決意を固めてから計画を行動に移している最中は、時間の流れがとても早く感じた。

 恭矢がようやく再び美緒子のところに行く準備ができた頃、暦は十一月になっていた。もうしばらくすれば、この街では初雪が観測できる季節になる。

 今日は日曜日だがバイトを入れずに、一日中青葉と一緒に過ごした。相沢家で当たり前のように食卓を囲み、たわいないことで笑って、空気みたいに馴染んでいる青葉に居心地の良さを感じながら、彼女の顔も、匂いも、仕草も、何もかもを心に焼き付けようと一秒一秒を噛み締めていた。

 これらの思い出をすべて、記憶に残すために。

「……青葉、あのさ」

 夕食後の緑茶を飲み切ったとき、ずっと言い出せなかった一言をついに切り出した。このたった一言だけで、青葉は恭矢の言わんとすることがわかったのか、頷いて恭矢の手を握った。

 騒がしい家の中から、青葉を外へ連れ出した。北風から身を守るために青葉が羽織ったカーディガンが、彼女が由宇に記憶を奪われた日――引きこもる原因となったその日と同じものだと気づき、現実を受け止めるという彼女の覚悟を感じた。

「……恭ちゃん、先にわたしから言いたいことがあるんだけど、いいかな?」

「いいよ。なに?」

「わたしね、高校へ行こうと思うんだ。もちろん、ハンデもあるし、そんなに簡単に入学できるとも思えないから、今から必死に勉強するつもりだけどね」

「……そっか! うん、いいんじゃないかな! 俺は大賛成だよ。青葉のこと、全力で応援するから!」

「ありがとう。恭ちゃんはそう言ってくれると思ってた。……ねえ、わたしは恭ちゃんに依存してきたし、恭ちゃんもわたしに甘えていた部分があると思うの。でもね、もうそんな日々を過ごすことはできないでしょ? わたしは、あなたと離れなければいけない……変わるためには、逃げていたことから……目を背けちゃいけないもんね」

「……青葉」

 青葉の想いが、しっかりと伝わってくる。

「……恭ちゃんの中で、答えは出ているんでしょ?」

 彼女は恭矢に、さよならを告げようとしているのだ。

「……うん」

「恭ちゃんは今日、それを伝えたかったんだよね? ……だったらちゃんと、恭ちゃんの口から言ってほしいな。わたしは、ちゃんと伝えたよ?」

 覚悟を持って挑んだはずなのに、恭矢にとって、それを言うことはやはり辛かった。

 だが青葉は恭矢の甘えを許さなかった。青葉は断固たる決意で恭矢の退路を絶ち、最高のお膳立てをしてくれたのだ。

 息を吐いて、恭矢から目を逸らさない青葉の、澄んだ大きな瞳を見つめ返す。彼女の茶色がかった瞳の中には、泣きそうな顔をした男が映っている。

「……青葉には幸せになってほしいって、思ってる。でも」

 拳を握り締めた。青葉の睫毛が揺れている。だけど、告げなければならない。

「俺が世界で一人しか幸せにできないのなら、小泉由宇を幸せにしたいんだ」

 青葉はしばらく口を開かなかった。ゆっくりと目を伏せ、感情を押さえ込んでいた。

「……うん、わかった」

 永遠にも感じられる長い時間を経てからやっと顔を上げた青葉は笑顔を作り、恭矢の背中側へ回って両手でシャツを掴んだ。恭矢からは彼女の顔を見ることはできない。

「だったら、これからは今まで以上にもっと大変になっちゃうね! 恭ちゃん、頑張ってね!」

 不自然なほどに明るい声で、青葉が恭矢の背中を押してくる。

「……うーん、もう一声。青葉の応援がないと俺、力が出ないなー」

 恭矢もまたおどけた声でお願いしてみると、青葉はシャツを掴んだ手に力を入れた。彼女の爪が背中に食い込んで刺さるような痛みを覚えた。

「ちょ! 痛い! 痛いって!」

 恭矢が大袈裟に叫ぶと、青葉の顔が背中に押し付けられた。

「……じゃあ、言い方を変えようかな。……恭ちゃん、由宇ちゃんを幸せにするために、まずは……わたしと由宇ちゃんとお母さんのために、頑張って!」

 その言葉に対して返事をする代わりに、親指だけ立てて一度も青葉を見ないままその場を後にした。

 青葉は泣いているのかもしれないし、もしかしたら清々しい顔をしているのかもしれない。

 彼女の表情を知ることはできないけれど、自分の泣き顔を見られなくて済んでよかったと思った。

 ありがとう。そして、さよなら――青葉。