2.
「本当に鞘香ちゃんの紹介を信用して良いのかしら? わたしのパンプスのヒール、しっかり直せるんでしょうね……?」
半信半疑で問い質す歩美に対し、店主は厳格な剣幕のまま頷いてみせた。
店主の表情が険しいのは生まれつきだとしても、やはり第一印象がもたらす悪影響は大きい。接客業に向かない威圧は客の不信感を招く。歩美は赳士の背に隠れた。
恋人に頼られた赳士もまた、せいぜい虚勢を張って店主と対峙する。
「法外な修理費の請求や、客の個人情報を闇に流出させたりしないだろうな?」
「しない」
店主は鬱陶しそうに断言した。
完全にヤクザか何かと間違われている。気丈に振る舞う赳士も実は足が震えていて、内心では店主のいかつい面相に怯えているのが透けて見えた。
さすがに鞘香が見かねて店主の前に立ちはだかると、兄と婚約者に反論した。
「もう! お兄ちゃんも歩美さんも、私の仲介なんだから顔を立ててよね! この店主さんは正当な価格で修理を引き受けるし、職人の腕前も本物よ! 多分……」
最後にちょっぴり弱腰になる鞘香が頼りない。
店主の世話になったのはまだ一回きりだから、たまたま初回サービスで手厚かっただけかも知れないし、職人の腕前と言っても鞘香はその道に精通していない。本当に腕が良いかなんて判断できようはずもない。
それでも鞘香は店主を擁護した。店主がかつて、彼女を絶望の淵から救い出したのは紛れもない事実だから。
「店主さんはほんの少し無愛想なだけで、根は真面目だし、私の話を真摯に聞いて依頼を受けたのよ! だから歩美さんも心配しないで! ねっ店主さん?」
店主の長身を見上げて、鞘香は彼の手を取った。
思いがけず手を繋がれた店主は一瞬だけ頬をひくつかせたが、基本の仏頂面は崩すことなく「ああ」とだけ返事する。
迎え撃つ歩美は半眼になって、店主と鞘香を交互に見比べた。
「けど、この店主さんとやらが、想像以上にちょっと、その……怖くて……ねぇ?」
歩美が覗き込んだ店主の煽り画は、確かに不気味だ。
偉丈夫の強面が仁王立ちしている。その筋の者なのかと勘違いされてしまうのも無理はない。及び腰になる歩美を、赳士が優しく抱きとめた。
「店主ならもっと愛想良く接客すべきなんじゃないか? あ、でもその図体でニコニコしながら迫られても、それはそれで怖いか……」
さらりと無礼千万なことをほざいている。
だが、店主は黙って耐えていた。無理に媚びを売るよりは、自然体で営業するのが無難だと悟っている風体だ。もしかしたら、過去に愛想良く接客して失敗した経験があるのかも知れない。
鞘香はそのことを敏感に感じ取り、ますます店主の手を強く握りしめた。
「駄目だよお兄ちゃん、歩美さん! 店主さんが困ってるでしょ!」
「……困ってる?」顔を見合わせる赳士と歩美。「ようには見えないけれど……不動のしかめっ面だし」
「ひょっとして店主さんの表情を見分けられるのって私だけ? とにかく店主さんを馬鹿にしたら許さないからね!」
目くじらを立てた鞘香に、またもや赳士は腰を引かせた。
妹の檄には弱いようだ。しばらく不満を滲ませていたが、不承不承に矛を収めた。
「わ、判ったよ鞘香。僕も店主を信用するから、そんな目で見ないでおくれ……」
「ちょっと、タケくん!?」
歩美が赳士の心変わりに動揺した。
婚約者があっさり妹側に寝返ったものだから、歩美は裏切られたような立ち位置だ。今や店主を嫌疑の目で見ているのは彼女のみとなった。
「タケくんは恋人のわたしをさし置いて、鞘香ちゃんの味方に付くのね。わたし心細いんだけど……安心して靴を修理したいだけなのに……」
「そ、そんなつもりはないよ歩美!」婚約者をなだめる赳士。「僕も完全に心を開いたわけじゃないけど、ここは妹に免じて、修理を任せてみないか?」
「ほら、そうやってわたしより鞘香ちゃんを優先する」
歩美はすっかりへそを曲げてしまった。
面倒臭い事態になった。恋人の甘い雰囲気など欠片もない。外を歩く通行人は、靴屋から響く喧々諤々の声を敬遠して近付こうともしない。
赳士は鞘香と歩美の板挟みになった。たった一人の家族と言う意味では、妹の方が比重は大きいのだろう。だが、それは歩美をないがしろにしているような錯覚を催す。
「お兄ちゃんも歩美さんも落ち着いて! 私のために争わないでってば!」
鞘香が呆れてがなり立てた。
別に鞘香のために争っているわけではないのだが、この子も少し思考がずれている。
「とにかく店主さんに修理の見積もりを伺おうよ! どこをどう直すのか、期間や値段はどのくらいか、丁寧に話を聞けば、歩美さんも不安が解消されるわ!」
「うーん……」
歩美はなかなか首を縦に振らなかった。
靴の修理に来ただけなのに、あわや喧嘩別れしかねない危険さえ漂っている。
ついに業を煮やした店主が一喝した。
「御託は良いからパンプスを見せたまえよ」
店主は手を差し出した。鞘香に握られていない方の手だ。
ぶしつけにトートバッグへ手を伸ばされた歩美は拒絶反応を示したが、鞘香と赳士に両方から目配せされて、仕方なく明け渡した。
店主はバッグからパンプスをひょいと取り上げた。ヒールが根元から折れており、歩くことはおろか立つことすら出来そうにない。折れたヒールの先端はバッグの中にある。
「ヒールの先端も見せてくれ」
店長の命令口調に、歩美はムッとしたものの――なぜ客が横柄に遇されなければならないのか――しぶしぶ従った。
トートバッグから、ヒールの先端をつまみ上げる。左右二つ。いずれも細長いハイヒールだ。高さは一〇センチほど。かかとの接着部こそ面積が広いものの、突端につれて先細りしており、道路に触れる底辺はわずかな面積しかない。
「ふむ。これは『フレンチ』型のハイヒールだな」
フレンチとは、文字通りフランスで発祥したハイヒールだ。細く尖った形状のため、足にかかる負担もそこへ一点集中する。接地面がそこしかないからだ。
「これを履いて一日中外回りしたら、細いフレンチに負荷がかかる。折れるのも当然だ」
店主はシニカルな笑みをこぼした。
馬鹿にされたような印象を受けた歩美はますます腹を立てたが、店主の言う通りなので反論は出来ない。
「そこで我輩は提案する。細いフレンチ型ではなく、もっと太くて頑丈なヒールに取り換えるのだ。そうすれば足への負担も緩和するし、長時間履いても折れにくくなる」
「そんなことしたら、パンプスの洗練されたデザインが変わってしまうわ」
「嫌なら断って構わない。ただし、同じフレンチ型で復元した場合、遠からず再び折れるのは明々白々だ。予防策を講じなければ修理した意味がない」
同じことをしたら同じ結果になる。当たり前の話だ。
それを避けるには、次善策を考える必要がある。商品デザインを変更することになったとしても、客一人一人に即した履き心地を提供するのが彼の仕事だ。
「じゃあ、どんなヒールに付け替えるの?」
歩美がようやく食い付いた。店主は我が意を得たり、とばかりに話を広げる。
「面積のでかいヒールを使う。足の裏全体を支える幅広の『フラット』や『スプリング』などだ。しかしこれらは、パンプス本来のシャープな美観を損ないかねない」
「出来ればかかとで体重を支えたいわ」
「足の裏全体を支えつつ接地面はかかとの比重が大きい、となると『ピナフォア』や『ルイ』『フレア』が候補になるが――おお、ならば『ウェッジ』はどうだ?」
店主は奥の工房へ半身を引っ込めると、中からヒールの見本を引っ張り出した。
ウェッジと呼ばれるヒールは足の裏全体に接着しつつ、爪先からかかとにかけて高く傾斜している。それでいて靴底は一直線に面状で繋がっているため、負荷も分散される。
「ウェッジヒールは最近の人気傾向でもあり、定番だ。ビジネス用のシャープなデザインも売られている。これならば折れにくいし、長時間歩いても足を痛めない」
「判ったわ……じゃあそれでお願い」妥協する歩美。「修理期間はどのくらい?」
「ヒールを付け替えるだけなら、数日あれば事足りる。ゴールデンウィーク明けの月曜には完了するだろう。用紙を持って来るから、客人の氏名と連絡先を記入してくれ」
「ヒールの高さは、フレンチと同じ一〇センチで頼むわよ」
「任せておけ。交渉成立だな。かんらかんら、かんらからからよ」
古色蒼然とした笑い声を上げる店主に、歩美は不審そうに足をすくませていた。
「契約が成立して良かったです!」
鞘香はと言えば未だに店主の手を離さず、一緒にくっ付いて歩く。店主が申し込み用紙と修理品の預かり証を用意する間も、そばに付きっ切りだった。
完全に懐いている。その様子が滑稽でもあり、大人の目には奇異に映った。
「嗚呼……妹本人が選んだ男ならば、僕も認めざるを得ないようだな……」
赳士が天井を仰ぐ。
妹のことばかりで婚約者を顧みない彼に、歩美はますます癇癪を立てた様子だった。
商談こそまとまったが、不穏な雲行きを呈していたのは否めなかった。
*
ゴールデンウィークは瞬く間に終わりを告げた。
連休を過ぎた商店街は静けさを取り戻す。書き入れ時を脱した軒並みは臨時休業する店舗が多く、開店した場合でも時間を遅らせたり、逆に閉店時間を早めたりと言った措置を取っていた。
そんな中、『鞣革製靴店』だけは通常営業を貫いた。
いつも通りの平常運転を店主は好む。客が来ようと来なかろうと朝一〇時にシャッターを上げ、夕方六時には閉店する。
陽が沈む頃、激しい夕立が降った。
立ち込めた暗雲からはしとど水滴が落ち、アーケード街の屋根を叩く。おかげで往来は濡れずに済むが、ここへ来るまでには傘をささなければならない。
「わー、凄い濡れちゃった!」
傘の雫を振り落としながら、鞘香が商店街を走って来た。
昨今は温暖化の影響で、五月からゲリラ豪雨が降りしきる。鞘香は下校中とおぼしきセーラー服をびしょ濡れにして、店主のもとへ転がり込んだ。
しかも彼女一人ではない。横には赳士と歩美の姿があった。
赳士はジョギングのようなジャージ姿、歩美は会社帰りとおぼしきパンツスーツだ。
「店主さん、今日がパンプスの修理完了日よね? 引き取りに来たわ」
「毎度どうも」
そのために三人揃って訪問したのか。
赳士を挟んで左右に鞘香と歩美が分かれている。女性二人が肩を並べない辺り、先日の軋轢が尾を引いているのだろうか。主に歩美が、自分より妹を優先した赳士に対し、ぎこちなく立ち居振る舞っている。
こちらへ手を振る鞘香を相手にせず、店主は工房からパンプスを取って来た。
綺麗に修繕されている。従来のフレンチ型ヒールではなく、安定感のあるウェッジハイヒールに変貌を遂げていた。
受け取った歩美は修理代を支払うと、さっそく足を通した。ここまで履いて来たビジネスシューズはトートバッグに片付ける。
「履き心地はどうかね?」
「……まぁまぁ、と言った所かしら」
強がったような返事が、いかにも歩美らしい。いささかのわだかまりが彼女にあるようだが、店主が依頼通りの仕事を果たした点には満足していた。
「今日はこのまま履いて帰るわ。新しいパンプスの感覚に慣れておきたいし」
「毎度あり」
事務的に接客を終えた店主は、さっさと工房へ引っ込もうとする。
愛想が微塵もない応対に、鞘香たちは苦笑するしかなかった。
「じゃあ僕は夜勤へ向かうとするよ」
赳士が一足先に店を出て行く。
工場勤務はこれからのようだ。ジャージで来たのも、身軽な服装で通勤できるからだろう。職場で作業服に着替えれば良いのだ。
「行ってらっしゃいお兄ちゃん!」
鞘香が店主に引っ付いたまま手を振った。
その鞘香も、店主が工房へ引きこもった途端、名残り惜しそうに帰途へ着くのだが。
「私はおうちに帰って、お留守番します!」
「わたしも帰宅して夕飯のしたくをしなくちゃ……」
女性陣も店を出た地点で解散となった。
三者三様、それぞれの時間を過ごす。
雨は夜中まで降り続いた。まるで波乱を示唆するように。
店主はまだ知らない。このあと三人の身に何が起こったのかを耳に入れたのは、翌朝になってからだった。
*
「店主さん! 大変ですっ!」
翌日。
雨はすっかり上がっていた。燦々と射し込む朝陽と抜けるような青空が眩しい。
店主はどんな天候でも変わらずシャッターを上げ、靴の仕入れに勤しむのだが、今日は店を開けた直後、軒先にうら若き女子高生が歯ぎしりしながら立っていたので、さすがの店主も何事かと顔が引きつった。
鞘香は店主の剣幕など目もくれず、一も二もなく彼の胸板へ抱き着いた。
その瞳は潤んでいる。小さな肢体は震えている。汗の乾いた匂いが鼻腔をくすぐった。
「どうした?」柄にもなく戸惑う店主。「まだ平日の午前だぞ。学校に行かないのか?」
「店主さん、助けて!」
店主の腕の中で、鞘香は訴えた。
ただ事ではない。乙女の切実な要求に、店主は黙り込んだ。店主のエプロンを涙で濡らした鞘香が、すがるように顔を上げる。
「お兄ちゃんが昨晩、工場で怪我をしたんです……!」
「怪我、だと?」
災難が起こった。雨はやんだと思いきや、降りしきる夜中のうちに発生していたのだ。
「普段は朝になれば帰宅するはずのお兄ちゃんが、ちっとも帰って来なくて……代わりに工場から電話があって、どうやら足を怪我したらしいって!」
「足を?」
「けど、私一人じゃどうしたらいいか判らなくて……歩美さんにも電話したら、今日は外せない営業があるとかですぐには顔を出せないそうです……私も混乱して学校どころじゃなくなっちゃって……ああもう! わけ判んない!」
わけが判らないのは店主の方だ。寝耳に水の難題が降りかかった瞬間だった。
*