恭矢が美緒子と対峙した時間は一時間もないはずなのに、世界が違っているように見えるのは、大切な記憶を失ってしまったからだろう。

 レミリアを出た後、由宇は恭矢の手を握って離さなかった。恭矢は会社近くのバス停のベンチに由宇を座らせ、彼女が落ち着くのを待った。由宇が美緒子から奪った記憶は、彼女が受け止めるにはあまりに刺激的で、多大な情報量のはずだ。

 それらが彼女の脳味噌に一気に入り込んだ辛さを思えば、恭矢まで苦しくなってくる。由宇の辛さを少しでも和らげてやりたくて、繋いだ手の力を強くした。

「……白状しちゃうとね、記憶を奪った後にこんな風に相沢くんに甘えて、優しくしてもらうことがあまりにも心地よくて、癖になっていたの」

「え、そうなんだ? ……覚えてないけど、嫌じゃないから謝らなくていいよ」

「青葉が相沢くんから離れたがらなかった理由が、わかっちゃった。青葉の気持ちを知っていてやっているなんて、姉失格よね」

「今の青葉なら怒らないよ。それどころか、素直にひとを頼る姉ちゃんの姿に安心するんじゃないかな」

 青葉との別れの日――体を重ねて、さよならを告げたあの日の記憶は美緒子に差し出さなかった。最後に恭矢に見せた強さを持つ青葉なら、由宇を笑ってからかうくらいだろう。

「……そうだと嬉しいな。わたし、これからはもっと青葉と仲良くなりたいから」

 由宇の照れ笑いはとても可愛らしくて、恭矢は赤面する顔を隠すように目を背けた。

「……あのさ。俺の最後の願いごと……というより、我儘を聞いてくれてありがとな。辛かっただろうに、ごめん」

 今回の事件を通して恭矢が最後に由宇に頼んだのは、美緒子がこれ以上誰かの記憶を操作することのないよう、彼女が〈レミリア〉でやってきた仕事の記憶を奪うことだった。

 恭矢の最大最悪の我儘を、優しい由宇は了承してくれた。しかし今、由宇は謝る恭矢の顔をじっと見つめて目を逸らさない。彼女の心情を察するに、やはり怒っているのだろう。

「でもさ、美緒子さんが小泉に奪われた記憶を思い出すことはないとしても……社長っていう立場上周りが状況を説明して、すぐに自分のやってきた仕事を知ることになると思うんだ。だから小泉が負ったダメージに対して、成功率は限りなく低いんだけど……それでも、俺はどうしても小泉と青葉の母親である美緒子さんには、裏の世界から手を引いてほしいんだよ」

 怒っている彼女に対して言葉を重ねるとどうしても言い訳のように聞こえるけれど、紛れもない恭矢の本心だ。

「……あ、そのことなんだけどね、」

「美緒子さんがこの先、会社を続けるのかやめるのか……どんな選択をするのかはわからないけど、俺たちが介入できる範囲はここまでだと思う。ただ、仮に会社を続ける選択を取ったとしても、美緒子さんはもう小泉や青葉を悲しませることはしないよ。あのひとは今日、やっと母親になれたんだから」

「相沢くん、聞いて」

「でも〈レミリア〉みたいな裏社会のでかい会社がなくなるとなれば、どこかでバランスが崩れて世の中が混乱することがあるかもしれないよな。いや、それこそ俺たちが首を突っ込むことじゃないのかもしれないけど……」

「相沢くん!」

 大声を出して恭矢を驚かせた由宇は、両手を合わせて頭を下げた。

「……ごめん、わたし相沢くんに嘘を吐いた。……わたし、相沢くんにお願いされた『母がやってきた〈レミリア〉での仕事』についての記憶は、母から奪ってないの」