***
一時的に目がおかしくなったか、酔っ払ったか――そう思ってその日は寝たのだけれど、翌朝になっても症状は改善していなかった。
とはいえ、「赤い糸が見えるようになった」と家族に話せば心配されるのはわかっている。下手をすると、病院に連れて行かれるかもしれない。でも、病院に行ったところで治らないのは確実だ。
赤い糸がちらついて落ち着いてテレビも見ていられないし、このままでいいわけもない。
困り果てた琴音は、花代に連絡をした。
離婚のことをいろいろ聞かれるかもしれない、お見合いを勧められるかもしれない、何より明るくパワフルな人を相手にする気力がない――足踏みする理由はたくさんあったものの、頼れる人が他にいなかったから。
けれど、そんな琴音の不安とは裏腹に、花代の反応はあっさりしたものだった。
『喫茶丸屋から手紙が来とった? 早かったねー。人手がいるって言っとったから、琴音ちゃんのことを話しとったんよ。働く気はある? それなら、住むところも手配しておこうね。やけん、琴音ちゃんは自分の必要なものだけ持ってきんしゃい』
赤い糸のことを伏せて届いた手紙について話すと、花代はすぐに何もかも了解したというふうな口ぶりでそう言った。「気分転換にもなるやろうけね。自分のことをよう知らん人たちばかりのところで心機一転するのも、琴音ちゃんのためになるやろ」とも言っていた。
過剰に憐れまれなかったことと深く尋ねられなかったことで、琴音の気持ちは一気に楽になった。花代に対して身構えていたのが嘘のように、素直に頼ろうという気分になっていた。
そういうわけで電話をかけた数日後、琴音は新幹線と私鉄に揺られ、花代のもとを訪ねていた。
「よう来たね、琴音ちゃん」
「久しぶり、花代おばちゃん」
「疲れたやろ。今、車を回してくるけね。とりあえず、琴音ちゃんの住む部屋に行って荷物下ろそうね」
改札を出ると、元気のいい花代に迎えられた。
大叔母ではあるけれど祖母の七歳下で琴音の母とは十三歳差だから、やはり大叔母というより叔母に感覚が近い。そして何より、六十五歳に見えないほど若々しい。縁結びのお節介を焼くという楽しみがあるから、生き生きしているのだろうか。
「久しぶりに来たけど、やっぱり雰囲気があっていいところだね」
駅前のロータリーから車に乗り込んで、琴音はしみじみと言った。
観光地とはいえシーズンを外れているからか、人がごみごみしていない。それでも常に外から人が訪れる場所として意識しているのだろう。清潔に整然と保たれていて、飾りつけや雰囲気づくりに余念がないのがいい。
「琴音ちゃんがおったのは埼玉やったっけ? ああいうところのほうが若い子にはいいんじゃないの?」
「確かに便利ではあったね。東京も近いからよく行ったし。……でも、私は馴染めなかったな」
埼玉での生活は、琴音にとって即ち結婚生活のことだ。そのことを思い出してつい声や表情が暗くなってしまいそうになったけれど、車を運転中の花代は気がつかなかったようだ。
「それなら、ここでの暮らしは水が合えばええねえ。水と言えば、川下り! 今度、気が向いたら川下りの船に乗ったらええわ。住んでしばらくすると乗ろうって気にならんけね、お客さん気分の抜けきらんうちに」
「そうだね」
このあたりは水郷として有名だから、町のいろんなところに川が流れている。暮らしの中に川があるというのは、他の地域から来た人間にとってはなかなか不思議な光景だ。
船頭によるガイドつきの川下りが観光の目玉のひとつなのだけれど、小さな頃に親と乗ったきりだ。また乗ってみたいと思いつつも、冬の寒空を見ればそんな気も失せてしまう。乗るにしても、もっと暖かくなってからがいい。
花代ととりとめもない話をしながら三十分ほど車に揺られているうちに、目的地に到着した。
それは趣きある三階建のアパートだった。外観からして古いけれどよく手入れされているのがわかる。古いというよりこれは、レトロというのかもしれない。
「これ、丸屋さんまでの地図ね。歩いていけるから。行ったら、住むことになったご挨拶も済ませときね」
アパート前で琴音を下ろすと、花代はまたいそいそと車に乗り込む。
「おばちゃん、どっか行くところだったの? 忙しそうなところありがとう」
「忙しいっていうか、今から若い人たちの顔合わせの付き添いにね。うふふ。やっぱり初回は付き添ってやらんとねえ。じゃあ、お夕飯の時間にはうちにいらっしゃいねー」
にこやかに手を振ると、花代の車は走り去ってしまった。その慌ただしさに、取り残された琴音は唖然とする。それに、車中でいろいろ言われなかったのは他に世話を焼く相手がいるからだとわかって、何だか脱力してしまう。花代は親切だけれど、やはりお節介なのは変わりないらしい。
(働き始めるのは後日だとしても、早めに行っておくにこしたことはないか。挨拶もってことは、喫茶店に大家さんがいるのかな?)
琴音が住むことになったのは、三階の部屋だ。花代に必要なことを説明されずおいてけぼりにされた感たっぷりで戸惑ってはいるものの、とりあえず身軽になろうとキャリーを引いて階段をのぼった。
渡されていた鍵でドアを開けると、すぐにキッチンが目に入った。
事前に渡されていた間取り図によると、五畳のダイニングキッチンとバスルームとトイレ、そしてその奥に六畳の洋室がある。手狭かと思っていたけれど、こうして実際に目の当たりにするとちょうどよい広さに思えた。
「今日からここが、私の部屋か……」
花代がどこかからもらって搬入しておいてくれた冷蔵庫と電子レンジ以外何もない部屋で、琴音は呟いた。
夫と幸せに暮らしていくのだと気合いを入れて不動産屋を回って探した部屋とは違い、なし崩し的に住むことになった何の思い入れもない部屋だ。でも、ここでこれから生きていくのだと思うと、妙にしっくりくる気もした。
長居をして新婚当初のことを思い出して泣きたくなってもいけないから、琴音はキャリーバックを適当なところに転がしてまた外に出ることにした。
先ほどまで大きなキャリーバックを引いていただけあって、小さなポシェットにスマホと財布だけ入れて歩くのは何だか自由な気分になった。
でもそれも、身体の軽さと動きやすさに関してだけだ。
少しでも視界に人が入れば、その人の指の先から伸びる糸が見えてしまう。
新幹線の中でも、私鉄でも、花代と一緒にいるときにも、実は相変わらず赤い糸は見えていた。でも、あまり意識しすぎると疲れるから、努めて視界から外すようにしていたのだけれど、それでもチラチラ目に入っていた。
(喫茶丸屋に行けば、何らかの解決策があるはずよね)
送られてきた仮雇用契約書に何か秘密があるのだろうと踏んで、それだけを頼りに慣れない土地を歩く。
同じ市内でも、観光地として大々的に売り出しているところを離れると普通の住宅街だ。特に目立つ目印もなく、おまけに花代の書いた地図はわかりにくい。
それでも何とか迷いながらもぐるぐると歩いて、やっとのことでたどり着いた。たどり着いてみると、おそらくアパートから十分もかからない場所にあることがわかる。
「ここか……」
樹齢のいった木をそのまま切り出したかのような板材に「丸屋」と墨文字で書かれた看板を掲げるその店は、二階建の日本家屋だった。確か、土蔵造の町家というのだったなと琴音は思い出す。
「……ごめんください」
引き戸をそっと開けると、ドアベルがカランと音を立てた。店内に人の気配はない。けれどそう感じたのは薄暗いからで、少しして目が慣れてくると、カウンターに男性がいるのがわかった。
着物を着流した気怠げな男性が、頬杖をついて目を閉じている。眠っているのだろうか。営業中なのに?
「あのー、すみません」
琴音は信じられない気持ちで、男性に声をかけた。すると、男性はおもむろに目を開けた。
「なに? 客?」
低く、それでいて響く声でそう問われ、琴音は驚いた。その発言や態度に対してもだけれど、無駄に美声なのと目を開けたらなかなかいい男だったことに。
歳は三十代半ばくらいだろうか。琴音はこれまで生きてきて、仕事中にこんなにやる気のない三十代男性を見たのが初めてで衝撃を受けていた。
「いえ、客ではなくて、吉田花代の紹介で来たんですけど」
「え? 誰?」
「初一と申します」
「バツイチ? ……ああ、花代さんのところの」
男性は気怠げな態度を崩すことなく、おまけに失礼なことまで言ってきた。おおかた、この男性の頭の中で琴音の情報は「花代の親戚の、離婚してバツイチになった女」という感じなのだろう。
そのことだけでもむかついたのに、男性の言葉はさらに琴音を苛立たせた。
「いや、話は聞いてたし人手はほしいからお願いしようと思ってたけどさあ、こうしていきなり押しかけられたら困るなあ」
「いきなりって……私は、この仮雇用契約書ってものが届いたからここにきたんですけど」
「契約書ぉ?」
腹を立てながら琴音がカバンから三つ折りにした契約書を取り出すと、男性はそれをひったくった。
「……俺は、こんなもの送ってないぞ」
「え?」
「だが、うちの社判が押されている。丸屋じゃなく九田屋のだけどな」
書類をじっと見つめて、男性は困り果てたように頭を抱えた。
この契約書は本当に覚えがないことらしく、さらに無下に突き返すこともできないもののようだ。
「あの、私も契約書を見たとき気になったんですけど、九田屋って何ですか? 喫茶丸屋さんとは違うんですか?」
差出人は喫茶丸屋だったのに、従事するのは九田屋の業務と書かれているのが引っかかっていたのだ。本来ならその疑問を解決するまで署名すべきではないなのだけれど、操られるようにして書かされてしまったのだから仕方がない。
「そんなことも知らねえでって……普通の契約書じゃないから仕方ねえのか。あいつらの仕業だよなあ……」
男性はブツブツ言ってから、悩ましげに頭をかいた。その動きに合わせて、一本に束ねた髪の先が肩の上で揺れている。髪型までものぐさな様子だ。
男性は苦悩し、迷っていたようだけれど、しばらく頭をもみくちゃにすると吹っ切れたように顔を上げ、琴音を見た。
「俺は九田だ。喫茶丸屋の店主で、九田屋の跡取りだ。一応な。で、九田屋ってのは――縁結び屋だ。あんたが契約を結んだのは、縁結び屋ってことだ」
九田と名乗った男性は、そう言い放った。それがすべてだというように、他に言うことも言いようもないというふうに。
それが、琴音と九田の出会いだった。
一時的に目がおかしくなったか、酔っ払ったか――そう思ってその日は寝たのだけれど、翌朝になっても症状は改善していなかった。
とはいえ、「赤い糸が見えるようになった」と家族に話せば心配されるのはわかっている。下手をすると、病院に連れて行かれるかもしれない。でも、病院に行ったところで治らないのは確実だ。
赤い糸がちらついて落ち着いてテレビも見ていられないし、このままでいいわけもない。
困り果てた琴音は、花代に連絡をした。
離婚のことをいろいろ聞かれるかもしれない、お見合いを勧められるかもしれない、何より明るくパワフルな人を相手にする気力がない――足踏みする理由はたくさんあったものの、頼れる人が他にいなかったから。
けれど、そんな琴音の不安とは裏腹に、花代の反応はあっさりしたものだった。
『喫茶丸屋から手紙が来とった? 早かったねー。人手がいるって言っとったから、琴音ちゃんのことを話しとったんよ。働く気はある? それなら、住むところも手配しておこうね。やけん、琴音ちゃんは自分の必要なものだけ持ってきんしゃい』
赤い糸のことを伏せて届いた手紙について話すと、花代はすぐに何もかも了解したというふうな口ぶりでそう言った。「気分転換にもなるやろうけね。自分のことをよう知らん人たちばかりのところで心機一転するのも、琴音ちゃんのためになるやろ」とも言っていた。
過剰に憐れまれなかったことと深く尋ねられなかったことで、琴音の気持ちは一気に楽になった。花代に対して身構えていたのが嘘のように、素直に頼ろうという気分になっていた。
そういうわけで電話をかけた数日後、琴音は新幹線と私鉄に揺られ、花代のもとを訪ねていた。
「よう来たね、琴音ちゃん」
「久しぶり、花代おばちゃん」
「疲れたやろ。今、車を回してくるけね。とりあえず、琴音ちゃんの住む部屋に行って荷物下ろそうね」
改札を出ると、元気のいい花代に迎えられた。
大叔母ではあるけれど祖母の七歳下で琴音の母とは十三歳差だから、やはり大叔母というより叔母に感覚が近い。そして何より、六十五歳に見えないほど若々しい。縁結びのお節介を焼くという楽しみがあるから、生き生きしているのだろうか。
「久しぶりに来たけど、やっぱり雰囲気があっていいところだね」
駅前のロータリーから車に乗り込んで、琴音はしみじみと言った。
観光地とはいえシーズンを外れているからか、人がごみごみしていない。それでも常に外から人が訪れる場所として意識しているのだろう。清潔に整然と保たれていて、飾りつけや雰囲気づくりに余念がないのがいい。
「琴音ちゃんがおったのは埼玉やったっけ? ああいうところのほうが若い子にはいいんじゃないの?」
「確かに便利ではあったね。東京も近いからよく行ったし。……でも、私は馴染めなかったな」
埼玉での生活は、琴音にとって即ち結婚生活のことだ。そのことを思い出してつい声や表情が暗くなってしまいそうになったけれど、車を運転中の花代は気がつかなかったようだ。
「それなら、ここでの暮らしは水が合えばええねえ。水と言えば、川下り! 今度、気が向いたら川下りの船に乗ったらええわ。住んでしばらくすると乗ろうって気にならんけね、お客さん気分の抜けきらんうちに」
「そうだね」
このあたりは水郷として有名だから、町のいろんなところに川が流れている。暮らしの中に川があるというのは、他の地域から来た人間にとってはなかなか不思議な光景だ。
船頭によるガイドつきの川下りが観光の目玉のひとつなのだけれど、小さな頃に親と乗ったきりだ。また乗ってみたいと思いつつも、冬の寒空を見ればそんな気も失せてしまう。乗るにしても、もっと暖かくなってからがいい。
花代ととりとめもない話をしながら三十分ほど車に揺られているうちに、目的地に到着した。
それは趣きある三階建のアパートだった。外観からして古いけれどよく手入れされているのがわかる。古いというよりこれは、レトロというのかもしれない。
「これ、丸屋さんまでの地図ね。歩いていけるから。行ったら、住むことになったご挨拶も済ませときね」
アパート前で琴音を下ろすと、花代はまたいそいそと車に乗り込む。
「おばちゃん、どっか行くところだったの? 忙しそうなところありがとう」
「忙しいっていうか、今から若い人たちの顔合わせの付き添いにね。うふふ。やっぱり初回は付き添ってやらんとねえ。じゃあ、お夕飯の時間にはうちにいらっしゃいねー」
にこやかに手を振ると、花代の車は走り去ってしまった。その慌ただしさに、取り残された琴音は唖然とする。それに、車中でいろいろ言われなかったのは他に世話を焼く相手がいるからだとわかって、何だか脱力してしまう。花代は親切だけれど、やはりお節介なのは変わりないらしい。
(働き始めるのは後日だとしても、早めに行っておくにこしたことはないか。挨拶もってことは、喫茶店に大家さんがいるのかな?)
琴音が住むことになったのは、三階の部屋だ。花代に必要なことを説明されずおいてけぼりにされた感たっぷりで戸惑ってはいるものの、とりあえず身軽になろうとキャリーを引いて階段をのぼった。
渡されていた鍵でドアを開けると、すぐにキッチンが目に入った。
事前に渡されていた間取り図によると、五畳のダイニングキッチンとバスルームとトイレ、そしてその奥に六畳の洋室がある。手狭かと思っていたけれど、こうして実際に目の当たりにするとちょうどよい広さに思えた。
「今日からここが、私の部屋か……」
花代がどこかからもらって搬入しておいてくれた冷蔵庫と電子レンジ以外何もない部屋で、琴音は呟いた。
夫と幸せに暮らしていくのだと気合いを入れて不動産屋を回って探した部屋とは違い、なし崩し的に住むことになった何の思い入れもない部屋だ。でも、ここでこれから生きていくのだと思うと、妙にしっくりくる気もした。
長居をして新婚当初のことを思い出して泣きたくなってもいけないから、琴音はキャリーバックを適当なところに転がしてまた外に出ることにした。
先ほどまで大きなキャリーバックを引いていただけあって、小さなポシェットにスマホと財布だけ入れて歩くのは何だか自由な気分になった。
でもそれも、身体の軽さと動きやすさに関してだけだ。
少しでも視界に人が入れば、その人の指の先から伸びる糸が見えてしまう。
新幹線の中でも、私鉄でも、花代と一緒にいるときにも、実は相変わらず赤い糸は見えていた。でも、あまり意識しすぎると疲れるから、努めて視界から外すようにしていたのだけれど、それでもチラチラ目に入っていた。
(喫茶丸屋に行けば、何らかの解決策があるはずよね)
送られてきた仮雇用契約書に何か秘密があるのだろうと踏んで、それだけを頼りに慣れない土地を歩く。
同じ市内でも、観光地として大々的に売り出しているところを離れると普通の住宅街だ。特に目立つ目印もなく、おまけに花代の書いた地図はわかりにくい。
それでも何とか迷いながらもぐるぐると歩いて、やっとのことでたどり着いた。たどり着いてみると、おそらくアパートから十分もかからない場所にあることがわかる。
「ここか……」
樹齢のいった木をそのまま切り出したかのような板材に「丸屋」と墨文字で書かれた看板を掲げるその店は、二階建の日本家屋だった。確か、土蔵造の町家というのだったなと琴音は思い出す。
「……ごめんください」
引き戸をそっと開けると、ドアベルがカランと音を立てた。店内に人の気配はない。けれどそう感じたのは薄暗いからで、少しして目が慣れてくると、カウンターに男性がいるのがわかった。
着物を着流した気怠げな男性が、頬杖をついて目を閉じている。眠っているのだろうか。営業中なのに?
「あのー、すみません」
琴音は信じられない気持ちで、男性に声をかけた。すると、男性はおもむろに目を開けた。
「なに? 客?」
低く、それでいて響く声でそう問われ、琴音は驚いた。その発言や態度に対してもだけれど、無駄に美声なのと目を開けたらなかなかいい男だったことに。
歳は三十代半ばくらいだろうか。琴音はこれまで生きてきて、仕事中にこんなにやる気のない三十代男性を見たのが初めてで衝撃を受けていた。
「いえ、客ではなくて、吉田花代の紹介で来たんですけど」
「え? 誰?」
「初一と申します」
「バツイチ? ……ああ、花代さんのところの」
男性は気怠げな態度を崩すことなく、おまけに失礼なことまで言ってきた。おおかた、この男性の頭の中で琴音の情報は「花代の親戚の、離婚してバツイチになった女」という感じなのだろう。
そのことだけでもむかついたのに、男性の言葉はさらに琴音を苛立たせた。
「いや、話は聞いてたし人手はほしいからお願いしようと思ってたけどさあ、こうしていきなり押しかけられたら困るなあ」
「いきなりって……私は、この仮雇用契約書ってものが届いたからここにきたんですけど」
「契約書ぉ?」
腹を立てながら琴音がカバンから三つ折りにした契約書を取り出すと、男性はそれをひったくった。
「……俺は、こんなもの送ってないぞ」
「え?」
「だが、うちの社判が押されている。丸屋じゃなく九田屋のだけどな」
書類をじっと見つめて、男性は困り果てたように頭を抱えた。
この契約書は本当に覚えがないことらしく、さらに無下に突き返すこともできないもののようだ。
「あの、私も契約書を見たとき気になったんですけど、九田屋って何ですか? 喫茶丸屋さんとは違うんですか?」
差出人は喫茶丸屋だったのに、従事するのは九田屋の業務と書かれているのが引っかかっていたのだ。本来ならその疑問を解決するまで署名すべきではないなのだけれど、操られるようにして書かされてしまったのだから仕方がない。
「そんなことも知らねえでって……普通の契約書じゃないから仕方ねえのか。あいつらの仕業だよなあ……」
男性はブツブツ言ってから、悩ましげに頭をかいた。その動きに合わせて、一本に束ねた髪の先が肩の上で揺れている。髪型までものぐさな様子だ。
男性は苦悩し、迷っていたようだけれど、しばらく頭をもみくちゃにすると吹っ切れたように顔を上げ、琴音を見た。
「俺は九田だ。喫茶丸屋の店主で、九田屋の跡取りだ。一応な。で、九田屋ってのは――縁結び屋だ。あんたが契約を結んだのは、縁結び屋ってことだ」
九田と名乗った男性は、そう言い放った。それがすべてだというように、他に言うことも言いようもないというふうに。
それが、琴音と九田の出会いだった。