。あと、九田家はこれまでに稼いだ財産があるし。たかだか何代か前に人様のためになる縁結びに鞍替えしたからって、もともとは人を呪うことで興った家だ。……そんな金は俺が使い切ってやるんだよ」
「いや……まあ……言わんとすることはわかるんですけど」

 悪いことをして稼いだお金はさっさと使い切ってしまいたいということなのだろう。その主張は、琴音も理解できた。
 けれども雇われた手前、儲からなくてもいいという主張には同意しかねる。

「人手がほしくて私を雇ってくれたんですよね? それなら、儲からなくていいっていうのはおかしくないですか?」
「こんな店でもな、毎日最低でもひとりかふたりは客が来るんだよ。その客をあんたにさばいてもらったら、俺は楽できるなあって思ったんだ」
「なんてことを……!」

 どこまで怠ければ気が済むのだと、琴音は目眩がしてきそうな心地だった。でも、くらりとした拍子にいいことを思いつく。

「あの……このお店、儲からなくてもマイナスを出してもいいんですよね?」
「んー? 別にいいけど」
「それなら、私にいくらか資金をください。少しお金をかけたら内装とか諸々、もっとどうにかできると思うので」
「……大人のお店屋さんごっこをやりたいってことか」

 九田に問われ、琴音は頷いた。
 儲からなくてもいい、お金を使い切ってもいいというのなら、資金として使わせてもらってもいいだろうと琴音は考えたのだ。
 それなら九田の言うとおり、ごっこ遊びのようにいろいろやってみたい。失敗してもいいのだし、これで売上が上がれば万々歳だ。何より、琴音としては客が来てくれないと困る。……喫茶店のほうの客ではないけれど。

「面白いな。やってみたらいい。これ、通帳と印鑑な。一応この店の名義の通帳だから、この店の資金ってことになる。レシートや領収証をとっておいてくれたら、どこで何を買っても構わん」
 
 面白そうに笑って、九田は店の二階に行って通帳と印鑑を取ってきた。それらを受け取ってどんなものかと開いてみて、その予想外の額に琴音は目が飛び出るかと思った。……これは一度、使ってもいい資金として限度を決めて引き出して、その中から使ったほうがいいだろうなと考える。とてもではないけれど、ホイと渡されて持ち歩いていい通帳ではない。

「……大事に使わせていただきます」
「好きにしたらいい。何か近場で買い物するなら、こいつらを道案内に連れて行ったらどうだ」

 うやうやしく通帳と印鑑を押し頂いた琴音に、九田は顎でカウンターの上を指し示す。
 そこには、いつの間にか現れていたクダギツネたちがいた。今日は折り重なっておらず、白い子、茶色い子、ミルクティー色の子、灰色の子がいるのがわかる。それを見て琴音の頭には「選べるアソートセット」という単語が浮かんだ。カラーリングが、何となくお菓子っぽい。

「よろしくね、クダちゃんたち」

 あやかしというものがよくわかっていないけれど、じっと見てくるのが可愛くて、琴音はそう声をかけた。

「……見えない人間も多いんだから、外で話しかけるなよ」
「……はい」

 クダギツネに代わって、少し引いた様子の九田に言われて琴音は凹んだ。でも確かに、クダギツネに話しかけているところをもし誰かに見られたら、動物に話しかける変な人か虚空に向かって独り言を言う危ない人だと思われるだろう。

「約束、守ってね」

 店を出てすぐ、琴音はコソッと足元のクダギツネたちに言った。

「よくわからないけど、縁結び、すればいいんでしょ? するから、この目をもとに戻してね」

 クダギツネたちは答える代わりに、てててと駆け出した。どうやら、ついて来いということらしい。
 少しわくわくしながら、琴音はそのあとに続いた。


 それから、琴音は丸屋での業務の合間に様々なものを少しずつ揃えていく日々を送った。
 クダギツネたちは琴音を近所の古道具屋や古書店、花屋、文具店などに連れて行ってくれた。
 夢の中のように言葉は話さないけれど、クダギツネは目つきや身振りで意思疎通を図ろうとしてくれる。琴音が古道具屋で花瓶を買えば、そのあとは花屋へ行こうと促してくれたり。メニュー表を作り変えたいと言えば、文具店に連れて行っておしゃれな和紙を勧めてきたり。
 クダギツネたちは、丸屋に人を呼ばなければ縁結びもできないとわかっているのだろう。店主の九田よりもよほど協力的だ。……たまに変なものをほしがるけれど。

「それ、買わないよ」

 今日も、古道具屋に入るや否やクダギツネはある置き物へと走っていく。
 その置き物はどうやらイタチのようなのだけれど、体の色は汚れた白だし、目の周りがなぜかべっとりと黒い。その上、威嚇するかのように牙を向いている顔が絶妙に可愛くないのだ。いくら和っぽいテイストでも、これは店に置きたくない。

「あ、丸屋のところの。ほしがってた花器、いくつか仕入れてきたよ」
「ありがとうございます」

 琴音の来店に気がついた店主が、箱を手に店の奥から出てきた。店主は信楽焼のタヌキにどことなく似た姿で、見るたび琴音の気持ちはちょっぴり和む。

「知り合いの質屋から手頃な価格のもんを買い取ってきただけだから、色も形もてんでバラバラだけどな。かろうじて、大きさは大体揃えたよ」

 店主は緩衝材の紙を剥がしながら、ひとつひとつ花器を見せてくれた。四角いシンプルなもの、ころんとしたフォルムのもの、ウニの骨を思わせるもの、小さな土器のようなもの。どれも両手に包み込めるほどの大きさで、テーブルに置いても飲食の邪魔をしない。

「どれも素敵ですし、大きさもちょうどいいです」
「それなら、全部お買い上げかな」
「はい、お願いします」
「じゃあ、ついでにあれも持っておいでよ」

 花器をもう一度包んでくれながら店主が目線で示したのは、あのイタチの置き物だ。ほしくてたまらないらしく、クダギツネたちは置き物にまとわりついている。

「店に来るたびに見てただろ? 迷ってるなら、あるうちに買っといたほうがいいよ。まけとくから」
「でも……」
「こういうのはご縁だから。な?」
「じゃあ、お言葉に甘えて」

 置き物に群がるクダギツネたちを見ていたのが、店主の目には熱心に置き物を見ているように見えたのだろう。
 結局琴音は、花器と一緒に不細工なイタチの置き物も包んでもらった。不本意だけれども、跳ねるように少し先を駆けていくクダたちを見れば、まあいいかという気がしてくる。

「あ、帰る前に古書店を覗かせて」

 どうやら丸屋に戻るつもりだったらしいクダちに声をかけ、琴音は道を曲がった。それから、古い商店の並びにギュッと収まっている小さな店へと入った。
 その古書店は小さいけれど、本棚がびっしりだ。その棚の間をスイスイ泳ぐように進んで、琴音は吸い寄せられるように一冊の本を手に取った。

「村岡花子先生の訳の『若草物語』だ」
「やはり、気に入りましたか。君が見つけてくれるんじゃないかと思って、棚に差しておいたんですよ」

 琴音が感激していると、店の奥の椅子に座っていた店主が面白そうに言った。おじいさんと言っても差し支えない年齢なのだろうけれど、おしゃれで紳士的で、おじいさまという呼び方のほうが相応しい感じがする。

「『若草物語』、村岡先生の訳ではまだ読んでなかったので嬉しいです」
「君はもしかして、モンゴメリなんかは村岡女史の訳で読んだ人?」
「はい。子供のとき祖母の家で見つけて、夢中で読みました。そのせいか、『赤毛のアン』を他の人の翻訳で読んでもいまいちしっくり来なくて……」
「わかりますよ。海外文学は訳者との相性も大切ですから」

 モンゴメリやオルコットなどの海外の少女小説の愛読家である琴音は、『若草物語』を大事に胸に抱いてその後も本棚を物色した。でも、収穫といえば琴音が好きな装画家の挿絵が入った『不思議の国のアリス』くらいで、ほかはあまり心惹かれるものはなかった。

「お店の本棚は、充実させられそうですか?」
「少しずつ、ですけど。店の片隅の本棚で、手に取ってもらえるかはわからないんですけど」

 琴音は丸屋の一角に小さな本棚を置き、そこに状態の良い古書を充実させたいと考えている。インテリアとしてもおしゃれだと思うし、何より店に来た人が飲み物片手にそれらの本を読んで寛いでくれればと思ったのだ。

「本はいいですよ。あるだけでいい。居心地のいい空間に変えてくれますからね」
「そうですね」
「欲を言うなら、丸屋さんのメニューにケーキや軽食があればもっと居心地がよくなるんですけれど」
「そうですよね! 検討します」

 この古書店の店主も古道具屋の店主も、琴音が店を訪れるようになってから興味を持ってくれたらしく丸屋に来てくれるようになった。
 メニューはといえば今のところコーヒーか紅茶かオレンジジュースしかないというひどい状態なのだけれど、かろうじて九田の淹れるコーヒーも紅茶も美味しいのが救いだ。
 とはいえ、デザートや軽食がほしいというのは、喫茶店に求める当然のことだろう。
 貴重なアドバイスと本を手に、琴音は店を出た。

「あれ? そっちは帰り道じゃないでしょ」

 アイスクリームやケーキスポンジなんかを仕入れればパフェを作れるだろうかなどと考えながら歩いていると、クダギツネたちが丸屋ではない方向に進み始めた。
 声をかけるも、止まる様子はない。もしかするとどこか連れていきたい店があるのかと思い、琴音はそのあとに続いた。
 すると、クダギツネたちは琴音がこれまでまだ来たことがなかった細い道に出た。そしてそこには、男性がうずくまっていた。

「だ、大丈夫ですか?」

 もしかしてこの人は急病人か何かで、それをクダギツネたちは知らせたかったのかと考え、琴音は慌てて声をかけた。
 
「え、あ、大丈夫です」

 琴音に声をかけられ、男性は顔を上げた。まだ若い人だ。もしかすると大学生くらいだろうか。「大丈夫」と言っただけのことはあり顔色は特に悪くないけれど、表情に覇気がない。憔悴しきっている様子だ。

「どこかお加減が悪くて座り込んでたんじゃないんですか?」
「違います。川を下っちゃおうかなーなんて思ってここに来たんですけど。俺なんか川を下っちゃえよと思って……」
「えっと……川下りならここから駅のほうに戻ればいいんですよ。バス、出てますし」

 観光で川下りをしに来て迷子になった……のではないだろうなと思いつつも、琴音は試しに言ってみた。
 けれども、やはりやけになっているっぽい青年は悲しそうにふるふると首を振った。

「違うー。違うんですー……本当は川下りなんかじゃなくて、自分の生きる道を探しに来たんですー」

 もう何かが限界だったのか、青年はそう言って駄々っ子のように泣き始めた。それを目の当たりにして、琴音は困惑する。
 けれども何よりも困ったのは、クダギツネたちが青年の周りをウロウロし、何やら身振りで訴えかけてくることだ。

「えっと……とりあえず、落ち着ける場所に行きましょうか。それから、温かいものでも飲みましょう」

 仕方なく、琴音はそう声をかけた。
 弱りきった青年を丸屋に連れて帰り、琴音はとりあえず座らせてカフェオレを与えてみた。コーヒーを飲めるか尋ねたところ、「甘いものなら」と彼が答えたからだ。
 琴音と一緒に店に入ってきた青年を見て、九田は「誰? え、何なの?」と小声で聞いてきた。「道に落ちてたので拾いました」と答えると、「犬猫みたいに気軽に人間を拾うなよー」と言ったきり、興味をなくしたようだけれど。
 青年はカフェオレをちびちび飲みながら、しょんぼりしたままだ。でも、泣いても震えてもいないからマシにはなったのだろうと思い、しばらく放っておくことにした。
 琴音はカウンターの端の席で、メモ帳とにらめっこを始めた。そこには店内のレイアウト案や、琴音が喫茶店にあったらいいなと思うメニューについて書かれている。
 ドリンクメニューの充実を図ろうとしていたのだけれど、さっき古書店の店主に言われたようにフードメニューを作らなければならないだろう。

「ケーキ類は業務用スーパーで冷凍ものを仕入れたら何とかなるけど、問題は食事か……九田さん、この奥の厨房って調理しても大丈夫なんですか?」
「何する気だー?」

 起きているのか寝ているのかわからない九田に声をかけると、目を閉じたまま不機嫌な返事が返ってくる。

「ここ、喫茶店なのでナポリタンとか出せたらいいと思うんですけど」
「食品衛生責任者も防火責任者も講習を受けてるから、飲食店としての基準は満たしてるよ。……でもな、俺はナポリタンは好かん」
「そうですか」

 ひとまず食品を提供するのは問題ないとわかって、琴音がメニュー考案に意識を戻そうとしたとき、ガタッという音がした。そちらに目をやると、青年が椅子から立ち上がって、何やら必死の形相で琴音のほうに近づいてきた。

「あ、あの……! もし、料理人を探してるんだったら自分を雇ってもらえませんか! 調理師免許あります! 飲食店勤務経験も! 一生懸命頑張ります! よろしくお願いします!」
「え……!」

 青年は琴音のそばまで来ると、一気にまくしたてるように言ってから勢いよく頭を下げた。その勢いにあっけにとられ、琴音はすぐに返答できない。
 驚いて何も言えない琴音を見て断られると思ったのか、青年はまた顔をくしゃくしゃにして猫背になる。

「俺、どこかで雇ってもらえないと本当に行き場がなくて……」
「行き場って、働く場所のことだったんですね」

 消沈する青年に、琴音はやっとのことでそう声をかけた。青年はそれにうんうんと頷く。

「小さい頃から親父に憧れてて、親父みたいな料理人になりたいって思ってたんです。でも、学校でしっかり学んで修業もしっかりしないと跡を継がさないって言われたから、中学卒業したらすぐに調理の専門学校に行って、そこを出てからは親父が若い頃に修業したのと同じ店で働かせてもらって、五年修業したからそろそろ親父の洋食屋で働かせてもらおうと思ってたんですけど……」

 青年はそこまで言ってから、つらそうにして言葉を詰まらせた。これから何か悲しいことが語られるのだろうと予感し、琴音は身構えた。

「親父、店を閉めるって言いだしたんです。本当は、ずっと前から経営が厳しかったらしくて……良心的な価格でやってたんで。俺を修業に出させてたのは、店を立て直す時間稼ぎをするためだったみたいなんですけど、結局閉めることにしたそうです。赤字まみれの店、俺に継がせるわけにはいかないからって……」
「それは、つらいですね。仕方のないことだって、親御さんの気持ちもわかりますけど」
「でも……それだけじゃないんです!」

 気持ちに寄り添うようにして琴音が相槌を打つから、青年はどんどんヒートアップしていく。

「修業させてもらってた師匠も、店を閉めるって言いだしたんです。……本当は、結構前から年齢的にきつくなってたのと持病が悪化したって理由で。せめて俺が立派になるまでって踏ん張ってくれてたらしいんです。弟子の息子は孫みたいなもんだから、面倒みてやろうって。でも、もう余生を過ごしたいって言われてしまって……」
「修業先の店まで……!」
「居場所をなくした俺に、師匠はかつて弟子だった人がこのあたりで店をやってるはずだって教えてくれたんです。だから俺、兄弟子(あにでし)にあたる人の店でならやっていけるかもしれないし、まだ学ばせてもらえるだろうと思って連絡してから訪ねていったんですけど……その人の店、レストランじゃなくてオカマバーになってました! 自分の可能性に目覚めたらしくて、料理人から転身……変身?して、バーのママになってたんです!」
「そんなことが……!」

 涙なくしては語れないといった様子の青年につられて、琴音もポロポロ泣きだした。平気なふりをしていただけで、やはりまだ情緒不安定なのだ。

「落ち着いたら大したことないのかもしれないけど、子供のときからの夢が破れて、頼るところもなくなって、頼みの綱も切れて……予定にないことだらけでつらいんです」
「わかる! こんなはずじゃなかったって思うと、悲しいのとパニックなのでわけがわからなくなっちゃうよね!」
「そうなんです! 俺、今わけわかんなくて……」
「わけわかんないのつらい……私の人生も、こんなはずじゃなかった……」

 病院の待合室なんかで幼児の号泣が伝染するように、ここでも悲しみが伝染し、大変なことになっていた。でも、幼児ではなく立派な大人がやっているのだからかなりシュールだ。

「おいおいおい……あんたら、何を共鳴してんだ。泣くなよ、うるさいから」

 カウンターの奥でだらけている九田が、泣く大人ふたりを前にうろたえていた。そんなやる気のない声は届かないから、ふたりが泣くのをやめる気配はない。
 静かな空間でただボーッとできることを望んでいるのだろう。九田は頭を抱えていた。彼まで「こんなはずじゃなかった」という顔をしている。

「あーもーうるさいな。わかったよ。雇えばいいんだろ? 雇うから、ふたりでメニューでも何でも考えたらいいじゃねえか」

 困り果てた九田は、やけになったような口調でそう言った。
 それを耳にしてすぐは琴音も青年も意味がわからずキョトンとしたのだけれど、理解できると大喜びして手を取り合った。

「やったー! いいんですか?」
「いい、いい。……これも何かの縁ってやつだ」

 琴音が笑顔になって問えば、九田は面倒くさそうに言う。その肩を見るとクダギツネたちが乗っていて、琴音に向かってサムズアップしていた。……この子たちが何かしたということなのだろうか。

「ありがとうございますっ! 精一杯頑張ります!」

 青年は九田に向かって、深々と頭を下げた。
 その顔は晴れやかで、これからのことを思ってやる気に満ち溢れているようだった。


 ***

 青年・飯田淳司(いいだじゅんじ)はその翌日から丸屋にやってきて、毎日せっせと働いた。
 実家が洋食屋で、レストランでも五年間修業したというだけあって、料理の腕前は申し分なかった。何よりも研究熱心なため、まだ何もない丸屋のフードメニューを考案するのに大いに役に立ってくれている。

「琴音さん。試作品できたよ」

 飯田は皿を両手に持ち、上機嫌で奥の厨房から出てきた。

「こっちがリボン型のパスタ、ファルファッレを使ったものです。ただのクリームソースだと見た目がちょっと寂しいから、鮭を入れてみました。で、こっちが“結ぶ”ことに引っかけてロールキャベツです。本当はこうやって縛らなくてもいけるんですけど、干瓢で可愛くリボン結びにしてみました」
「どっちも可愛いし、美味しそう!」

 飯田は料理を二品、琴音の前に置いた。
 琴音が縁結びにちなんだメニューを置きたいと相談すると、飯田は面白がっていろいろ考えてくれた。
 “縁”とか“結ぶ”というのを食べ物でどう表現したものかと悩む琴音に、飯田は「リボンで表現しましょう」と言ってくれたのだ。だから琴音はデザートメニューとして、リボン型のクッキーやそれをトッピングに使ったパフェを考案することができた。

「前回のクリームソースより鮭が入ってるぶん、色味がついて可愛いね。ロールキャベツのほうは言うことなしだよ。盛りつけもすごくきれい」
「でも、どっちもトマト仕立てでやったほうが可愛いし縁結びっぽいと思うんですけどねー」

 琴音が試作品を手放しで褒めると、飯田はちらっと九田のほうを見た。聞こえていたらしく、彼は気怠げに目を開ける。

「トマトは嫌だなあ」
「マスターが食べるわけじゃないからいいじゃないですか」

 好きにしろというわりにこうして口を出してくる店主に、飯田は困った顔をした。でも彼は人懐っこくおおらかな性格らしく、九田のことをマスターと呼んで、カウンターで日がな一日だらけているこの勤務スタイルもあっという間に受け入れてしまったようだ。

「食べなくてもなあ、トマトは見るだけで……」
「見るだけで?」
「悲しくなる。赤が嫌いなんだ」
「あー、悲しくなるんですかー。じゃあ、仕方がないですね」
「うん」

 九田は明らかにいい加減なことを言った感じなのに、飯田はそれに特につっこみを入れることなく流した。おおらかな青年だ。
 トマトを使った料理がこの店で提供されるという危機が去ったとわかったからか、九田はまた目を閉じて眠ってしまった。近くにいたクダギツネたちがそんな九田を見て、困ったように首を振っていた。四匹揃ってやると、何だかそういうおもちゃのようだ。
 
(……もしかして赤色が嫌いなのって、赤い糸と関係してる?)

 琴音はふとそんなことを考えたけれど飯田の前で確かめられるはずもなく、メニューの考案をするうちにそんなことも忘れてしまった。
 丸屋の営業は午後6時に終わる。
 だから琴音はそこから徒歩で帰宅して、毎日ゆっくりと夕食の支度をすることができる。
 離婚して家に戻ってくるまでは、個人クリニックで医療事務の仕事をしていた。日頃はそこまで遅くなる仕事ではなかったものの、月末の締め日付近はレセプトをまとめるのに忙しくなるため、残業することも多々あった。
 そういった生活に慣れていたから、今の職場や働き方は琴音にとって驚くほど快適だ。収入はやや減ったけれど、格安で今の部屋に住めているし、都会暮らしよりもお金がかからないのが利点だ。……時折、変な訪問者さえ来なければ。

「九田さん、ナチュラルに椅子を持ち込んで寛ぐのやめてもらえません?」

 琴音はキッチンに立って鍋をかき混ぜながら、背後でだらけている九田に声をかけた。
 
「だってここ、椅子が一脚しかないじゃないか。それなら、持参するしかないだろう」
「いや、押しかけてくるなって言ってるんですよ」

 九田は週に何回か、琴音の部屋を訪ねてくる。聞けば大家として、二部屋隣に住んでいるのだという。
 建前は琴音がまたこの前みたいにサバを焦がしたりしないか心配でということだけれど、実際のところは食事狙いのようだ。その証拠に、朝食や夕食を作っているときばかりに来るのだから。
 琴音の部屋に椅子がひとつしかなく、仕方なく最初のときのようにダンボールのミニテーブルで食事をさせていたのがよほど不満だったらしい。今日はついに自宅から椅子を持参してきた。

「押しかけてくるなって言うけど、花代さんに頼まれてるから来てるんだよ」
「花代おばちゃんが?」
「そう。ひとりにしとくのは心配だから、たまに見に行ってやってくれって」
「……何か、すいません」
「ま、俺はたまにうまい飯にありつけてるからいいんだけど」
「……そっちが主な目的ですよね?」

 呆れたように言いつつも、琴音は料理の仕上げに取りかかった。茹で上がったパスタを、温めておいた卵ソースに手早く和えていく。卵がダマになるより先にさっと混ぜてしまわないと、そのぶん味が落ちてしまう。今日のメニューはカルボナーラ。卵の風味が命だ。

「できましたよ。今日はカルボナーラとオニオンスープです」

 テーブルの上に敷いていたランチョンマットと鍋敷きの上に、琴音は配膳した。九田の皿は鍋敷きの上だ。琴音はこの部屋にひとりぶんのものしか置かないと徹底しているから、九田のぶんのランチョンマットはないのだ。

「うまそうだな。俺、カルボナーラ好きなんだよな」
「それはよかったです」

 本当はトマト系のパスタが食べたかったのになと思いつつも、九田が美味しそうに食べる姿を見るとわざわざ言う気にはなれない。それに、カルボナーラは上出来だった。飴色タマネギを冷凍していたものを使ったスープも、簡単だったのにかなりおいしくできている。

「そういえば九田さん、縁結びってどうやるんですか?」

 食後のお茶を飲みながら、琴音はふと気になったことを尋ねてみた。このくつろいだ雰囲気なら、少々聞きづらいことも聞けるのではないかと思ったのだ。

「聞いてどうするんだ?」
「後学のために。言うのを忘れてたんですけど、夢にクダギツネたちが出てきて、縁結びをしてくれって言われたんですよ。たくさん結んだら、この目をもとに戻すとも言ってました」
「……何だよそれ。普通に脅されてるじゃねえか」

 あきらかに話したくなさそうだったけれど、琴音がクダギツネの夢について話すと態度が変わった。渋々といった様子で口を開く。

「縁を結びたい対象を指示すれば、クダたちが勝手に結んでくれる。能力が高いやつは見えるだけでなく結ぶこともできるが、あんたは無理だろうな。クダたちが仮初めの力を与えただけだから」
「仮初めの力……だから触ることができなかったんですね」

 琴音は、自分の右手小指から伸びる赤い糸を掴もうとして空振った。何度やっても、やはり掴むことはできない。

「クダちゃんたち、糸を結んだりできるんですね。あんなちっちゃくて柔らかそうな手で」
「あんた、飯田と結ばれてたぞ」
「え? 本当ですか?」

 九田に言われて慌てて自分の手を見るも、赤い糸の先には見えない。琴音の糸の先は、無理やり引きちぎったみたいに短くなっているだけだ。

「赤いのじゃなくて、別の色のだ。仕事とか、そういう縁の。あんたが丸屋のメニューを充実させたいって言ってたから、あいつらがそういう縁をたぐり寄せたんだろ」
「そういうことだったんですね。……飯田くんと恋愛フラグが立ったのかと思って焦りました」
「いや、あんたの糸はちょん切れてるから今は無理だぞ」
「え……」
「ちょっと考えればわかるだろ。そんな短いの、結べるわけがない」
「……ぐちゃぐちゃに絡まってる人に言われたくないです」

 誰かと結ばれる気などまったくなかったものの、はっきり無理だと言われて悔しくなって、琴音は九田の指先を見た。彼の糸はネコか何かに蹂躙された毛糸のように、毛先も見えないほどこんがらがっている。

「糸を見るのには慣れたか? 人が多いとこ行くと、嫌になるだろ?」 

 ぐちゃぐちゃと言われても気にした様子もなく、九田は琴音に尋ねた。心底嫌そうな口振りだ。糸を見ることが自分にとって嫌なものだから、琴音も当然嫌なのだろうと気遣っているようだ。

「いくらか慣れました。最初の頃は目がチカチカする気がして疲れてたんですけど、今は『あの人の糸、三本くらい引っかかってる』とか『あのカップル、彼女のほうが色がくっきり』とか見て楽しんでます」

 見えたばかりの頃はとにかく戸惑って疲れていたけれど、最近の琴音は見えるのを楽しめるようになっていた。それを聞いて、九田は信じられないものを見るような目になる。

「……何が楽しいんだ。糸が複数見えるのは気が多いのか多数に気を持たせてるかだし、付き合ってる片方だけ色が違ってるのは想いが釣り合っていないか変質してきてるかだな」
「へえ。やっぱり面白い」

 解説を聞いて、琴音はさらに興味津々といった顔になる。それを見て、九田は呆れたように首を振った。

「面白くないより面白いほうが、まだいいか。どのみち面白がってても、自分の糸は結べないわけだしな」


 ***

 琴音の努力が実って、丸屋は少しずつ客が入るようになってきていた。
 飯田と一緒に新メニューを考えただけでなく、コーヒー無料チケットを駅前で配布したり、チラシを新聞に折り込んだり、黒板アートの看板を店の前に置いたり、様々なことをした。
 その甲斐あって、まず近所の人が興味を持って訪れてくれるようになり、その中には週に何度か通ってくる人も現れた。
 そして、縁結びとそれにちなんだメニューを打ち出しているから女子高生を始めとした若い女性たちの集団も足を運んでくれるようになった。
 女子高生の若さゆえの眩しさに琴音が目を潤ませたことをきっかけに面白がられて親しくなり、年上のお姉さん的存在として恋愛相談もされている。
 飯田の身の上話を聞いたとき同様、琴音は人が苦労した話や切ない話を聞くと涙腺が刺激されるのか盛大に泣き出す。その情緒不安定な様子を九田はドン引きした目で見ているけれど、話した本人や周囲の人たちは親身に聞いてくれていると感じるようだ。
 飯田が「琴音さんに聞いてもらうと人生うまくいく」などと客の誰かに言ったこともあり、女子高生を中心に琴音に自分の話をして泣かせるのが流行っている。
 ちなみに、飯田や親しくなった客たちが琴音を名字で呼ばないのは、「バツイチの初一(はついち)琴音です」という笑えない自己紹介をかましたからだ。
 琴音としては、九田に散々いじられているから予防線のつもりで言ったのだけれど、いじろうなどと思っていない人間たちにはただ驚愕だった。みんな触れてはならぬと申し合わせたいように「琴音さん」と呼ぶようになった。

 そんなふうに常連と呼べそうな人たちができて、店らしく営業できるようになったある日のこと。
 いかにも観光客という男女が店を訪れた。

「ねえ、ここ縁結びにちなんだメニューがあるんだってぇ」
「へえ、いいね」

 琴音の「いらっしゃいませ」には一切反応せず、その男女は空いている席に向かっていった。
 別にレストランではないのだから「空いているお好きな席へ」というスタンスではあるものの、この反応は少し感じが悪いと言えるだろう。でも、琴音が気になったのは別のことだった。

「結びロールキャベツと結びオムライス、食後に結びクッキーセットひとつです」
「おお! カップルのお客様でがっつり縁結びメニューのオーダーだ! これは、特別なサービスの発動ですか?」

 キッチンにオーダーを伝えると、飯田のテンションが上がった。
 飯田には赤い糸のこともクダギツネのことも当然話していないけれど、縁結びを求めて来たお客さんには何か特別なことをしたいと濁して伝えてある。
 今のところ具体的に「縁結びありますか」などと聞いてくるお客さんがいないため実施したことはないけれど、これはという人が来ればクダギツネに伝えようと考えているのだ。

「メイドカフェでオムライスに魔法かけるみたいに、何かありがたいことをしちゃう感じですかー?」

 琴音の考案していることに興味津々な飯田はノリノリで尋ねるものの、琴音は渋い顔で首を振った。

「あの人たちはだめです。縁、結んじゃ。不倫カップルだから」

 楽しそうに談笑するカップルを見て、琴音はこっそり嫌な顔をした。男性の小指から伸びる糸は緩くリボン結びされているのに、そこに女性の小指から伸びる糸がくるくる巻きついているのだ。男性はアラサーくらい、女性は女子大生くらいに見える。年齢差のあるカップルに見えなくもないけれど、この糸の状態を見れば健全な関係でないのは明白だった。
 
「え? どうしてそんなことわかるんですか?」
「あの二人、指輪がお揃いじゃないんです。男性がつけてるのはあるブランドのブライダルリングなのに対して、女性がつけてるのは同じブランドのカジュアルラインのもの。つまり、ペアリングをつけてるわけじゃないってことですね。男性は奥さんとペアのものをそのままつけてて、女性のほうはおそらく男性に贈られたものをつけてるんでしょ。……あくまで推測ですけど」
「おお……」

 糸のことを話せない代わりに、琴音は注文を取る間に気づいたことを話した。店に入ってきたときから感じていた違和感を裏づけるために観察して気づいたことなのだけれど、飯田はそれで納得したらしい。調理に取りかかる前にちらっと店内を見てから、納得するように頷いていた。

「でも不倫って、純愛っぽくないですか? 道ならぬ恋っていうか」
「は?」
「いや、だって、いけないってわかっててもそれでも互いを求め合うって純粋な感じするじゃないですかー」

 できあがった料理を手に琴音のところへやってきながら、飯田が無邪気に言った。その瞬間、琴音のまとう空気が凍りついた。
 飯田は琴音が離婚経験者と知っていても、離婚の理由が夫の浮気によるものだとは知らない。だから仕方がない面はあるにしても、倫理的に問題のある考え方だ。離婚前から不倫や浮気というものを嫌悪している琴音にとっては、聞き流せないセリフだった。

「……じゃあ、サッカーの試合でボールを手で運んでゴールした人は純粋なんですか? そうまでして勝ちたかったんだ、勝ちたい気持ちがそれほどまでに純粋だったって言います? 言わないでしょ? 不倫は不倫、ルール違反はルール違反なんですよ!」

 静かに怒りをたぎらせて吐き捨ててから、琴音はできあがった料理を提供しにいった。
 そのときの琴音の顔や醸し出す雰囲気に気圧された飯田が「般若だ……」と呟いたのも、それを聞いた九田が「あれは般若になる前の生成(なまなり)だ。でも、罪や悪徳を美化しないあの人の姿勢には俺も賛成だな」と言って飯田を暗にたしなめたのも、琴音の耳には届いていなかった。


 そんな感じで客が来るようになっても縁結びにつながらない日々を過ごしていたある日のこと。
 
「あの……ここって縁結びをしてもらえるって、本当ですか?」

 これまでのお客さんとは少し雰囲気の異なる、若い女性が丸屋を訪れた。

「好きな人との仲を取り持ってもらいたいんです」

 三つ編みの似合う高校生くらいに見えるその女の子は、恥ずかしそうに、でも目に決意を込めてそう言った。
「縁結び、ありますよ。まずはお好きなお席へどうぞ」

 琴音は「ついに来た!」という喜びを抑えて、その三つ編み少女に座るよう促した。少女は少し落ち着かない様子で店内を見回してから、奥まった席へと歩いていった。この時間帯はちょうど客が引けていて、席は選り取り見取りだった。

「ここ、喫茶店になったんですね。おばあちゃんから聞いた縁結び屋さん、小物屋さんだったはずなんですけど……」
「そうみたいですね。今の店主の代になってから喫茶店らしいです」

 少女の言葉を聞いて、不安そうにしていたのはそういうわけだったのかと納得した。
 それから少女はそわそわとメニューを眺めてから、クッキーと紅茶のセットを注文した。
 喫茶店というものにきっと慣れていないのだろう。注文してからも少女はキョロキョロしたり、またメニューを開いたりしていた。それを琴音と飯田は微笑ましく見守り、いつもより少しだけ丁寧に紅茶を淹れ、クッキーを焼いた。

「おばあちゃんに話を聞いたときは冗談みたいだなって思ってたんですけど、同じ学校の子たちがここの話をしてて、『琴音さんに話したらいろいろうまくいく』って言ってるのを聞いて本当なのかもって思ったんです。……店員さんが、琴音さんですか?」

 クッキーと紅茶を運んでいくと、三つ編みの少女が勢い込んだように言った。きっと、注文したものが運ばれてくるまでの間、何と言って琴音に声をかけようか考えていたのだろう。

(まだ誰の縁も結んでないのにな……同じ学校の子たちとやらは、一体どんな話をしたんだろ?)

 若干噂がひとり歩きして自分の存在が妖怪じみてきていることが気になったけれど、琴音は笑って頷いた。

「そうですよ。私が琴音です」
「よかった! ……じゃあ、琴音さんに聞いてもらわなきゃいけないんですよね? その、恋バナというか、好きな人のことを」

 三つ編み少女は琴音が噂の人物だとわかってほっとしつつも、恥ずかしそうにもじもじした。
 この店に来て自分のことを話すのが楽しい子もいれば、やはりこうして恥じらう子もいるのだなとわかる。琴音も自分が高校生の頃はこの少女のようだったなと思って、ちょっぴり親近感がわいた。

「そうですね。話してもらったほうがご縁が結びやすいですね」

 琴音はちらっとカウンターのほうを振り返り、そこにいる九田とクダギツネたちを見た。九田は相変わらず寝ているのか起きているのかわからない状態でそこにおり、クダたちは古道具屋で買ってやった可愛くないイタチの置き物に寄り添ってこちらを見ていた。
 だから琴音はさりげなくその置き物を手に取り、クダたちを引き連れて少女のいるテーブルに戻った。

「えっとですね……このイタチは店の守り神みたいなものなので、この子に聞かせるつもりで話してもらっていいですか?」
「は、はい。わかりました」

 琴音はテーブルに置き物を置いてから言った。琴音をじっと見ていいのかどこを見ればいいのかわからない様子だった少女は、少し驚きつつも置き物に目をやった。それをクダギツネたちが見つめ返す。
 これなら三つ編み少女の緊張もやわらぐし、クダギツネも縁結びの対象として少女を認識することができるだろう。咄嗟の思いつきだったけれど、どうやらよかったらしい。

「私の好きな人は、私よりひとつ歳上で幼馴染なんです。家が近くて、小さいときからずっと仲良しで……でも、好きになったのは今から十年くらい前なんです」

 少女ははにかみながら、ポツポツと自分のことを話し始めた。

「私、ものすごく髪の毛がやわらかくてスルスルしてるので、結ったりしてもあまり長持ちしないんです。そのせいで毎朝お母さんを苦労させてて。でもあるとき、どこかにお呼ばれすることになってて、お母さんが張り切って可愛い髪型にしてくれて、夕方になってその用事が終わってからも髪型が保ったままだったから、公園に遊びに行ったんです。仲のいい子たちに、いつもより可愛い格好をしてるのを見せたくて」
「わかる。新しい服とか靴とか買ってもらったら、誰かに見てもらいたいもんね」

 大人になってからも存在するそのわくわくした気持ちに、琴音は共感した。子供の頃はきれいな服を着たり髪型を可愛くしてもらったりするだけで、お姫様にでもなった気分がしたものだ。

「でも、当然といえば当然なんですけど、遊んでるうちに髪の毛はぐちゃぐちゃになっちゃって、それで私、泣いてしまったんです。そしたらいつも一緒に遊ぶ男の子のひとりが私のことをなだめつつ、慣れない手つきで何とか三つ編みにしてくれたんです。それで『さっきの髪も可愛かったけど、これもなかなか可愛いからもう泣くなよ』って言ってくれたんです。……その男の子が、好きな人なんですけど」
「わー! そのときからずっと好きなの? 可愛い! すごいねえ、一途だねえ。可愛いー!」

 琴音は三つ編み少女のピュアさを前に感涙していた。自分がとっくに捨て去ったか失ったかしてしまったその純粋さに、拝まんばかりに感動しているのだ。
 少女は琴音に感激され褒められ、照れて頬を赤くした。でも、気合いを入れ直したかのように表情を引き締めて首を振る。

「でも、一途なだけじゃだめなんです。ずっと好きで、仲良しで、そばにいたくて彼と同じ高校に入学したけど、全然そこから進展しないんです。ずっと幼馴染のまま、妹みたいな存在のままで……。そんなんじゃだめだと思って今年のバレンタインは思いきって誰の目にもわかる本命チョコをあげたんですけど、たぶん伝わってません。好きって言ったのに、『ありがとう。僕もだよ』ってにっこりして言われちゃったんで……」

 そのときのことを思い出したのだろう。三つ編み少女は目に見えて落ち込んでいる。心なしか、三つ編みも元気がないように見える。

「でも、バレンタインにあげたんだったら、ホワイトデーに期待できない……? もしくは、そのときにもう一回ちゃんと告白してみるとか?」

 何かなぐさめの言葉をと思って琴音がそう口にするも、少女はまたも首を振る。

「ホワイトデーじゃ、三月十四日じゃ、だめなんです。三月に入ってすぐ卒業式があって、その数日後に大学の合格発表だから。彼はきっと合格するから、そのあとはひとり暮らしの部屋探しや引っ越しで忙しくなっちゃうと思うんです。だから、その前に……」
「好きな人、受験生なんだね。……そっか」

 琴音は自分が高校三年生だった頃のことを振り返り、確かに大変だったなと思い出した。合格してからの解放感に浸る間もなく、忙しなく部屋探しと引っ越しに追われるのだ。……たぶん、ホワイトデーどころではない。

「頑張って勉強して彼と同じ大学に入るつもりではいます。でもその前に、離れる前に、きっかけがほしいんです。それでだめなら……あきらめられるので」

 少女はそう言ってから、思いつめるようにうつむいた。そして、そっと三つ編みの毛先を撫でる。
 十年間、好きな人が「可愛い」と言ってくれた髪型を続けているのだ。それはきっと祈りであり願かけであり、決意なのだろう。それに思いの強さを感じて、琴音は彼女の恋を応援してあげたいと思った。
 何より、想い人のほうも彼女に対して悪感情がないのは確かだろう。そうでなければ、二月十四日という入試の前期日程の前に顔を合わせてチョコを受け取ることなどしないはずだ。

「話を聞いていて、背中を押してやりたいなとは思ったよ。うまくいけばいいなとも。だが、お嬢さんには縁を結ぶ前に確認しておきたいことがある」

 いつの間にカウンターから出てきたのだろうか。九田がすぐそばまで来ていて、三つ編み少女に語りかけた。そのあまりの気配のなさに琴音は驚いたけれど、九田の顔を見ると真剣で、どうやら邪魔しに来たわけではないらしい。

「確認したいこと、ですか?」
「そう。縁結びをするのはやぶさかではないけれど、縁結びが万能ではないことを伝えておきたいんだ。結んだところで永遠の愛が保証されるわけではないし、いい関係を築ける保証もできない。それでも、縁を結びたいか?」

 九田は淡々と尋ねた。脅す意味ではなく、ありのままの事実なのだろう。
 甘く淡い恋心の前に九田の問いかけは無粋で残酷に感じられて、琴音は少しひやひやした。
 でも、三つ編み少女は九田の言葉に気持ちが挫けた様子はない。その目には、強い意思が宿ったままだ。

「わかってます。縁を結んでもらうのは、きっかけに過ぎないって。気持ちをつなぎとめられるかも自分次第だし、仲良く付き合っていけるかも二人次第だって。それでも、きっかけがほしいんです。振り向いてもらえたら、絶対に離しません!」

 少女は九田の目を見て、そうきっぱりと言い切った。頬は赤く、唇は震えている。照れと緊張が入り混じっている様子だけれど、そこに迷いは感じない。
 それが伝わったのか、九田も納得したように頷いた。

「じゃあ、お嬢さんの縁、結ばせてもらいましょうか」
「え!? 九田さん、いいんですか……?」

 三つ編み少女の縁を結んでやりたいと思っていながらも、まさか九田がそんなことを言い出すとは思っていなかったため、琴音は驚いてしまった。でも、気が変わってはいけないから余計なことは言わずにおこうと慌てて口を噤(つぐ)む。

「あの……お代は?」

 急に不安になったのだろう。三つ編み少女が九田に尋ねた。
 確かに、メニューに書いているわけでもなくどこかに明示されているわけでもないのだから、いくら払えばいいのか不安になるのも無理ないことだ。

「そうだな……恋仲になったお相手と今度ここで何か食べてくれたら、それでいいよ。今日はその注文したぶんのお代だけで」

 九田は少し考えてから、不安そうにしている少女に言った。
 三つ編み少女は一瞬きょとんとして、でも意味がわかると満面の笑みを浮かべた。

「はい! 絶対に彼とここに来ます!」


 紅茶とクッキーを楽しんでから、三つ編み少女が帰っていくのを琴音と飯田は出口まで見送った。日頃はそんなことはしないのだけれど、彼女は特別だ。期待とちょっぴりの不安を抱えて帰っていく少女を見守ってやりたかったのだ。
 クダギツネたちは少女の肩に乗ってついていってしまった。二匹は彼女の小指から伸びる糸にぶら下がり、くいっくいっと引っ張るような動作をしていた。

(何だか釣りでもしてるみたい。もしかして、あの子の好きな人を引き寄せてるとか?)

 そんなことを考えたものの、少女が遠ざかるにつれてそのうち見えなくなってしまった。

「ここの店の縁結びって、カウンセリングみたいなもんなんですか?」

 赤い糸もクダギツネも見えず、単に喫茶店で働いているつもりの飯田が不思議そうに首を傾げる。九田や琴音にとっては意味のあるものだった三つ編み少女とのやりとりも、飯田にはただの悩み相談に見えていたのだろう。

「……まあ、そんなとこだな。縁結びにしてもカウンセリングにしても、本人の気持ちが一番大切ってとこは共通だし」

 九田はしばらく考えて、何か適切な説明を探していたようだった。でも、面倒になったのかいい加減な言葉で片づけてしまった。
 それなのに飯田は「へえ。いいことしてるんですね」などと感心している。……おおらかというか何というか、騙されないか心配になる。

「九田さんが縁結びする気になってくれて、よかったです」

 飯田が厨房に戻ったのを見計らって、琴音は九田にそっと耳打ちした。
 やるときはやるのだとほっとしたのだけれど、九田はムスッとした表情になる。

「実際にやってみせていったら、あんたにもわかるかもしれないと思ってな」
「わかるって、何がですか?」
「結ぶこと自体や、誰の縁は結んで誰の縁は結ばないって選択をすることのおこがましさだよ。……縁を結ぶなんていいことじゃないし、そこに介入するなんて何様のつもりなんだって気づくときが来るさ」

 言うだけ言うと、九田はまたカウンターの向こうに戻ってしまった。
 少女の恋の後押しをしていいことをしていた気になっていたのに、九田の言葉で琴音の胸はさざなみが立つようだった。

 ***
 
 曇ったり小雨が降ったりはっきりしない天気が多い二月が駆け足で過ぎていき、春の訪れを少しずつ感じるような暖かな日が増えてきた三月のある日のこと。
 一組の初々しい男女が丸屋にやってきた。

「琴音さん、来ました!」

 おしゃれなボブヘアの女の子にそう声をかけられ、琴音は初め誰かわからなかった。
 でも、よくよく見ればその子は三つ編み少女で、嬉しそうにしているのは傍らに連れているのが件の彼だからだと理解した。

「髪、切ったんですね。よく似合ってて可愛いですよ」
「片想いが終わったので、その区切りとして。それに、これからは一年は遠距離恋愛だから、彼の周りの大学生の女の人たちに負けないように可愛く大人っぽくしてなきゃと思って」

 そう言って笑う少女は幸せそうで、好きな人の心をつなぎとめるのだという強い意思が感じられた。その横でニコニコしている彼も、とても幸せそうだ。

「あの日、このお店の帰り道にばったり彼と会って、そのときいろいろお話して、それで付き合うことになったんですよ。……縁を結んでもらったおかげです。ありがとうございます」
「どういたしまして。お幸せに」

 嬉しそうに言う少女に、琴音も心の底からそう返した。

(あの女の子も彼も、あんなに幸せそうなんだもの。縁結びは、いいことに決まってる)

 注文したパスタとケーキセットを仲良く分け合う二人を見て、琴音はそう思った。
 でも、そう思うからこそ、より一層九田がなぜあんなことを言ったのか気になってしまうのだった。