4.



 ランニングシューズの修理完了日より数日だけ予定を早めて、鞘香は『鞣革製靴店』を再訪した。

 JR実ヶ丘駅からすぐそばの商店街は、心なしか客足が寂しくなった気がする。もともと大手デパートや歓楽街に客を取られつつあると聞いていたが、なるほどこれが地域競争か、と今さら社会科で習ったことを実感する鞘香だった。

 無論、単に客の少ない時間帯なだけかも知れない。すでに夜のとばりが下りて、夕方の書き入れ時を過ぎている。

 シャッターを下ろす店舗がちらほら見受けられることから、靴屋も閉店時間を過ぎてやしないかと鞘香は焦燥した。自然と早足になる。

「靴屋さんの閉店時間、聞くの忘れてたね。踏絵は知ってる?」

「し、知らない……個人経営のお店って結構早めに閉めちゃうから、こんな時間に行くよりは、日を改めて訪ねた方が良いんじゃないかしら……?」

 踏絵の返事が頼りない。

 むしろシャターが下りていれば良いのに、くらいの語調に聞こえたのは、鞘香の曲解だろうか?

 アーケード街の中ほどに辿り着くと、場末と違って多少の賑わいは残っていた。とはいえ店じまいの準備に取りかかる店舗がほとんどだ。商品棚や看板を片付けている。

 鞘香は焦りを隠せず、しきりに目を動かした。

「居た! 店主さーん!」

 目的地を見付けて滑り込む。

 鞘香が大手を振って挨拶すると、今まさに軒先でシャッターを下ろそうとしていた鞣革靼造と目が合った。

 相変わらずの鉄面皮である。愛想のアの字もない唐変木だが、あいにく鞘香には通用しない。パーソナルスペースが近い彼女の天真爛漫さは、こういうときに便利だ。

 踏絵が眩しそうに鞘香を眺めつつ、自身もおっかなびっくり追いかけた。

「どうした二人とも」

 店主は眉間にしわを寄せて女子高生を見返した。

 想定外の来客だったせいだろう、強面がさらにメンチを切っているが、これは本人の表情が無駄に硬いだけであって、歓迎していないわけではない。

「ちょっと早いんですけど、様子が気になって来てみました!」

「心配は無用だ。納期は若干余裕をもって契約するから、実際は早めに出来上がる。その際はこちらから電話連絡を入れる」

「あっ、そうなんですか! 早いと助かります!」

 鞘香は店主の手を握って、ぶんぶんと揺すった。

 そろそろ大会のレギュラー発表がある。誰が選ばれるかは判らないが、本番に向けた最終調整をするためにも、ランシューが早く戻って来ることに越したことはない。

 鞘香は店主の手を掴んだまま、彼の仏頂面を覗き込んだ。

 上目遣いで見上げられた店主は、こんな鬼面に見入る女子高生の心境が理解できず、ますます眉間にしわを寄せる一方だ。

「我輩の顔に何か付いているかね?」

「いいえ! 私が好きで眺めてるだけです」誤解されそうなことを平気で言う鞘香。「それでですね店主さん! 例の犯人候補がいくつか浮上したんで、話を聞いて下さい!」

「何だ、その話で来たのか」

 店主は安堵の息を漏らした。

 雰囲気がほんの少し和らぐ。次いで店主にしては珍しく、シニカルな冷笑を湛えてみせたから驚きだ。

「かんらかんら、かんらからからよ。ではその候補とやらを教えてもらおうか。靴の破損と照らし合わせて、我輩個人の見解を述べてやろう」

「はい! 後輩部員の忍足さんと、ライバル校の足高っていう子です!」

 鞘香は遠慮なく容疑者の名をさらした。

 忍足と足高――いずれも鞘香へ敵意を剥き出しにする食わせ者だ。

「本当は人を疑いたくないんですけど、頑張って候補者を選びました――どうですか?」

 閉店間際で活気のない店頭は、しんと静まり返った。

 鞘香の相談を真っ向から受け止めた店主は、しばし考え込んだ。その間も決して瞑目せず、まっすぐな鞘香の瞳から目をそらさない。

 やがて店主が出した結論は、やはり皮肉(シニカル)な微笑だった。

「かんらかんら。君は本当に良い子だな。お人よし、と言い換えることも可能だが」

「え?」

「人を疑いたくないと言うが、性善説論者なのか? 君は幸せな環境で育ったのだな。そのせいで、人を悪く解釈できない。ゆえに、犯人候補も誤った人選になってしまう」

「誤った……? 私の予想は外れてるんですか!」

「甘いと言わざるを得ない。だからつい笑みがこぼれる。かんらからからだ」

 店主はきびすを返した。

 レジカウンターにある丸椅子へ腰かけ、エプロンを外す。ワイシャツと蝶ネクタイ、そしてサスペンダーで吊るしたスラックスとブーツでくつろぐ店主は、立ったままの鞘香と踏絵を手で招き、正面からこう説いた。

「君は他人との距離感が狭い。パーソナルスペースが近い、とも言い換えられる」

「あっはい、よく言われます!」素直に頷く鞘香。「それが何か問題でも?」

「大ありだ。君のパーソナルスペースは、どこで(つちか)われた? 昔からそうだったのか?」

「昔っていうか――両親が他界してから、ですね! 親が居ない寂しさを、お兄ちゃんや近所の人と過度(かど)に接することで紛らわせてたんです! そしたら、いつの間にかそれが当たり前になっちゃって」

 なるほど――それが鞘香の原点か。

 パーソナルスペースが異様に近くなった理由。

 人恋しさの余り、徐々に接触する範囲が拡大した案配だ。肉親から近隣住民へ、近隣住民から友人知人へ、友人知人から学校関係者へ、学校関係者から店の主人へ――。

「君は運が良かった。人に裏切られたことも騙されたこともないのだろう? もしも接触した人が悪意を持っていたら、無防備な君は真っ先に危害を喰らうに違いない」

「えっ? そんなこと――」

 鞘香は否定しようとしたが、言葉を詰まらせた。

 現に今、彼女へ悪意を抱く何者かがランニングシューズを傷付けたのだから、反論のしようがない。いや、これでもまだ被害は軽い方だ。無条件に胸襟を開く鞘香へ手傷を負わせることなど、赤子の手をひねるより容易なのだから。

 店主はただでさえ武骨な剣幕を、さらに語気を強めて忠告した。

「以前、ランシューが『靴紐以外にも傷を付けられていたのかも知れないな』と話したのは覚えているか?」

「はい! それを聞いたときはショックでした」

「修理中、本当に何箇所か故意と思われる傷跡が見付かった」

「ええっ!」

「ランシューの消耗を隠れ(みの)にして、繰り返し縫製(ほうせい)を切り裂く『犯人』が居たのだ」

 まさに『木を隠すなら森に』を体現していたのだ。

 さり気ない傷であれば、よほどつぶさに観察しなければ気付かない。それらは消耗による汚損と見分けが付かず、鞘香はこの静かなる悪意を知らずに過ごして来た。

「これほど断続的に、日常的に切り刻むとなると、君に近しい間柄(・・・・・・・)でなければ不可能だ。先ほどライバル校の選手が挙がっていたが、頻繁に顔を合わせていたのかね?」

「いいえ! 公式大会くらいでしか見かけませんよ。せいぜい年に数回です!」

「その子は候補から外して良いぞ」

「じゃあ、残った犯人は後輩の忍足さんですか! 同じ部だから、私のランシューに手を伸ばす機会も多いですし!」

「まぁ待ちたまえ。我輩が今述べたことをもう一度反芻(はんすう)して、候補者を洗い直すべきだ」

「洗い直すんですかっ?」

「君のランシューを執拗に切り刻めるのは、部活だけでなく全ての生活で『そばに寄り添っている人物』だ。隙を見ていつでもランシューに(・・・・・・・・・・)手が届く身近な者(・・・・・・・・)だ」

「それって、私の家族とかですか?」

「さぁな。少なくとも後輩の忍足は、条件を満たしていない」

「うーん、誰だろ? いつも私のそばに居るのって、お兄ちゃん以外は親友の踏絵くらいしか浮かびませんけど――……ん?」

 親友の踏絵。

 鞘香は無意識のうちに、彼女だけは犯人のはずがないと思って除外していた。誰だって親友を疑いたくはない。

 しかれども、店主の語った条件に照らし合わせると――?

「まさか!」

 鞘香は踏絵に体ごと向き直った。

 踏絵はと言えば、青ざめた形相で首を引っ込め、肩をすくめ、膝を笑わせている。すくんだ上半身は肯定も否定もしていないが、呼吸すら止めて紫色に染まった唇は、親友がただならぬ緊張に見舞われていることを意味していた。

「踏絵? どうしたの? しっかりしてよ!」

「あ、あたしは……ち、違うわ、あたしじゃない……!」

「落ち着いて踏絵! 顔色が悪いよ?」

「鞆原踏絵さん」椅子からねめつける店主。「君は普段から刃物を携行している(・・・・・・・・・)ね?」

「は、刃物……? まさかそんな……あっ」

 震え上がる踏絵は、おぼつかない手付きで小物入れに触れた。

 なぜか店主の視界から隠そうとしたのだ。しかし張り詰めた空気のせいで五指が滑り、中身を床にばらまいてしまった。

 携帯用のソーイングセット(・・・・・・・・)が、店主の足元まで散らばった。

 マチ針や縫い糸、そして糸切りバサミが白日の下にさらされる。

 ハサミ――。

 ――刃物、である。

 鞘香は目を(みは)った。

(そうだわ! 踏絵は常にソーイングセット(・・・・・・・・)を持ち歩いてた! ついさっきも更衣室でリボンの糸を縫い直してたわ!)

「縫製用のハサミか」

 店主は腰をかがめて、足元に転がった糸切りバサミをつまみ上げた。

 踏絵が消え入るような声で「触らないで……!」と抗議するも、もう遅い。

 店主はハサミを手中でもてあそびながら、見せびらかすように鞘香へ問いかけた。

「ランシューの縫製を断ち切るには、おあつらえ向きの凶器だと思わないか?」

「ま、待って下さい……」必死に取り繕おうとする踏絵。「携帯用の糸切りバサミなんかじゃ、ランシューの外皮に歯が立ちませんよ……!」

「一度に切ろうとすれば、な」

「!」

「この脆弱なハサミだと、一回で刻めるのは引っかき傷程度だろう。だが、それを毎日続けたら(・・・・・・)どうなる? (ちり)も積もれば山となる。やがて大きな損傷へ発展する。少しずつ段階を経て深める傷跡だから、傍目には経年劣化にしか見えない」

 千里の道も一歩から。

 踏絵は、人目を盗んでこつこつとランシューにハサミを入れていたのだ。

「で、でも鞘香のランシューは本番用で、家に置いて来る日の方が多かったですよ……」

「君が親友なら、鞘香さんの家へ遊びに行く(・・・・・・・・・・・・)ことだってあるのではないかね?」

 店主は事もなげに断定した。

 踏絵は今度こそ息の根を止められた。反論すればするほどボロが出る。心臓を鷲掴みにされたような顔面蒼白で、図星を指された彼女は動けなくなった。

 念のため、店主は鞘香に確認を取る。

「鞘香さん、この子が君の家に来る頻度はどのくらいだったかね?」

「しょっちゅう来てました! 春休みはほぼ毎日! 試験の勉強会とか、お泊まり会も頻繁に――……もしかして踏絵は親友の振りをして、私のランシューを狙ってたの!?」

 以前から、二人は家で遊んでいると話していた。あれは伏線だったのだ。

 鞘香は友に裏切られた。踏絵は友達の仮面をかぶった伏兵だ。面従腹背のユダなのだ。

 二人の友情も、絆も、信頼も、何もかも演技だった――?

「踏絵、答えて!」

「だ、だってあたしも、記録が伸び悩んでたから……」

 ついに動機が語られた。否、踏絵は以前から話していたことだ。引っ込み思案な性格が災いし、人前で実力を発揮できずにくすぶっていた。だから一人で黙々と練習に没頭するしかなかった。その壁を破って接近したのが鞘香なのだ。

「し、しょうがないじゃない……! 鞘香はパーソナルスペースが近いから、あたしにどんどん迫って、いつの間にか親友ポジションに収まったのがいけないのよ!」

「私の性格のせいだってこと? パーソナルスペースが事の発端?」

「あたしは本来、一人でストイックに打ち込むタイプだったのよ……なのに鞘香が土足で踏み込んで来た! そのせいであたしは調子が狂って、タイムが停滞したの……!」

 こんな状態では大会に出られない。それは困る。踏絵も夏に有終の美を飾りたいのだ。

「そこであたしは、鞘香を妨害することを考えた……あたしはずっと鞘香の走りを見て来たから、細工する箇所も目星は付いてた……例えば鞘香のすり足(・・・)にかこつけて、ランシューの靴底をこすって摩耗させた……鞘香のX脚(・・)を利用して、インナーやかかとに裂け目を入れた……エジプト型(・・・・・)の大きな親指で靴が圧迫されたように見せかけて、トゥー部分を切り刻んだ……!」

「なるほどな」腕組みする店主。「君は、本当は足癖の知識があった(・・・・・・・・・・・・)のに知らない振りをして、我輩の様子を窺っていたのか」

 すり足、X脚、エジプト型――足癖に関する数々の講釈さえも、踏絵が店主の知識量を測るための会話だったことになる。何もかも伏線なのだ。

「ずるい手だとは思ったわ……卑怯な女だと自分を嫌悪したわ……けど、鞘香が靴の破損で戦績を落とせば、顧問は鞘香を見限るかも知れない……そうなれば、あたしがレギュラーに選ばれやすくなる……!」

「壊れたランシューに足を取られて、私が怪我する可能性もあったのに?」

「そ、そんなつもりはなかったの……! 本番のタイムが落ちれば充分だったの……!」

 だとしても、この仕打ちは酷い。

 どんなお題目を(かか)げようとも、彼女は親友の足を引っ張った。仲間としての信頼は地に堕ちたし、良識(モラル)を著しく欠いた軽挙妄動だと断言できる。

「踏絵さん」口を挟む店主。「君が鞘香さんの靴屋巡りに同行した理由は、単なる友達付き合いではなく、ランシューに入れた傷跡がバレないか監視するためではないか?」

「うっ……べ、別にそれだけじゃないです、けど……」

「我輩から靴の納期を聞き出し、修理後にもう一度破損させる猶予はないか探ったな?」

「それだけじゃありません……! あたしは初めて出来た友達に感謝しつつ、その友達を罠に嵌める後ろめたさと葛藤して……相反する感情で板挟みになってたんです!」

 せめぎ合う両極端の思惑。

 踏絵の脳内で天使と悪魔が戦っていたようだ。

「ずっと悩んでた……妨害しなきゃいけないけど……鞘香は(ひと)りぼっちのあたしに声をかけてくれた『親友』だったから……!」

 踏絵も苦心していたのだ。だから鞘香と親しく同行しながらも、こっそり鞘香の靴を傷付けるという相反する行動を取っていた。

 だが――それは所詮、詭弁(きべん)である。

 言い訳にもならない。

 大切なのは、被害を受けた鞘香がどう思うか、だ。

 嫌がらせされた鞘香が――信じた友に裏切られた彼女が――何と言うのか。何を感じたのか。それを尊重しなければならない。

 店主は鞘香に視線を投げた。やぶにらみの三白眼はすこぶる恐ろしいが、鞘香はそれを苦もなく受け止める。

「踏絵」ゆっくり息を吐く鞘香。「私って、踏絵の邪魔だったかな? 踏絵は独りで居た方が幸せだったのかな? 私が話しかけない方が、円満に暮らせたのかな?」

「違う、違うの……! 一人の方が集中できるけど、部活も教室も独りぼっちで辛かった……だからパーソナルスペースの近い、気の置けない親友が出来たときは嬉しかったの」

 一人(・・)は平気だが、独り(・・)は嫌だ。

 それが踏絵の本音であり、懊悩の根幹だった。

「あたしは、鞘香と知り合えて幸せだったのよ……!」

 鞘香の物怖じしない性格は、確実に踏絵を救っていた。

 決して邪魔な存在ではない。踏絵は本心から鞘香の友人でありたいと願ったし、二人で過ごすひとときが高校生活を充足させたのは疑いの余地がない。

 ただ、それに反比例して、友人のぬるま湯に甘んじて練習に打ち込めなくなった。友達を意識する余り、自分の力が出しきれない。一人の世界に入れない。

 孤高でなければ、踏絵は本領を発揮できない性分だった。

「ごめんね、踏絵」

「!」

 鞘香は親友を抱きしめた。甘酸っぱい香りがした。

「私って、いつもそう。人に愛想よく振る舞って、誰にでも心を開いちゃうから、相手の気持ちを考えずに距離を詰めちゃって、裏目に出るのよね」

「な……なんで鞘香が謝るの? 悪いのはあたしの方……あたしが謝るのが先よ……!」

「けど踏絵――」

「ううん、あたしが悪いの! 鞘香、ごめんなさい。あたしが犯人。軽蔑していいよ……それほどの悪行を、あたしはしてしまったから……!」

「そんなこと言われても」抱く力を強める鞘香。「私は踏絵のこと、嫌いになれないわ」

「…………っ!」

 踏絵の双眸に涙が浮かぶ。

 店主に見られているのも構わず、大粒の涙を垂れ流した。

 号泣。嗚咽。慟哭。

 余りにわんわんと泣き叫ぶものだから、往来にまで声が響いた。通行人が何事かと店内を覗くより早く、店主が立ち上がってシャッターを閉める。


 人目を気にしないように。二人の世界を邪魔しないように。

 鞘香は親友を許した。彼女は人を憎めないのだ。どうしようもない性善説の信奉者は、必ず自分から歩み寄るパーソナルスペースの近さがアイデンティティなのだから。

(うつわ)が違うな」

 店主は鼻で笑った。

 踏絵もすっかり毒気を抜かれて、鞘香に謝罪を繰り返した。泣き疲れて憑き物が落ちたように、おずおずと両手を鞘香の背中に伸ばす。抱き返したのだ。

 やがて抱擁が終わったあとも、名残り惜しそうに手を差し伸べた。

「こ、こんなあたしでも友達で居てくれますか……?」

「もちろん!」速攻で握手する鞘香。「ただし、二度とランシューを傷付けないでね?」

「し、しないよっ……絶対にしない……!」

 靴を直し、友情も直った。

 店主の洞察が、こじれた女子高生の交友関係を修繕した瞬間だった。

「こじれた紐を解けば、靴の履き心地も良くなるものだ」

「はい! 店主さん、ありがとうございました!」

 鞘香は店主にも手を伸ばす。店主が形だけ握り返してやると、鞘香は大喜びして両手を振り上げた。

 踏絵と店主に繋がれた手――それは二度と離れることのない、信頼の鎖だ。

「私と踏絵は必ずレギュラーになるんで、店主さんも地区予選を見に来て下さいね!」

「気が向いたらな」

「あははっ、本当に無愛想ですね!」

 鞘香は快活に笑い飛ばすと、最後にもう一度礼を述べてから退店した――シャッターが閉まっていたので、店の裏口から出してもらう。

 踏絵と手を繋いだまま、夕闇へと帰って行く。路上に伸びた影法師は、どこまでも二人をくっ付けていた。もう、あの二人は心配いらないだろう。

 店主は戸を閉め、店の片付けを始めた。工房に立ち入って掃除を済ませる。作業机を(せい)(とん)する最中、修理がほぼ完了した一足のランニングシューズに目をとめた。

 古びた外皮こそ手付かずだが、靴底とトゥー部分は鞘香の足型に合わせて補強されている。完全ではないが、鞘香が大会に出ればポテンシャルを充分に引き出せる逸品だ。

「かんらかんら、かんらからからよ」

 ――靴にちなんだ客人の悩みを紐解いて(・・・・)、最高の履き心地を提供する。

 それが『鞣革製靴店』。

 後日、レギュラー入りを報告に来た彼女は、さっそく新生ランシューを試し履きした。

 その履き心地は、地区予選で如何(いかん)なく発揮されることになるのは言うまでもない。



第一幕――了