女性は住所を書いたメモ用紙を恭矢に手渡した後は、石のように動かず口も開こうとしなかった。困り果てた恭矢がメモ用紙を読んでみると、目的地はここからそれほど遠くなかった。

 自分は無関係だと説得するよりも彼女を目的地に連れて行った方が早いと考えた恭矢は、女性の希望を叶える道を選択した。

 純粋な恋心から由宇を追いかけていただけなのに、なぜ三十代前半と思われる初対面の女性を自転車の荷台に乗せて、なんとかの墓場とかいう場所に向かって自転車を漕いでいるんだ? この女性は一体何がしたいんだ? セイラチャンを忘れるってどうして? 

 恭矢の疑問は増えるばかりだったが、女性に問う気力も勇気も持ち合わせていなかった。

 女性の目的地は商店街から少し外れた、古風な雰囲気の洒落た雑貨屋だった。二階建てのビルの一階をテナントとして利用していて、学校帰りの女子校生が何人か出入りしていた。

「メモに書いてあった住所はここですよ。降りてください」

 そう促したものの、女性は恭矢の背中に回していた手を離そうとはしなかった。

「……あのー、聞いていますか?」

「……ねえ君、旦那の代わりになって? わたしの隣にいてほしいの」

「はい!?」

 旦那の代わりって、結婚しろとかそういう類の話だろうか。いくらなんでも無理難題だ。受ける義理はない。

「いい加減にしてくださいよ。いい大人なんですから、ご自分がおかしなことを言っているってわかるでしょう? じゃあ、俺はバイトがあるんでここで失礼しますね」

 背中に回された女性の腕はあっさりと振りほどくことができたが、自転車から降りた女性は恭矢の正面に立ち、行く手を防いできた。

「いい大人? ……そうよ。わたしがどれだけ頭のおかしい行動をしているかなんて、わかっているわよ! だけど、わかってて言っているの。……お願いします、十五分だけでいい。わたしに、“母親”の自覚がある最後の時間に、誰かにそばにいてほしいの」

 恭矢はここで初めて、その女性のことをしっかりと見た。

 背が高く細身で病的なほどに色が白く、白目が真っ赤に充血しているからか、綺麗なのに疲れている印象を受けた。声や手は震えていて、彼女が語る言葉のほとんどはやはりよくわからないものだったが、こんなに辛そうな女性を見捨てることはできそうになかった。

「……わかりました。隣にいるだけでいいんですね?」

 女性は深く頭を下げ、恭矢の手を握った。

「ありがとう。わたしの名前は支倉夏緒(はせくらなつお)。……こんなどうしようもない女だけど、美容整形外科医をやっているわ」

 恭矢が一緒に来るという言葉に安心したのか、支離滅裂だった支倉の言動は少し落ち着いたように思われた。

「俺は相沢恭矢といいます。高校二年生です」

「いい名前ね。恭矢くん、このお礼はいつか必ずするわ。もし整形したいなら、是非うちでやってね。格安で受けるから」

「いや、間に合ってます。体に刃物入れるとか、想像しただけで倒れそうです」

「そうね。可愛い顔しているものね。だけど一応、貰っておいて」

 支倉は恭矢のブレザーの胸ポケットに名刺を入れ、手を握ってきた。恭矢は逆らうことなくその手を握り返し、そして彼女に連れられるままに雑貨屋に足を踏み入れた。