二学期が始まるとすぐに文化祭の準備が始まったけれど、家庭の事情でバイトをしている恭矢は免除を認められていた。

 ホームルームが終わり鞄を持って立ち上がると、準備の話でいつもより騒がしい教室の中で、小泉由宇がひっそりと日誌を書いていた。

「お疲れ小泉。日直、頑張ってくれ。また明日な」

「ありがとう。また明日ね、相沢くん」

 由宇は優しい微笑みを見せてくれた。彼女は同級生の女子の中では静かで目立たないが、かなり美人だと思っている。

 由宇の顔が好みなのか、恭矢は彼女のことを目で追っていることが多かった。だがあくまでクラスメイトとしての彼女の顔しか知らないし、知るつもりもなかった。他校に彼氏がいるのかもしれないし、本当はギャルなのかもしれないけれど、これから先も彼女の私生活を知ることはないだろう。

 それなのに、恭矢は由宇の綺麗な微笑みの中に何か大切な忘れ物をした気がして、ドアに手をかけてから足をとめていた。なんだろう、心に残るこの気持ち悪いわだかまりは。恭矢は踵を返して、再び由宇の席の前に立った。

「相沢くん?」

 演技にすら思える由宇の振る舞いに、違和感を覚える。じっと由宇を見つめてみたけれど、表情に答えは描かれない。不自然に戻って来た手前、何も言わないのもおかしいと思った恭矢は慌てて鞄を漁った。

「……これ、あげる」

 ミルク味の飴を差し出すと、由宇は驚いたように恭矢の顔を見た。

「……ありがたく頂くね。どうもありがとう」

「あ、俺さ、駅前のエイルってスーパーでバイトしてるんだ。毎週木曜日はお菓子が一割引だからお得だよ」

「そうなんだ。今度行ってみるね。相沢くんに気がついたら……声かけるよ」

 穏やかで、優しい返事。やはり由宇はいつも通りのようだ。

「小泉ってさ、しっかりしているイメージがあるよな。芯が通っているって感じの。なんだろ、俺の中で日誌を書いている印象が強いからかな? 字も綺麗だし」

 どうしてだろう。適当な話を振って、彼女と少しでも長く話そうとしている自分がいた。いつも通りなら気にかける理由はないはずなのに、一度話し始めると離れがたく思ったのだ。

「ありがとう。でも、自分ではしっかりしているなんて全然思ってないよ。皆より我儘だと思う。……相沢くんがそう思ってくれるのは、多分名前のせいじゃないかな」

「名前?」

「小泉由宇って、漢字で書くとぜんぶ真ん中に縦線が入るでしょ?」

「……おおー! なるほど! すげー! いい名前だね! 小泉のお母さんはちゃんと、考えて名前つけてくれたんだな!」

「……どうかな? 母に言われたわけじゃないけどね」

 由宇に何かをはぐらかされたような気がした恭矢は、その何かを知りたくて少しだけ首を突っ込んでみた。

「……さっき、自分で我儘って言ったじゃん? 家だと見たい番組は譲らないとか、カレーは辛口じゃないと認めないとか、そんな感じ?」

「あはは……秘密。じゃあね、相沢くん。また明日」

 鬱陶しかったのか、由宇は恭矢に早く去ってほしそうだった。

「……ごめん、邪魔した。また明日な」

 俺は一体何がしたかったのだろう。急に恥ずかしくなってきた恭矢は、急いで教室を出て自転車置き場まで走った。